荀勗 有能かつ佞臣
荀勗(じゅんきょく)字は公曾(こうそう) 豫州潁川郡潁陰県の人(??~289)
魏・晋の臣。 荀肸(じゅんきつ)の子。
荀爽(じゅんそう)の曾孫で荀彧・荀攸の同族。 名は荀勖とも書く。
早くに父を亡くしおじを頼った。幼少から才能あり10歳で巧みに文をつづり、従祖父の鐘繇(しょうよう)に「荀爽に及ぶだろう」と見込まれた。
成人すると既に博学で政治に関与するほどだった。大将軍の曹爽(そうそう)の掾に召され中書通事郎に移った。
249年、曹爽が誅殺されると荀勗だけがためらわず遺体に駆け寄り、人々はそれにならった。
安陽県令となり、驃騎従事中郎に転じた。安陽県では離任後も慕われ生前から祠を建てられた。司馬昭の大将軍軍事に参じ、関内侯に封じられ従事中郎に転じた。
260年、曹髦が司馬昭を討とうと挙兵した時、弟の司馬幹(しばかん)が駆けつけようとしたが、門を守っていた孫佑(そんゆう)は別の門から入るよう促した。そのせいで司馬幹の到着が遅れたのを司馬昭は怒り孫佑を一族ごと殺そうとした。だが荀勗は「孫佑の責任は追及すべきですが、罪の軽重を気分で決めてはいけません。曹髦を殺した成倅(せいさい)の罪が一族に及ばなかったのに、孫佑を一族ごと殺せば人々は疑問に思うでしょう」と反対した。
孫佑は罷免のうえ庶民に落とされるだけで許された。
路遺(ろい)が蜀に入り劉禅を暗殺することを求めると、荀勗は「正義に基づき反逆者(蜀)を討伐すべきで、刺客を送るのは刑罰と徳で治めることと異なります」と反対し司馬昭に称えられた。
264年、蜀を制圧した鍾会が反乱したと報告されたが、厚遇していた司馬昭はすぐには信じなかった。荀勗に諌められて長安まで出撃すると、郭奕(かくえき)・王深(おうしん)らは荀勗が鍾会の従甥にあたり、若い頃は鍾氏の家で養育されたことから反乱を警戒し排斥するよう勧めた。
司馬昭は聞き入れず、逆に馬車に同乗させた。荀勗は先に蜀の討伐軍には衛瓘(えいかん)を監軍にするよう求めており、衛瓘によって鍾会の反乱は速やかに鎮圧された。
裴秀(はいしゅう)・羊祜(ようこ)とともに機密をあずかった。
この頃、呉へ送る書簡を荀勗が著し、孫晧が和親の返答を寄越すと司馬昭は「文書で呉を恭順させた。10万の軍に勝る」と称えた。
司馬昭が王位につくと侍中となり、安陽子に封ぜられ1千戸を与えられた。
265年、司馬炎が帝位につくと済北郡公に移封されたが、辞退して羊祜に爵位を譲った。中書監となり侍中を加え、賈充(かじゅう)とともに律令を定めた。(『晋書
荀勗伝』)
「呉録」に曰く。
266年、呉は張儼(ちょうげん)を司馬昭の弔問の使者として送った。裴秀・賈充・荀勗らは論戦を挑んだが負かせられなかった。(『孫晧伝』)
賈充が(謀略により)出兵させられることになると、荀勗は馮紞(ふうたん)に「賈充が遠ざけられたら我々は権勢を失う。賈充の娘を太子と婚姻させられれば自ずと取りやめさせられる」と言い、二人で司馬炎を訪ね賈南風(かなんぷう)を才色兼備と称え太子の司馬衷と婚姻させた。
賈充の出兵は取りやめられ、彼らは忠義ある人々に憎まれ、媚びへつらいの誹りを受けた。荀勗は光禄大夫に上った。
(宮廷)音楽を管掌し音律を定めた。道端で商人が着けていた牛鐸(牛の鈴)の音を耳にし、後に調律に苦労すると「あの牛鐸があれば整うのだが」と言って探させ、果たして調和した音階ができた。
司馬炎と食事をしていた時、「この飯はくたびれた木材で炊いたものだ」と言い、誰も信じなかったが確認すると古い車輪を薪にしており、世を挙げて荀勗の感性を称えた。
秘書監となり張華(ちょうか)とともに記録整理し、博士を立てて教育を進めた。(『晋書 荀勗伝』)
274年、陳寿は荀勗・和嶠(かきょう)の上奏により諸葛亮の記録を集め「諸葛氏集」を編纂した。(『諸葛亮伝』)
咸寧年間(275~280)のはじめ、石苞(せきほう)らとともに建国の功臣として名を刻まれた。
279年、王濬(おうしゅん)が呉討伐を建議すると荀勗・賈充は反対したが司馬炎は断行し、280年に三国統一を果たした。
功により一子を列侯され1千戸を与えられ、孫の荀顕(じゅんけん)も列侯された。古文書を編纂し「中経」と名付け収蔵された。
王公を都から出し藩国へ赴任させることが建議された。意見を求められた荀勗は「王公に都督の役を担わせるなら州牧・州刺史を廃止することになり、(藩国に応じて)郡県を分割すれば民の反発を招き、軍権を持たせるなら辺境の守りが薄くなります」と述べ、大枠だけを定めて短期間で改革を急ぐべきではないと意見した。司馬炎は多くに従った。
さらに地方官吏の半分を省き民に戻すことも建議されたが、旧例を挙げて慎重論を唱えた。荀勗が利得と損失を論じる時はこのように常に周到だった。
太康年間(280~289)、これまでの功績により光禄大夫・儀同三司・開府辟召となり、守中書監・侍中・爵位は元のままとされた。
この頃、太尉の賈充と司徒の李胤(りいん)が同時に没し、太子太傅も空位だった。賈充は楊珧(ようちょう)・衛瓘・山濤(さんとう)を推薦し司馬炎は全て採用した。
各州で洪水が起こると都水使者を立て対処するよう提言した。法令の条文管理の役職を増やすよう建議されたが反対した。(『晋書 荀勗伝』)
「荀勗別伝」に曰く。
司徒に欠員が出た時、司馬炎に適任者を尋ねられた荀勗は「三公は人民に仰ぎ見られ心を寄せられる官位です。曹丕は賈詡を起用し孫権に嘲笑われました」と答えた。(『賈詡伝』)
司馬炎は司馬衷の暗愚さを懸念しており、荀勗・和嶠に様子を見させた。荀勗は褒めそやし、和嶠は成長が見られないと言った。
人々は和嶠を尊び荀勗を卑しんだ。(『晋書 荀勗伝』)
「和嶠伝」ではやや経緯が異なる。
司馬炎は和嶠・荀勗・荀顗(じゅんぎ)に「司馬衷が進歩した」と面会させた。荀勗・荀顗は「おっしゃる通りです」と褒め称えたが和嶠は「元のままです」と歯に衣着せず、司馬炎は不快そうに席を立った。(『晋書
和嶠伝』)
裴松之は官位の矛盾から創作と断じ、そもそも荀顗は既に没し荀勗は官位が高すぎるため和嶠・荀愷(じゅんがい)の逸話とすべきだと指摘する。(『荀彧伝』)
司馬炎が賈南風を太子妃から廃そうとした時も荀勗・馮紞の陳情により取りやめられた。人々は荀勗が国を傾け害悪を流す様は魏代の孫資(そんし)・劉放(りゅうほう)の同類だと蔑んだ。(『晋書
荀勗伝』) 荀勗・馮紞は一か八かで無理を押し通し賈南風の廃位を阻止した。
馮紞・賈充・荀勗は親しく付き合った。
司馬炎が重病にかかり危ぶまれた時、馮紞・荀勗は司馬炎の弟の司馬攸(しばゆう)に声望が集まっていると見立てた。荀勗は以前から司馬攸に疎まれており、司馬攸が次の皇帝となれば排斥されると恐れ、馮紞から司馬炎へ「(あなたにもしものことがあった時)太子(司馬衷)は廃位されかけたことがあり、司馬攸は声望を集めているから辞退しきれず帝位を奪われるかもしれません。都から出し藩国へ赴任させれば安泰です」と吹き込んだ。
司馬攸は怒りから病を得て没し、人々は悲しみ恨んだ。司馬炎も司馬衷の行く末を案じて馮紞・荀勗の邪な意見を聞いただけであり、兄弟仲は良かったため深く嘆き悲しんだ。
馮紞は「斉王(司馬攸)は名声が実態より大きすぎ、寿命を終えられた。晋にとっては福でありそんなに悲しむことではありません」と諌め、司馬炎は涙を収めた。(『晋書
馮紞伝』)
李密(りみつ)は張華・荀勗の意向に背き左遷されたが諸王の多くは無実を主張した。(『楊戯伝』)
荀勗の性格は慎み深く控えめで、政治の重大事に自分が関与していることを知られまいとした。族弟の荀良(じゅんりょう)は「あなたは評判が悪い。良い意見を採択されたならそれを語れば思慕される」と言い、娘婿の武統(ぶとう)は同僚らに贈り物をし味方を作るべきだと勧めた。
荀勗はどちらも聞き入れず、裏で子らに「臣下は秘密を保たねば身を失い、私党を作れば公益に背く。これは重大な戒めだ。お前たちも官僚として渡世するならよく理解せよ」と語った。(『晋書
荀勗伝』)
守尚書令となった。中書として長く機密に関わったため、(昇進だが)離任することに酷く落胆し恨みがましかった。昇進を祝われると「我が鳳凰の池を奪われたのに何を祝うのか」と怒った。
尚書に赴任すると試験をし、才能や知識のない者はすぐに追い出した。司馬炎は「荀彧・荀攸の美点を君にも求める」と言い、着任から1月ほどで母が没したため官を辞そうとしたが許可せず、周恢(しゅうかい)を連絡役とし(喪に服したまま?)政務を見させた。
長く機密をあずかり、才能と思慮あって君主の微かな意思を読み取り面と向かって言い争わなかったため生涯にわたり寵愛を受けた。
289年に没し、司徒を追贈され莫大な恩賞を与えられ「成」と諡された。
10人の子がおり荀輯(じゅんしゅう)・荀藩(じゅんはん)・荀組(じゅんそ)の3人が世に出た。
荀輯が後を継ぎ、荀藩は荀勗が着手していた鍾磬(楽器)を完成させた。(『晋書 荀勗伝』)
「演義」では劉禅ではなく姜維の暗殺が建議され、荀勗はそれよりも容易に蜀討伐できると提案し討伐戦が始まった。
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