崔林 大器晩成の崔琰の従弟
崔林(さいりん)字は徳儒(とくじゅ)
冀州清河郡東武城の人(??~244)
魏の臣。
無名で一族からすら軽視されていたが、従兄の崔琰(さいえん)だけは「大器晩成で、最後には大いに出世する」と彼を評価していた。(『崔琰伝』)
曹操は冀州を制圧すると鄔県長に任じたが、貧乏で車馬も従者も無かったため徒歩で赴任した。
壺関に遠征した際、曹操は付近の県令・県長の中で最も仁徳ある政治をする者は誰か問い、并州刺史の張陟(ちょうちょく)は崔林と答えたため、抜擢され冀州主簿となり、別駕・丞相掾属と昇進していった。
魏の建国後には御史中丞に上った。
220年、曹丕が帝位につくと尚書となり、幽州刺史に赴任した。
河北の軍権は呉質(ごしつ)が握っていたが、崔林はご機嫌伺いをしなかったため、王雄(おうゆう)は心配し、挨拶に出向くよう助言した。
しかし崔林は「私は刺史を辞めさせられることを、履物を脱ぎ捨てる程度にしか思っていない。異民族への対処が気掛かりだから留まっているのだ」と意に介さなかった。
任期の間、異民族の侵略を防いだが、呉質に恨まれ河間太守に左遷され、清潔な人々に惜しまれた。
一方で「魏名臣奏」には「尚書令の桓階(かんかい)は、崔林が尚書の才を持たないと判断し河間太守にした」と記されている。
やがて都に戻って大鴻臚となった。
当時、異民族が子や使者を来朝させ手厚い褒賞を得ていたが、崔林はその中に偽者が混ざり、国庫の浪費になり、異民族の嘲笑の種にもなっていることを懸念した。
そこで他国に布告を出して説明するとともに、外交の際の規則を前代を元に制定した。(『崔林伝』)
鴻臚の役所は少府の役所の向かいにあり、少府を務める常林(じょうりん)が夜に小役人を鞭打ちし、悲鳴が明け方まで続き、闊達な崔林は困っていた。
道で常林と行き会い「あなたは廷尉になったそうですね」と聞いた。常林が首を振ると「廷尉でもないのにどうして囚人を拷問しているのですか?」とからかった。
常林は恥じ入ったが、自分を抑えられず苛烈な性格は変わらなかった。(『常林伝』)
226年、曹叡が即位すると関内侯に封じられ、光禄勲・司隷校尉に転じた。任地では違法行為を辞めさせ、過剰な官吏を廃すなど誠実さを貫き、本質を大まかにつかんだため、転任するたびに思慕された。
劉劭(りゅうしょう)が「考課論」を著し、官吏の人事評定について論じると、官僚たちは研究を命じられた。崔林は故事を引きながらも「太祖(曹操)は必要に応じて法を設け、古代を手本とはしなかった」と現在の制度を支持した。
また時期は不明だが王経(おうけい)を平民から抜擢し称賛された。(『崔林伝』)
234年、先の献帝が没すると使持節行大司空大司農の崔林が葬儀を監督した。
237年、司徒の陳矯(ちんきょう)が亡くなり(『明帝紀』)、曹叡は後任を盧毓(ろいく)に尋ねた。
盧毓は無官の管寧(かんねい)を勧めたが曹叡は却下し、次に挙げられた韓曁(かんき)、崔林、常林の中から韓曁を選んだ。
なお盧毓は「清明で方正」と崔林を評した。(『盧毓伝』)
同年、韓曁が没し(『韓曁伝』)司徒・司空が空席になると孟康(もうこう)の推挙により、ついに司空に上り、安陽亭侯、後に安陽郷侯に封じられ領邑600戸を与えられた。(『崔林伝』)
当時の官位は司隷校尉と記される。(『明帝紀』)
三公にある者が列侯されたのは崔林が初めてだという。
魯の大臣(不詳)が孔子を神として祀るよう上奏し、曹叡は議論させた。
傅祗(ふし)は賛成したが、崔林は「他の聖人を祀らず孔子だけを国を上げて祀るのはおかしい。孔子はすでに礼も義も別格の扱いを受けており、子孫が祀っていれば充分だ」と反対した。
(※裴松之は「ヨモギのような卑小な心で明白な道義を抑えつけた身の程知らず」と崔林を激しく非難している)
功績を採り上げられ、領邑を分割し一子が列侯された。
244年に没し子の崔述(さいじゅつ)が後を継いだ。(『崔林伝』)
陳寿は「簡潔・素朴にして能力者を見分けた」と讃え、ともに列伝した韓曁・高柔(こうじゅう)・孫礼(そんれい)・王観(おうかん)とともに「みなよく宰相の位に上った」と評した。
「演義」には登場しない。
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