三国志 せ 1


正昴  雍闓に殺された益州太守


正昴(せいこう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

益州太守を務めたが、当地の豪族の雍闓(ようがい)らによって殺害された。
雍闓は交州を支配する士燮(ししょう)を通じて呉へ内通し、後任の太守の張裔(ちょうえい)も捕らえ、呉へ送還した。(『歩隲伝』・『張裔伝』)

以後、庲降都督は任地に赴任できず平夷県に留まっていたが、233年に就任した馬忠(ばちゅう)は蛮族の支配圏の味県に陣取り、制圧に成功した。(『馬忠伝』)



成何  龐悳の最期の戦友


個別ページへ



成宜  旗本八旗ヒーロー担当


個別ページへ



成紀王


未作成



成公英  忠節の狙撃手


個別ページへ



成弘  何夔配下の校尉


成弘(せいこう)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

長広郡は豪族の力が強く、袁譚(えんたん)は彼らに官位を与えて援助していた。
管承(かんしょう)は3千軒を率いて暴れまわり、誰もが討伐を願い出たが、太守の何夔(かき)は「彼らは生まれつき混乱を楽しんでいるのではなく、道徳を知らないから善に戻れないだけだ。討伐すれば全滅を恐れて激しく抵抗し、勝っても大きな被害を受ける。恩愛道徳を教えて自ら反省させれば、兵を用いる必要はない」と言い、黄珍(こうちん)を派遣し利害を説かせると、管承は降伏した。
また官吏の成弘を校尉に任じて彼らを率いさせると、反抗していた県丞らも降った。(『何夔伝』)



成就  董卓を抜擢した涼州刺史


成就(せいしゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「呉書」に曰く。
胡族が侵攻した時、涼州刺史の成就は董卓を招聘して従事とし、騎兵隊を任せ討伐させた。4桁に上る首級・捕虜を得る大戦果を上げ、并州刺史の段熲(だんけい)に推挙され、司徒の袁隗(えんかい)に掾として召された。(『董卓伝』)



成倅  賈充に焚き付けられ曹髦を殺した兄弟


成倅(せいせい)字は不明
出身地不明(??~260)

魏の臣。
成済(せいせい)の兄。

「漢晋春秋」に曰く。
260年、曹髦は専権を振るう司馬昭を誅殺するため決起した。皇帝が相手でひるんだ成済が賈充(かじゅう)へ対処を求めると「お前たちに食い扶持を与えてきたのは今日のためだ。(曹髦を殺しても)後から問題にはしない」と焚き付けられ、成済は曹髦を刺殺した。

「魏氏春秋」に曰く。
騎督の成倅が矛をかざして突き進み曹髦を殺した。

「魏末伝」に曰く。
賈充は「もし司馬氏が敗北したらお前たちは血筋も残らないのになぜ打って出ないのか」と焚き付けた。成倅・成済は曹髦を捕らえるべきか殺すべきか問い、賈充は「殺せ」と命じた。
曹髦が武器を捨てよと命じると誰もが応じるなか、成倅・成済は構わず突き進み刺殺した。

司馬昭は「曹髦に危害を加えた者は軍法によって裁くと命じましたが、成済はそれを無視して殺害に至ったので、すぐさま捕らえ処刑しました。一族も誅殺してください」と言上した。
郭太后(かくたいこう)は「曹髦は親不孝でもはや君主とは呼べない。成済は大逆罪ではないと考えるが、司馬昭の発言は痛切であり、その通りにするように」と命じた。

「魏氏春秋」に曰く。
成倅・成済は抵抗し、屋根に上って肌脱ぎになり司馬昭らへ悪口雑言を浴びせたが、下から矢で射殺された。(『高貴郷公紀』)

「演義」ではなぜか成済の弟に変更され、反乱した諸葛誕の討伐にも従軍した。



成済  皇帝を殺した男


個別ページへ



成当


未作成



成藩  李平の使者を務めた督軍


成藩(せいはん)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

231年、諸葛亮は北伐の兵を挙げたが、兵站を担当する李平(りへい)は長雨で輸送に苦慮し、参軍の狐忠(こちゅう)と督軍の成藩を諸葛亮のもとへ送り撤退させた。
ところが李平は兵站に問題はなかったと主張して責任を諸葛亮に押し付け、劉禅へは魏軍をおびき寄せるために撤退したと偽った。
諸葛亮は前後関係を整理して李平の主張を崩し、罷免させた。(『李厳伝』)



成律帰  素利の弟


成律帰(せいりつき)
鮮卑の人(??~??)

鮮卑の大人(指導者)の素利(そり)の弟。

鮮卑の王の檀石槐(だんせきかい)は支配地を中東西の3部に分け、東部は弥加(びか)・闕機(けつき)・素利・槐頭(かいとう)ら大人が支配した。
彼らの支配域は長城の外で遠く離れていたため国境を荒らすことは全く無かったが、軻比能(かひのう)よりも配下は多かった。
建安年間(196~220)、閻柔(えんじゅう)を通じて中原に交易を求め、曹操は王位を与えるなど厚遇した。
220年、馬を献上すると曹丕は素利・弥加に帰義王の位を与えた。

228年、素利が没すると子が幼かったため弟の成律帰が王位を継いだ。(『鮮卑伝』)



芮玄


未作成



芮祉


未作成



芮良


未作成



青牛先生  扈累の師


青牛先生(せいぎゅうせんせい)字は正方(せいほう)
青州の人(??~??)

隠者。
姓名は不明。

「魏略」に曰く。
初平年間(190~193)、三輔に居住し天文・暦・風角(風占い)・鳥情(鳥占い?)に詳しく、常に青葙・芫花(生薬)を食した。
50~60歳の外見だが面識ある者は100歳を過ぎていると言っていた。
扈累(こるい)は40余歳の時、青牛先生に師事し術を習得した。
211年、三輔が動乱に巻き込まれたため扈累とともに漢中へ移った。
215年、曹操が漢中を制圧すると青牛先生は益州へ移ったが、扈累ははぐれ、流民とともに鄴へ移った。
扈累も80~90歳になっても青牛先生と同じく若々しく40~50歳のようだった。(『管寧伝』)



斉周  鮮于輔に協力


斉周(せいしゅう)字は不明
幽州漁陽郡の人(??~??)

劉虞(りゅうぐ)の臣。

193年、劉虞は公孫瓚(こうそんさん)に殺害された。
配下の鮮于輔(せんうほ)は報復のため、旧臣の斉周、鮮于銀(せんうぎん)らと協力し、異民族に太いパイプを持つ閻柔(えんじゅう)を擁立し、烏桓・鮮卑・漢民族まで数万の兵を結集した。
そして公孫瓚方の漁陽太守の鄒丹(すうたん)を討ち取り4千もの首級をあげ、劉虞の子の劉和(りゅうか)や袁紹軍と合流し、公孫瓚の本隊も撃破した。

鮮于輔はその後、曹操に降伏し魏の重臣となるが、斉周、鮮于銀の消息は不明。ともに曹操に仕えたと考えるのが自然か。(『公孫瓚伝』)



斉長公主  李韜の妻


斉長公主(せいちょうこうしゅ)名は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹叡(そうえい)の娘。

李豊(りほう)の子の李韜(りとう)に嫁ぎ、三人の子に恵まれた。
婚儀が決まると李豊は表向きこそ謙虚に振る舞ったが内心では当然のように思い、次第に傲慢になり、仮病で職務を休むなど怠けた。

254年、李豊・李韜父子は専横を極める司馬師の暗殺を企んだが計画はあっさり露見し、一網打尽にされた。
李豊は処刑を待たず殺害され、李韜は皇族に連なることから自害を許され、曹叡の孫に当たる3人の子は赦免された。
斉長公主への処罰は不明である。(『夏侯尚伝』)



斉長公主  任愷の妻


斉長公主(せいちょうこうしゅ)名は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹叡の娘。
任愷(じんがい)の妻。

夫の任愷は賈充の人柄を嫌い、国政から遠ざけようとし、賈充も反撃し暗闘を繰り広げた。

賈充は荀勗(じゅんきょく)・馮紞(ふうちん)とともに画策し、任愷が天子の食器を用いていると讒言し、司馬珪(しばけい)に弾劾させついに罷免した。調査したところ食器は妻の斉長公主の嫁入り道具だった。

政争に敗れた任愷は悲憤を抱いたまま没した。(『晋書 任愷伝』)

曹叡の娘には同名の斉長公主がもう一人いる。
李韜(りとう)に嫁ぎ、三人の子に恵まれたが、254年、その父の李豊(りほう)が謀叛を企み、李豊・李韜は死んだ。
三人の子は曹叡の甥にあたるため赦免されたが、斉長公主への処罰は不明である。(『夏侯尚伝』)

同一人物なのか、そもそも李韜の死後に任愷へ嫁ぐことが有り得るのか、勉強不足でわからない。



清河長公主  曹操の長女


清河長公主(せいかちょうこうしゅ)名は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹操と劉夫人(りゅうふじん)の娘。
兄弟は曹昂(そうこう)、曹鑠(そうしゃく)。

母が早逝したため、兄弟とともに丁夫人(ていふじん)に育てられたと思われる。(『武宣卞皇后伝』)

曹操は丁儀(ていぎ)の評判を聞くと清河長公主を嫁がせたいと考え、曹丕に相談した。曹丕は「丁儀は隻眼で姉上は喜ばないと思います。夏侯楙(かこうぼう)がいいでしょう(※同じ隻眼なら夏侯惇の子の方がマシという皮肉である)」と勧めた。
曹操はその通りにしたが、後に丁儀と話す機会を得ると頭脳に舌を巻き「たとえ盲目でも嫁がせるべきだった」と悔やんだ。

曹丕への恨みから、丁儀は弟の丁廙(ていよく)や楊脩(ようしゅう)とともに、後継者争いのライバルの曹植(そうしょく)を守り立てた。

223年、都を追放された曹植は、曹丕に謝罪しようと考え、おしのびで都に入り、異母姉の清河長公主に仲介を頼もうとした。ところが関所の役人が注進したため、先に曹丕に知られてしまい、迎えを寄越された。曹丕は謝罪を受け入れ、王服をまとうことを許した。(『陳思王植伝』)

夏侯楙は好色で多数の愛妾を抱えたため清河長公主に恨まれた。
夏侯楙の弟の夏侯子臧(かこうしぞう)と夏侯子江(かこうしこう)は失態を演じて兄に叱責され、このままでは処罰されると恐れ、義姉の清河長公主とともに夏侯楙を陥れようと企んだ。
罪をでっち上げて皇帝の曹叡に上奏すると、曹叡も夏侯楙をかねてから憎んでいたため同調した。
夏侯楙は冤罪で処刑されかかったが、段黙(だんもく)が夫婦仲の悪さから真相を見抜き、慎重な裁定を求めたため、改めて調査し陰謀が発覚し、事なきを得た。

その後、清河長公主や夏侯子江らが処罰を受けたか否かは記されていない。(『夏侯惇伝』)



盛匡  盛憲の子


盛匡(せいきょう)字は不明
揚州会稽郡の人(??~??)

魏の臣。
後漢末の呉郡太守の盛憲(せいけん)の子。

204年、呉郡と会稽郡を制圧した孫権は土地の有力者を粛清していった。
盛憲も標的にされ、彼と親しい孔融(こうゆう)は、避難させるため曹操に推挙した。
曹操は騎都尉に任命したが、その書状が届く前に盛憲は殺された。

子の盛匡は逃げ出し、曹操に仕え、征東将軍司馬にまで上った。(『孫韶伝』)



盛憲  許貢に追い出される


盛憲(せいけん)字は孝章(こうしょう)
揚州会稽郡の人(??~??)

後漢の臣。

立派な度量を持っていた。
孝廉に推挙され、尚書郎を経て呉郡太守に昇進した。(『孫韶伝』)

許貢(きょこう)が呉郡を乗っ取ると、高岱(こうたい)は盛憲を避難させ、徐州刺史の陶謙(とうけん)に救援を求め、事態を収拾した。(『孫策伝』)

盛憲は病気で官を辞したが、孫策が許貢の残党に暗殺され(たとされる)、後を継いだ孫権は呉郡と会稽郡を制圧し、土地の有力者を粛清していった。
名声高い盛憲は目の敵にされ、彼と親しい孔融(こうゆう)は、避難させるため曹操に推挙した。
曹操は騎都尉に任命したが、その書状が届く前に盛憲は殺された。

子の盛匡(せいきょう)は逃げ出し、曹操に仕えた。

盛憲が孝廉に推挙した媯覧(きらん)らは孫権の弟の孫翊(そんよく)に仕えたが、粗暴な孫翊に反発し暗殺するなど、遺恨が残った。(『孫韶伝』)



盛暹


未作成



盛沖


未作成



盛勃  李平の罷免に連名した蜀臣H


盛勃(せいぼつ)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

231年、李平(りへい)の罷免を求める文書に行参軍・綏戎都尉として連名した。(『李厳伝』)

余談だがこの弾劾文書にしか登場しない蜀臣は9人もいる。



盛曼


未作成



石威則  夏侯惇から手紙をもらう


石威則(せきいそく)字が威則か
出身地不明(??~??)

曹操の臣?

「志林」に曰く。
200年10月に決着した官渡の戦いの後、夏侯惇は石威則に手紙を送り、その中で「孫賁(そんふん)に長沙太守を与え、張津(ちょうしん)に零陵・桂陽郡を治めさせる」と述べた。
「志林」の著者の虞喜(ぐき)はこれを証拠に「江表伝」の孫策(200年4月没)が張津の死をなじったとする記述を否定した。(『孫策伝』)



石偉


未作成



石印三郎


未作成



石幹


未作成



石鑒  水増ししたが三公に


石鑒(せきかん)字は林伯(りんはく)
冀州楽陵郡厭次県の人(??~??)

魏・晋の臣。

貧しい出自だが公正な志を持っていた。
はじめ魏に仕え、尚書郎、侍御史、尚書左丞、御史中丞を歴任し、多くの者を糾弾し朝廷で恐れられた。
後に并州刺史・仮節・護匈奴中郎将となった。

265年、司馬炎が帝位につくと堂陽子に封じられた。
都に上り司隷校尉となり、列曹尚書に転じた。
秦州に鮮卑が侵攻すると都督隴右諸軍事として迎撃に当たったが、戦果を虚偽報告し罷免された。
鎮南将軍・豫州刺史に復帰したが、呉との戦いで上げた首級を水増しし罪に問われた。司馬炎は「大臣として信頼していたが朝廷を欺き、失敗を成功と偽り、最後まで訂正しなかった。罷免された過失を挽回させようとしたのに、なんと部下と口裏を合わせ虚偽報告をした。大臣たる者として許されるだろうか。(担当官によると処刑が妥当だが)温情により平民に落とし二度と登用しないだけに留め、封地も奪わない」と寛大な処置をした。

後に光禄勲として復職し、司隷校尉に返り咲き、昇進を重ね特進・右光禄大夫・開府・司徒に上った。かつては三公の叙任を祝い小会が催されたが、魏の末期から廃れていた。石鑒の司徒叙任を祝い開催を詔勅で命じられ、再び定例となった。
太康年間(280~289)の末年に司空・領太子太傅となった。

290年、司馬炎が没すると張劭(ちょうしょう)とともに陵墓の警備を務めた。
実権を握る楊駿(ようしゅん)と敵対する司馬亮(しばりょう)は葬儀に出ず、都の外で野営していた。司馬亮が楊駿を討つため挙兵するという密告が入り、楊駿は大いに恐れ娘の楊太后(ようたいこう)を通じて司馬衷に司馬亮討伐の詔勅を出させた。
石鑒・張劭に討伐が命じられ、張劭は楊駿の甥であり即座に出撃しようと促したが、石鑒は内心で不服に思っており、保留してまず司馬亮の様子を探らせると既に撤兵していた。討伐は中止され、人々は石鑒の判断を称えた。昌安県侯に封じられた。

元康年間(291~299)の終わりに太尉となった。80歳を過ぎてなお意気軒高で若者のように振る舞い称えられた。
ほどなく没し「元」と諡された。
子の石陋(せきへい)が後を継ぎ、屯騎校尉に上った。(『晋書 石鑒伝』)



石建  高遷とともに窮地を脱出


石建(せきけん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

222年、江陵城の攻撃にあたり夏侯尚(かこうしょう)は中洲に布陣し、浮き橋を作ろうとした。
董昭(とうしょう)は「武帝(曹操)は智勇ともに人並み外れながら敵を侮りませんでした。夏侯尚は敵を侮って退路を考えず兵を狭い浮き橋に集めようとしています。孤立すれば中洲の兵は全て寝返るでしょう。また長江の水も増水し氾濫の危険があります」と上奏した。
曹丕は即座に撤退を指示したが、危惧通りに退路が一本しかなかったため追撃で痛手を被り、石建・高遷(こうせん)は自力でなんとか撤退した。10日後には長江も突如として増水し、曹丕は「なんと明晰な判断か。張良・陳平が対処したとしてもこれ以上ではない」と董昭を激賞した。(『董昭伝』)



石虎


未作成



石崇


未作成



石韜  諸葛亮の友人・石広元


石韜(せきとう)字は広元(こうげん)
豫州潁川郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
徐庶(じょしょ)は学問を志し、同郷の石韜と親しく交際した。
初平年間(190~193)、中原の戦乱を避けてともに荊州へ向かい、そこで諸葛亮とも親しくなった。
建安年間(196~220)初期、諸葛亮・石韜・徐庶・孟建(もうけん)は遊学し、石韜・徐庶・孟建は学問の精密さを求めたが、諸葛亮は大要をつかもうとした。
ある時、諸葛亮は「君たち三人は仕官すれば刺史や太守にまで上るだろう」と言った。三人にそう言う自分はどうなのか聞き返されると、ただ笑うだけで何も言わなかった。
208年、曹操が荊州を制圧すると諸葛亮は劉備に仕えたが、石韜・徐庶は北方へ向かった。
黄初年間(220~226)、ともに魏へ仕官し、石韜は太守、典農校尉を歴任し、徐庶は右中郎将、御史中丞に上った。
太和年間(227~232)、出兵した諸葛亮は二人の官位を聞き「魏はとりわけ人材が多いのだろうか。あの二人がその程度にしか用いられないとは」と慨嘆した。(※ただし自分が以前に予言した通りの官位である)(『諸葛亮伝』)

孟建は涼州刺史、征東将軍まで上った。(『温恢伝』)

「演義」には石広元の名で登場。孟建とともに歌っていたところ、三顧の礼に向かう劉備に諸葛亮と間違われた。



石徳林  隠者・素寒貧


個別ページへ



石苞   御者から司徒へ大出世


個別ページへ



戚寄  劉馥に説得された袁術配下A


戚寄(せきき)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

はじめ袁術に仕えた。
建安年間(196~220)はじめ、劉馥(りゅうふく)に説得され秦翊(しんよく)とともに軍勢を引き連れ曹操へ鞍替えした。(『劉馥伝』)



泄帰泥  鮮卑の王子


泄帰泥(せつきでい)
鮮卑の人(??~??)

鮮卑の王族。
扶羅韓(ふらかん)の子。
泄帰尼(せつきじ)とも書かれるが単なる誤記ではなかろうか。

父は鮮卑の大人(王)だったが、軻比能(かひのう)に暗殺され軍勢を奪われた。
叔父の歩度根(ほどこん)は魏に通じて軻比能に対抗したが、劣勢だった。
泄帰泥は軻比能に目を掛けられていたが、歩度根に「軻比能はいつかお前を殺そうと企んでいる。父の仇よりも肉親を信じるべきだ」と懐柔され、部族を引き連れ歩度根に身を寄せた。(『鮮卑伝』)

歩度根・泄帰泥は部落3万余家を引き連れ魏に従属した。軻比能の攻撃を命じられ、その弟の苴羅侯(しょらこう)や帰義侯の王同(おうどう)・王寄(おうき)を殺害した。さらに魏の牽招(けんしょう)は泄帰泥らを指揮して雲中郡で軻比能軍を撃破した。(『牽招伝』)

228年、護鮮卑校尉の田豫(でんよ)は、軻比能の娘婿である鬱築鞬(うつちくけん)に通訳の夏舎(かしゃ)を殺され、泄帰泥と西部鮮卑の蒲頭(ほとう)とともに報復の兵を挙げ、鬱築鞬を撃破した。

233年、軻比能は歩度根・泄帰泥と和睦し、協力して并州へ攻め込んだ。
魏は秦朗(しんろう)を討伐に差し向けた。
泄帰泥は部族民を挙げて魏へ降伏し、帰義王の位を授かった。
残された歩度根は軻比能に殺された。(『鮮卑伝』)



薛郁  八交の一人


薛郁(せついく)字は不明
兗州山陽郡の人(??~??)

後漢の臣?

「漢紀」に曰く。
劉表(りゅうひょう)と同郡出身の張隠(ちょういん)・薛郁・王訪(おうほう)・宣靖(せんせい)・公緒恭(こうしょきょう)・劉祗(りゅうし)・田林(でんりん)ら8人は名高く、「八交」あるいは「八顧」と呼ばれた。(『劉表伝』)

劉表以外の7人はそれ以外の事績がない。
また「八顧」は前代に郭泰(かくたい)が属する八顧の方が著名である。



薛瑩  二度の配流と旧主批判


薛瑩(せつえい)字は道言(どうげん)
豫州沛郡竹邑県の人(??~282)

呉の臣。
薛綜(せつそう)の次男。薛珝(せつく)の弟。
「薛綜伝」に附伝される。

秘書中郎将を務めていたが258年、即位した孫休に散騎中常侍に抜擢された。
後に病で官を辞したが264年、孫晧が帝位につくと左執法となり、やがて選曹尚書に昇進し、(269年)孫瑾(そんきん)が太子になると(父と同じく)太子少傅を兼任した。(『薛瑩伝』)

269年、陸凱(りくがい)は遺言で陸抗(りくこう)、薛瑩ら有能な忠臣の名を挙げて重用するよう言い遺した。(『陸凱伝』)

271年、薛綜の文章を読んだ孫晧は感心し、薛瑩にも詩を書くよう命じた。だが同年、何定(かてい)の建議した土木工事に失敗し、武昌の左部督に左遷された。さらに翌年に何定が処刑されるとその件を蒸し返され広州へ配流された。
ともに「呉書」を編纂していた華覈(かかく)が「編纂に支障が出る」と弁護したため左国史に復帰した。(『薛瑩伝』)

陸抗も上疏し「楼玄(ろうげん)・王蕃(おうはん)・李勗(りきょく)は当代第一級の優れた人物でしたが、あるいは誅殺され、配流されました。王蕃と李勗は永久に帰らず後悔しても追いつきませんが、楼玄と薛瑩はお許しください」と述べていた。(※楼玄は許されなかった)(『陸抗伝』)

しばらく後に繆禕(びゅうい)が左遷された際に、たまたま会見したところ讒言されて巻き込まれ、広州へ再び流されそうになったが、到着前に許され復帰できた。
当時、法律には実情に合わないものも多かったため、規制緩和を訴えいくつか施行された。光禄勲に昇進した。(『薛瑩伝』)

273年(『晋書 武帝紀』)、魯淑(ろしゅく)・薛瑩が10万と号した軍勢で豫州を攻めた。豫州の兵は休息中で、指揮官の王渾(おうこん)のもとには一旅(500名)しかいなかったが、奇襲を仕掛けて呉軍を撃退した。(『晋書 王渾伝』)

273年、ともに「呉書」を編纂していた韋昭(いしょう)が処刑され(『韋曜伝』)、華覈も失脚すると薛瑩が編纂の中心人物になったと思われる。(『華覈伝』)

280年、晋の大軍が迫ると薛瑩、胡沖(こちゅう)らが降伏を勧めた。(『孫晧伝』)
薛瑩が降伏文書を記した。

その後は晋に仕えた。呉の旧臣の中で最も早く叙任され、散騎常侍となった。応対や対処はみな条理の通ったものだった。
司馬炎に呉が滅亡した理由を問われ「孫晧が小人を重用し、刑罰を乱用し、人心が離れた」と旧主を批判した。さらに呉の歴代の人物について問われると、一人一人に具体的な事例を挙げて答えた。(『薛瑩伝』)

一方で「晋書」では同じく呉の旧臣の吾彦(ごげん)が「孫晧は英傑で配下も精鋭だが天命だった」と答えた逸話に対し、薛瑩の回答が引き合いに出されてしまっている。(『晋書 吾彦伝』)

282年に没した。8篇の著書があり「新議」と名付けられた。

子の薛兼(せつけん)も祖父から三代に渡り太子少傅を務め、魏・晋の譜代の一族らと同等に敬われたという。(『薛瑩伝』)

陳寿は「立派に父の風を伝えたが、暴虐残酷な主君のもとでしばしば顕貴な位に登ったため、君子たちからその身を危ぶまれた」と評した。
また王蕃・楼玄・賀邵(がしょう)・韋昭の列伝では、薛瑩の彼らへの評を載せている。

「演義」でも孫晧へ降伏を勧めた。



薛夏  天水郡からの亡命者


薛夏(せつか)字は宣声(せんせい)
涼州天水郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
博学で才能があった。
天水郡では姜・閻・任・趙の4氏が名家として幅を利かせていたが、薛夏は貧しい家柄にも関わらず従わなかったため、4氏から命を狙われ都へ逃げた。曹操はかねてから名声を聞いていたため厚遇した。
後に4氏は刺客を送って薛夏を捕らえ、豫州潁川郡で投獄した。その時、曹操は冀州にいたがそれを聞くと「薛夏は無実だ。漢陽(天水)のこわっぱが殺したがっているだけだ」と言い、潁川郡に取り調べを命じて釈放させ、軍謀掾に招いた。
曹丕も厚遇し、黄初年間(220~226)に秘書丞とし、いつも終日にわたり書物について議論した。名ではなく「薛君」と呼び、今も貧しい彼の衣服が粗末なのを気遣い、着ていた上着を脱いで与えてやった。
征西将軍の曹休(そうきゅう)が来朝した時には紹介し、一緒に相談せよと持ちかけるほどだった。
さらに重用しようとしたが、その前に曹丕が没した。
太和年間(227~232)、蘭台(書籍管理の部署)に配属されたが、部署として下位の秘書省から移るのは違反であると蘭台から警告された。薛夏は「蘭台は外、秘書は内であり内外は一体です。どうして移ってはいけないか」と反論し、蘭台は返す言葉もなく、以後の異動は恒例となった。
数年後に病没し、遺児には天水郡に棺を持ち帰らず、都に葬るよう勅令が下された。
「魏略」は薛夏ら7人を儒学の宗家とし、当代稀な真に学問を修めた人々と称賛している。(『王朗伝』)



薛喬  張普の実在する相方


薛喬(せつきょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「王沈魏書」に曰く。
曹休(そうきゅう)は母が亡くなると度を越して哀悼した。曹丕が詔勅を下し喪を切り上げさせようとするとますます憔悴した。
故郷へ帰り埋葬したいと願い出ると、越騎校尉の薛喬が勅使を務め、一晩で埋葬を終え、すぐ参上するよう命じた。
これほどまでに曹丕の恩寵は厚かった。(『曹休伝』)

「演義」では曹休配下として登場し石亭の戦いで全琮(ぜんそう)に敗北した。
ともに戦う張普(ちょうふ)はオリジナルキャラなのに薛喬は実在することには驚かされる。



薛勤


未作成



薛珝  交阯を攻略した薛綜の子


薛珝(せつく)字は不明
豫州沛郡竹邑県の人(??~271?)

呉の臣。
薛綜(せつそう)の子。薛瑩(せつえい)の兄。
「薛綜伝」に附伝される。

孫休の代に五官中郎将となり、馬の調達のため蜀へ行った。
帰国すると蜀の政治は上手く行っているか尋ねられ「主君は暗愚で自らの過ちに気づかず、臣下は我が身かわいさに罪を恐れ、朝廷では正論を聞けず、民衆の顔色は冴えません。
こんな話があります。小鳥が人家に巣を作り、これで安全だと考えていたが、煙突が壊れ火事が起こりました。小鳥は災いが目前に迫っていることも知らず、なおも心楽しくしています。これは今の蜀のことを言っています」と答えた。(『薛綜伝』)
孫休の在位中に蜀は滅亡した。(『孫休伝』)

268年、孫晧は守大匠の薛珝に命じて廟の正殿と奥殿を造営させ、清廟と名付けた。(『孫和伝』)

同268年、呉の前部督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)は交阯に侵攻した。(『孫晧伝』)
南中監軍の霍弋(かくよく)は、益州から毛炅(もうけい)らと大軍を率いて迎撃し、脩則と劉俊を討ち取った。(『晋書 陶璜伝』)

269年、呉は虞汜(ぐし)や威南将軍の薛珝、陶璜(とうこう)に荊州から、李勗(りきょく)、徐存(じょそん)に海路から交阯を攻めさせた。(『孫晧伝』)

陶璜は交阯太守の楊稷(ようしょく)に敗れ二将を失った。
薛珝が「お前は自ら上表して出撃したのに二将を失った。その責任はどこにある」と激怒すると、陶璜は「私の思った通りにできず、諸軍も従わなかったため負けただけです」と言ったため、薛珝はますます怒り、撤退しようとした。
陶璜は小勢を率いて晋軍の董元(とうげん)に夜襲を掛け財宝を奪う戦果を挙げたため、薛珝は怒りを解き、陶璜を前部督に任じ交州を任せた。(『晋書 陶璜伝』)

吾彦(ごげん)が下級官吏の頃、薛珝が南征し、軍勢の士気は甚だ盛んで、思わず嘆息した。人相見に優れた劉札(りゅうさつ)は「あなたもいずれこのような身分になるから、羨むことはありません」と励ました。(『晋書 吾彦伝』)

薛珝は交阯からの帰途に病没した。
没年は不明だが271年、孫晧が薛綜の文章に感動して、薛瑩に同様の文章を作るよう命じた際、薛瑩は詩で「兄は遠方の鎮撫の任を賜り、旗指し物は欠けるところ無く、兵器で武威を轟かせた」と述べており、まだ存命のように読める。(『薛綜伝』)
「晋書」にも薛珝・陶璜が交阯を陥落させたとあり(『晋書 陶璜伝』)、交阯を制圧した同271年が没年だろうか。(『孫晧伝』)

薛瑩は晋に降伏後も中原の名士と全く変わらぬ尊敬を得た。(『薛綜伝』)

「演義」でも蜀を視察し滅亡を予見した。



薛兼


未作成



薛洪  張楊配下から列侯される


薛洪(せつこう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

はじめ河内太守の張楊(ちょうよう)の長史を務めた。
199年、張楊は配下の楊醜(ようしゅう)に殺され、楊醜も同僚の眭固(すいこ)に殺された。

眭固は袁紹の傘下に入り射犬に駐屯した。曹操に攻められると薛洪・繆尚(きゅうしょう)に守らせ、袁紹に救援を求めようとしたが、史渙(しかん)・曹仁に出くわし戦死した。
薛洪・繆尚は曹操に降伏し、列侯された。(『武帝紀』)

董昭(とうしょう)が説得し降伏させた。(『董昭伝』)

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に都亭侯として連名した。(『武帝紀』)



薛勝


未作成



薛綜  優れた文章と諫言


個別ページへ



薛悌  合肥の戦いを監督


薛悌(せつてい)字は孝威(こうい)
兗州東郡の人(173?~??)

魏の臣。

出自は貧しかったが、曹操に仕え兗州従事に任じられた。
194年、曹操が徐州を攻めた隙をつき、呂布が兗州で蜂起した。ほぼ全域が制圧されたが、程昱(ていいく)と薛悌らが3県だけ守り抜いた。(『程昱伝』)
その功により(?)薛悌は22歳の若さで泰山太守に上った。(『陳矯伝』)
なお前任の応劭(おうしょう)は曹操の父を不手際で殺されてしまい、責任追及を恐れて逃亡している。(『武帝紀』)

薛悌は若き日の高堂隆(こうどうりゅう)を取り立てた。
ある時、部下と言い争いになり薛悌は名を呼び捨てにされた。高堂隆は激怒しその部下を無礼討ちしようとしたため、薛悌はあわててそれを制止した。(『高堂隆伝』)

また広陵郡の功曹を務める陳矯(ちんきょう)が泰山に立ち寄った時、引見した薛悌は彼の才に気づき、身分を超えて親しく付き合った。薛悌は「郡の役人が2千石(太守)と交わり、隣国の君主が陪臣に仕方なく付き合って遊ぶ。これもまた良いことだ」と冗談を言った。
その後、立場は逆転し、薛悌は魏郡太守、尚書令となるがいずれも陳矯の後任だった。

曹操は冀州を制圧すると、薛悌と王国(おうこく)を左右の長史に任じた。二人はともに中領軍に昇進し、忠節と事務に練達し、世の官吏の手本とされた。(『陳矯伝』)

215年、合肥の戦いの際には護軍として張遼・李典(りてん)・楽進(がくしん)を監督した。
曹操は孫権軍の襲来に備え、命令書を収めた箱を薛悌に預けていた。開くと「張遼・李典は出撃し、楽進は薛悌を守れ」とあった。籠城か出撃かで割れていた意見がまとまり、張遼・李典は奇襲を仕掛けあわや孫権を討ち取る大戦果を挙げた。(『張遼伝』)

曹丕の代には同じく貧しい出自から昇進した王思(おうし)・郤嘉(げきか)とほぼ同等の官位に上り、薛悌は儒者に近く大まかな統治で評判を取り「薛悌は混じり気があり、郤嘉と王思は混じり気なしの役人である」と評され、揃って関内侯に封じられた。(『梁習伝』)

237年、陳矯に代わって尚書令に昇進したと見られ、その後の事績は途絶える。(『明帝紀』)

「演義」には合肥の戦いの際に、命令書を届けるちょい役で登場。そのまま張遼の返事を伝えるため曹操のもとへとんぼ返りしており、監督どころかただの使いっぱしりである。



薛房  程昱の指揮で県を守った豪族


薛房(せつぼう)字は不明
兗州東郡東阿県の人(??~??)

東阿県の豪族。

184年、黄巾の乱に乗じて東阿県丞の王度(おうど)は反乱し、倉庫を焼き払った。
県令は城外へ逃げ、官吏や民は山へ避難した。程昱(ていいく)は賊軍を偵察し、城を奪ったもののもてあまして城外に駐屯しているのを見ると、豪族の薛房らへ「王度には城を守れない程度の兵しかなく、金目当てで戦意もない。県令を探してきて籠城すれば勝てる」と提案した。
しかし官民は恐れて「賊は西にいる。ただ東があるだけだ」と従わず、程昱は「馬鹿どもと相談しても無駄だ」と言い、配下を東の山に登らせ、薛房に「敵が東に現れたぞ」と叫ばせた。
薛房は城へ入り、官民もあわてて後を追い、県令も探してきて籠城した。王度の攻撃をしのぐと、程昱は打って出て撃破した。(『程昱伝』)



薛蘭  名士かもしれないちょい役


個別ページへ



薛礼  友人は選ぼう


個別ページへ



千万  阿貴とともに反乱


千万(せんばん)
氐族百傾の人(??~??)

氐族の百傾氐王。
百傾は白項とも書かれる。

1万余りの部落を支配していた。
211年、馬超が曹操に対し反乱すると、それに呼応し興国氐王の阿貴(あき)とともに蜂起した。(『東夷伝』)

馬超は敗北したが213年、再び反乱し、千万も呼応し興国に陣取ったが、夏侯淵に攻められた。
翌214年、馬超は尹奉(いんほう)らに敗れて漢中へ逃亡した。先に馬超とともに蜂起した韓遂(かんすい)は千万の部落に入り、羌族の兵を1万集めて反撃したが、夏侯淵に撃破され、興国も制圧された。(『武帝紀』)

阿貴は夏侯淵に討たれ(『東夷伝』)、千万は馬超を頼り(『夏侯淵伝』)、蜀へ逃げた。

また配下の部落は魏に降伏し、両端に住む者らは内地へと移住させられた。(『東夷伝』)



全禕  全緒の子


全禕(ぜんい)字は不明
揚州呉郡銭唐県の人(??~??)

呉の臣。
全緒(ぜんしょ)の子。
全琮(ぜんそう)の孫にあたる。

252年、東興の戦いで全緒は魏軍を打ち破った。
この功により長男(もしくは全緒)が亭侯に封じられた。
この長男が全禕の可能性がある。(『全琮伝』)

257年、諸葛誕が魏に反乱すると、呉の孫綝(そんちん)は全懌(ぜんえき)や全端(ぜんたん)らを救援に向かわせた。
だが孫綝の無謀な采配で大敗を喫し、命令を拒否した指揮官の朱異(しゅい)を殺され、士気は大いに下がった。
また国内では内紛が起こり、全禕は弟の全儀(ぜんぎ)とともに母を連れて魏へ亡命するなど全氏の勢力は削られた。
鍾会は全禕・全儀に命じて「孫綝は全懌らの苦戦に怒り、国許に残った一族を処刑しようとしている」という手紙を全懌に届けさせ、全懌・全端は魏へ降伏した。(『孫亮伝』・『鍾会伝』)

ちなみに「鍾会伝」のみ全禕と全く同じ事績の全輝(ぜんき)という人物が登場し、逆に全禕は登場せず、別名か誤記の可能性が高い。(『鍾会伝』)

魏は全懌を平東将軍に任じ臨湘侯に封じた。甥の全禕・全儀・全静(ぜんせい)らも太守に任じられたり列侯された。(『全琮伝』)



全懌  全琮の後継ぎ


全懌(ぜんえき)字は不明
揚州呉郡銭唐県の人(??~??)

呉の臣。
全琮(ぜんそう)の子。三男?

249年、父が没すると爵位と兵権を継いだ。(『全琮伝』)

257年、諸葛誕が魏に反乱すると、呉の孫綝(そんちん)は全懌や全端(ぜんたん)らを救援に向かわせた。
だが孫綝の無謀な采配で大敗を喫し、命令を拒否した指揮官の朱異(しゅい)を殺され、士気は大いに下がった。
また国内では内紛が起こり、全懌の甥(兄の子)の全禕(ぜんい)・全儀(ぜんぎ)が母を連れて魏へ亡命するなど全氏の勢力は削られた。
鍾会は全禕・全儀に命じて「孫綝は全懌らの苦戦に怒り、国許に残った一族を処刑しようとしている」という手紙を全懌に届けさせ、全懌・全端は魏へ降伏した。(『孫亮伝』・『鍾会伝』)

魏は全懌を平東将軍に任じ臨湘侯に封じた。甥の全禕・全儀・全静(ぜんせい)らも太守に任じられたり列侯された。(『全琮伝』)



全紀  全尚の息子


全紀(ぜんき)字は不明
揚州呉郡銭唐県の人?(??~258)

呉の臣。
全尚(ぜんしょう)の子。

258年、孫亮は、専権を振るう孫綝(そんちん)の排除を図り、姉の孫魯班(そんろはん)、舅の全尚らとともに密議を凝らした。
だが計画は洩れ、孫綝は先制攻撃を仕掛けて、宮城を包囲すると孫亮を廃位した。

計画漏洩の経緯は諸説ある。「正史」に曰く。
孫亮の皇后の全夫人(ぜんふじん)は孫綝の従姉の娘にあたるため、計画を孫綝へ密告した。

「江表伝」に曰く。
孫亮はまず全尚の息子で黄門侍郎を務める全紀に計画を告げた。母は孫綝の従姉だから決して話さないよう念押ししたが、息子から話を聞いた全尚はそれを妻に伝えてしまい、あっさり孫綝にばれた。
孫亮は「お前の父が間抜けだから大事が駄目になった」と全夫人を罵り、全紀は「父のせいで申し訳ないことをしてしまい面目ない」と自害した。

後世の孫盛(そんせい)は「聡明な孫亮が全夫人にうっかり話したとは思えない。江表伝の記述の方が辻褄が合っている」と評した。(『孫綝伝』)

孫亮・全夫人・孫魯班は配流された。全尚は一族とともに零陵へと強制移住させられ、後に殺害された。(『孫綝伝』・『孫亮全夫人伝』)



全寄  孫覇派の中核


全寄(ぜんき)字は不明
揚州呉郡銭唐県の人(??~250?)

呉の臣。
全琮(ぜんそう)の次男。(『全琮伝』)

二宮の変では孫覇(そんは)を支持した。
陸遜は後継者争いに血道を上げる全寄を非難し、全琮へ「あなたは金日磾(※増長する息子を殺した古人)を手本とせず、それどころか全寄を擁護している。家に災いをもたらすでしょう」と手紙を送り、激怒させた。(『陸遜伝』)

全寄はもとから根性の曲がった人間で、孫和(そんか)派の顧譚(こたん)は彼を蔑視していた。
241年、芍陂の戦いで呉軍が敗走した時、顧譚の弟の顧承(こしょう)が防戦に努め、全寄の兄の全緒(ぜんしょ)らが反撃し窮地を脱した。
論功行賞では顧承らが高く評価されたため、全寄・全琮は恨みを抱き、讒言し顧譚・顧承を流刑に追いやり、ともに流刑先で没した。(『顧譚伝』)

全寄は孫覇派の中核を担い、楊竺(ようじく)とともに毎日のように孫和派を讒言した。それにより陸胤(りくいん)は投獄され、吾粲(ごさん)は処刑された。(『孫和伝』・『陸胤伝』)

結局、孫権は二宮の変に孫和の廃嫡と孫覇の自害で終止符を打った。讒言を繰り返した全寄・楊竺も誅殺された。(※「全琮伝」には自害を命じられたと記される)(『孫覇伝』・『全琮伝』)



全熙  亡命に失敗した全氏


全熙(ぜんき)字は不明
揚州呉郡銭唐県の人(??~257)

呉の臣。

253年、専横をきわめた諸葛恪(しょかつかく)が誅殺された。
弟の諸葛融(しょかつゆう)のもとにも孫壱(そんいつ)・施績(しせき)・全熙らの討伐軍が迫り、変事を知らない諸葛融は慌てふためきなんの抵抗もできず、城を包囲されると毒をあおって自害した。(『孫峻伝』・『諸葛瑾伝』)

257年、諸葛誕の反乱に際し王昶(おうちょう)は夾石を根拠地に江陵郡へ圧力を加え、施績・全熙の救援を阻止した。(『王昶伝』)

孫綝(そんちん)は全懌(ぜんえき)・全端(ぜんたん)らを救援に向かわせた。
だが孫綝の無謀な采配で大敗を喫し、命令を拒否した指揮官の朱異(しゅい)を殺され、士気は大いに下がった。
また国内では内紛が起こり、全懌の甥(兄の子)の全禕(ぜんい)・全儀(ぜんぎ)が母を連れて魏へ亡命するなど全氏の勢力は削られた。
鍾会は全禕・全儀に命じて「孫綝は全懌らの苦戦に怒り、国許に残った一族を処刑しようとしている」という手紙を全懌に届けさせ、全懌・全端は魏へ降伏した。(『孫亮伝』・『鍾会伝』)

全熙は一族の陰謀が漏れ(孫綝に)殺害された。(『孫亮全夫人伝』)



全儀  全禕の弟


全儀(ぜんぎ)字は不明
揚州呉郡銭唐県の人(??~??)

呉の臣。
全緒(ぜんしょ)の子。
全琮(ぜんそう)の孫にあたる。

257年、諸葛誕が魏に反乱すると、呉の孫綝(そんちん)は全懌(ぜんえき)や全端(ぜんたん)らを救援に向かわせた。
だが孫綝の無謀な采配で大敗を喫し、命令を拒否した指揮官の朱異(しゅい)を殺され、士気は大いに下がった。
また国内では内紛が起こり、全儀は兄の全禕(ぜんい)とともに母を連れて魏へ亡命するなど全氏の勢力は削られた。
鍾会は全禕・全儀に命じて「孫綝は全懌らの苦戦に怒り、国許に残った一族を処刑しようとしている」という手紙を全懌に届けさせ、全懌・全端は魏へ降伏した。(『孫亮伝』・『鍾会伝』)

魏は全懌を平東将軍に任じ臨湘侯に封じた。甥の全禕・全儀・全静(ぜんせい)らも太守に任じられたり列侯された。(『全琮伝』)



全呉


未作成

  し1  し2  し3  し4  し5
し6  し7  し8  し9  し10  
せ1  せ2  そ1  そ2  そ3  そ4  そ5  そ6  そ7