三国志 し 3


朱異  朱桓の子も勇将


朱異(しゅい)字は季文(きぶん)
揚州呉郡呉県の人(??~257)

呉の臣。
朱桓(しゅかん)の子。
「朱桓伝」に附伝される。

張純(ちょうじゅん)、張儼(ちょうげん)らとともに幼い頃から聡明で、従父の朱拠(しゅきょ)は彼らを試そうと周囲の物で賦を作らせた。朱異は弩を賦い褒められた。

父の威光で郎に任じられ、後に騎都尉に上った。(『朱異伝』)

237年頃、朱桓は胡綜(こそう)と衝突して殺害しようとし、側近や副官に阻止されると殺してしまい、気が狂ったと称して帰還した。
孫権はこれまでの功績に免じて罪に問わず、朱異に兵を引き継がせ、医者を送って後に復職させた。
朱桓は239年に没した。(『朱桓伝』)

241年、朱然(しゅぜん)、呂拠(りょきょ)とともに魏の樊城を攻め、自ら献策し城の周囲の陣地を破壊した。偏将軍に上った。(『朱異伝』・『呂範伝』)
さらに文欽(ぶんきん)が国境線に砦を設け略奪を働いていたため、2千の兵を率いて撃破し、揚武将軍に昇進した。
孫権は彼と戦略について論じ合い、朱拠へ「噂以上の肝っ玉だ」と褒め称えた。

250年、文欽が偽装投降しようとすると朱異はこれを罠と見抜いたが、孫権は十分に備えをさせた上であえて誘いに乗った。しかし文欽も危険を察知し、戦闘にはならなかった。

252年、鎮南将軍に上った。魏が孫権の死に乗じて攻め寄せたが、朱異は水軍を率いて浮き橋を焼き払い大打撃を与えた。(東興の戦い)
諸葛恪(しょかつかく)は勢いに乗り合肥新城を囲んだが攻めあぐねた。朱異は石頭城に転進すればたやすく攻め落とせると献策したが容れられず、諸葛恪の反論の手紙を床に叩きつけ「俺の策を聞かずに前科者(※不明)の意見を聞きやがって」と暴言を吐いたため、兵を奪われ更迭された。(『朱異伝』)

255年、安豊を攻撃したが落とせなかった。

256年、呉の実権を握る孫峻(そんしゅん)は降将の文欽(ぶんきん)の策を容れ、朱異・呂拠らに淮南へ進撃させた。だが翌月に孫峻が急逝し、後を継いだ孫綝(そんちん)は撤退命令を下した。
呂拠は孫綝が実権を握ったと聞いて怒り、滕胤(とういん)とともに討伐しようとしたが返り討ちにされ、処刑された。(『孫亮伝』)

257年、魏に反乱し寿春に籠城した諸葛誕の救援に、仮節・大都督として赴いた。(『朱異伝』)
朱異は先に孫壱(そんいつ)の攻撃に向かった。孫壱は妹二人が呂拠・滕胤に嫁ぎ、弟が孫綝暗殺を企んで殺されていたため孫綝に恨まれており、朱異の兵が迫ると魏へ亡命した。(『朱異伝』・『孫奐伝』)

朱異は前部督に任じられ、寿春を包囲する魏軍を攻撃したが、兵糧が欠乏してきたため撤退した。孫綝は激怒し、出頭命令を下した。
陸抗(りくこう)らの危惧をよそに、「孫綝殿は身内で疑う理由はない」と孫綝のもとへ赴き、捕らえられた。「私は呉の忠臣だ。何の罪があると言うのか」と言ったが、そのまま絞め殺された。(『孫亮伝』・『朱異伝』)

「孫綝伝」には詳しい経緯が記される。
朱異は3万の兵で安豊に本陣を置いたが、州泰(しゅうたい)に撃破され死傷者は2千に上った。
孫綝は兵を5万に増員し、朱異は決死隊6千を率いて浮き橋を作り、夜陰に紛れて橋頭堡を築いたが、石苞(せきほう)・州泰に撃破された。戦車を用意し反撃しようとしたが、石苞・州泰にまたも攻められ敗走し、さらに胡烈(これつ)が間道を通って兵糧庫を襲い、兵糧を全て失った。
孫綝は兵3万を与え、捨て身で攻撃させようとしたが、朱異は拒否したため処刑された。

後に孫亮は孫綝の粛清を企て、その際に「孫綝は私をないがしろにしている。魏を攻撃した時も自分は湖中に布陣したまま一歩も岸に上がらなかった。そのうえ罪を功臣の朱異にかぶせ、私の認可も受けず勝手に処刑した」と述べている。(『孫綝伝』)

陳寿は「軍の指揮者として有能で、よく父の仕事を受け継いだ。父は思い上がり偏狭なところがありながらも天寿を全うしたが、朱異と呂拠はそうした欠点も無かったのに非業の死を遂げたのは、時代の変化があったからである」と評した。

「演義」では魏軍に連敗し孫綝に処刑される、無能な役を振られた。



朱緯


未作成



朱育  虞翻の話を語り継ぐ


朱育(しゅいく)字は不明
揚州会稽郡山陰県の人(??~??)

呉の臣。

奇字(汎用されない特殊な漢字)を好み、自らも千字以上を考案した。占いや当て物に巧みで、文芸百般に通じた。

257年、会稽郡の門下書佐の時、太守の濮陽興(ぼくようこう)は元旦の宴の際に「私はかつて朱寵(しゅちょう)が鄭凱(ていがい)に、韓呉郡(かんごぐん)が劉聖博(りゅうせいはく)に、王朗(おうろう)が虞翻(ぐほん)に有能な人物を尋ねたと聞いた。そのうち虞翻の話だけは知らない。賢者の答えをぜひ聞きたいが誰か知らないか」と問い、朱育が名乗りを上げた。
朱育は虞翻が語った会稽郡の歴史と名だたる人材を事細かに話し、濮陽興を喜ばせた。

朱育は後に呉の朝廷に仕え、宮中の中枢に立ち、東観令となり、清河太守を務め、侍中となった。(『虞翻伝』)

侍中・東観令の時、濡須督の鍾離牧(しょうりぼく)と酒を飲んだ。鍾離牧は必勝の策を胸に秘めていたが、それを明かすのをためらっており、思わず嘆息した。
朱育は彼が出世できず悩んでいるのだと思い「朝廷の諸先生らは上手く立ち回り、手柄もないのに出世しています。あなたの友人ですら腹が立つのだから、あなた自身はなおさらでしょう」と言った。
鍾離牧は笑い「私は身に余る恩寵を受け不満など感じていない。だが秘策があるのに、陛下には我が名を十分に知られず、群臣にも妨害されるだろうと考え、嘆息したのだ」と言った。
朱育はそんなことはないから献策すべきだと勧めたが、鍾離牧は故事を引いて反論し「かつて潘濬(はんしゅん)に従い出兵した時、援軍が送られず見捨てられかけたことがあった。もし十分に考慮せず献策し、同じことが起きたら次は助からず敗北するだろう」と言った。(『鍾離牧伝』)



朱越  衛臻を巻き込み反乱


朱越(しゅえつ)字は不明
兗州東郡の人(??~??)

賊徒?

反乱を企てて衛臻(えいしん)を招き入れたが、曹操は「衛臻の父には助けられたから、朱越の言葉など信じなかった。荀彧(じゅんいく)も弁護し、忠誠は明らかになった」と謀叛を疑わなかった。(『衛臻伝』)

記述はそれだけで、謀叛の行方もその後の消息も不明である。



朱淵  袁渙の裁決


朱淵(しゅえん)字は不明
出身地不明(??~??)

隠者。

袁渙(えんかん)が梁国相の時、穀熟県長の呂岐(りょき)は親しく付き合っていた朱淵と爰津(えんしん)を留学先から帰郷させ、朱淵を師友祭酒に、爰津を決疑祭酒に任命したが、二人とも応じなかったため逮捕したうえ殴り殺した。
その処置を非難する者が多かったが、袁渙は弾劾しなかった。

主簿の孫徽(そんき)は「朱淵らの罪は死刑に相当せず、県長は死刑を独断で決められません。それに朱淵を師友祭酒に任命しながら、師友に対する処置とは思えません」と反対した。
袁渙は「独断で死刑にしたのは確かに罪である。だが君主が家臣を師友に任命するのは敬意を示すためで、罪があれば罰を加えるべきだ。任命を無視した罪を議論せずに、弟子が師を殺したと非難するのは見当外れだ。近頃の世は乱れ、下位の者が上位の者を侮っている。世の中の欠陥を助長するのは誤りである」と言い、やはり弾劾しなかった。(『袁渙伝』)



朱琬  朱治の孫


朱琬(しゅえん)字は不明
揚州丹陽郡故鄣県の人(??~??)

呉の臣。
朱才(しゅさい)の子。朱治(しゅち)の孫。

祖父・父の爵位を継ぎ鎮西将軍まで上った。(『朱治伝』)

272年、呉の西陵督の歩闡(ほせん)が反乱した。
晋は援護するため羊祜(ようこ)や楊肇(ようちょう)、徐胤(じょいん)を援軍として送った。
徐胤は水軍を率いて建平へ向かい、陸抗(りくこう)は羊祜を孫遵(そんじゅん)に、徐胤を留慮(りゅうりょ)と鎮西将軍の朱琬に足止めさせ、自らは楊肇と対峙した。

数ヶ月後、陸抗は楊肇を撃破し、晋軍は撤退した。歩闡は降伏し処刑された。(『陸抗伝』)



朱恩  諸葛恪の甥


朱恩(しゅおん)字は不明
出身地不明(??~253)

呉の臣。
諸葛恪(しょかつかく)の甥(姉妹の子)。

253年、孫峻(そんしゅん)は専権を振るう諸葛恪の暗殺を図り、宴会へ招いた。
孫峻は自ら出迎え、体調を気遣うふりをして、陰謀を察知しているか探った。散騎常侍を務める朱恩と張約(ちょうやく)は異変を察知し、諸葛恪へ警戒するようメモで伝え、いったんは引き返したものの、舅の滕胤(とういん)に出会った。
滕胤は陰謀を知らず、せっかく招かれたのだから参内するよう勧め、舅の言葉を無下にできず諸葛恪は出席し、暗殺された。
朱恩も一族皆殺しになった。(『諸葛恪伝』)
滕胤は辞職を申し出たが孫峻に説得され留任した。(『滕胤伝』)

「呉歴」には、諸葛恪が朱恩らに渡されたメモを滕胤に見せ、滕胤は帰宅を勧めたが「孫峻のこわっぱに何ができる。毒殺だけは心配だが」と諸葛恪は毒対策の薬酒を持って出席し、暗殺されたという異聞が記される。
後世の孫盛(そんせい)は「諸葛恪が滕胤に相談するのは自然であり、彼は孫峻を侮っていた。滕胤のせいで殺されたとする正史より呉歴の記述のほうが優れている」と評した。(『諸葛恪伝』)



朱蓋  殷署の相方?


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朱桓  呉の関羽雲長


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朱漢  袁紹の歓心を買うため韓馥を襲う


朱漢(しゅかん)字は不明
司隷河内郡の人(??~191?)

袁紹の臣。

「英雄記」に曰く。
191年、冀州牧の韓馥(かんふく)は袁紹に地位を譲った。
都官従事に任じられた朱漢はかつて韓馥に冷遇された恨みを晴らし、袁紹の歓心を買うため勝手に兵を動員して韓馥の家を包囲し、刀を抜いて屋根に登った。韓馥は逃げたが長男は捕らえられ、両足を打ち砕かれた。
袁紹はすぐさま朱漢を殺したが、韓馥は袁紹も内心では自分を除こうとしていると疑心暗鬼になり、張邈(ちょうばく)のもとへ身を移した。

その後、袁紹の使者が張邈に耳打ちしているのを見ると、自分を殺すための算段だと思い込み、厠で自害した。(『袁紹伝』)

ちなみに都官従事は司隷校尉の配下であり、袁紹が当時司隷校尉を務めていた(自称していた?)ことがわかる。



朱紀


未作成



朱拠  空回りする期待感


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朱喬  西陵の戦いで晋へ寝返る


朱喬(しゅきょう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、呉の歩闡(ほせん)が反乱し西陵に籠城した。
晋は羊祜(ようこ)や徐胤(じょいん)、楊肇(ようちょう)を援軍として送った。
呉の討伐軍の陸抗(りくこう)は楊肇と対峙したが、将軍の朱喬と営都督の兪賛(ゆさん)が寝返ってしまった。
陸抗は「兪賛は古株で我が軍の実情に詳しい。私は常々、異民族の兵は訓練不足で弱点だと思っている」と言い、兪賛もそこを狙うだろうと考え、夜間のうちに異民族と精鋭の陣を交替させた。
翌日、はたして楊肇は異民族の陣を攻めようとして罠にはまり大敗した。(『陸抗伝』)



朱寓


未作成



朱建平  人相見の達人


朱建平(しゅけんぺい)字が建平か
豫州沛国の人(??~??)

魏に仕えた人相見。

213~216年頃、評判を聞いた同郷の曹操に招聘された。

ある時、曹丕は自身や居合わせた者の寿命を占わせた。
曹丕は「寿命は80歳だが40歳の時に災難がある」と占われた。
40歳の時、重病にかかると「朱建平は私を怒らせまいと、昼と夜を別々に数え80歳と言ったのであり、本当は40歳が寿命なのだろう」と言い遺し病没した。

夏侯威(かこうい)は「49歳で州牧になるが災難に見舞われる。それを乗り越えれば70歳まで生き、天子の後見役になる」と占われた。
49歳で兗州刺史となり、12月に大病を患い覚悟を決めたが、快方に向かった。すっかり安心し大晦日に祝宴を開いたが、その夜のうちに再発し没してしまった。

応璩(おうきょ)は「62歳で侍中となるが災難に遭う。その一年前にあなたにだけ見える白い犬に会う」と占われた。
61歳で侍中となり、ある日、白い犬を見かけた。尋ねても他に見た者はなく、寿命を悟った応璩は友人と遊び、旅行に出掛けたりと遊興にふけり63歳で没した。

曹彪(そうひょう)は「王位を得るが57歳で兵禍に遭う」と占われた。
楚王になり57歳の時、王淩(おうりょう)の反乱に加担し、それが露見して自害させられた。

荀攸(じゅんゆう)は「年上の鍾繇(しょうよう)より先に亡くなり、遺族の面倒を見てもらうだろう」と占われた。
鍾繇はそうなったら妾の再婚相手を探してやるとからかったが、予言通りとなり、それを嘆いた。

ほとんどの予言が当たったが、王昶(おうちょう)、程喜(ていき)、王粛(おうしゅく)への予言だけは当たらなかった。
特に王粛(おうしゅく)は「寿命は70歳を超え、官位は三公に上る」と占われ、62歳の時に重病にかかると「朱建平が予言した寿命も官位も実現していない」と余裕を見せたが、そのまま没してしまったという。

また人間だけではなく馬の相も見ることができた。
曹丕の乗騎を寿命が今日で尽きると見立てると、はたして馬は曹丕が焚いていた香の匂いを嫌がって噛み付いたため、怒った曹丕に殺されてしまった。

黄初年間(220~226)に没した。(『朱建平伝』)

同じく魏に仕えた周宣(しゅうせん)の夢占いは十中八九が的中し、朱建平と並び称された。(『周宣伝』)

陳寿は彼らを「方技伝」にまとめ「奥深く隔絶した巧みさであり、非凡な優れた技術だった。司馬遷も「史記」に不思議な事柄を載せ、常識を超えた物事の存在を知らしめたから、それにならった」と記している。

「演義」には登場しない。



朱光  甘寧に一番乗りされた男


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朱皓  諸葛玄を殺し?笮融に殺される


朱皓(しゅこう)字は文明(ぶんめい)
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

諸葛亮は幼い頃に父を亡くし、弟の諸葛均(しょかつきん)とともに従父の諸葛玄(しょかつげん)を頼った。
諸葛玄は袁術に(勝手に)豫章太守に任命され、諸葛亮らを連れて赴任した。
朝廷は朱皓を正式な太守に任じ、諸葛玄は旧知の荊州牧の劉表(りゅうひょう)に身を寄せた。

「献帝春秋」に異聞がある。
豫章太守の周術(しゅうじゅつ)が没すると劉表は諸葛玄を(勝手に)後任とし南昌に駐屯させた。
朝廷は朱皓を正式な太守に任じ、朱皓は揚州刺史の劉繇(りゅうよう)に兵を借りて攻撃し南昌を制圧した。
197年、西城に撤退した諸葛玄は反乱した民に殺され、首を劉繇のもとへ送られた。(『諸葛亮伝』)

劉繇は孫策に敗れ、豫章郡を制圧しようとし笮融(さくゆう)を向かわせたが、笮融は太守の朱皓を殺すと独立した。

「献帝春秋」に異聞がある。
劉繇は豫章太守の諸葛玄を朱皓に攻撃させ、笮融を加勢させた。
許劭(きょしょう)は「笮融は大義名分を気にせず、朱皓は誠実で人を疑わない性格です。笮融に警戒するよう密かに伝えるべきです」と進言したが、はたして笮融は朱皓を殺し豫章郡を乗っ取った。(『劉繇伝』)

「演義」では本伝が採用され諸葛玄が戦死しないこともあり登場しない。



朱才  朱治の子


朱才(しゅさい)字は君業(くんぎょう)
揚州丹陽郡故鄣県の人(??~??)

呉の臣。
朱治(しゅち)の子。

聡明で騎射に巧みで、孫権に気に入られ遊びに行く時はいつも伴った。
父の威光で若くして武衛校尉に任じられ、しばしば武功を立てた。
だが故郷で人物評価をする人々は、若くして高位についたため郷里を顧みていないと批判した。
朱才は「私は将として馬で敵を踏みしだき、進んで白刃を犯せば名声を挙げられると思っていた。まさか郷里の人々が一挙一動に注目していたとは」と嘆息し、謙虚に努め、食客を手厚くもてなし、惜しみなく施し、見返りを求めず、さらに兵法を学んだ。

224年、父が没すると爵位を継ぎ、偏将軍に昇進した。
名声が遠くまで聞こえ始めたところであえなく病没した。
子の朱琬(しゅえん)が爵位を継ぎ、鎮西将軍まで上った。(『朱治伝』)

兵は甥の朱績(しゅせき)が引き継いだ。
朱績はその兵で潘濬(はんしゅん)とともに五渓蛮を討伐したとあり、「呉主伝」によると討伐は231年のため、朱才はそれ以前に没したとわかる。(『朱然伝』・『呉主伝』)



朱讃  曹真への恩返し


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朱氏  何苗の実父


朱氏(しゅし)名は不明
出身地不明(??~??)

何苗(かびょう)の父。

「英雄記」に曰く。
何苗と何皇后(かこうごう)の母は舞陽君(ぶようくん)で、何苗は前夫の朱氏の子である。(『董卓伝』)

「後漢書」には何皇后の父は何真(かしん)、何苗は異父弟と記される。
いずれにしろ何真の子である兄の何進(かしん)と何苗は血が繋がらない。(『後漢書 霊思何皇后伝』)



朱氏  王祥を虐待した継母


朱氏(しゅし)名は不明
揚州廬江郡の人(??~??)

王融(おうゆう)の後妻。
王覧(おうらん)の母。

前妻の子の王祥(おうしょう)を嫌い、讒言されたため父にも王祥は嫌われたが、非常に親孝行だった。
朱氏が冬に生魚を欲しがると、王祥は氷の張った川で衣服を脱ぎ、魚を捕ろうとした。氷は自然に割れ、2匹の魚が飛び出した。
朱氏が焼き鳥を食べたいと言うと、数十羽の鳥が自ら網に飛び込んで焼かれた。人々は親孝行の念が天に届いたのだと讃えた。
またリンゴがなったため朱氏は樹を守るよう命じた。風雨が強くなると王祥は泣きながら樹に抱きついて守った。

弟の王覧は朱氏の実子で可愛がられたが、10歳にもならないのに兄に同情し、一緒に母に鞭打たれ、抱き合って泣いた。長じると母を諌めるようになり、虐待は少し収まった。
王祥の妻も同様に朱氏に責められたが、王覧もその妻もともに兄夫婦をかばった。

父の王融が没すると王祥の評判が立ち、それを恨んだ朱氏はついに毒殺を企んだ。王覧は毒酒を王祥から奪おうとし、王祥も毒が入っているのを察し、奪わせまいと争った。朱氏があわてて奪い、引っくり返した。その後は王覧が常に毒味してから兄に食べさせたため、朱氏は王覧を殺してしまうのを恐れ毒殺を諦めた。

後漢末に戦乱を避け、王祥は母や弟とともに(母の故郷の)揚州廬江郡へ移住した。州郡から召されたが応じず、30年余りを過ごした。
母が没すると喪に服して憔悴し、杖をつきやっと立てるほどだった。
徐州刺史の呂虔(りょけん)が招聘したが、既に60歳近い王祥は老齢を理由に固辞した。しかし王覧が車馬を整えてやり出仕を勧めたため、別駕に任じられた。

王祥は後に晋の三公に上った。(『晋書 王祥伝』)



朱志  孫権暗殺を企んだ馬茂の一味C


朱志(しゅし)字は不明
出身地不明(??~245)

呉の臣。

「呉歴」に曰く。
魏の鍾離県長だった馬茂(ばぼう)は王淩(おうりょう)に反目し呉へ寝返った。征西将軍・九江太守・外部督に任じるとともに列侯され1千の兵を与えられた。
だが245年、兼符節令の朱貞(しゅてい)・無難督の虞欽(ぐきん)・牙門将の朱志らと結託し、孫権を暗殺し魏へ復帰しようと企んだ。
射的の大会に際し孫権が御苑に入ったところで門を封鎖し、朱貞が詔勅と称して参加者を捕らえる。そして馬茂が孫権を殺し、宮中と砦に分かれて立て籠もり、魏へ報告して援軍を待つ作戦だったが、事前に露見し関わった者は全て一族皆殺しとなった。(『呉主伝』)



朱鑠  酒席でガリとからかわれる


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朱淑媛  曹鑒の母


朱淑媛(しゅしゅくえん)名は不明
出身地不明(??~??)

曹丕の側室。
曹鑒(そうかん)の母。
淑媛は后妃の位で曹丕が制定した。(『后妃伝』)

曹鑒は東武陽王に立てられたが同年に没し、子が無かったため国は没収された。(『東武陽懐王鑒伝』)



朱儁  名将、憤死す


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朱成


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朱整  賈充・裴秀とともに起用される


朱整(しゅせい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

何劭(かしょう)の著した王弼(おうひつ)の伝記に曰く。
正始年間(240~249)、黄門侍郎に欠員が生じ、何晏(かあん)は賈充(かじゅう)・裴秀(はいしゅう)・朱整を起用し、さらに王弼を推薦したが、何晏と対立する丁謐(ていひつ)が王黎(おうれい)を推薦したため尚書郎に任じられるに留まった。(『鍾会伝』)

賈充・裴秀はともに「晋書」に列伝される名臣となったが朱整の事績は不明である。
ちなみに賈充・裴秀は司隸河東郡の出身であり朱整も同郷だろうか。



朱績  賊国の名臣


朱績(しゅせき)字は公緒(こうしょ)
荊州宜都郡西陵県の人(??~270)

呉の臣。
朱然(しゅぜん)の子。
後に施績(しせき)に改姓し、ともに著名。
「朱然伝」に附伝される。

若い頃から蔣済(しょうせい)・胡質(こしつ)と並び称されたというが、二人とは年齢が離れており、同姓同名の別人の可能性も高い。(『胡質伝』)

父の威光により郎に任じられ、後に建忠都尉に上った。
叔父の朱才(しゅさい)が没するとその兵を受け継ぎ、231年、潘濬(はんしゅん)のもとで五渓蛮の討伐をし、大胆さと実行力を讃えられた。
偏将軍の営下督を務め、盗賊を取り締まり、法を守って曲げることがなかった。孫覇(そんは)は彼と親しくなるため役所を訪ね、席を並べようとしたが、朱績は恐れ多いと起立して固辞した。(『朱績伝』)
殷基(いんき)は「通語」で二宮の変に際して朱績は太子の孫和(そんか)を守り立てたと記す。(『孫和伝』)

249年、父が没すると職務を継ぎ、平魏将軍・楽郷督に任じられた。(『朱績伝』)

250年、魏の王昶(おうちょう)は二宮の変に揺れる呉を討伐する好機と、州泰(しゅうたい)、王基(おうき)とともに三方から呉へ侵攻した。
呉は朱績が迎え撃ったが、王昶は弩で返り討ちにし、朱績は江陵に籠城した。王昶は城からおびき出そうと、5つの軍をわざと撤退させ、さらに馬と呉兵の首に戦利品の鎧兜を着せて城の周囲を駆け回らせた。怒った朱績は撤退する軍を追い、伏兵に撃退された。
呉の鍾離茂(しょうりぼう)、許旻(きょびん)は討ち取られ、大量の戦利品を奪い、州泰・王基も勝利した。(『王昶伝』)

だが戴烈(たいれつ)・陸凱(りくがい)の防戦により魏軍は撤退した。(『呉主伝』)

王昶も江陵城を落とせず撤退した。
朱績は諸葛融(しょかつゆう)に手紙を送り、連携して王昶を追撃しようとしたが、約束を破り諸葛融が現れなかったため取り逃がしてしまった。
孫権は朱績を激賞するとともに、諸葛融を強く叱責したが、兄の諸葛恪(しょかつかく)が高位にあったため官位は奪われなかった。元から不仲だった朱績と諸葛兄弟は一層険悪な間柄となった。

252年、鎮東将軍に上った。
253年、諸葛恪は朱績に出撃を要請しておきながら、彼の兵は進ませず、諸葛融にその任務を兼ねさせた。(『朱績伝』)
諸葛恪が孫峻(そんしゅん)に誅殺されると、朱績は施寛(しかん)・孫壱(そんいつ)・全煕(ぜんき)とともに諸葛融を攻め、自害に追い込んだ。
朱績は仮節を授かった。(『諸葛瑾伝』・『朱績伝』)

かつて養祖父の朱治(しゅち)の喪が明けた(※224年没)際に、元の姓に復したい(※父の朱然はもともと施氏で、朱治の養子になった)と願い出たが孫権は許さず、孫権没後の五鳳年間(254~255)にようやく改姓を認められ、施績と名乗った。

257年、驃騎将軍に上った。
実権を握る孫綝(そんちん)の暴虐ぶりに重臣たちが動揺し、魏がそれに乗じて攻め入ることを恐れ、施績は密かに蜀へ手を回し援軍を要請した。蜀は国境線へ閻宇(えんう)の兵5千を送り、施績の指示に従うよう命じた。(『朱績伝』)

同年、魏の諸葛誕が反乱して寿春に籠もり、呉は援軍を送った。
王昶は江陵方面に駐屯し、施績・全煕を足止めし諸葛誕の救援に向かわせなかった。(『王昶伝』)

258年、上大将軍・都護督に上り、巴丘から西陵までの地域を守った。(『朱績伝』)

263年、魏が蜀へ侵攻すると、呉は救援のため魏の後方撹乱を狙い、丁奉を寿春へ向かわせ、留平(りゅうへい)を南郡の施績のもとへ赴かせて善後策を練らせ、漢水流域へ丁封(ていほう)・孫異(そんい)を進撃させた。
だが蜀は滅亡し、これらの軍事行動は取りやめられた。(『孫休伝』)

264年、孫晧が即位すると左大司馬を授けられた。(『孫晧伝』)

同年、曹奐は詔勅で「施績は賊国の名臣だが(孫晧を恐れ)猜疑心を抱き推量しているため、主君に嫌悪されている」と呉の君臣の心が離れている例に挙げた。(『陳留王紀』)

270年に没した。(『朱績伝』)
陸抗(りくこう)が任務を受け継いだ。(『陸抗伝』)

鍾離徇(しょうりしゅん)は西陵の守備を命じられた際、宜城と信陵は建平郡の後ろ盾であり、そこに築城すべきだと訴えた。
だが監軍の唐盛(とうせい)は「施績や留平ら智略を備えた名将もしばしばそこを通ったが、築城しようとは言わなかった」として却下した。
わずか半年後、晋軍は信陵を占領し城を築いてしまった。(『鍾離牧伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「施績・范慎(はんしん)は威信の重さで知られていた」と記した。(『孫晧伝』)

陳寿は呂拠(りょきょ)・朱異(しゅい)ら名将の子らとともに「軍の指揮者として有能な才を備え、よく父祖の仕事を受け継いだ」と評した。

「演義」には登場しない。



朱宣  朱熊の子


朱宣(しゅせん)字は不明
揚州呉郡呉県の人(??~??)

呉の臣。
朱熊(しゅゆう)の子。
朱拠(しゅきょ)の孫。

258年頃、父は政争に巻き込まれ孫亮に処刑された。

永安年間(258~264)、孫休は朱拠らの功績を採り上げ、朱宣に雲陽公の爵位を継がせ、公主を妻に与えた。
孫晧の代に驃騎将軍まで上った。(『朱拠伝』)



朱然  炎の男


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朱損  孫魯班に陥れられた朱拠の子B


朱損(しゅそん)字は不明
揚州呉郡呉県の人(??~258?)

呉の臣。
朱拠(しゅきょ)の子。
朱熊(しゅゆう)の弟。

250年、父の朱拠は二宮の変で強情に太子の孫和(そんか)を支持したため、かえって左遷され、孫弘(そんこう)の策謀により自害させられた。
子の朱熊・朱損はそれぞれ兵を預かった。(『朱拠伝』)

251年、姉妹で孫魯育(そんろいく)の娘の朱夫人(しゅふじん)が孫休の妃に選ばれた。

252年に孫権が没し、孫峻(そんしゅん)が実権を握ると、他の皇族は我が身に不安を覚えた。
孫魯育の姉の孫魯班(そんろはん)はかつて、弟の孫覇(そんは)を太子に立てようと画策し、それに反対する孫魯育と敵対した。
孫魯班は夫の一族の娘が孫峻の姉であり、255年に孫儀(そんぎ)が孫峻の暗殺未遂を図ると、孫魯育も陰謀に絡んでいると讒言し、処刑させた。

太平年間(256~258)、孫亮は孫魯育が無実だったと知り、孫魯班を問い詰めると、彼女は朱熊・朱損に罪をかぶせ、処刑させた。
孫峻の後を継ぎ実権を握る孫綝(そんちん)は、妹が朱損の妻だったため激怒し、258年、孫亮を廃位させ孫休を帝位につけた。(『孫休朱夫人伝』)

「孫綝伝」に異聞がある。
朱熊は虎林督、朱損は外部督を務めていた。
孫亮は孫綝の排除を狙い、孫魯育殺害の顛末を調べると、朱熊・朱損が止めなかったからだと責任を問い、丁奉に命じて任地で誅殺させた。
孫綝は参内して処刑をやめさせようとしたが聞き入れられず、さらに孫亮・孫魯班らが暗殺を図ったため、先手を打って宮城を包囲し、孫亮を廃位した。

孫綝は孫休を帝位につけようと招き、その手紙の中で「朱熊・朱損は父の後を継ぎ忠義一筋で、孫魯育の殺害も孫魯班に従っただけなのに、孫亮は詳しく調べず軽々しく二人を処刑した」と述べた。(『孫綝伝』)

永安年間(258~264)、孫休は朱拠らの功績を採り上げ、朱熊の子の朱宣(しゅせん)に爵位を継がせ、公主を妻に与えた。
朱宣は孫晧の代に驃騎将軍まで上った。(『朱拠伝』)

孫綝の手紙を読む限り、朱熊・朱損が母(孫魯育)ではなく孫魯班に従った理由が不明であり、兄弟の母は孫魯育ではないと考えるべきだろうか。



朱誕


未作成



朱治  呉の基盤を築いた宿将


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朱貞  孫権暗殺を企んだ馬茂の一味A


朱貞(しゅてい)字は不明
出身地不明(??~245)

呉の臣。

「呉歴」に曰く。
魏の鍾離県長だった馬茂(ばぼう)は王淩(おうりょう)に反目し呉へ寝返った。征西将軍・九江太守・外部督に任じるとともに列侯され1千の兵を与えられた。
だが245年、兼符節令の朱貞・無難督の虞欽(ぐきん)・牙門将の朱志(しゅし)らと結託し、孫権を暗殺し魏へ復帰しようと企んだ。
射的の大会に際し孫権が御苑に入ったところで門を封鎖し、朱貞が詔勅と称して参加者を捕らえる。そして馬茂が孫権を殺し、宮中と砦に分かれて立て籠もり、魏へ報告して援軍を待つ作戦だったが、事前に露見し関わった者は全て一族皆殺しとなった。(『呉主伝』)



朱南  焦先を逮捕しかける


朱南(しゅなん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

211年、馬超らの蜂起により関中は大混乱に陥り、焦先(しょうせん)は家族を失い、黄河の河原で草をはみ、衣服さえない暮らしを始めた。
大陽県長の朱南は彼を見かけると逃亡者だと思い逮捕しようとしたが、焦先の友人の侯武陽(こうぶよう)は狂人だと弁護し、穀物が支給されるように取り計らってやった。(『管寧伝』)



朱万歳


未作成



朱夫人  孫休の皇后


朱夫人(しゅふじん)名は不明
揚州呉郡呉県の人(??~??)

孫休の皇后。
朱拠(しゅきょ)と孫魯育(そんろいく)の娘。
孫権の孫にあたる。

251年、孫権によって孫休の妃に選ばれた。
(※孫休は姪をめとったことになり、裴松之はとんでもない悪弊だと呆れている)

252年、孫休が琅邪王に封じられると、ともに任地に赴き丹陽郡に住んだ。

同年に孫権が没し、孫峻(そんしゅん)が実権を握ると、他の皇族は我が身に不安を覚えた。
孫魯育の姉の孫魯班(そんろはん)はかつて、弟の孫覇(そんは)を太子に立てようと画策し、それに反対する孫魯育と敵対した。
孫魯班は夫の一族の娘が、孫峻の姉であり、255年に孫儀(そんぎ)が孫峻の暗殺未遂を図ると、孫魯育も陰謀に絡んでいると讒言し、処刑させた。
孫休は累が及ぶのを恐れ、朱夫人と涙ながらに別れて出頭させたが、孫峻は罪に問わず、孫休のもとへ帰した。

太平年間(256~258)、孫亮は孫魯育が無実だったと知り、孫魯班を問い詰めると、彼女は朱拠の子の朱熊(しゅゆう)・朱損(しゅそん)に罪をかぶせ、処刑させた。
孫峻の後を継ぎ実権を握る孫綝(そんちん)は、妹が朱損の妻だったため激怒し、258年、孫亮を廃位させ孫休を帝位につけた。

262年、朱夫人は皇后に立てられた。
264年、孫休が没すると、皇太后に立てられた。(『孫休朱夫人伝』)

その頃、蜀が滅び、交州が離反しと情勢が不安定で、群臣は幼い太子の孫𩅦(そんわん)よりも、孫晧に後を継がせるべきだと考え、朱夫人に伺いを立てた。
彼女は「私は夫を失った一人の女に過ぎず、国家のことはわかりません。国を保ち、祖先の祭祀が続けられるならそれで良いでしょう」と同意した。
だが孫晧は即位からわずか1ヶ月で皇太后から景皇后へ降格させた。(『孫晧伝』)

降格し安定宮と呼ばれるようになった。

その後も迫害は続き翌265年、朱夫人は逝去し定陵(孫休の墓)に合葬された。(『孫休朱夫人伝』)

「孫晧伝」には「孫晧が追い詰めて殺した」と記される。
朱夫人が正殿ではない場所で没し、葬儀も御苑の小さな建物で行われたことから、人々は病没ではないことを察し、誰もが悲しみ悼んだ。
また孫𩅦ら4人の子も幽閉され、年長の2人は殺された。(『孫晧伝』)

「演義」でも孫休の死後、孫𩅦と孫晧のどちらを帝位につけるか群臣に問われ、自らは判断せず良きにはからうよう命じた。
その後は登場せず、殺害もされない。



朱符  交州を混乱させた汚職刺史


朱符(しゅふ)字は不明
揚州会稽郡の人(??~??)

後漢の臣。

交州刺史に赴任すると、同郷の虞褒(ぐほう)・劉彦(りゅうげん)らを各地の長官に任じ、民を迫害して重税を課し私腹を肥やした。
民は怒って蜂起し、山越とともに役所を攻撃した。朱符は船で海へ逃げたが、逃亡中に没した。(『薛綜伝』)

交趾太守の士燮(ししょう)はそれに乗じ、3人の弟を周辺の太守に任命するよう上表し、兄弟で地盤を固めた。
中原の戦乱を逃れて交州に疎開する士人も多く、都から遠く離れた地にあり、士燮一族は並ぶ者のない権勢を手に入れた。(『士燮伝』)



朱撫  鍾会の反乱に加担しなかった騎士曹属


朱撫(しゅぶ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

264年、蜀を滅亡させた鍾会は成都で反乱し討伐された。
その時、相国左司馬の夏侯和(かこうか)と騎士曹属の朱撫は相国(司馬昭)の使者として成都に滞在していた。鍾会は夏侯和・朱撫や、配下の賈輔(かほ)・羊琇(ようしゅう)に反乱に加担するよう迫ったが、4人は危険を顧みず拒絶した。
賈輔は王起(おうき)に「鍾会は凶暴で将兵をことごとく殺そうとしているが、司馬昭が30万の兵を率い既に討伐に向かっている」と誇張して話し、人々を奮い立たせようとした。王起から将兵にこの言葉が伝わったため士気が上がり鍾会は速やかに討伐された。
曹奐は詔勅を下して称え、夏侯和・賈輔を郷侯に、朱撫・羊琇を関内侯に封じた。王起も部曲の将に昇進した。(『陳留王紀』)



朱褒  猿になるよ


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朱游  常播の弁護で死刑を免れる


朱游(しゅゆう)字は不明
益州蜀郡広都県の人(??~??)

蜀の臣。

江原県長を務めた。
237年、横領の罪を誣告された際に、主簿功曹の常播(じょうは)が弁護してくれた。
常播は数千回も杖打ちされ、3度の裁判を経て2年あまり幽閉された。拷問のたびに「早く処罰しろ。ごたごた訊ねる必要はない」とだけ言った。
主簿の楊玩(ようがん)が常播と同じ証言をし、ようやく事態がはっきりし朱游は死刑を免れた。
常播の身を捨てて主君に尽くし、節義を貫いた態度を誰もが称賛した。(『楊戯伝』)



朱熊  孫魯班に陥れられた朱拠の子A


朱熊(しゅゆう)字は不明
揚州呉郡呉県の人(??~258?)

呉の臣。
朱拠(しゅきょ)の子。
朱損(しゅそん)の兄。

250年、父の朱拠は二宮の変で強情に太子の孫和(そんか)を支持したため、かえって左遷され、孫弘(そんこう)の策謀により自害させられた。
子の朱熊・朱損はそれぞれ兵を預かった。(『朱拠伝』)

251年、姉妹で孫魯育(そんろいく)の娘の朱夫人(しゅふじん)が孫休の妃に選ばれた。

252年に孫権が没し、孫峻(そんしゅん)が実権を握ると、他の皇族は我が身に不安を覚えた。
孫魯育の姉の孫魯班(そんろはん)はかつて、弟の孫覇(そんは)を太子に立てようと画策し、それに反対する孫魯育と敵対した。
孫魯班は夫の一族の娘が孫峻の姉であり、255年に孫儀(そんぎ)が孫峻の暗殺未遂を図ると、孫魯育も陰謀に絡んでいると讒言し、処刑させた。

太平年間(256~258)、孫亮は孫魯育が無実だったと知り、孫魯班を問い詰めると、彼女は朱熊・朱損に罪をかぶせ、処刑させた。
孫峻の後を継ぎ実権を握る孫綝(そんちん)は、妹が朱損の妻だったため激怒し、258年、孫亮を廃位させ孫休を帝位につけた。(『孫休朱夫人伝』)

「孫綝伝」に異聞がある。
朱熊は虎林督、朱損は外部督を務めていた。
孫亮は孫綝の排除を狙い、孫魯育殺害の顛末を調べると、朱熊・朱損が止めなかったからだと責任を問い、丁奉に命じて任地で誅殺させた。
孫綝は参内して処刑をやめさせようとしたが聞き入れられず、さらに孫亮・孫魯班らが暗殺を図ったため、先手を打って宮城を包囲し、孫亮を廃位した。

孫綝は孫休を帝位につけようと招き、その手紙の中で「朱熊・朱損は父の後を継ぎ忠義一筋で、孫魯育の殺害も孫魯班に従っただけなのに、孫亮は詳しく調べず軽々しく二人を処刑した」と述べた。(『孫綝伝』)

永安年間(258~264)、孫休は朱拠らの功績を採り上げ、朱熊の子の朱宣(しゅせん)に爵位を継がせ、公主を妻に与えた。
朱宣は孫晧の代に驃騎将軍まで上った。(『朱拠伝』)

孫綝の手紙を読む限り、朱熊・朱損が母(孫魯育)ではなく孫魯班に従った理由が不明であり、兄弟の母は孫魯育ではないと考えるべきだろうか。



朱霊  曹操に心酔するも憎まれる


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寿良  羅憲に推挙された蜀の旧臣B


寿良(じゅりょう)字は不明
益州蜀郡の人(??~??)

蜀・晋の臣。

「襄陽記」に曰く。
蜀滅亡後の268年、蜀の旧臣の羅憲(らけん)は司馬炎に下問され、任用すべき蜀の旧臣として陳寿や寿良らの名を挙げ、即刻みな登用されいずれも名声を博した。(『霍峻伝』)



州泰  平民出の名将


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周異


未作成



周遺


未作成



周胤


未作成



周奕


未作成



周賀  遼東で交易する


周賀(しゅうが)字は不明
出身地不明(??~232)

呉の臣。

232年、呉は遼東の公孫淵(こうそんえん)のもとへ海路から周賀と裴潜(はいせん)を送って援護させ、さらに人々と交易させた。(『呉主伝』・『公孫淵伝』)

曹叡はそれを阻止したいと考えたが、誰もが無理だと反対した。その中で劉放(りゅうほう)だけが賛成した。(『劉放伝』)
同年10月、田豫(でんよ)が成山で周賀を撃破し、首級を挙げた。(『明帝紀』)



周奐  李傕・郭汜に殺された後漢の重臣B


周奐(しゅうかん)字は文明(ぶんめい)
司隸扶風郡茂陵県の人(??~192)

後漢の臣。

「漢紀」に曰く。
192年、董卓が暗殺されると残党の李傕(りかく)・郭汜(かくし)らは兵を集め長安の都を攻め落とした。
司徒の王允(おういん)、太僕の魯馗(ろき)、大鴻臚の周奐、城門校尉の崔烈(さいれつ)、越騎校尉の王頎(おうき)らが殺された。(『董卓伝』)

魯馗・周奐・王頎は「李傕・郭汜に殺された」以外の事績が無いがなぜか「演義」にも登場する。



周姫  曹均の母


周姫(しゅうき)名は不明
出身地不明(??~??)

曹操の側室。
曹均(そうきん)の母。(『武文世王公伝』)



周逵  陳羣に末路を見抜かれた男B


周逵(しゅうき)字は不明
徐州下邳郡の人(??~??)

曹操の臣。

陳羣(ちんぐん)は登用された王模(おうぼ)・周逵を「道徳を汚す人物だから必ず最後は失敗する」と評価したが、曹操は聞き入れなかった。後に二人とも悪事を犯して処刑され、曹操は陳羣に謝った。(『陳羣伝』)



周巨  周羣の子


周巨(しゅうきょ)字は不明
益州巴西郡閬中の人(??~??)

蜀の臣。
周羣(しゅうぐん)の子。周舒(しゅうじょ)の孫。

父・祖父はともに図讖(予言術)の名手で、自然現象などから未来を予知したびたび的中させた。

父が没すると子の周巨が図讖をよく受け継いだ。(『周羣伝』)

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に「父の周羣が存命の頃」と記されており、明記されていないが、この上奏を書いたのはおそらく周巨だろう。(『先主伝』)



周昕  曹操に1万の丹陽兵を援助


周昕(しゅうきん)字は大明(たいめい)
揚州会稽郡の人(??~196)

後漢の臣。
周昴(しゅうこう)、周㬂(しゅうぐ)の兄。

若い時に都に上り、陳蕃(ちんばん)に師事し広く書物を読んだ。風角(風占い)に通じ災害予知に巧みだった。
太尉の役所に招かれ優秀で、やがて丹陽太守に上った。(『孫静伝』)

190年、曹操は挙兵したが董卓軍に敗れて兵を失い、夏侯惇らとともに揚州へ向かい募兵した。周昕と揚州刺史の陳温(ちんおん)は4千の兵を与えたが、大半が反乱し、1千まで減った。(『武帝紀』)
「孫静伝」には合わせて1万以上もの兵を送り援助した、とある。

袁術が揚州に根城を定めると、残虐な彼を嫌い交わりを絶った。(『孫静伝』)

公孫瓚(こうそんさん)は袁術によしみを通じようと、従弟の公孫越(こうそんえつ)に1千の兵を与えて協力させた。
袁術は孫堅と公孫越に命じて、袁紹配下の周昕を攻撃させたが、公孫越は戦死し、公孫瓚は袁紹を激しく恨んだ。(『後漢書 公孫瓚伝』)

ただしこの逸話は「魏書」には弟の周昴の事績として記されている。(『公孫瓚伝』)

また周昕と周昴は同一人物とする説もある。(『後漢書 公孫瓚伝』)

袁術は孫堅の義弟の呉景(ごけい)を上表し丹陽太守に就かせた。呉景は元の太守の周昕を討伐し、丹陽郡を制圧した。(『孫堅呉夫人伝』)
呉景ははじめ苦戦したが、民衆に「周昕に従う者は処刑する」と布告を出すと、周昕は「私は不徳であるが民衆になんの罪があるだろうか」と言い、兵を解散させ故郷へ帰った。

196年、孫策はさらに会稽郡の制圧に向かったが、太守の王朗(おうろう)は川を盾にしぶとく抗戦した。孫策の叔父の孫静(そんせい)は迂回して要衝を築くよう進言し、奇襲を仕掛けた。
王朗は周昕を差し向けて反撃させたが、周昕は討ち死にし、会稽も制圧された。(『孫静伝』)

「演義」には王朗配下として登場。孫策に槍で突き殺された。
「吉川三国志」では太史慈と戦い生き延びた。



周㬂  周昕・周昴の弟


周㬂(しゅうぐ)字は仁明(じんめい)
揚州会稽郡の人(??~??)

袁紹の臣。
周昕(しゅうきん)、周昴(しゅうこう)の弟。

190年、曹操は挙兵すると周㬂を招いた。周㬂は2千の兵を連れて麾下に加わり、軍師に任じられた。(『孫堅伝』)

丹陽太守の周昕は曹操へ4千(※「孫静伝」では1万以上)の兵を送り援助したとあり、その一環だろう。(『武帝紀』・『孫静伝』)

191年、孫堅は董卓を破り洛陽の都を奪回した。
当時、各地の群雄は勢力を伸ばそうと腐心し、袁紹も(※正式には孫堅が務める)豫州刺史に周㬂を任じて、豫州を奪わせようとした。
孫堅は「みなで義兵を挙げたのは、董卓を討ち漢王朝を救うためだった。ところが優勢になるともう各自がこんなことを始める。俺は誰と力を合わせてゆけばよいのか」と涙した。

周㬂は孫堅と戦い負けてばかりだったが、191~192年に孫堅は劉表(りゅうひょう)と戦い討ち死にした。(『孫堅伝』)

袁紹が九江太守に周昴を任命し袁術と敵対すると、袁術は(孫堅の甥の)孫賁(そんふん)に周昴を攻撃させた。(『孫賁伝』)

周㬂は救援のため九江郡に赴いたが敗走し、郷里に逃げ帰ったところを許貢(きょこう)に殺害された。(『孫堅伝』)

袁術は豫州刺史を孫賁に与えた。(『孫賁伝』)



周羣  蜀の図讖(予言術)の達人


周羣(しゅうぐん)字は仲直(ちゅうちょく)
益州巴西郡閬中の人(??~??)

蜀の臣。

父の周舒(しゅうじょ)は楊厚(ようこう)に図讖(予言術)を学び、周羣も幼い頃から父に薫陶を受け、自然現象などから未来を予知する学問に専念した。
家が豊かだったため、庭に楼を造り、奴僕に一日中、交代で空を見張らせた。少しでも異変があれば昼夜を問わず報告させ、自ら観察したため、彼の予言は多く的中した。

益州牧の劉璋(りゅうしょう)に招かれ、師友従事となった。
202年、越雋郡で男が女に変身した。周羣は「前漢でも同じことがあり、王朝が交替する兆しだ」と予言した。220年、後漢が滅び魏が立った。

207年、彗星が現れた。星座に対応させると荊州にあたることから、「荊州牧の劉表(りゅうひょう)が死に、領土を失う」と予言した。翌年に的中した。

212年、再び彗星が現れると「西方の領主がみな領土を失う」と予言した。涼州の韓遂(かんすい)、枹罕の宋建(そうけん)、主君の劉璋、漢中の張魯(ちょうろ)が3年以内に滅亡した。

214年、劉備が益州を制圧すると儒林校尉に任じられた。
劉備は漢中への侵攻を考え、周羣に諮問すると「土地は手に入りますが、民は手に入りません。一部隊だけを出せば必ず負けます。それを警戒し慎重を期してください」と答えた。
当時、張裕(ちょうゆう)も自然現象をもとにした予言術に優れ、天賦の才では周羣を上回っていた。
張裕は「漢中を攻めれば必ず負けます」と予言した。

劉備は漢中を制圧したが、民は魏へ接収された。一部隊で侵攻した呉蘭(ごらん)・雷銅(らいどう)は全滅し、全て周羣の予言通りになった。これにより茂才に推挙された。
一方で張裕の予言は外れ、かねてから彼の不遜な態度を根に持っていた劉備は、ついに処刑させた。

周羣が没すると、子の周巨(しゅうきょ)が図讖をよく受け継いだ。(『周羣伝』)

没年は不明だが220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に「父の周羣が存命の頃」と記されており、漢中が制圧された219年~220年の間とわかる。
また明記されていないが、この上奏を書いたのはおそらく周巨だろう。(『先主伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「天文に明るく、陰陽の変化を広く指し示した」と評した。(『楊戯伝』)

陳寿は「天文を観て占い、正しい判断を下す、純粋な学者だった」と評した。

「演義」には劉備が益州を制圧すると降伏した臣下の一人として記されるのみである。



周京


未作成



周景


未作成



周護


未作成



周光


未作成



周洪  龐娥を赦免した涼州刺史


周洪(しゅうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

皇甫謐(こうほひつ)の「烈女伝」に曰く。
趙君安(ちょうくんあん)は同県の李寿(りじゅ)に殺され、息子3人は仇討ちを狙ったが、李寿の守りは固く、果たせないうちに疫病により3人とも亡くなった。
李寿は「龐家の男は死に絶えもう心配いらない」と笑い、これを幼い龐淯(ほういく)が聞き、母の龐娥親(ほうがしん)に伝えると、彼女は「どうして私が刃を手にお前を殺さないと思い込むのだ」といきり立ち、名刀を入手し研ぎ澄ました。李寿はそれを聞くと気を引き締め直し馬に乗って刀を帯びた。
近所に住む徐氏の夫人は龐娥親を心配し「李寿は凶悪な男で備えまでしています。あなたが激しい気持ちでも力の強弱では敵いません。返り討ちに遭えば家が断絶してしまいます」と忠告したが「親の仇とは天地日月を共にしません。李寿が死ななければ私はいったいなんのために生きるのでしょう。弟も死に絶えもはや家は断絶したも同然ですがまだ私がいます。あなたは李寿を殺すのは不可能とお考えだが、私は殺せて当然と思っています」と聞く耳持たなかった。家の者も近所の者も龐娥親を嘲笑った。
ついに家を捨てて車で李寿を付け狙い、179年2月上旬、白昼に李寿と出くわした。すぐさま車を降り怒鳴りつけると、仰天した李寿は馬首を返そうとしたが、龐娥親は刀で斬りつけ人馬ともに傷つけた。馬は騒いで李寿を道路脇の溝へ振り落とし、龐娥親は斬りつけたが木に当たって刀が折れた。
そこで李寿の刀を奪おうとし、飛び起きた李寿に身体ごとぶつかり、左手で額を抑え右手で喉を何度も突き、押し倒して刀を奪い首を斬った。
李寿の首級を持って役所へ報告に上がり、言葉も顔色も平素と変わらなかった。県長の尹嘉は心打たれ辞任して赦そうとしたが、龐娥親は「復讐を終えて私は死に、裁判をし刑罰を決めるのはあなたの務めです。どうして生を貪るために法を曲げましょう」と言った。
聞きつけた村人が集まり、誰もが感嘆した。守尉(警察長)は逃亡させようとしたが龐娥親は「法を曲げ死を逃れるのは私の本心ではありません。復讐を果たし1万回殺されようとも満足しています。立派な役所に負担を掛けたくありません」と大声で反対した。守尉は無理やり車に乗せ家へ帰した。
涼州刺史の周洪、酒泉太守の劉班(りゅうはん)も揃って赦免を訴え(許可され)た。
道義心を称え事績を彫った石碑を龐娥の村の門に建て、太常の張奐(ちょうかん)は絹を贈るなど、話を聞いた者は襟を正して感心し評価しない者はなかった。
後の安定太守の梁寛(りょうかん)は伝記を作り、皇甫謐は「本来は男の行う仇討ちを女のか細い身で、父の受けた恥辱の痛ましさを思い、仇の凶悪な言葉に心を奮い立たせ、人馬ともに叩きのめした。亡父の魂を満足させ、3人の弟の恨みをそそいだ。近世にかつてなかったことである。詩経に(仇討ちのことで)うたわれたのはまさに娥親のことである」と評した。

子の龐淯も母譲りの義侠心で主の仇討ちを狙い、危機を救うため命を賭した。(『龐淯伝』)



周昴  周昕の弟


周昴(しゅうこう)字は伯陽(はくよう)
揚州会稽郡の人(??~??)

袁紹の臣。
周昕(しゅうきん)の弟、周㬂(しゅうぐ)の兄。

191年、袁術は孫堅を陽城に駐屯させ、董卓に警戒させていたが、袁紹は周昴に命じて陣地を奪わせた。
袁術は孫堅と公孫越(こうそんえつ)に奪回させようとしたが、公孫越は流れ矢に当たって戦死した。従兄の公孫瓚(こうそんさん)は袁紹を恨み、報復のため進撃した。(『公孫瓚伝』)

「後漢書」には孫堅と戦ったのは周昴ではなく周昕と記される。(『後漢書 公孫瓚伝』)

公孫瓚は後に「孫堅は董卓を破り(洛陽の)御陵や聖廟を掃き清め、その功績は計り知れないが、袁紹は周昴に命じて孫堅から豫州刺史の座を奪い、さらに糧道を断って董卓と戦えなくした」とその罪を数え上げた。(『公孫瓚伝』)

「呉録」には豫州刺史に任じられたのは周㬂とある。(『孫堅伝』)

また周昕と周昴は同一人物とする説もある。(『後漢書 公孫瓚伝』)

191~192年に孫堅が戦死すると、甥の孫賁(そんふん)は軍勢を引き継ぎ故郷に棺を届け、以降は袁術の傘下に入った。
袁紹が九江太守に周昴を任命し袁術と敵対すると、孫賁は周昴を打ち破った。袁術は(かつて孫堅が務めた)豫州刺史を孫賁に与えた。(『孫賁伝』)

弟の周㬂は救援のため九江郡に赴いたが敗走し、郷里に逃げ帰ったところを許貢(きょこう)に殺害された。(『孫堅伝』)



周興  呉征伐で捕らえられた武威将軍


周興(しゅうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

280年、晋の大軍が呉へ侵攻した。王渾(おうこん)は参軍の陳慎(ちんしん)と都尉の張喬(ちょうきょう)に尋陽郡瀬郷を攻めさせ、さらに呉の牙門将の孔忠(こうちゅう)を撃破し、武威将軍の周興ら五将を捕虜にした。(『晋書 王渾伝』・『晋書 武帝紀』)

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