三国志 し 5


荀悦  「漢紀」の著者


荀悦(じゅんえつ)字は仲豫(ちゅうよ)
豫州潁川郡潁陰県の人(148~209)

後漢の臣。
荀倹(じゅんけん)の末子。
荀彧の従兄にあたる。

心清らかで俗な心を持たず、落ち着き物静かで、著述をよくした。(『荀彧伝』)
容姿も美しかった。家は貧しく、書物もろくに無かったため、よその家で読ませてもらい、一目見ただけでほとんど暗誦できた。12歳で「春秋」を論じられた。

長じても当時は宦官が権力を握っていたため、病と称して仕官せず、無名だったが、従弟の荀彧は彼の才を見抜き尊敬していた。
荀彧に推挙され、黄門侍郎として後漢の朝廷に仕えた。献帝は文学を好んだため、荀彧・孔融(こうゆう)とともに講義をした。(『後漢書 荀悦伝』)

196年、秘書監侍中となった。(『荀彧伝』)
後漢の実権は曹操が握っており、荀悦が献帝のために何か取り計ろうとしても用いられることはなく、代わりに「申鑒」5編を著して政治論を教え、大いに喜ばれた。
献帝は班固の「漢書」は長大すぎると考え、荀悦に「春秋左氏伝」と同じ編年体で改訂するよう命じた。それに応え「漢紀」30編を著した。(『後漢書 荀悦伝』)
極めて筋道だって要領を得ていたため、広く世に伝わった。(『荀彧伝』)

他にも「崇徳」・「正論」ら数十の著作を残し、209年に62歳で没した。(『後漢書 荀悦伝』)

陳羣(ちんぐん)は、汝南・潁川の人物を孔融と論じ合い、荀彧、荀攸(じゅんゆう)、荀衍(じゅんえん)、荀諶(じゅんしん)、荀悦を「現代に匹敵する者がない」と並び称した。(『荀彧伝』)

「漢紀」は裴松之もよく引用し、崔林(さいりん)が三公で初めて列侯されたことや(『崔林伝』)、孫休が姪をめとったことを、「漢紀」で後漢の悪習として批判されていると付記している。(『孫休伝』)



荀衍  高幹を返り討ち


荀衍(じゅんえん)字は休若(きゅうじゃく)
豫州潁川郡潁陰県の人(??~??)

魏の臣。
荀彧(じゅんいく)の三兄。

205年、反乱した高幹(こうかん)は鄴へ奇襲を仕掛けた。
だが監軍校尉として鄴を守り、河北の軍事・政治を取り仕切っていた荀衍はそれを察知して返り討ちにした。
この功により列侯された。

陳羣(ちんぐん)は、汝南・潁川の人物を孔融(こうゆう)と論じ合い、荀彧、荀攸(じゅんゆう)、荀衍、荀諶(じゅんしん)、荀悦(じゅんえつ)を「現代に匹敵する者がない」と並び称した。

子の荀紹(じゅんしょう)は太僕に上り、孫の荀融(じゅんゆう)も洛陽県令となり学問では鍾会・王弼(おうひつ)と並び称された。(『荀彧伝』)



荀悝  荀愷の弟


荀悝(じゅんかい)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

魏・晋の臣。
荀霬(じゅんよく)の子。
荀彧の曾孫。

護軍将軍まで上り、没すると車騎大将軍を追贈された。
上の兄の荀愷(じゅんがい)は征西大将軍、下の兄の荀憺(じゅんたん)は少府まで上った。(『荀彧伝』)



荀愷  荀彧の讒言好きの曾孫


荀愷(じゅんがい)字は不明
豫州潁川郡潁陰県の人(??~??)

魏・晋の臣。
荀霬(じゅんよく)の子。荀彧の曾孫。
母は司馬師・司馬昭の妹。

父が没すると後を継いだ。(『荀彧伝』)

263年、魏軍が蜀へ侵攻した時、楽城・漢城にはそれぞれ5千の守備兵がいた。
鍾会は前将軍の李輔(りほ)に楽城を、護軍の荀愷に漢城を1万の兵で包囲させ、西方へ進み諸葛亮の墓に詣でた。(『鍾会伝』)

司馬炎の代に侍中に上った。

「晋紀」に曰く、司馬炎は皇太子の成長ぶりを荀顗(じゅんぎ)と和嶠(かきょう)に観察させた。荀顗は「御立派になられた」と褒め称えたが、和嶠は「元のままです」と歯に衣着せなかった。
裴松之は官位の矛盾から創作と断じ、事実だとしても荀顗ではなく荀愷の誤りと指摘しているが、和嶠の性格をよく表した逸話である。(『荀彧伝』)

王愷(おうがい)は対立する牽秀(けんしゅう)が不倫をしたと司隷校尉の荀愷にほのめかした。牽秀はすぐさま王愷に陥れられた経緯を上奏し、激烈に反論した。朝臣は冤罪だと証言したが、牽秀の名誉は損なわれた。(『牽招伝』)

「晋書」によると罷免された。(『晋書 牽秀伝』)

尚書僕射の荀愷は外戚(司馬懿の孫・司馬炎の従兄弟)としての身分を鼻にかけ、無理に武茂(ぶぼう)と交際しようとしたが、拒絶され返事もされなかった。
荀愷はこれを恨み、291年、楊駿(ようしゅん)が処刑されると、武茂がその縁戚であることから一味であると讒言し、連座させ処刑した。人々は冤罪であると悼んだ。(『胡質伝』)

征西大将軍まで上り、兄の荀憺(じゅんたん)と弟の荀悝(じゅんかい)も高位に上った。(『荀彧伝』)



荀甝  荀彧の孫(兄)


荀甝(じゅんかん)字は不明
豫州潁川郡潁陰県の人(??~??)

魏の臣。
荀惲(じゅんうん)と曹操の娘の安陽公主(あんようこうしゅ)の子。
荀彧の嫡孫。
「荀彧伝」に附伝される。

曹丕と曹植(そうしょく)が激しく後継者争いをした時、曹丕は礼に背いてまで荀彧にへりくだったが、荀彧の死後に荀惲は曹植と親しくし、また曹丕の親友の夏侯尚(かこうしょう)と不仲だったため、義兄弟ながら曹丕にはひどく憎まれた。
しかし二人の息子は甥に当たることから、荀惲が若くして没すると曹丕はかわいがった。

若くして没した父の後を継ぎ、散騎常侍・広陽郷侯まで上ったが30歳で没した。

子の荀頵(じゅんいん)が後を継ぐもやはり若死にした。(『荀甝伝』)

傅嘏(ふか)は若い頃から裴徽(はいき)・荀甝と仲良かったが、二人とも早くに亡くなった。(『傅嘏伝』)



荀祈  荀攸の従兄弟


荀祈(じゅんき)字は伯旗(はくき)
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

後漢の臣。
荀衢(じゅんく)の子。
荀攸(じゅんゆう)の従兄弟。

「荀氏家伝」に曰く。
族父の荀愔(じゅんいん)とともに著名だった。
荀祈は孔融(こうゆう)と肉刑について意見を戦わせ、荀愔は孔融と聖人の優劣について議論した。ともに「孔融集」に収録された。
済陰太守まで上った。(『荀攸伝』)



荀煇  荀閎の従孫


荀煇(じゅんき)字は景文(けいぶん)
豫州潁川郡潁陰県の人(??~??)

晋の臣。
荀閎(じゅんこう)の従孫。

「荀氏家伝」に曰く。
太子中庶子となり有名で、賈充(かじゅう)とともに音律を定め、「易集解」を著した。(『荀彧伝』)

賈充・荀顗(じゅんぎ)・荀勗(じゅんきょく)・羊祜(ようこ)・杜預(とよ)・荀煇らが晋の新たな法律を定めた。(『晋書 賈充伝』)

ただし「晋書 刑法志」に記された新律を定めた14人の中に荀煇は含まれていない。(『晋書 刑法志』)



荀顗  秀才から佞臣へ


荀顗(じゅんぎ)字は景倩(けいせん)
豫州潁川潁陰県の人(??~274)

魏・晋の臣。
荀彧(じゅんいく)の六男。

幼くして姉婿の陳羣(ちんぐん)に才能を認められ、孝行で知られ博学で見聞が広く緻密な思考力だった。
父の勲功により中郎となり、司馬懿は引見すると「荀彧の息子だけのことはある」と評価し、散騎侍郎に抜擢され侍中に昇進した。
曹芳の教育係を務め、騎都尉となり関内侯に封じられた。鍾会の易への論を批難し、司馬駿(しばしゅん)と仁と孝について論じ世に称えられた。
専権を振るう曹爽(そうそう)・何晏(かあん)らが傅嘏(ふか)を殺そうとしたが荀顗の擁護により助かった。(『晋書 荀顗伝』)

鄭沖(ていちゅう)、孫邕(そんよう)、曹羲(そうぎ)、何晏らとともに「論語集解」を著した。(『晋書 鄭沖伝』)

正始年間(240~249)に散騎常侍の荀顗ら魏の多くの重臣が胡昭(こしょう)を推挙した。
250年、再び胡昭の招聘が建議されると、まず人物評価に掛けられようとしたが、韋誕(いたん)が「疑う理由はない。特例で招聘すべきだ」と意見したため、特例で召し出そうとしたが、ちょうど亡くなった。(『管寧伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に侍中として連名した。(『斉王紀』)
曹髦が即位すると司馬師に混乱に乗じた反乱や侵攻に警戒するよう促した。(『晋書 荀顗伝』)

255年、毌丘倹(かんきゅうけん)が反乱し殺されると、息子の嫁の荀氏(じゅんし)も連座されかけたが、武衛将軍の荀顗が上表し助けてやった。(『何夔伝』)
毌丘倹討伐の功績により万歳亭侯に進み400戸となった。
司馬昭の代になり尚書に移った。

256年、曹髦に宴会に招かれ礼法制度や古代の帝王の優劣について議論した。(『高貴郷公紀』)

257年、諸葛誕の反乱では留守を任された。(『晋書 荀顗伝』)

司馬昭は荀顗に向かい、陳泰(ちんたい)を「都督や大将はこうでなければならない」と讃えた。
260年、曹髦が司馬昭の粛清に失敗し殺されると、陳泰は(曹髦を悼み)参内しなくなった。
舅の荀顗が家を訪ね説得すると、陳泰は「論者は私とあなたを比較していますが、今のあなたは私に及びません」と皮肉を返した。
子弟や内外のあらゆる者から説得され、陳泰は泣きながら参内した。司馬昭がどうすれば納得するか尋ねると、陳泰は(曹髦を殺させた)賈充(かじゅう)の処刑を求めた。司馬昭が別の手段を考えるよう言うと、そんなものは無いと答えた。(『陳羣伝』)

陳泰が没すると4度辞退してから後任の尚書僕射となり、吏部尚書を務めた。
人事を担当して清く慎みがあり、名声と実力を明らかにしたため風俗は澄んで正された。(『晋書 荀顗伝』)

傅嘏と尚書僕射の荀顗は親しく、ともに朝政に関与する名臣だった。(『傅嘏伝』)

264年、尚書左僕射の荀顗は司空に上った。爵位は郷侯に進んだ。(『陳留王紀』・『晋書 荀顗伝』)

60歳を超えてなお孝養を尽くし、母が没すると官を辞して死にかけるほど喪に服して海内に称えられた。司馬昭は後漢の名臣の胡広の前例に則り従者を賜った。
五等爵制が復活すると礼制や儀礼を定め、羊祜(ようこ)・任愷(じんがい)らとともに晋礼を制定した。(『晋書 荀顗伝』)

「漢晋春秋」に曰く。
同年に晋王に封じられた司馬昭を三公の王祥(おうしょう)、何曾(かそう)、荀顗は祝福に訪れた。荀顗が拝礼しようと言うと、王祥は「王と三公の位階は一つしか変わらず、簡単に拝礼すべきではない。朝廷の名誉を損ない、王の人徳を傷つける行為だ。私はやらない」と断った。
結局、荀顗は拝礼したが王祥は丁寧に会釈しただけだった。司馬昭は「今日はじめてあなたの大きな愛顧がわかった」と王祥を称賛した。(『陳留王紀』)
一方で「晋書 何曾伝」では何曾のみ拝礼したと記されている。ただ他の二人は鄭沖と既に没している高柔(こうじゅう)と誤記され、いいかげんである。(『晋書 何曾伝』)

晋の建国に功績があり、太尉に上り臨淮公に封じられた。(『荀彧伝』)
1千800戸だった。司徒に移ったが程なく侍中・太尉・都督城外牙門諸軍事に移り、さらに侍中・太尉のまま太子太傅を代行した。(『晋書 荀顗伝』)

儒学に詳しい応貞(おうてい)とともに新しい儀礼を制定したが、施行には至らなかった。(『王粲伝』)

「晋紀」に曰く。
司馬炎は皇太子の成長ぶりを荀顗と和嶠(かきょう)に観察させた。荀顗は「御立派になられた」と褒め称えたが、和嶠は「元のままです」と歯に衣着せなかった。
裴松之は官位の矛盾から創作と断じ、事実だとしても荀顗ではなく荀愷(じゅんがい)の誤りと指摘しているが、和嶠の性格をよく表した逸話である。(『荀彧伝』)

李憙(りき)と侯史光(こうしこう)は鄭沖・何曾・荀顗らは老齢で重病であるとして罷免を上奏したが司馬炎は却下した。(『晋書 鄭沖伝』)

泰始年間(265~275)のはじめ、鄭沖・王祥・何曾・荀顗・裴秀(はいしゅう)らは老いや病を理由に引退した。(『晋書 任愷伝』)

「傅子」に曰く、「荀顗・何曾は周の文王のように親に仕えた。現代の曾参・閔子騫である。内は心を尽くして親に仕え、外は礼儀謙譲を尊重し天下に仕えた。孝子は百代にわたる大本で、仁者は天下の統率者である。よく仁と孝の道を実行する者は、君子の模範である」(『何夔伝』)

李秉(りへい)は司馬昭に慎み深かった最近の人物を聞かれ、荀顗、董仲連(とうちゅうれん)、王公仲(おうこうちゅう)の三人を挙げた。司馬昭は阮籍(げんせき)が天下で最も慎み深いと言った。(『李通伝』)

(宮廷音楽の)詩が合わず再編に当たったが終える前の274年に没した。司馬炎は哀悼し太子の司馬衷は喪に服した。
康公と諡され、私財も家もろくになかったため遺族に200万銭と邸宅が与えられた。

咸寧年間(275~280)のはじめ、荀顗ら20人が建国の功臣として宗廟に祀られた。
礼に精通したが正しく直言する節操はなく、ただ主君の意向におもねって荀勗(じゅんきょく)・賈充らに迎合した。賈充の娘の賈南風(かなんぷう)を太子妃に勧め、世人に誹られた。

子がなかったため従孫の荀徽(じゅんき)が後を継ぎ、以後も断絶しそうになるたびに一族から後継ぎを迎え宋代まで家は続いた。(『晋書 荀顗伝』)

「演義」でも陳泰に皮肉られた。



荀勗  有能かつ佞臣


荀勗(じゅんきょく)字は公曾(こうそう)
豫州潁川郡潁陰県の人(??~289)

魏・晋の臣。
荀肸(じゅんきつ)の子。
荀爽(じゅんそう)の曾孫で荀彧・荀攸の同族。
名は荀勖とも書く。

早くに父を亡くしおじを頼った。幼少から才能あり10歳で巧みに文をつづり、従祖父の鐘繇(しょうよう)に「荀爽に及ぶだろう」と見込まれた。
成人すると既に博学で政治に関与するほどだった。大将軍の曹爽(そうそう)の掾に召され中書通事郎に移った。

249年、曹爽が誅殺されると荀勗だけがためらわず遺体に駆け寄り、人々はそれにならった。
安陽県令となり、驃騎従事中郎に転じた。安陽県では離任後も慕われ生前から祠を建てられた。司馬昭の大将軍軍事に参じ、関内侯に封じられ従事中郎に転じた。

260年、曹髦が司馬昭を討とうと挙兵した時、弟の司馬幹(しばかん)が駆けつけようとしたが、門を守っていた孫佑(そんゆう)は別の門から入るよう促した。そのせいで司馬幹の到着が遅れたのを司馬昭は怒り孫佑を一族ごと殺そうとした。だが荀勗は「孫佑の責任は追及すべきですが、罪の軽重を気分で決めてはいけません。曹髦を殺した成倅(せいさい)の罪が一族に及ばなかったのに、孫佑を一族ごと殺せば人々は疑問に思うでしょう」と反対した。
孫佑は罷免のうえ庶民に落とされるだけで許された。

路遺(ろい)が蜀に入り劉禅を暗殺することを求めると、荀勗は「正義に基づき反逆者(蜀)を討伐すべきで、刺客を送るのは刑罰と徳で治めることと異なります」と反対し司馬昭に称えられた。

264年、蜀を制圧した鍾会が反乱したと報告されたが、厚遇していた司馬昭はすぐには信じなかった。荀勗に諌められて長安まで出撃すると、郭奕(かくえき)・王深(おうしん)らは荀勗が鍾会の従甥にあたり、若い頃は鍾氏の家で養育されたことから反乱を警戒し排斥するよう勧めた。
司馬昭は聞き入れず、逆に馬車に同乗させた。荀勗は先に蜀の討伐軍には衛瓘(えいかん)を監軍にするよう求めており、衛瓘によって鍾会の反乱は速やかに鎮圧された。
裴秀(はいしゅう)・羊祜(ようこ)とともに機密をあずかった。
この頃、呉へ送る書簡を荀勗が著し、孫晧が和親の返答を寄越すと司馬昭は「文書で呉を恭順させた。10万の軍に勝る」と称えた。
司馬昭が王位につくと侍中となり、安陽子に封ぜられ1千戸を与えられた。
265年、司馬炎が帝位につくと済北郡公に移封されたが、辞退して羊祜に爵位を譲った。中書監となり侍中を加え、賈充(かじゅう)とともに律令を定めた。(『晋書 荀勗伝』)

「呉録」に曰く。
266年、呉は張儼(ちょうげん)を司馬昭の弔問の使者として送った。裴秀・賈充・荀勗らは論戦を挑んだが負かせられなかった。(『孫晧伝』)

賈充が(謀略により)出兵させられることになると、荀勗は馮紞(ふうたん)に「賈充が遠ざけられたら我々は権勢を失う。賈充の娘を太子と婚姻させられれば自ずと取りやめさせられる」と言い、二人で司馬炎を訪ね賈南風(かなんぷう)を才色兼備と称え太子の司馬衷と婚姻させた。
賈充の出兵は取りやめられ、彼らは忠義ある人々に憎まれ、媚びへつらいの誹りを受けた。荀勗は光禄大夫に上った。

(宮廷)音楽を管掌し音律を定めた。道端で商人が着けていた牛鐸(牛の鈴)の音を耳にし、後に調律に苦労すると「あの牛鐸があれば整うのだが」と言って探させ、果たして調和した音階ができた。
司馬炎と食事をしていた時、「この飯はくたびれた木材で炊いたものだ」と言い、誰も信じなかったが確認すると古い車輪を薪にしており、世を挙げて荀勗の感性を称えた。
秘書監となり張華(ちょうか)とともに記録整理し、博士を立てて教育を進めた。(『晋書 荀勗伝』)

274年、陳寿は荀勗・和嶠(かきょう)の上奏により諸葛亮の記録を集め「諸葛氏集」を編纂した。(『諸葛亮伝』)

咸寧年間(275~280)のはじめ、石苞(せきほう)らとともに建国の功臣として名を刻まれた。
279年、王濬(おうしゅん)が呉討伐を建議すると荀勗・賈充は反対したが司馬炎は断行し、280年に三国統一を果たした。
功により一子を列侯され1千戸を与えられ、孫の荀顕(じゅんけん)も列侯された。古文書を編纂し「中経」と名付け収蔵された。

王公を都から出し藩国へ赴任させることが建議された。意見を求められた荀勗は「王公に都督の役を担わせるなら州牧・州刺史を廃止することになり、(藩国に応じて)郡県を分割すれば民の反発を招き、軍権を持たせるなら辺境の守りが薄くなります」と述べ、大枠だけを定めて短期間で改革を急ぐべきではないと意見した。司馬炎は多くに従った。
さらに地方官吏の半分を省き民に戻すことも建議されたが、旧例を挙げて慎重論を唱えた。荀勗が利得と損失を論じる時はこのように常に周到だった。

太康年間(280~289)、これまでの功績により光禄大夫・儀同三司・開府辟召となり、守中書監・侍中・爵位は元のままとされた。
この頃、太尉の賈充と司徒の李胤(りいん)が同時に没し、太子太傅も空位だった。賈充は楊珧(ようちょう)・衛瓘・山濤(さんとう)を推薦し司馬炎は全て採用した。
各州で洪水が起こると都水使者を立て対処するよう提言した。法令の条文管理の役職を増やすよう建議されたが反対した。(『晋書 荀勗伝』)

「荀勗別伝」に曰く。
司徒に欠員が出た時、司馬炎に適任者を尋ねられた荀勗は「三公は人民に仰ぎ見られ心を寄せられる官位です。曹丕は賈詡を起用し孫権に嘲笑われました」と答えた。(『賈詡伝』)

司馬炎は司馬衷の暗愚さを懸念しており、荀勗・和嶠に様子を見させた。荀勗は褒めそやし、和嶠は成長が見られないと言った。
人々は和嶠を尊び荀勗を卑しんだ。(『晋書 荀勗伝』)

「和嶠伝」ではやや経緯が異なる。
司馬炎は和嶠・荀勗・荀顗(じゅんぎ)に「司馬衷が進歩した」と面会させた。荀勗・荀顗は「おっしゃる通りです」と褒め称えたが和嶠は「元のままです」と歯に衣着せず、司馬炎は不快そうに席を立った。(『晋書 和嶠伝』)

裴松之は官位の矛盾から創作と断じ、そもそも荀顗は既に没し荀勗は官位が高すぎるため和嶠・荀愷(じゅんがい)の逸話とすべきだと指摘する。(『荀彧伝』)

司馬炎が賈南風を太子妃から廃そうとした時も荀勗・馮紞の陳情により取りやめられた。人々は荀勗が国を傾け害悪を流す様は魏代の孫資(そんし)・劉放(りゅうほう)の同類だと蔑んだ。(『晋書 荀勗伝』)
荀勗・馮紞は一か八かで無理を押し通し賈南風の廃位を阻止した。

馮紞・賈充・荀勗は親しく付き合った。
司馬炎が重病にかかり危ぶまれた時、馮紞・荀勗は司馬炎の弟の司馬攸(しばゆう)に声望が集まっていると見立てた。荀勗は以前から司馬攸に疎まれており、司馬攸が次の皇帝となれば排斥されると恐れ、馮紞から司馬炎へ「(あなたにもしものことがあった時)太子(司馬衷)は廃位されかけたことがあり、司馬攸は声望を集めているから辞退しきれず帝位を奪われるかもしれません。都から出し藩国へ赴任させれば安泰です」と吹き込んだ。
司馬攸は怒りから病を得て没し、人々は悲しみ恨んだ。司馬炎も司馬衷の行く末を案じて馮紞・荀勗の邪な意見を聞いただけであり、兄弟仲は良かったため深く嘆き悲しんだ。
馮紞は「斉王(司馬攸)は名声が実態より大きすぎ、寿命を終えられた。晋にとっては福でありそんなに悲しむことではありません」と諌め、司馬炎は涙を収めた。(『晋書 馮紞伝』)

李密(りみつ)は張華・荀勗の意向に背き左遷されたが諸王の多くは無実を主張した。(『楊戯伝』)

荀勗の性格は慎み深く控えめで、政治の重大事に自分が関与していることを知られまいとした。族弟の荀良(じゅんりょう)は「あなたは評判が悪い。良い意見を採択されたならそれを語れば思慕される」と言い、娘婿の武統(ぶとう)は同僚らに贈り物をし味方を作るべきだと勧めた。
荀勗はどちらも聞き入れず、裏で子らに「臣下は秘密を保たねば身を失い、私党を作れば公益に背く。これは重大な戒めだ。お前たちも官僚として渡世するならよく理解せよ」と語った。(『晋書 荀勗伝』)

守尚書令となった。中書として長く機密に関わったため、(昇進だが)離任することに酷く落胆し恨みがましかった。昇進を祝われると「我が鳳凰の池を奪われたのに何を祝うのか」と怒った。
尚書に赴任すると試験をし、才能や知識のない者はすぐに追い出した。司馬炎は「荀彧・荀攸の美点を君にも求める」と言い、着任から1月ほどで母が没したため官を辞そうとしたが許可せず、周恢(しゅうかい)を連絡役とし(喪に服したまま?)政務を見させた。

長く機密をあずかり、才能と思慮あって君主の微かな意思を読み取り面と向かって言い争わなかったため生涯にわたり寵愛を受けた。
289年に没し、司徒を追贈され莫大な恩賞を与えられ「成」と諡された。
10人の子がおり荀輯(じゅんしゅう)・荀藩(じゅんはん)・荀組(じゅんそ)の3人が世に出た。

荀輯が後を継ぎ、荀藩は荀勗が着手していた鍾磬(楽器)を完成させた。(『晋書 荀勗伝』)

「演義」では劉禅ではなく姜維の暗殺が建議され、荀勗はそれよりも容易に蜀討伐できると提案し討伐戦が始まった。



荀俁  荀彧の三男


荀俁(じゅんぐ)字は叔倩(しゅくせい)
豫州潁川郡潁陰の人(??~??)

魏の臣。
荀彧(じゅんいく)の三男。

御史中丞となり、弟の荀詵(じゅんしん)とともに評判高かったが早逝した。

「晋陽秋」に曰く。
下の弟の荀粲(じゅんさん)は兄弟の中でひとり儒家ではなく道家を好み、反論した荀俁を論破した。また父よりも従兄の荀攸(じゅんゆう)の方が立派だと主張し、兄弟は腹を立てたが誰も反駁できなかった。(『荀彧伝』)

「杜氏新書」に曰く。
太和年間(227~233)頃に散騎黄門侍郎を務めた杜恕(とじょ)や袁侃(えんかん)と親しく、荀俁は東郡太守を務めた。(『杜畿伝』)



荀衢  荀攸の叔父


荀衢(じゅんく)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

後漢の臣?
荀曇(じゅんたん)の子。
荀攸(じゅんゆう)の叔父。

荀攸は早くに父を亡くし、荀衢に養育されたと思われる。

「王沈魏書」に曰く。
荀攸が7~8歳の時、酔った荀衢は誤って耳を傷つけてしまった。荀攸は叔父を思いやり、上手く耳を隠して気づかせず、後になって知った荀衢は驚いた。
荀攸はこのように幼い頃から利発だった。

広陵太守を務めた荀曇が没すると、下役だった張権(ちょうけん)が墓守をしたいと願い出た。13歳の荀攸は不審さを感じ、荀衢に「彼は何か悪事を働いたのでは」と言った。荀衢も思い当たり調べさせると、はたして張権は人を殺して逃亡していた。
以来、荀衢は荀攸を高く買うようになった。

「荀氏家伝」に曰く。
子の荀祈(じゅんき)も著名で済陰太守まで上った。(『荀攸伝』)



荀寓  荀俁の子


荀寓(じゅんぐう)字は景伯(けいはく)
豫州潁川郡潁陰の人(??~??)

魏・晋の臣。
荀俁(じゅんぐ)の子。荀彧の孫。

若い頃から裴楷(はいかい)・王戎(おうじゅう)・杜黙(ともく)らと都で名を馳せた。
晋代に尚書まで上り、名声は一層高まった。

没すると子の荀羽(じゅんう)が後を継ぎ、同じく尚書まで上った。(『荀彧伝』)

温顒(おんぎょう)・荀寓・張華(ちょうか)・鄒湛(すうたん)・鄭詡(ていく)・劉許(りゅうきょ)ら6人は文章が立派で論理的であると称えられた。(『劉放伝』)



荀倹  荀悦の父


荀倹(じゅんけん)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

後漢の臣?
荀淑(じゅんしゅく)の長男。
荀彧の伯父。

父の荀淑は高名で、荀倹ら八人の子も「八龍」と並び称された。
末子の荀悦(じゅんえつ)は「漢紀」を著し、裴松之もよく引用している。(『荀彧伝』)



荀閎  荀諶の魏に仕えた息子


荀閎(じゅんこう)字は仲茂(ちゅうぼう)
豫州潁川郡潁陰県の人(??~??)

魏の臣。
荀諶(じゅんしん)の子。

父は袁紹に仕えたが、(滅亡後に?)荀閎はおじの荀彧のつてをたどってか魏に仕えた。

「荀氏家伝」に曰く。
太子文学掾の時、ある問題について激論が交わされ、荀閎は鍾繇(しょうよう)・王朗(おうろう)・袁渙(えんかん)の意見にそれぞれ異を唱えた。
曹丕は鍾繇に手紙を送り「袁渙と王朗はまるで春秋時代の国士のように、唇と歯のごとく互いを助け合っている。荀閎は強く荒々しい精鋭の軍隊のようだ。君にとっては恐るべき敵で、君の仲間には頭痛の種だろう」と述べた。
官位は黄門侍郎まで上った。(『荀彧伝』)

また「魏略」には曹丕が鍾繇の持つ玉玦(飾り玉)を欲しがった時に、荀閎に仲介してもらったと記され、議論上では対立しても交友は深かったことがうかがえる。(『鍾繇伝』)



荀緄  荀彧の父


荀緄(じゅんこん)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

後漢の臣。
荀彧の父。
荀淑(じゅんしゅく)の次男。

父の荀淑は高名で、荀緄ら八人の子も「八龍」と並び称された。
済南国相まで上った。(『荀彧伝』)

「謝承後漢書」に曰く。
周瑜の従祖父の周景(しゅうけい)は、豫州刺史になると荀緄ら英俊を抜擢した。(『周瑜伝』)

「典略」に曰く。
中常侍の唐衡(とうこう)は娘をはじめ傅公明(ふこうめい)に嫁がせようとしたが、断られたため荀彧に目を付けた。荀緄は権勢に魅力を感じ応じたため、論者に非難された。

裴松之は「唐衡が没した時、荀彧はまだ2歳で結婚したのはかなり先である。権勢に魅力を感じたとするのは事実無根だ。そもそも荀緄は八龍の一人で利得で動く人物ではない。もし圧力を掛けられ結婚に応じたなら、災難を避けるためであり徳を傷つけるものでもない」と弁護する。(『荀彧伝』)



荀粲  清談の始祖


荀粲(じゅんさん)字は奉倩(ほうせん)
豫州潁川郡潁陰県の人(??~??)

魏の臣。
荀彧の末子。

父や兄弟は儒家を重んじたが、荀粲は道家を尊び「儒教の経典は聖人の残りかすに過ぎない」と主張した。
さらに父よりも従弟の荀攸(じゅんゆう)のほうが優れていたと言い兄らを激怒させたが、弁舌に勝る荀粲は常に兄を言い負かした。

227年、都で傅嘏(ふか)と出会い、名理(形式論理学)を得手とする彼と、老荘思想を尊ぶ荀粲は基本的な結論は一致するものの、場面場面では言い合いになることも多く、友好を結ぶまでには至らなかったが、裴徽(はいき)が仲介に入ったことで仲良くなり、そこに夏侯玄(かこうげん)も加わった。
荀粲は「君達は世俗的な出世や功業名誉では必ず私に勝つが、識見では私に劣る」と言った。傅嘏は「識見があるから功業名誉を立てるのだ」と反論したが、荀粲は「功業名誉は意志と状況も大事で、識見だけでは足りない。あなた方は偉いお人だと尊敬するが、私は必ずしも同じことはしません」と言い返した。(『荀彧伝』)

「傅子」に異聞がある。
夏侯玄・何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)が席巻していた頃、傅嘏は彼らから交際を求められたが断った。荀粲が「夏侯玄は一時代を風靡する英傑で、交際を断れば恨みを招く。二人の優れた人物が仲良くしないのは国家の利益に反する」と言うと、傅嘏は「夏侯玄は器量よりも大きい野心を持ち、虚名を集めることはできるが、現実に通用する才能はない」と評し「三人とも道徳に外れており、遠くでも災難が降りかかる恐れがあるのに、昵懇になどできない」と言った。
裴松之は「傅嘏は夏侯玄の失敗を見抜いたが、鍾会とは親しくしたという。夏侯玄は重い名声のため外から災難を招いたが、鍾会は反乱し自ら災いを招いた。ならば鍾会の失敗も見抜けたはずなのに予見できず、しかも片方とだけ親しくしたのは正しい態度ではない。この逸話は傅嘏にとってプラスにならない」と批判している。

また傅嘏は李豊(りほう)とも不仲で、後の災難を予見したと「傅子」は記している。(※家伝だけありどうも傅嘏の美化が甚だしい)(『傅嘏伝』)

荀粲は女性の容姿だけを重視し、評判の美人の曹洪(そうこう)の娘をめとり寵愛していたが、数年後に先立たれると憔悴した。傅嘏が「容姿だけを重視するなら他に美人を求めるのは容易だろう」と聞くと、「妻は傾国というほどではなかったが、容易に巡り会えるほどの美貌ではなかった」と語り、翌年には後を追うように病没した。享年29。

尊大で人を見下す彼は凡人と付き合えず、友人は十人ほどだったが、いずれも名高い俊才英傑ばかりで、彼らの嘆き悲しむ声は、道行く人々を感動させたという。(『荀彧伝』)

荀粲らの議論は後に何晏や王弼(おうひつ)、そして竹林の七賢らが一大潮流を築き上げる清談・玄学の端緒となった。
また始祖の荀粲を慕うあまり、宋代の袁愍孫は名を粲、字を景倩に改めたという。



荀氏  何曾に救われた母


荀氏(じゅんし)名は不明
豫州潁川潁陰県の人(??~??)

毌丘甸(かんきゅうでん)の妻。
毌丘芝(かんきゅうし)の母。

255年、反乱した毌丘倹(かんきゅうけん)が討伐されると、その息子の毌丘甸と、荀氏も連座させられた。族兄の荀顗(じゅんぎ)ら一族が助命嘆願したため離縁を認められ釈放されたが、その娘の毌丘芝も、既に他家へ嫁いでいたが逮捕されていた。
荀氏は何曾(かそう)へ、自分が代わりに奴婢になるから娘を助けて欲しいと願い出て、同情した何曾は程咸(ていかん)に命じて審議書を作らせた。その中で「既に嫁いだ娘も連座させるのは、悪人の一族を殲滅したいからです。しかし男は他家の罪に問われないのに、女だけが嫁いだ後も実家の罪に問われるのは公平ではありません」と述べ、夫の家の罪にだけ連座するよう法改正させ毌丘芝を助けた。(『何夔伝』・『晋書 何曾伝』)



荀氏


未作成



荀緝  荀攸の早逝した長男


荀緝(じゅんしゅう)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

荀攸(じゅんゆう)の長男。

父の面影があったが若くして没した。
弟の荀適(じゅんてき)が父の後を継いだが、子が無く、家は断絶した。
黄初年間(220~226)、荀攸の孫の荀彪(じゅんひょう)が取り立てられた。荀緝の子だろうか。(『荀攸伝』)



荀粛  荀淑の七男


荀粛(じゅんしゅく)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

後漢の臣?
荀淑(じゅんしゅく)の七男。
荀彧の叔父。

父の荀淑は高名で、荀粛ら八人の子も「八龍」と並び称された。(『荀彧伝』)



荀紹  荀衍の子


荀紹(じゅんしょう)字は不明
豫州潁川郡潁陰県の人(??~??)

魏の臣。
荀衍(じゅんえん)の子。荀彧の甥。

官位は太僕まで上った。
子の荀融(じゅんゆう)も洛陽県令となり学問では鍾会・王弼(おうひつ)と並び称された。(『荀彧伝』)



荀詵  荀淑の五男


荀詵(じゅんしん)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

後漢の臣?
荀淑(じゅんしゅく)の五男。
荀彧の叔父。
別名は荀汪(じゅんおう)。

父の荀淑は高名で、荀詵ら八人の子も「八龍」と並び称された。

荀彧の子にも同名の荀詵がいる。(『荀彧伝』)



荀詵  荀彧の四男?


荀詵(じゅんしん)字は曼倩(まんせい)
豫州潁川郡潁陰県の人(??~??)

魏の臣。
荀彧の四男か。

大将軍従事中郎となり、三兄の荀俁(じゅんぐ)とともに評判高かったが早逝した。(『荀彧伝』)

曹叡(そうえい)の代に劉劭(りゅうしょう)、庾嶷(ゆぎ)とともに法令を制定した。(『劉劭伝』)

また大叔父(荀彧の叔父)に同名の荀詵(荀汪(じゅんおう)という別名もある)がおり、それにちなんで名付けられた可能性もあるだろうか。



荀諶  突然消えた荀彧の兄弟


荀諶(じゅんしん)字は友若(ゆうじゃく)
豫州潁川郡潁陰県の人(??~??)

袁紹の臣。
荀彧の兄弟で、「荀彧伝」には弟、同注には4番目の兄と記される。

191年、高幹(こうかん)・郭図(かくと)・張導(ちょうどう)らとともに冀州牧の韓馥(かんふく)を脅し、袁紹に地位を譲らせた。荀諶の歯の浮くような長広舌が記されており、調略の中心人物だったと思われる。(『袁紹伝』・『臧洪伝』)

199年、田豊(でんほう)・許攸(きょゆう)とともに参謀に命じられた。
以降は歴史から姿を消した。事績が途絶えたのは200年前後に没したからであろうか。(『袁紹伝』)

わずかな事績を見る限りでも袁紹陣営の重臣であり、魏の重臣の陳羣(ちんぐん)も、汝南・潁川の人物を孔融(こうゆう)と論じ合った中で荀彧、荀攸(じゅんゆう)、荀衍(じゅんえん)、荀諶、荀悦(じゅんえつ)を「現代に匹敵する者がない」と並び称している。

なお息子の荀閎(じゅんこう)は荀彧のつてをたどってか、後に魏に仕官している。(『荀彧伝』)

「演義」でははじめ韓馥の配下で登場。官渡の戦いを前にやはり姿を消している。



荀靖  荀爽に次ぐ兄


荀靖(じゅんせい)字は叔慈(しゅくじ)
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

隠者。
荀淑(じゅんしゅく)の三男。
荀彧の叔父。

父の荀淑は高名で、荀靖ら八人の子も「八龍」と並び称された。

「漢紀」に曰く。
高徳で弟の荀爽(じゅんそう)に次ぐ名声があったが、生涯仕官しなかった。

「逸士伝」に曰く。
許劭(きょしょう)はある人に兄弟のどちらが優れているか聞かれ「どちらも玉だ。荀爽は外が曇りなく輝き、荀靖は内に光沢を含む」と評した。(『荀彧伝』)



荀爽  荀彧の無双の叔父


荀爽(じゅんそう)字は慈明(じめい)
豫州潁川郡潁陰県の人(128~190)

後漢の臣。
荀彧の叔父。
荀諝(じゅんしょ)の別名がある。

幼い頃から才知に優れ、12歳で「春秋」と「論語」に通暁した。太尉の杜喬(ときょう)は「人となりは師たるべきものだ」と評した。
8人兄弟は「八龍」と並び称されたが、六男の荀爽が最も声望高く「無双」と呼ばれた。(『後漢書 荀爽伝』)

陳寔(ちんしょく)に師事し、王烈(おうれつ)、賈彪(かひょう)、李膺(りよう)、韓融(かんゆう)ら名だたる人物が同門だったが、王烈の器量と学業は並外れており、彼らは感服し親しく付き合い、王烈の名は四海に轟いた。(『管寧伝』)

166年、趙典(ちょうてん)に至孝に推挙されたが政治を痛烈に批判し、そのまま官を辞した。
党錮の禁を逃れて南方へ疎開し、十数年の間に学識を深め「碩儒」とうたわれた。
禁が解かれると高官は争って荀爽を招聘したがいずれも断り、司空の袁逢(えんほう)の誘いにすら首を振った。だが袁逢が没すると恩に報いて3年喪に服しますます名を上げた。(『後漢書 荀爽伝』)

184年、黄巾の乱が起こると豫州刺史の王允(おういん)は荀爽と孔融(こうゆう)を招いて従事とし、党錮の禁の解除を求めた。後に河南尹、尚書令に昇進させた。(『後漢書 王允伝』・『董卓伝』)

朝廷の招きに応じ、大将軍・何進(かしん)の従事中郎を務めた。何進も彼をはばかりすぐ侍中に推挙した。
政争に敗れ何進が暗殺され、混乱に乗じて董卓が実権を握ると、荀爽は逃亡しようとしたが叶わず、平原国相に任じられた。董卓は移動中に光禄勲に昇進させ、わずか95日の間に次々と荀爽の位を上げて司空にまでしてしまい、無理やり都へ呼び戻した。(『後漢書 荀爽伝』)

董卓は実権を握ると許靖(きょせい)と周毖(しゅうひ)に人事を任せた。荀爽・韓融・陳紀(ちんき)らが昇進し公・卿・郡守に取り立てられた。(『許靖伝』)

陳寔が没すると、弟子だった司空の荀爽や韓融ら高官も3ヶ月の喪に服した。(『陳羣伝』)

張紘(ちょうこう)は何進・朱儁(しゅしゅん)・荀爽の招聘を断った。(『張紘伝』)

三公の荀爽、楊彪(ようひょう)、黄琬(こうえん)に董卓は長安への遷都を伝えた。楊彪・黄琬は強硬に反対したため免職された。(『董卓伝』)

190年(『後漢書 献帝紀』)、董卓暗殺を図り、王允や何顒(かぎょう)と密議を凝らしたが、志半ばで病没した。享年63。
多くの著作を残したが(※長安遷都の影響か)そのほとんどが失われた。(『後漢書 荀爽伝』)

族子の荀攸(じゅんゆう)も密議に加わっていた。計画は露見し荀攸らは投獄され、何顒は自害したが、董卓は王允・呂布らによって討たれた。難を逃れた荀攸、そして甥の荀彧は曹操に仕え大躍進を遂げることとなる。

後年、荀彧は荀爽と何顒の遺体を引き取り、墓を並べて埋葬した。(『荀攸伝』)

219年、孫権は関羽を討ち取ると首級を曹操へ送った。それを知らされた鍾繇(しょうよう)は「荀爽はかつて、人間は感情を重んじる。自分を愛する者はかわいく、自分を憎む者は憎らしい。と言いました。孫権の媚びはかわいらしいものです」と言った。(『鍾繇伝』)

陳羣(ちんぐん)は招聘に応じない管寧(かんねい)を招くために「荀爽が家で光禄勲に任じられたように礼を尽くしましょう」と進言した。(『管寧伝』)

ある人が許劭(きょしょう)に荀爽と兄の荀靖(じゅんせい)のどちらが優れているか尋ねた。許劭は「二人とも玉だ。荀爽は外が曇りなく輝き、荀靖は内に光沢を含んでいる」と評した。(『荀彧伝』)

虞翻(ぐほん)は「易」の注釈を著し、「荀爽の易注を読んだが、凡才の説は超えているが、意味不明の所があり、笑えるほどだ」と馬融(ばゆう)、鄭玄(じょうげん)、宋忠(そうちゅう)ら名だたる大学者とともにこき下ろした。(『虞翻伝』)

「演義」では楊彪・黄琬とともに長安遷都に反対し、揃って庶民に落とされた。



荀憺  荀愷の兄


荀憺(じゅんたん)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

魏・晋の臣。
荀霬(じゅんよく)の子。
荀彧の曾孫。

少府まで上った。
上の弟の荀愷(じゅんがい)は征西大将軍、下の弟の荀悝(じゅんかい)は護軍将軍まで上った。(『荀彧伝』)



荀曇  荀攸の祖父


荀曇(じゅんたん)字は元智(げんち)
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

後漢の臣。
荀攸(じゅんゆう)の祖父。

「漢紀」に曰く。
兄の荀昱(じゅんいく)とともに傑物で並外れた才能があった。

広陵太守を務めた。
没すると下役だった張権(ちょうけん)が墓守をしたいと願い出た。13歳の荀攸は不審さを感じ、叔父の荀衢(じゅんく)に「彼は何か悪事を働いたのでは」と言った。荀衢も思い当たり調べさせると、はたして張権は人を殺して逃亡していた。
以来、荀衢は荀攸を高く買うようになった。(『荀攸伝』)



荀適  荀攸の次男


荀適(じゅんてき)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

荀攸(じゅんゆう)の次男。

兄の荀緝(じゅんしゅう)は早逝していたため、214年に父が没すると後を継いだ。
しかし子が無く、家は断絶した。

黄初年間(220~226)、荀攸の孫の荀彪(じゅんひょう)が取り立てられた。荀緝の子だろうか。(『荀攸伝』)



荀燾  荀淑の四男


荀燾(じゅんとう)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

後漢の臣?
荀淑(じゅんしゅく)の四男。
荀彧の叔父。

父の荀淑は高名で、荀燾ら八人の子も「八龍」と並び称された。(『荀彧伝』)



荀彪  荀攸の孫


荀彪(じゅんひょう)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

荀攸(じゅんゆう)の孫。

214年に荀攸が没すると、長男の荀緝(じゅんしゅう)は早逝していたため、次男の荀適(じゅんてき)が後を継いだ。
しかし子が無く、家は断絶した。

黄初年間(220~226)、荀攸の孫の荀彪が陵樹亭侯に取り立てられ、領邑300戸を与えられ、後年に移封された。
荀緝の子だろうか。(『荀攸伝』)



荀旉  荀淑の八男


荀旉(じゅんふ)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

後漢の臣?
荀淑(じゅんしゅく)の八男。
荀彧の叔父。

父の荀淑は高名で、荀旉ら八人の子も「八龍」と並び称された。(『荀彧伝』)



荀攸  曹操の懐刀


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荀融  荀紹の子


荀融(じゅんゆう)字は伯雅(はくが)
豫州潁川郡潁陰県の人(??~??)

魏の臣。
荀彧の甥の荀紹(じゅんしょう)の子。

「荀氏家伝」に曰く。
官位は洛陽県令、参大将軍軍事まで上った。
学問では鍾会・王弼(おうひつ)と並び称され、彼らと「易経」・「老子」の解釈について討議し世に伝わっている。(『荀彧伝』)

何劭(かしょう)の「王弼伝」に曰く。
王弼は人柄は浅薄で、人の心の機微がわからなかった。荀融に著書を批判されると、それに回答するとともに皮肉を返した。はじめは親しかったが、最後は仲がこじれた。(『鍾会伝』)



荀廙


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荀霬  荀彧の孫(弟)


荀霬(じゅんよく)字は不明
豫州潁川郡潁陰県の人(??~??)

魏の臣。
荀惲(じゅんうん)と安陽公主(あんようこうしゅ)の次男。
荀彧の孫。
荀廙(じゅんよく)と同一人物と思われる。
「荀彧伝」に附伝される。

父は曹丕と激しく後継者争いをした曹植(そうしょく)と親しかったため、義兄弟ながら曹丕には恨まれたが、父の死後は甥にあたる荀霬ら兄弟は曹丕にかわいがられた。

荀霬は司馬師・司馬昭の妹をめとり、兄弟と親しくした。(『荀霬伝』)

254年、三代皇帝・曹芳(そうほう)の廃位を求める上奏に、中塁将軍・昌武亭侯として連名した。(『斉王紀』)

中領軍まで上って逝去し、貞侯と諡され、驃騎将軍を追贈された。
子の荀愷(じゅんかい)が後を継ぎ、父の功績により南頓子に封じられた。(『荀霬伝』)



淳于嘉  董卓・李傕・郭汜政権時の三公


淳于嘉(じゅんうか)字は不明
青州済南郡の人(??~??)

後漢の臣。
「後漢書」では淳於嘉(じゅんおか)と書かれる。

191年、司空の种拂(ちゅうふつ)が罷免され、光禄大夫の淳于嘉が後任の司空となった。
192年、司徒に転任し、楊彪(ようひょう)が後任の司空となり、ともに録尚書事となった。
194年、辞任した。(『後漢書 献帝紀』)

「三輔決録注」に曰く、淳于嘉・楊彪らは三公に任命されると、(いちおう)辞退し代わりに士孫瑞(しそんずい)を推薦した。(『董卓伝』)



淳于瓊  元気があれば烏巣も守れる


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淳于俊  曹髦の質問に答えた易学博士


淳于俊(じゅんうしゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

256年、曹髦は太学へ行幸し「易」の由来などを質問し、易学博士の淳于俊が回答した。(『高貴郷公紀』)



淳于式


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