三国志 さ


左奕


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左延年  高名だが俗な音楽家


左延年(さえんねん)字が延年か
出身地不明(??~??)

魏の臣。音楽家。

左延年らも音楽家として優秀だったが、鄭声(俗な音楽)であり、古を好み正しい音楽の復興に尽力した点では、杜夔(とき)の右に出る者はなかった。(『杜夔伝』)

杜夔は古い雅楽の鹿鳴・騶虞・伐檀・文王の4曲を昔のままの旋律と歌詞で伝えたが、左延年はそのうち騶虞・伐檀・文王に自ら新しい旋律を付け、名前は元のままで別物にした。
鹿鳴だけは手付かずで残り、晋代にも元旦の朝会で奏でられている。(『晋書 楽志』)



左校  黄巾の乱に呼応した賊徒たち


左校(さこう)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

「九州春秋」に曰く。
184年の黄巾の乱に呼応し黒山賊、白波賊、黄龍(こうりゅう)、左校、張牛角(ちょうぎゅうかく)、于氐根(うていこん)、劉石(りゅうせき)、平漢(へいかん)、張燕(ちょうえん)、于毒(うどく)ら賊徒が各地で挙兵した。多い者で2~3万、少ない者でも数千の兵を率いていた。
霊帝は討伐できなかったためその中の楊鳳(ようほう)を黒山校尉に任じて人事権を与え取り締まらせたが、勢力は拡大し数え切れないほどになった。

「漢紀」に曰く。
左校、郭大賢(かくたいけん)、左髭丈八(さしじょうはち)ら3人が他に大きな徒党を率いていた。(『張燕伝』)

「英雄記」に曰く。
193年(『後漢書 袁紹伝』)、袁紹は公孫瓚(こうそんさん)を破り祝勝会を開いていたが、魏郡で反乱が起き、黒山賊の于毒らによって太守の栗成(りつせい)が殺され鄴が陥落したという急報が届き、鄴に家族がいる人々は動揺したが、袁紹は泰然自若としていた。
賊の陶升(とうしょう)はもともと魏郡内黄県の下役人を務めていた善良な人物で、城壁を乗り越えて役所に入り込み、袁紹らの家族や官吏を保護して逃走した。袁紹は陶升と合流し、于毒を討ち取った。
さらに左髭丈八も殺し、劉石・張牛角・黄龍・左校・郭大賢・李大目(りたいもく)・于氐根らの砦を破壊し、頭目の彼らは逃走したが数万の首級を上げた。(『袁紹伝』)

陶升は平漢将軍を自称しており(『後漢書 袁紹伝』)、「ちくま版」は平漢と陶升を同一人物としている。



左思


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左慈  魏王を翻弄した仙人


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左髭丈八  長髭


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左駿伯  剛勇の使者たち


左駿伯(さしゅんはく)字が駿伯か
出身地不明(??~??)

魏の臣。

233年頃、傅容(ふよう)は聶夔(じょうき)とともに公孫淵(こうそんえん)へ楽浪公の位を授ける使者を務めた。
公孫淵は都から帰ってきた配下に「魏の使者は(以前に来た?)左駿伯をはじめ剛勇の者ばかりです」と吹き込まれ、疑心暗鬼となった。
暗殺を警戒し、また威信を示すため使者を学校へ滞在させると、兵に包囲させた後に面会し、彼らを怯えさせた。
帰国した傅容らはありのままに報告したと記され、魏は公孫淵に叛意ありと警戒を強めたと思われる。(『公孫度伝』)



左昌  絵に描いたような無能刺史


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左丞祖  孔融に殺された有能な配下


左丞祖(さじょうそ)字が丞祖か
出身地不明(??~??)

孔融(こうゆう)の臣。

孔融が北海国相を務めた当時、袁紹・曹操が頭角を現したが孔融はどちらにも与しなかった。左丞祖はいずれかと手を結ぶよう勧めたが、袁紹・曹操は朝廷を滅ぼす者だと怒り、孔融は殺してしまった。(『後漢書 孔融伝』)

「九州春秋」に曰く。
青州刺史の孔融は兵も米もろくに集めず、王子法(おうしほう)・劉孔慈(りゅうこうじ)ら机上の空論をするだけの無能を信任し、左丞祖・劉義遜(りゅうぎそん)ら有能な人物を飼い殺しにした。左丞祖を殺すと劉義遜に見捨てられた。
袁譚(えんたん)に連敗しても悠然と過ごし、城が落ちると家族を残し身一つで逃亡した。(『孔融伝』)



左𩥄  曹丕お気に入りの音楽家


左𩥄(さてん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。音楽家。
𩥄の右の字は「眞」だが見つからなかった。

曹丕はかつて音楽家の杜夔(とき)に命じて左𩥄とともに笙と琴を演奏させようとしたが、不服そうな顔をされ、不快に思っていた。
後に理由をつけて杜夔を投獄すると、左𩥄らに音楽を習わせるよう迫った。だが杜夔は「自分が習得しているのは由緒正しい音楽であり、左𩥄のような俗物に教えることはできないし、彼らも楽官である以上は基礎はあるはずだ」と不満をあらわにした。
杜夔は罷免され、無官のまま没した。(『杜夔伝』)



左伯  製紙の歴史に名を残す


左伯(さはく)字は子邑(しゆう)
青州東莱郡の人(??~??)

書家。

「四体書勢」に曰く、後漢末の書家の左子邑も、名声こそ梁鵠(りょうこく)・邯鄲淳(かんたんじゅん)に少し及ばないが、やはり有名だった。(『晋書 衛瓘伝』)

左伯は後漢初期に製紙技術を向上させた蔡倫(さいりん)の技法を改良した人物としても知られる。

 


左芬  左思に次ぐ名文家の妹


左芬(さふん)字は不明
青州斉国臨淄県の人(??~??)

左思(さし)の妹。
「晋書 武悼楊皇后伝」に附伝される。

泰始年間(265~275)、司馬炎は後宮を良家の子女で満たそうとし、全ての婚姻を止めて宦官に全国を巡回させて美女を探し、皇后の楊艶(ようえん)に候補を選ばせた。しかし楊艶は嫉妬深く、品行の正しい年長の者ばかり選び、美女は外した。
結局、左芬ら高官の子女たちで后妃の高い位は占められ、低い位も全て2千石(刺史・太守クラス)の家柄で埋まった。良家の子女の多くはわざと衣服を破いたり、食事を摂らずやつれて選抜を回避した。(『晋書 武元楊皇后伝』)

兄の左思は「洛陽の紙価を高める」の故事で知られる西晋きっての文学者で、左芬も若くして学問を好み名文家として名声は兄に次いだ。司馬炎はそれを聞き後宮に迎えた。

272年、修儀の位に上った。
詔勅により「離思賦」を作り、現代にも残る名文と称えられた。
貴嬪に上ったが兄と同じく容姿には優れず、司馬炎の寵愛は受けなかったが才徳により礼遇された。痩せぎすで病気がちで、常に染色の仕事部屋におり、司馬炎の外遊にも誘われなかった。しかし文章のことを問われれば受け答えは秀麗で誰もが聞き入り、称賛せぬ者はなかった。

274年、皇后の楊艶が没すると誄(追悼文)を献じた。
276年、楊芷(ようし)が皇后に立てられると司馬炎の命で頌を作った。
娘の万年公主(ばんねんこうしゅ)が没すると司馬炎はいたく悲しみ、左芬に誄を作らせた。
珍しい物が手に入ると必ず賦頌を作らせ、恩賜を与えた。
左思との間に交わした答詩や賦頌が数十篇あり広く世に伝わった。(『晋書 左貴嬪伝』)



左霊  賈詡と相乗り


左霊(されい)字は不明
出身地不明(??~??)

董卓の臣?

「献帝起居注」に曰く。
都を制圧した郭汜(かくし)は献帝を陣営に迎え入れようとしたが、それを李傕(りかく)に密告する者がいた。
李傕は先手を打ち、甥の李暹(りせん)に数千の兵を率いさせて宮殿を包囲し、強引に献帝や伏皇后(ふくこうごう)らを車に乗せた。三台の車を用意し一台に献帝、もう一台に伏皇后、最後の一台には賈詡と左霊が乗り、他の人々は徒歩で随行した。(『董卓伝』)

事績はこれだけで、李傕配下の賈詡と相乗りしているためおそらく同僚と思われる。

「演義」では明確に李傕配下とされ、やはり事績はこれしかない。
それなのにSLG「三國志Ⅲ」に登場し、Ⅳ以降は消えたがなぜか13から復活した。



沙摩柯  古代中国のヨガ使い


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沙末汗  闕機の子


沙末汗(さまつかん)
鮮卑の人(??~??)

鮮卑の大人(指導者)。
闕機(けつき)の子。

鮮卑の王の檀石槐(だんせきかい)は支配地を中東西の3部に分け、東部は弥加(びか)・闕機・素利(そり)・槐頭(かいとう)ら大人が支配した。
彼らの支配域は長城の外で遠く離れていたため国境を荒らすことは全く無かったが、軻比能(かひのう)よりも配下は多かった。
建安年間(196~220)、閻柔(えんじゅう)を通じて中原に交易を求め、曹操は王位を与えるなど厚遇した。
闕機が没すると子の沙末汗が立てられ親漢王に封じられた。(『鮮卑伝』)



琑奴  軻比能配下の小部隊長


琑奴(さど)
鮮卑の人(??~??)

鮮卑の大人(指導者)の軻比能(かひのう)の臣。

224年、軻比能は同じ大人の素利(そり)を攻め、魏からは田豫(でんよ)が救援に出た。
背後に回った田豫を小部隊長の琑奴に防がせたが敗走し、素利に肩入れする魏から軻比能の信頼は離れた。
軻比能は鮮于輔(せんうほ)に手紙を送り「琑奴を向かわせたが昵懇の閻柔(えんじゅう)がいると聞き撤退した」などと主張し調停を頼んだ。(『鮮卑伝』)



柴貴人  文徳郭皇后が助けた曹丕のお気に入り


柴貴人(さいきじん)名は不明
出身地不明(??~??)

曹丕の側室。

「王沈魏書」に曰く。
文徳郭皇后(ぶんとくかくこうごう)は慎み深い性格で、同時に曹丕の寵愛を得ていた柴貴人にもわけへだてなく教え導いた。
過失を犯した貴人(側室)がいるとそれを隠し、譴責されると曹丕に弁護してやり、怒りが収まらないと頓首してまで許しを請うたため、後宮の者に恨まれることがなかった。(『文徳郭皇后伝』)



柴玉  いいかげんな鋳鐘工


柴玉(さいぎょく)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢・魏の臣。

魏の音楽家の杜夔(とき)は、後漢の朝廷で鐘を作っていた鋳鐘工の柴玉に銅鐘を作らせたが、出来栄えが悪く何度も作り直させた。
柴玉はそれを不服に思い、杜夔の音感がおかしいのだと訴えた。
そこで曹操は鐘をシャッフルさせて音感テストを行い、杜夔が正しいと裁定した。柴玉と子らは役目を解かれ、養馬士(馬飼い?)に左遷された。(『杜夔伝』)



崔瑋


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崔琰  曹操を悪役にした男


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崔巨業  袁紹に都合良く星占いをする


崔巨業(さいきょぎょう)字が巨業か
出身地不明(??~??)

袁紹の臣。

「魏略」に曰く。
公孫瓚(こうそんさん)は袁紹を非難する上表の中で「崔巨業に天文を占わせ、賄賂や酒食を与え自分に都合の良い予言をさせ、それをもとに略奪を働いている」と述べた。(『公孫瓚伝』)

界橋の戦いで袁紹は勝利し、崔巨業に数万の兵で包囲させたが落とせず撤退した。公孫瓚は追撃を掛け、7~8千の首級を挙げ、勢いに乗り平原郡まで侵攻した。(『後漢書 公孫瓚伝』)



崔均


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崔鈞


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崔洪  鋭いトゲと鷹にたとえられる


崔洪(さいこう)字は良伯(りょうはく)
冀州博陵郡安平県の人(??~??)

晋の臣。
崔賛(さいさん)の子。

「魏略」に父は冀州涿郡の人と記される。
「冀州記」に曰く、清廉で慎み深く、我が身を顧みない忠義な志を持っていた。(『夏侯尚伝』)

高祖父の崔寔(さいしょく)は漢代に著名で、父の崔賛も魏の吏部尚書・尚書左僕射まで上り、その広大な度量により称えられた。
崔洪も若い頃から清廉で気骨があることから名声を上げ、剛直で付和雷同せず、人に過ちがあれば面と向かって非難するが、その後はくどくど掘り起こしたりしなかった。

司馬炎の代に治書侍御史となった。
馮恢(ふうかい)は父(※名は不明)が馮恢の弟の馮淑(ふうしゅく)に爵位を譲りたいと考えていたため、父が没すると病と称して隠居した。無事に馮淑が後を継ぐと馮恢は復帰し、博士祭酒となった。
翟嬰(てきえい)が馮恢を「品行に優れ俗事を超越した古の烈士のような人物」だと推挙すると、崔洪は「馮恢は博士祭酒にふさわしい学問が無く、学生を交替で当直させて(カンニングし)それをごまかしている。弟に爵位を譲ったという微細な善行はあるが、比類なき優れた人物ではない。翟嬰の目は節穴だ」と上奏し、翟嬰は罷免された。
朝廷は崔洪を恐れはばかるようになり、尚書左丞に上ると人々に「生い茂ったトゲ(のような鋭い男)が博陵郡からやって来た。南で灰鷹、北で鷹となる(目を光らせる)」とうたわれた。

(父と同じく)吏部尚書に上り、明察な手腕を称えられ、私的な頼みをする客もいなかった。
雍州刺史の郤詵(げきしん)を推薦し、自分の後任の尚書左丞としたが(※「郤詵伝」によると逆)後に郤詵は崔洪を糾弾した。
崔洪が「推挙してやったのにまるで自分を弩で撃ったようだ」とぼやくと、郤詵は故事を引き「才能を認められて推挙され、お互い職務に励み公正さを明らかにしようとしているだけなのに、なぜ私事にかまけるのですか」と言った。崔洪は反省し、より郤詵を重んじた。
財貨に興味がなく、珠玉は手に取ろうとさえしなかった。司馬亮(しばりょう)の宴会に招かれ、瑠璃の杯を出された時も手にせず、理由を問われると故事を引いてごまかしたが、主義を守るための詭弁だった。(『晋書 崔洪伝』)

太康年間(280~289)、崔洪らは牽秀(けんしゅう)を推挙した。(『牽招伝』)

291年、楊駿(ようしゅん)が誅殺されると王佑(おうゆう)と親しかったため罷免されたが、後に復帰し大司農となり、在官中に没した。
子の崔廓(さいかく)も散騎侍郎に上り、父と同じく正直だった。(『晋書 崔洪伝』)



崔賛  崔洪の父


崔賛(さいさん)字は不明
冀州涿郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く、若い頃、同郡の許允(きょいん)とともに名声を上げた。(『夏侯尚伝』)

司馬師が実権を握ると、王基(おうき)は政治の心得を説き、崔賛・許允らを推挙した。(『王基伝』)

254年、許允は夏侯玄(かこうげん)らの反乱に加担したとされ命を落とした。崔賛はかつて彼へ人生においてあまりにも隆盛になるのは良くないと忠告したことがあったという。(『夏侯尚伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に尚書として連名した。(『斉王紀』)

256年、曹髦に宴会に招かれ礼法制度や古代の帝王の優劣について議論した。崔賛は鍾毓(しょういく)・虞松(ぐしょう)とともに少康は高祖に劣ると意見した。(『高貴郷公紀』)

官位は吏部尚書・尚書左僕射まで上り、その広大な度量により称えられた。
子の崔洪(さいこう)は晋の吏部尚書・大司農に上った。(『晋書 崔洪伝』)



崔州平  諸葛亮を認め、諫めた友人


崔州平(さいしゅうへい)字が州平か
冀州博陵郡の人(??~??)

隠者?
後漢の太尉の崔烈(さいれつ)の子。崔鈞(さいきん)の弟。

若い頃の諸葛亮は自身を管仲・楽毅(※春秋戦国時代の名宰相・名将)になぞらえていた。誰も認めなかったが、徐庶(じょしょ)と崔州平だけはその通りだと認めていた。(『諸葛亮伝』)

諸葛亮はかつての友人・同僚を振り返り「初めは崔州平が欠点を指摘してくれた」と述べた。(『董和伝』)

「吉川三国志」では三顧の礼の下りに登場し、劉備と会った。治乱の道を説き、招聘されたが一介の儒者に過ぎないとして断った。
招いておいて劉備は「天下万民を救う言葉はなかった。少数の中だけでもてあそぶ真理なら、どんな理想でも唱えていられよう」とディスった。

「横山三国志」では劉備は招聘すらしなかった。




崔述  崔林の子


崔述(さいじゅつ)字は不明
冀州清河郡東武城の人(??~??)

魏の臣。
崔林(さいりん)の子。

244年、父が没すると後を継いだ。

弟の崔随(さいずい)は晋の尚書僕射に上ったが、司馬倫(しばりん)の帝位簒奪に関与し、司馬倫の死後に官位を剥奪された。(『崔林伝』)



崔寔


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崔随


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崔諒  浅知恵で身を滅ぼす


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崔林  大器晩成の崔琰の従弟


崔林(さいりん)字は徳儒(とくじゅ)
冀州清河郡東武城の人(??~244)

魏の臣。

無名で一族からすら軽視されていたが、従兄の崔琰(さいえん)だけは「大器晩成で、最後には大いに出世する」と彼を評価していた。(『崔琰伝』)
曹操は冀州を制圧すると鄔県長に任じたが、貧乏で車馬も従者も無かったため徒歩で赴任した。
壺関に遠征した際、曹操は付近の県令・県長の中で最も仁徳ある政治をする者は誰か問い、并州刺史の張陟(ちょうちょく)は崔林と答えたため、抜擢され冀州主簿となり、別駕・丞相掾属と昇進していった。
魏の建国後には御史中丞に上った。

220年、曹丕が帝位につくと尚書となり、幽州刺史に赴任した。
河北の軍権は呉質(ごしつ)が握っていたが、崔林はご機嫌伺いをしなかったため、王雄(おうゆう)は心配し、挨拶に出向くよう助言した。
しかし崔林は「私は刺史を辞めさせられることを、履物を脱ぎ捨てる程度にしか思っていない。異民族への対処が気掛かりだから留まっているのだ」と意に介さなかった。
任期の間、異民族の侵略を防いだが、呉質に恨まれ河間太守に左遷され、清潔な人々に惜しまれた。

一方で「魏名臣奏」には「尚書令の桓階(かんかい)は、崔林が尚書の才を持たないと判断し河間太守にした」と記されている。

やがて都に戻って大鴻臚となった。
当時、異民族が子や使者を来朝させ手厚い褒賞を得ていたが、崔林はその中に偽者が混ざり、国庫の浪費になり、異民族の嘲笑の種にもなっていることを懸念した。
そこで他国に布告を出して説明するとともに、外交の際の規則を前代を元に制定した。(『崔林伝』)

鴻臚の役所は少府の役所の向かいにあり、少府を務める常林(じょうりん)が夜に小役人を鞭打ちし、悲鳴が明け方まで続き、闊達な崔林は困っていた。
道で常林と行き会い「あなたは廷尉になったそうですね」と聞いた。常林が首を振ると「廷尉でもないのにどうして囚人を拷問しているのですか?」とからかった。
常林は恥じ入ったが、自分を抑えられず苛烈な性格は変わらなかった。(『常林伝』)

226年、曹叡が即位すると関内侯に封じられ、光禄勲・司隷校尉に転じた。任地では違法行為を辞めさせ、過剰な官吏を廃すなど誠実さを貫き、本質を大まかにつかんだため、転任するたびに思慕された。
劉劭(りゅうしょう)が「考課論」を著し、官吏の人事評定について論じると、官僚たちは研究を命じられた。崔林は故事を引きながらも「太祖(曹操)は必要に応じて法を設け、古代を手本とはしなかった」と現在の制度を支持した。

また時期は不明だが王経(おうけい)を平民から抜擢し称賛された。(『崔林伝』)

234年、先の献帝が没すると使持節行大司空大司農の崔林が葬儀を監督した。

237年、司徒の陳矯(ちんきょう)が亡くなり(『明帝紀』)、曹叡は後任を盧毓(ろいく)に尋ねた。
盧毓は無官の管寧(かんねい)を勧めたが曹叡は却下し、次に挙げられた韓曁(かんき)、崔林、常林の中から韓曁を選んだ。
なお盧毓は「清明で方正」と崔林を評した。(『盧毓伝』)

同年、韓曁が没し(『韓曁伝』)司徒・司空が空席になると孟康(もうこう)の推挙により、ついに司空に上り、安陽亭侯、後に安陽郷侯に封じられ領邑600戸を与えられた。(『崔林伝』)
当時の官位は司隷校尉と記される。(『明帝紀』)
三公にある者が列侯されたのは崔林が初めてだという。

魯の大臣(不詳)が孔子を神として祀るよう上奏し、曹叡は議論させた。
傅祗(ふし)は賛成したが、崔林は「他の聖人を祀らず孔子だけを国を上げて祀るのはおかしい。孔子はすでに礼も義も別格の扱いを受けており、子孫が祀っていれば充分だ」と反対した。
(※裴松之は「ヨモギのような卑小な心で明白な道義を抑えつけた身の程知らず」と崔林を激しく非難している)

功績を採り上げられ、領邑を分割し一子が列侯された。
244年に没し子の崔述(さいじゅつ)が後を継いだ。(『崔林伝』)

陳寿は「簡潔・素朴にして能力者を見分けた」と讃え、ともに列伝した韓曁・高柔(こうじゅう)・孫礼(そんれい)・王観(おうかん)とともに「みなよく宰相の位に上った」と評した。

「演義」には登場しない。



崔烈


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蔡遺


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蔡穎


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蔡款  張承に見出される


蔡款(さいかん)字は文徳(ぶんとく)
徐州彭城国の人(??~??)

呉の臣。

年若く不遇をかこっていたが張承(ちょうしょう)に見出され抜擢された。
清廉にして節操あると評され、やがて衛尉に上り中書令の職務に当たった。
ついには留侯に封ぜられ、2人の子の蔡条(さいじょう)、蔡機(さいき)も呉の末期に高位に上った。(『張承伝』)



蔡機  蔡款の子ら


蔡機(さいき)字は不明
徐州彭城国の人(??~??)

呉の臣。
蔡款(さいかん)の子。

孫皓の代に兄弟の蔡条(さいじょう)は尚書令・太子少傅、蔡機は臨川太守に上った。(『張承伝』)



蔡元才  管輅の占術―龍と犬の皮肉


蔡元才(さいげんさい)字が元才か
出身地不明(??~??)

素性不明。

「管輅別伝」に曰く。
諸葛原(しょかつげん)は学問あり、占いも好みしばしば管輅(かんろ)と射覆(当て物)の勝負をしたが勝てなかった。
新興太守に赴任する送別会の時、論者を集めて管輅と議論させた。人々は管輅が占いに長けたことは承知していたが学問あることは知らず、意図を察した管輅はわざと隙を見せて論戦を挑ませた。やがて全員が心から屈服した。
翌日、彼らは管輅と固い交わりを結び、その中には天下に知られた英俊が8~9人いた。蔡元才はその中で最も高雅な資質ある人物で「あなたのことを犬だと思っていたが龍になられた」と称え、管輅は「犬の耳には龍の声は聴こえません」と返した。
諸葛原は「遠方に赴任し二度と会えないだろう。最後に射覆をしよう」と言い、全て的中されると大いに笑い、なぜそう占ったか説明を求めた。見事な論理に人々は感心し、射覆よりその議論の方が楽しかったと語った。(『管輅伝』)



蔡貢


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蔡氏  劉琦を陥れた継母


蔡氏(さいし)名は不明
荊州襄陽郡の人(??~??)

劉表(りゅうひょう)の後妻。
蔡瑁(さいぼう)の姉。(『後漢書 劉表伝』)

200年、曹操と袁紹が官渡で対峙すると、劉表はどちらにも与せず中立を決め込んだ。
韓嵩(かんすう)はそれを責め、曹操の勝利を予見し、早くよしみを通じるべきだと進言した。
韓嵩が曹操のもとへ赴き情報収集するよう命じられたが、彼は出立前に(返礼で)後漢から官位を与えられれば、劉表ではなく後漢(とそれを推戴する曹操)に仕えるが、それを裏切りと捉えないよう念押しした。
帰国した韓嵩は朝廷と曹操を讃え、人質を送るよう進言したため、劉表は「よくも裏切ったな」と激怒し彼を殺そうとした。
韓嵩は全く動じず「裏切ったのはあなたです」と言い、出立前の約束を繰り返した。
劉表の怒りは収まらなかったが、妻の蔡氏が「韓嵩は名声高く、彼の言葉も正しい」と擁護したため、処刑せず拘禁に留められた。(『劉表伝』)

劉表は蔡氏の姪をめとり、次男の劉琮(りゅうそう)をもうけた。蔡氏は劉琮を溺愛し、彼を劉表の後継ぎにしようと目論んだ。
劉表ははじめ前妻との間に生まれた長男の劉琦(りゅうき)をかわいがったが、寵愛する蔡氏に劉琦を讒言されるとたやすくそれを信じた。
重臣の蔡瑁や、蔡氏の甥の張允(ちょういん)も劉琮を後押ししたため、ついに後継者に据えた。(『後漢書 劉表伝』)

また蔡氏には妹もおり、劉表は桓階(かんかい)へ嫁がせようとしたが断られた。(『桓階伝』)

「演義」では蔡夫人の名で登場。劉琮の実母に設定される。出番は多く、弟と共謀して劉琮を後継ぎにさせたが、曹操に降伏後、劉琮とともに暗殺された。
「吉川三国志」では蔡瑁の妹。「演義」で初登場時に妹と誤記されており、それを踏襲したのだろうか。



蔡氏  劉表の妻の妹


蔡氏(さいし)名は不明
荊州襄陽郡の人(??~??)

劉表(りゅうひょう)の後妻の蔡氏(さいし)の妹。
蔡瑁(さいぼう)の姉妹。(『後漢書 劉表伝』)

劉表は桓階(かんかい)を召し出すため、妻の妹の蔡氏を嫁がせようとしたが「すでに結婚しています」と断られた。桓階はこれを機に病を理由に官を辞した。(『桓階伝』)



蔡条  蔡款の子ら


蔡条(さいじょう)字は不明
徐州彭城国の人(??~??)

呉の臣。
蔡款(さいかん)の子。

孫皓の代に蔡条は尚書令・太子少傅、兄弟の蔡機(さいき)は臨川太守に上った。(『張承伝』)



蔡文姫  博覧強記


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蔡文至


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蔡方  利城郡で反乱した兵士


蔡方(さいほう)字は不明
徐州利城郡の人(??~225?)

魏の臣。

利成郡(利城郡)の兵士だったが225年、郡を上げて反乱し太守の徐質(じょしつ)を殺した。
青州刺史の王凌(おうりょう)と、派遣された校尉の任福(じんふく)・段昭(だんしょう)が討伐した。反乱軍のうち脅迫され従わされた者や、亡命した者は罪を許された。(『文帝紀』)

唐咨(とうし)はこの際に反乱軍の指導者として担ぎ上げられた。(※殺害した太守の名は徐箕(じょき)と記される)
敗れた唐咨は呉へ亡命した。(『諸葛誕伝』)

また徐州刺史の呂虔(りょけん)がこの頃に利城郡の反乱を鎮圧したとあり、この件と思われる。(『呂虔伝』)



蔡瑁  意外な人脈


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蔡邕  幻の三国志著者


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蔡陽  関羽千里行の実在メンバー


蔡陽(さいよう)字は不明
出身地不明(??~201)

曹操の臣。

201年、袁紹が派遣した劉備は、汝南郡の賊徒の龔都(きょうと)とともに曹操の後方を脅かした。
曹操は蔡陽に攻撃させたが敗走した。(『武帝紀』)

蔡陽は劉備により討ち取られた。(『先主伝』)

「演義」では曹操のもとから劉備のもとへ関羽が帰ろうとした時、演義オリジナルキャラで甥に設定される秦琪(しんき)を殺された。
汝南郡の救援を命じられ、それを好機と関羽を襲い返り討ちにされた。

いわゆる関羽千里行で関羽に斬られる登場人物はほとんどがオリキャラだが、蔡陽が実在することには驚かされる。



蔡林


未作成



索靖


未作成



笮咨  謝宏に人質に取られた高句麗の主簿A


笮咨(さくし)
高句麗の人(??~??)

高句麗の臣。

「呉書」に曰く。
234年、呉は謝宏(しゃこう)と中書の陳恂(ちんじゅん)を使者として句麗王の位宮(いきゅう)に単于(王)の称号や宝物を下賜しようとした。
だが先行した陳奉(ちんほう)は先に魏の使者が訪れ、位宮に呉の使者を始末するよう命令していたことを聞きつけた。
位宮が送った主簿の笮咨・帯固(たいこ)ら30人を謝宏は捕縛して人質に取り、位宮は魏への鞍替えをやめ、謝罪し数百匹の馬を贈った。
謝宏は笮咨・帯固を解放して予定通りに詔勅と下賜品を与え、船が大きくなかったため馬80匹だけを積み帰還した。(『呉主伝』)



笮融  凶悪なる野心家


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山簡


未作成



山子道  曹操が匹敵した名棋士A


山子道(さんしどう)字が子道か
司隸馮翊郡の人(??~??)

棋士?

「博物志」に曰く。
山子道、王九真(おうきゅうしん)、郭凱(かくがい)は囲碁の名手だが曹操の腕前は彼らに匹敵した。(『武帝紀』)



山濤  竹林の七賢・絶対引退できない男


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桟潜  故事を引き皇帝に何度も諫言


桟潜(さんせん)字は彦皇(げんこう)
兗州任城郡の人(??~??)

魏の臣。
「高堂隆伝」に附伝される。

はじめ曹操の代に県令となり、鄴の留守長官に上った。
当時、太子だった曹丕は狩猟にふけり、朝早くに城を出て夜に帰ってきた。
桟潜は故事を引き「王公は国を守り、変事に用心するものです。狩猟に羽目を外し、一日中、獲物を追う楽しみと引き換えに、無限の危険性を忘れておられるのは、理解しかねます」と諫言した。
曹丕は不機嫌になったが、狩猟を幾分かは控えるようになった。(『桟潜伝』)

222年、曹丕が郭皇后(かくこうごう)を立てようとすると、中郎の桟潜は故事を引き「身分の低いお気に入りの側室を愛情だけで高貴な位につければ、道理を外れ下剋上の世を招くのではないかと心配です」と反対したが、曹丕は聞き入れなかった。(『文帝紀』)

曹叡の代になると(宮殿造営のため)労役は過酷となり、皇族は疎んじられ排斥された。
桟潜は故事を引き、宮殿造営を批判した。

幽州の中尉となったが、病気を理由に赴任せず、没した。(『桟潜伝』)

陳寿は陳羣(ちんぐん)が卞太后(べんたいこう)の両親への追贈に反対した件とともに、桟潜の郭皇后の立后への反対を「全ての王者の模範とし、後世へ伝える憲章とするだけの価値がある」と讃えた。(『后妃伝』)



爨谷  呂興の後任の交阯太守


爨谷(さんこく)字は不明
益州建寧郡の人(??~??)

晋の臣。

263年、交阯郡役人の呂興(りょこう)は反乱し魏に寝返った。(『孫休伝』)

司馬炎は呂興を安南将軍・交阯太守に任命したが、間もなく功曹の李統(りとう)に殺された。
次いで爨谷、馬融(ばゆう)を交阯太守に任じたがいずれも早死にし、交阯の混乱は続いた。(『晋書 陶璜伝』)



爨習  爨族の祖先


爨習(さんしゅう)字は不明
益州建寧郡の人(??~??)

蜀の臣。

建怜県令の時、法律違反を犯し、妻の甥の李恢(りかい)とともに免職となりかけたが、益州太守の董和(とうか)は爨習が豪族であるのを考慮し、不問に付した。後に爨習・李恢はともに蜀の重臣となった。(『李恢伝』)

231年、李厳(りげん)の罷免を求める文書に行参軍・偏将軍として連名した。(『李厳伝』)

爨習は領軍将軍まで上った。(『李恢伝』)

子孫は南中を支配し、南中の勢力自体が「爨族」と呼ばれ、8世紀に南詔に統一されるまで栄え続けた。



爨能  孟幹とともに捕虜になるB


爨能(さんのう)字は不明
出身地不明(??~271?)

晋の臣。

268年、呉の前部督の脩則(しゅうそく)と交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)は交阯に侵攻した。(『孫晧伝』)
南中監軍の霍弋(かくよく)は、益州から董元(とうげん)や毛炅(もうけい)、孟幹(もうかん)、孟通(もうつう)、李松(りしょう)、王業(おうぎょう)、爨能らと大軍を率いて迎撃し、脩則と劉俊を討ち取った。

だが271年、呉の陶璜(とうこう)によって交阯は陥落した。
毛炅は処刑され、交阯太守の楊稷(ようしょく)は護送中に病死し、孟幹、李松、爨能は捕虜として呉の都の建業へ送られた。
孫晧は殺そうとしたが、ある人が「忠臣であり、辺境の将として使うべき」と進言したため臨海郡へ移されそうになった。孟幹らは逃亡を企て、呉軍の愛好する蜀の弩を造れると言い、建業に留まった。
そして脱走すると、李松、爨能は殺され、孟幹だけが帰国できた。

孟幹は呉の内情を知らせて討伐の計略を立て、喜んだ司馬炎は彼を日南太守に任じた。
そして死亡した楊稷に官位を追贈し、毛炅、李松、爨能の子を関内侯に封じた。(『晋書 陶璜伝』)

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