宗預 鄧芝と費禕に次ぐ
宗預(そうよ)字は徳豔(とくえん)
荊州南陽郡安衆県の人(??~264)
蜀の臣。
荊州牧の頃の劉備に仕えたと思われ、212年からの益州侵攻では張飛に従い進軍した。
223年、諸葛亮から主簿に任じられ、参軍右中郎将に昇進した。
234年、諸葛亮が没すると、呉は魏の侵攻に備え、蜀との国境へ1万の兵を増員した。
蜀もやはり国境へ派兵したため両国に軍事的緊張が生じた。
そこで宗預が呉へ赴くと、孫権は「呉と蜀は一家のようなものだが、なぜ国境の兵を増やすのか」と詰問した。
宗預は「呉が増員すれば蜀も増やします。どちらも情勢のなせるわざですから、互いに問いただす必要もありません」と答え、孫権は大笑いした。
孫権は彼の剛直さを讃え、以前に使者を務めた鄧芝(とうし)・費禕(ひい)に次ぐ敬意を示した。
その後は侍中・尚書に昇進し、247年に屯騎校尉に就いた。
鄧芝が「礼記には60歳を過ぎたら軍事に携わらないとあるが、君は60歳で初めて兵を預かるがどういうことだ」とからかうと、宗預は「あなたは70歳で車騎将軍を務めているではありませんか」と返した。(※裴松之は「鄧芝は自分を棚に上げ、宗預は人の嫌がることを言っている。余計な記録である」と述べている)
鄧芝は驕慢で(かつ高齢で地位も高いため)大将軍の費禕ら誰もが遠慮したが、宗預だけは一切折れなかった。
再び呉に使いすると、孫権は彼の手を握って涙を流し「君はいつも両国の友好を取り結んできた。君は高齢で私も老い衰えた。たぶん二度と会えないだろう」と別れを惜しみ、大きな真珠を与えた。(『宗預伝』)
251年、樊建(はんけん)が呉に使いした時、孫権は重病で会えなかったため、諸葛恪(しょかつかく)に宗預と人物を比較させた。
諸葛恪は「才能と見識は宗預に及びませんが、性質は勝っています」と評した。(『董厥伝』)
後将軍に上り、(呉との国境の)永安に駐屯し征西大将軍を務め、関内侯に封じられた。
258年、病で成都に召還され、後に鎮軍大将軍・兗州刺史を兼任した。
その頃、諸葛瞻(しょかつせん)が実権を握っていたため、廖化(りょうか)は挨拶に行こうと宗預を誘った。だが宗預は「お互い70代になり高い地位も得た。後は死を待つだけなのに、年少の輩に何を求めてこせこせ挨拶するのだ」と断った。
なお廖化の官位は張翼(ちょうよく)と同等で、宗預の上だったという。
蜀が滅亡し264年、宗預と廖化は(劉禅とともに)洛陽へ移住させられたが、二人とも途上で病没した。(『宗預伝』)
陳寿は「孫権の厳しい発言に対抗し称賛された」と評した。
「演義」でも諸葛亮死後に呉へ使いし、史実と同様の問答で孫権に称賛された。
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