薛瑩 二度の配流と旧主批判
薛瑩(せつえい)字は道言(どうげん)
豫州沛郡竹邑県の人(??~282)
呉の臣。
薛綜(せつそう)の次男。薛珝(せつく)の弟。
「薛綜伝」に附伝される。
秘書中郎将を務めていたが258年、即位した孫休に散騎中常侍に抜擢された。
後に病で官を辞したが264年、孫晧が帝位につくと左執法となり、やがて選曹尚書に昇進し、(269年)孫瑾(そんきん)が太子になると(父と同じく)太子少傅を兼任した。(『薛瑩伝』)
269年、陸凱(りくがい)は遺言で陸抗(りくこう)、薛瑩ら有能な忠臣の名を挙げて重用するよう言い遺した。(『陸凱伝』)
271年、薛綜の文章を読んだ孫晧は感心し、薛瑩にも詩を書くよう命じた。だが同年、何定(かてい)の建議した土木工事に失敗し、武昌の左部督に左遷された。さらに翌年に何定が処刑されるとその件を蒸し返され広州へ配流された。
ともに「呉書」を編纂していた華覈(かかく)が「編纂に支障が出る」と弁護したため左国史に復帰した。(『薛瑩伝』)
陸抗も上疏し「楼玄(ろうげん)・王蕃(おうはん)・李勗(りきょく)は当代第一級の優れた人物でしたが、あるいは誅殺され、配流されました。王蕃と李勗は永久に帰らず後悔しても追いつきませんが、楼玄と薛瑩はお許しください」と述べていた。(※楼玄は許されなかった)(『陸抗伝』)
しばらく後に繆禕(びゅうい)が左遷された際に、たまたま会見したところ讒言されて巻き込まれ、広州へ再び流されそうになったが、到着前に許され復帰できた。
当時、法律には実情に合わないものも多かったため、規制緩和を訴えいくつか施行された。光禄勲に昇進した。(『薛瑩伝』)
273年(『晋書 武帝紀』)、魯淑(ろしゅく)・薛瑩が10万と号した軍勢で豫州を攻めた。豫州の兵は休息中で、指揮官の王渾(おうこん)のもとには一旅(500名)しかいなかったが、奇襲を仕掛けて呉軍を撃退した。(『晋書
王渾伝』)
273年、ともに「呉書」を編纂していた韋昭(いしょう)が処刑され(『韋曜伝』)、華覈も失脚すると薛瑩が編纂の中心人物になったと思われる。(『華覈伝』)
280年、晋の大軍が迫ると薛瑩、胡沖(こちゅう)らが降伏を勧めた。(『孫晧伝』)
薛瑩が降伏文書を記した。
その後は晋に仕えた。呉の旧臣の中で最も早く叙任され、散騎常侍となった。応対や対処はみな条理の通ったものだった。
司馬炎に呉が滅亡した理由を問われ「孫晧が小人を重用し、刑罰を乱用し、人心が離れた」と旧主を批判した。さらに呉の歴代の人物について問われると、一人一人に具体的な事例を挙げて答えた。(『薛瑩伝』)
一方で「晋書」では同じく呉の旧臣の吾彦(ごげん)が「孫晧は英傑で配下も精鋭だが天命だった」と答えた逸話に対し、薛瑩の回答が引き合いに出されてしまっている。(『晋書
吾彦伝』)
282年に没した。8篇の著書があり「新議」と名付けられた。
子の薛兼(せつけん)も祖父から三代に渡り太子少傅を務め、魏・晋の譜代の一族らと同等に敬われたという。(『薛瑩伝』)
陳寿は「立派に父の風を伝えたが、暴虐残酷な主君のもとでしばしば顕貴な位に登ったため、君子たちからその身を危ぶまれた」と評した。
また王蕃・楼玄・賀邵(がしょう)・韋昭の列伝では、薛瑩の彼らへの評を載せている。
「演義」でも孫晧へ降伏を勧めた。
|