三国志 そ 1


沮鵠  父子ともに主君に殉ず


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沮授  不遇の軍略家、信念に殉ず


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沮宗


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祖山


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祖茂  身代わり地蔵


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祖郎  孫策を二度殺しかける


祖郎(そろう)字は不明
揚州丹陽郡陵陽県の人(??~??)

宗部一揆(宗教的一揆)の指導者。

193年、丹陽郡で数百の兵を集めたばかりの孫策を襲撃し、壊滅に近い被害を与えた。孫策は袁術に頼み、父の旧臣1千人を返してもらった。(『孫策伝』)

呉景(ごけい)に孫河(そんか)・呂範(りょはん)を預けて攻撃させ、祖郎は敗走した。(『孫堅呉夫人伝』)

197年、詔勅により孫策は、呂布と呉郡太守の陳瑀(ちんう)とともに袁術の討伐を命じられた。だが陳瑀は密かに孫策の襲撃を企み、祖郎や厳白虎(げんはくこ)ら各地の敵対勢力に官位を約束する印章をばらまき、蜂起させようとした。
だが孫策は企みに気づき、先制攻撃で陳瑀を打ち破った。(『孫策伝』)

袁術も官位をばらまき、祖郎や山越に孫策を攻撃させた。(『孫輔伝』)

孫策は祖郎を攻めたが大軍に包囲された。その時、程普(ていふ)ともう一人の騎士(素性不明)が突撃して道を開き、窮地を救った。(『程普伝』)

呂範・徐逸(じょいつ)らも祖郎の攻撃に加わった。(『呂範伝』)

孫策は孫輔(そんほ)とともに陵陽県を攻め、祖郎を生け捕りにした。孫策は「お前はかつて私を襲撃し鞍に斬りつけたこともあったが、今は大事に備え、恨みを捨てて人材を広く集めているところだ。恨みを忘れて取り立てるのはお前だけではないから心配はいらない」と言い、降伏を促した。
祖郎は叩頭して謝罪し、門下賊曹に任じられた。凱旋にあたり祖郎と(同じく恨みを忘れ召し抱えられた)太史慈が軍の先頭に立ち、人々は孫策の栄誉であると讃えた。(『孫輔伝』)

「演義」では大師を名乗り孫策と戦うが降伏はしない。



素利  田豫と共闘した鮮卑の大人


素利(そり)
鮮卑の人(??~228)

鮮卑の大人(指導者)。

鮮卑の王の檀石槐(だんせきかい)は支配地を中東西の3部に分け、東部は弥加(びか)・闕機(けつき)・素利・槐頭(かいとう)ら大人が支配した。
彼らの支配域は長城の外で遠く離れていたため国境を荒らすことは全く無かったが、軻比能(かひのう)よりも配下は多かった。
建安年間(196~220)、閻柔(えんじゅう)を通じて中原に交易を求め、曹操は王位を与えるなど厚遇した。
220年、馬を献上すると曹丕は素利・弥加に帰義王の位を与えた。(『鮮卑伝』)

黄初年間(220~226)頃、鮮卑の有力者の軻比能・弥加・素利は領地を分割して支配し、それぞれ境界を設け、中原に馬を売らない誓約を結んだ。
田豫(でんよ)は彼らが結託したら脅威になると考え、分断させ仇敵同士となるよう仕組んだ。
はたして素利は盟約に背き数千頭の馬を魏へ献上し、軻比能に攻められ田豫に救援を求めた。大軍に包囲されたものの田豫は陽動作戦で欺き大勝した。
山賊の高艾(こうがい)が数千人で幽州・冀州を荒らすと、田豫は素利に討伐させ討ち取らせた。

「魏略」に曰く。
素利らはたびたび田豫を訪ね牛馬を献上した。牛馬では(賄賂にするには)露見しやすいと考え黄金を密かに渡したが、田豫はそれを全て国庫に納めた。
朝廷は詔勅で称え絹500匹を下賜したが、田豫はその半分を官庫にしまい、残りを異民族に与えた。(『田豫伝』)

使持節護鮮卑の牽招(けんしょう)は素利・弥加らの10数万人の部落を懐柔し帰伏させた。(『牽招伝』)

素利・歩度根(ほどこん)らは軻比能と争い、田豫が仲裁した。
224年、軻比能が素利を攻めると田豫が救援し、軻比能の心は魏から離れた。軻比能は鮮于輔(せんうほ)へ「素利とは仇敵同士だが、田豫は素利に肩入れした。歩度根は略奪し私の弟を殺したのに濡れ衣を着せてくる」と訴え、田豫は軻比能と関係修復したが、軻比能はその隙に力を蓄え、以後もたびたび魏と争った。

素利は228年に没し、子が幼かったため弟の成律帰(せいりつき)が王位を継いだ。(『鮮卑伝』)



載斯烏越  倭から魏へ助けを求める


載斯烏越(そしあお)
倭の人(??~??)

倭の臣。

247年、倭の女王・卑弥呼は不和だった卑弥弓呼(ひみここ)と戦闘になり、載斯烏越を帯方太守の王頎(おうき)のもとへ派遣しそれを報告させた。
王頎は張政(ちょうせい)を遣わせて卑弥呼と卑弥弓呼の戦を調停させた。(『東夷伝』)



蘇怡  蘇則の後継ぎ(兄)


蘇怡(そい)字は不明
雍州扶風郡武功県の人(??~??)

魏の臣。
蘇則(そそく)の子。

223年、父が没すると後を継いだ。
子が無いまま没したため弟の蘇愉(そゆ)が領地を受け継いだ。(『蘇則伝』)



蘇愉  蘇則の後継ぎ(弟)


蘇愉(そゆ)字は休豫(きゅうよ)
雍州扶風郡武功県の人(??~??)

魏・晋の臣。
蘇則(そそく)の子。

223年、父が没すると兄の蘇怡(そい)が後を継いだ。
子が無いまま没したため弟の蘇愉が領地を受け継いだ。
咸熙年間(264~265)、尚書に上った。

太常・光禄大夫を歴任した。「晋百官名」に記載された。
「山濤啓事」に曰く、誠実で英知に富んだ。

子の蘇紹(そしょう)・蘇慎(そしん)も高名で、娘は石崇(せきすう)に嫁いだ。(『蘇則伝』)



蘇姫  曹邕の母


蘇姫(そき)名は不明
出身地不明(??~??)

曹丕の側室。
曹邕(そうよう)の母。

曹邕は邯鄲王に上り229年に没し、懐と諡された。(『曹邕伝』)



蘇固  張魯に漢中を奪われた太守


蘇固(そこ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

劉焉(りゅうえん)は張魯(ちょうろ)を督義司馬に任命し、別部司馬の張脩(ちょうしゅう)とともに漢中太守の蘇固を攻めさせたが、張魯は張脩を殺し兵を奪った。
劉焉の子の劉璋(りゅうしょう)の代になると、服従しない張魯の母と家族は殺され、張魯は漢中で独立した。(『張魯伝』)

「後漢書」には、張魯は蘇固を殺し漢中を制圧した後、独立し張脩も殺し兵を奪ったとある。(『後漢書 劉焉伝』)



蘇衡  張既・夏侯儒に討伐された賊徒


蘇衡(そこう)字は不明
涼州酒泉郡の人(??~??)

賊徒?

酒泉郡で反乱し、羌族の鄰戴(りんたい)や丁令の蛮族らとともに1万の兵で国境を攻めた。
涼州刺史の張既(ちょうき)は夏侯儒(かこうじゅ)とともに撃破し、全て降伏させた。上奏して城を修理し、防備を整えると西羌族は2万の民を引き連れ降伏した。(『張既伝』)



蘇氏


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蘇鑠  李豊に加担した宦官


蘇鑠(そしゃく)字は不明
出身地不明(??~254)

魏の宦官。

蘇鑠は黄門監、楽敦(がくとん)は永寧署令、劉賢(りゅうけん)は宂従僕射と記される。

254年、李豊(りほう)は行事で皇帝が宮殿から出てくるのを利して、近衛兵に司馬師を暗殺させる計画を立てた。蘇鑠ら3人の宦官を「諸君の不法行為を司馬師は問題にしている。張当(ちょうとう)が曹爽(そうそう)とともに殺されたことを思い出せ」と脅して一味に引き入れたが、あっさり計画は露見し一網打尽にされ、全員が殺された。(『夏侯尚伝』)

なぜか蘇鑠だけ処刑されたと書かれていないがただの書き忘れだろう。



蘇尚  鮮卑に敗死


蘇尚(そしょう)字は不明
出身地不明(??~233)

魏の将。

233年、長年に渡り争ってきた鮮卑の歩度根(ほどこん)と軻比能(かひのう)は和睦すると、魏に反旗を翻した。
并州刺史の畢軌(ひつき)は将軍の蘇尚・董弼(とうひつ)を差し向けた。軻比能は息子に1千騎を預け、歩度根の眷属を迎えに行かせたところ、蘇尚・董弼に出くわし遭遇戦となり、撃破された蘇尚・董弼は戦死した。(『明帝紀』・『鮮卑伝』)



蘇紹


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蘇慎


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蘇正和  蓋勲に恨まれ蓋勲に救われる


蘇正和(そせいか)字が正和か
涼州武都郡の人(??~??)

後漢の臣。

梁鵠(りょうこく)が涼州刺史に赴任した時、武威太守が権勢を頼みに横暴に振る舞っていたため、従事の蘇正和が摘発したが、梁鵠は仕返しを恐れ、蘇正和を殺して口封じしようと考えた。
そこでかねてから蘇正和を仇敵と恨む蓋勲(がいくん)に方策を尋ねたが、蓋勲は「優れた人物を謀殺するのは忠ではなく、危機に乗じて恨みを晴らすのは仁ではありません」と反対し「狩りのために飼っている鷹を、狩りをさせて殺しては無意味です」と諌めた。梁鵠は納得した。
蘇正和はいきさつを知り感謝したが、蓋勲は「梁鵠のためにやっただけで、蘇正和のためではない」と言い、恨みは忘れなかった。(『後漢書 蓋勲伝』)



蘇双  張世平とともに劉備に先行投資


蘇双(そそう)字は不明
冀州中山郡の人(??~??)

商人。

大商人の張世平(ちょうせいへい)・蘇双は馬を買いに涿郡に来て劉備と知り合い、傑物と考えて多くの援助をし、かくして劉備は多くの仲間を得た。(『先主伝』)

「吉川三国志」では張世平の甥に設定された。



蘇則  剛直かつ不器用


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蘇代  劉表に逆らった長沙太守


蘇代(そだい)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の長沙太守。

長沙太守の孫堅は袁術のもとで董卓と戦い、豫州刺史に上った。蘇代はその後任だろうか。(『孫堅伝』)

劉表(りゅうひょう)が荊州牧に赴任した時、周囲は敵に囲まれ、蘇代、貝羽(ばいう)ら太守や県長も兵を頼みに命令に服さなかった。劉表は蒯越(かいえつ)らを招き対策を協議した。

蒯越は「戦の趨勢は兵力ではなく人物の優劣にかかっています。袁術(えんじゅつ)は武勇がありますが決断力がなく、蘇代や貝羽は一介の軍人で問題になりません」と言った。

劉表は蒯越の策に従い、敵に利益をちらつかせ誘いに乗った55人を斬り殺し、動揺したその配下を一気に突き崩した。
蘇代・貝羽の消息は不明である。(『劉表伝』)



蘇馬  区星に呼応した賊徒C


蘇馬(そば)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

長沙郡で反乱した区星(おうせい)は1万人を集め周辺を攻撃したが、長沙太守に赴任した孫堅に1月も経たずに撃破された。
周朝(しゅうちょう)・郭石(かくせき)も区星に呼応し零陵・桂陽郡で民衆を率い反乱していたが、孫堅は郡境を越えて討伐し全て平定した。

「呉録」に曰く。
豫章郡宜春県からも救援要請を受けた。任地外への討伐は本来は違法のためやめるよう進言されたが、孫堅は「私には文徳もなくただ征伐によって功績を立ててきた。郡境を越えて討伐し人々を救えるなら、罪を得たとしても天下の人々になんら恥じることはない」と構わず出撃した。(『孫堅伝』)

188年、長沙・零陵・桂陽郡で反乱した不服住民の周朝・蘇馬らの討伐で朱治(しゅち)は手柄を立てた。(『朱治伝』)



蘇伯  河間郡で反乱した賊徒B


蘇伯(そはく)字は不明
冀州河間郡の人?(??~211?)

賊徒。

211年、曹操が馬超を討伐した時、河間郡で田銀(でんぎん)とともに反乱した。
曹仁に討伐された。(『曹仁伝』)

留守をあずかる曹丕は自ら討伐しようとしたが、常林(じょうりん)は「私は博陵太守・幽州刺史を務めたので当地のことはよく知っています。民は争いを嫌い、田銀・蘇伯は犬や羊が集まったようなもので、智力は小さいのに野心が大きく、害をなしません。あなたは天下の抑えであり、軽はずみに遠征しては、勝っても武威を発揮することにはなりません」と反対し、曹丕は配下を討伐に派遣した。(『常林伝』)

閻柔(えんじゅう)と鮮卑の軻比能(かひのう)も討伐軍に加わった。(『鮮卑伝』)

賈信(かしん)に討伐され1千人が降伏した。
誰もが旧法に照らして処刑すべきだと言ったが、程昱(ていいく)は「乱世ならば包囲後に降伏した者は許さず、包囲前に降伏すべきだと外敵を脅すことは重要だが、今は治世であり、しかも領内で反乱した者を脅してもしかたない」と反対し、処刑するにしても曹操の指示を仰ぐべきだと述べた。
軍事では専断が許されるとなおも反論されたが、程昱は「賊徒は賈信の手中にあり、専断で決定するほどの緊急事態ではない」と言い、曹丕も同意して曹操の判断を仰いだが、やはり処刑しなかった。
曹操は帰還すると「君は軍事に明るいだけではなく、私と曹丕の父子の仲も上手くさばいてくれる」と程昱を褒めた。(『程昱伝』)

残党が捕まると国淵(こくえん)は首謀者ではないから処刑しないよう主張し、1千人以上を助けた。
当時は賊軍を撃破した際に戦果を十倍で計算する習わしだったが、国淵は実数のまま報告した。
曹操に理由を問われると「戦果を実数より多くするのは、民に誇示するためです。しかし河間郡は領内で相手も反乱軍ですから、手柄を立てたとしても私は心密かに恥だと考えます」と答え、曹操は上機嫌で魏郡太守に任じた。(『国淵伝』)



蘇飛  甘寧の恩人


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蘇僕延  遼東の烏丸単于


蘇僕延(そぼくえん)
烏丸の人(??~207)

烏丸の王。
名は他に速僕丸(そくぼくがん)、速附丸(そくふがん)とも書かれる。

後漢末、遼東に1千戸あまりの部落を抱え「峭王」を自称した。

中山太守の張純(ちょうじゅん)は反乱して遼西烏丸の丘力居(きゅうりききょ)の傘下に入ると「弥天安定王」を名乗り、総帥として烏丸を率い北方の四州を攻撃した。(『烏丸伝』)

蘇僕延は5万の兵を率い青州・冀州を攻め、清河郡・平原郡を制圧し官民問わず殺した。
188年、異民族の信望厚い劉虞(りゅうぐ)が幽州牧として赴任すると、蘇僕延ら烏丸を懐柔し、彼らもそれに従い、張純を殺し反乱は治まった。(『後漢書 劉虞伝』)

数年後、丘力居が没すると子の楼班(ろうはん)がまだ幼かったため、従子の蹋頓(とうとん)が後を継ぎ、烏丸は彼のもとでよく統率された。(『烏丸伝』)

193年、劉虞は公孫瓚(こうそんさん)に殺害された。
旧臣の鮮于輔(せんうほ)は報復のため、異民族に太いパイプを持つ閻柔(えんじゅう)を擁立し、烏丸・鮮卑・漢民族まで数万の兵を結集した。
そして公孫瓚方の漁陽太守の鄒丹(すうたん)を討ち取り4千もの首級を上げ、蘇僕延の率いる7千騎、劉虞の子の劉和(りゅうか)や、公孫瓚と敵対する袁紹配下の麴義(きくぎ)の兵と合流した。
199年、公孫瓚は袁紹に攻められ自害した。(『公孫瓚伝』・『後漢書 公孫瓚伝』)

袁紹は詔勅を偽造し、蹋頓や蘇僕延らに印綬を与え、単于(大王)に任じた。
楼班が成長すると、蘇僕延がその配下をまとめ、楼班を単于、蹋頓を王として奉じた。(『烏丸伝』)

袁譚(えんたん)に与する蘇僕延の説得のため、かつて烏丸突騎を務めた牽招(けんしょう)を曹操は派遣した。たまたま遼東太守の公孫康(こうそんこう)も蘇僕延を懐柔しようと狙い韓忠(かんちゅう)を派遣しており、論戦となった。牽招は腹を立て韓忠を斬り捨てようとしたが、蘇僕延があわてて仲裁に入り、曹操方につくことで場を収めた。(『牽招伝』)

205年、袁譚が敗死すると、袁紹の子の袁煕(えんき)・袁尚(えんしょう)らは蹋頓に身を寄せた。
207年、曹操はそれを追撃し烏丸を攻めた。蹋頓は戦死し、袁煕・袁尚・楼班・蘇僕延らは公孫康のもとへ逃げたが、揃って殺され、首を曹操のもとへ送られた。(『武帝紀』・『後漢書 烏丸伝』)



蘇門生  蘇門山の隠者


蘇門生(そもんせい)本名は不明
出身地不明(??~??)

隠者。
蘇門山に住み姓名は不明。生は先生の意味。

「魏氏春秋」に曰く。
食べ物は竹の実が数石あるだけでそれを臼でついた。
阮籍(げんせき)は若い頃に訪ね、太古の無為自然や五帝三王について論じたが全然耳を貸さなかった。そこで口をすぼめて長く声を出すと清らかな調べが鳴り響き、蘇門生はにっこりと笑った。帰ろうとすると蘇門生も口をすぼめ鸞鳳のような声を出した。
阮籍は後に議論をもとに歌を作った。(『王粲伝』)

「晋書」では孫登(そんとう)との逸話として記される。
そこでもやはり孫登は阮籍の議論に興味を示さず、歌って帰ろうとすると、山の中腹まで降りたところで孫登の歌声が響いてきたという。(『晋書 阮籍伝』)



蘇愉


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蘇由  曹操に内応した留守番


蘇由(そゆう)字は不明
出身地不明(??~??)

袁尚(えんしょう)の臣。

204年、袁尚は袁譚(えんたん)の攻撃に向かい、鄴の守備を審配(しんぱい)・蘇由に任せた。
曹操が鄴へ迫ると蘇由は内応しようとしたが、計画が露見し城内で審配と戦い、敗れて曹操のもとへ逃げ込んだ。
鄴は陥落し審配は処刑された。(『武帝紀』・『袁紹伝』)

「演義」でも審配とともに留守を任されたが反乱しなかった。



蘇林  曹丕・曹叡に礼遇された学者


蘇林(そりん)字は孝友(こうゆう)
兗州陳留郡の人(??~??)

魏の臣。
「劉劭伝」に附伝される。

広く学問をし、古今の字義に通じ、古書や伝承された文章に疑問があれば、そのことごとくを解いた。
韋誕(いたん)らとともに文章は広く伝わった。

建安年間(196~220)に曹丕の文学(官名)となり非常に礼遇された。
黄初年間(220~226)に博士給事中となり、曹丕は「典論」の中でもたびたび彼に触れた。(『蘇林伝』)

220年、曹丕へ魏帝即位を勧める書状に博士給事中騎都尉として連名した。(『文帝紀』)

官位は散騎常侍まで上った。(『蘇林伝』)

景初年間(237~239)、曹叡は蘇林・秦静(しんせい)らが年老い、彼らの学問が断絶するのを心配し、有望な官吏に高堂隆(こうどうりゅう)・蘇林・秦静らに師事させるよう詔勅を下した。
だが数年後に高堂隆らは揃って没したため、彼らの学問は廃れてしまった。(『高堂隆伝』)

老齢により引退後も、時の魏帝はたびたび慰問の使者と贈り物をやった。
80余歳で没した。(『蘇林伝』)

「魏略」は蘇林ら7人を儒学の宗家とし、当代稀な真に学問を修めた人々と称賛している。(『王朗伝』)



宋果  楊奉とともに李傕に反乱


宋果(そうか)字は不明
出身地不明(??~??)

李傕(りかく)の臣。

李傕配下の将軍の楊奉(ようほう)と軍官の宋果が李傕暗殺を計画し、露見すると反乱したため李傕の勢力は衰えた。(『董卓伝』)

楊奉はその後、献帝の洛陽帰還に貢献するが、宋果の事績は不明である。

「演義」にも登場し、反乱の理由は李傕が信仰する巫女にばかり褒美を与えるのに反発したこととされる。そして露見すると捕らえられ処刑されてしまった。



宋階  崔琰の友人B


宋階(そうかい)字は不明
出身地不明(??~??)

素性不明。

崔琰(さいえん)の友人の公孫方(こうそんほう)と宋階は早逝したが、崔琰は彼らの遺児を我が子のようにかわいがった。(『崔琰伝』)



宋奇  曹操の従妹の夫


宋奇(そうき)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の㶏彊侯。
妻は曹操の従妹。

「王沈の魏書」に曰く。
なんらかの罪を犯して処刑された。曹操にも累が及び、頓丘県令を罷免された。(『武帝紀』)



宋姫  曹徽の母


宋姫(そうき)名は不明
出身地不明(??~??)

曹操の側室。
曹徽(そうき)の母。

曹徽は東平王まで進んだ。(『東平霊王徽伝』)



宋姫  曹儼の母


宋姫(そうき)名は不明
出身地不明(??~??)

曹丕の側室。
曹儼(そうげん)の母。

曹儼は222年に広平王に立てられ、223年に没し、子が無かったため国は没収された。(『広平哀王儼伝』)



宋梟  蓋勲の忠告を無視し解任される


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宋金  脱走した鼓吹


宋金  脱走した鼓吹
宋金(そうきん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

合肥の戦いの際に鼓吹(軍楽隊)の宋金が逃亡した。旧来の法では逃亡兵の妻子が厳しく取り締まられたが、それでも逃亡が相次いだたため曹操は刑を重くしていた。
宋金の母と妻と弟2人は奴隷に落とされ、さらに処刑を建議された。高柔(こうじゅう)は「逃亡は憎むべきですが後悔する者もおり、刑を軽くすべきです。妻子が赦されれば亡命先の敵国は逃亡兵に不信の念を抱き、逃亡兵も帰参を考えます。これ以上刑を重くすると、逃亡兵を見逃した者も処刑することになり、そうなれば連れ立って一斉に逃亡しようと考える者が現れます」と反対した。
曹操も納得して法を改め、宋金の家族を赦した。多くの者がこれにより助かった。(『高柔伝』)



宋建  涼州に30年君臨した謎の王


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宋権  程喜の司馬


宋権(そうけん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

248年頃、程喜(ていき)は征北将軍に、杜恕(とじょ)は幽州刺史に任じられた。程喜はかつて敵対した田豫(でんよ)を讒言で陥れたため、杜恕は友人から交友を結ぶよう忠告されたが、気にもとめなかった。
249年、鮮卑からの使者が関所を通らなかったため、杜恕は独断で使者の子供を斬って処罰し、朝廷へ報告しなかった。
程喜はすかさず司馬の宋権を送り、見逃す代わりに謝罪するよう持ちかけたが、杜恕は断ったため弾劾された。
杜恕は危うく処刑されるところだったが、父の功績により死罪は免れ、幽州刺史を罷免のうえ配流となり平民に落とされた。(『杜畿伝』)



宋憲  侯成一味B


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宋謙  護衛兵A


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宋豪


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宋寿  八絶・夢占いの宋寿


宋寿(そうじゅ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣?
夢占いの名手で「八絶」の一人に数えられる。

夢占いをすれば十に一つも外すことがなかった。(『趙達伝』)



宋忠  後漢末の有名学者


宋忠(そうちゅう)字は仲子(ちゅうし)
荊州南陽郡の人(??~??)

後漢末の儒学者。
名は宋衷(そうちゅう)とも書かれる。

王粛(おうしゅく)は18歳の時、宋忠に「太玄経」を学び、後に自ら注釈を著した。(『王朗伝』)

尹黙(いんもく)は故郷の益州では新字体が尊重され、字句の正確な読みが重視されないのに不満を抱き、荊州へ遊学し司馬徽(しばき)や宋忠に師事し古文を習った。(『尹黙伝』)

潘濬(はんしゅん)も20歳前後で宋忠に学んだ。(※王粛・尹黙・潘濬らは三国それぞれで重臣となった)(『潘濬伝』)

荊州牧の劉表(りゅうひょう)は反乱を鎮圧し平定すると、学校を開設し広く儒者を招き、綦毋闓(きぶかい)・宋忠らに「五経章句」を編集させ、これを(先代の注釈書と比して)「後定」と名付けた。(『劉表伝』)

「漢魏春秋」に曰く。
208年、劉表が没し、子の劉琮(りゅうそう)が後を継ぐと、曹操が攻め寄せ降伏が決まったが、客将の劉備にはその事実を伏せた。しかし勘付いた劉備から問い合わせがあり、宋忠が説明に出向いた。
劉備は事情を聞くや激怒し、宋忠に剣を突きつけ「殺しても怒りは晴れないが、別れ際に殺すことは恥だ」と言い、追い返した。(『先主伝』)

許靖(きょせい)が益州に入り太守に任じられると、宋忠は以前から名声を聞き、手紙を交わしていた王商(おうしょう)へ「許靖は独立不羈の精神を持った優秀な人物で、役立つ才能を有しています。指南役にすべきです」と推挙した。
211年、王商が没すると蜀郡太守の座を許靖が継いだ。(『許靖伝』)

宋忠はその後、魏へ仕えたが219年、息子(名は不明)が魏諷(ぎふう)の反乱に加担し処刑された。
その際に曹丕は王粛の父の王朗(おうろう)へ「宋忠は先見の明が無く、老年にして災難に遭った」と語っており、まだ存命だったと思われる。(『尹黙伝』)

虞翻(ぐほん)は、著名な学者達を揃ってこき下ろし、宋忠も「太玄経」の注で一家言を成したが、鄭玄(じょうげん)にはいささか劣り、二人とも取り付き口すら発見できておらず、世に出す価値もなかった、と切り捨てた。
後に交州へ配流されると、「太玄経」の注を自ら著した。(『虞翻伝』)



宋定


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宋揚  宋建の別名?


宋揚(そうよう)字は不明
涼州の人(??~??)

賊徒。

「典略」に曰く。
北宮玉(※北宮伯玉(ほっきゅうはくぎょく))とともに反乱し、辺章(へんしょう)・韓遂(かんすい)を盟主に担ぎ上げた。
辺章が病没した後も、韓遂は宋揚らに強制され反乱を続けた。(『武帝紀』)

事績が宋建(そうけん)と非常に似ており、同一人物ではなかろうか。



宗瑋  孫権と和睦交渉した使者


宗瑋(そうい)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

223年、劉備は夷陵の戦いで大敗したが、成都へ帰らず白帝城に留まった。孫権は非常に恐れ和睦を求めた。
劉備も応じ太中大夫の宗瑋を送り返答した。(『先主伝』)
宗瑋・費禕を何度も往来させた。(『鄧芝伝』)



宗豔  孫資を妬んだ梁国相


宗豔(そうえん)字は不明
并州太原郡の人(??~??)

魏の臣。

梁国相を務めた。
孫資(そんし)は同郷の人々の中でも地位・名声ともに高く、田豫(でんよ ※魏書に列伝される田豫とは別人)、宗豔らに嫉妬から恨まれ、そのうえ楊豊(ようほう)が彼等に加担し讒言を繰り返した。
だが孫資は全く気にせず、やがて田豫は恥じ入って、宿怨を捨て縁組をしたいと願い出た。
孫資は「私には怨恨はもともと無い。君が悪く思っていただけだから、これからは良く思えばいいだけさ」と言い、息子の妻に田豫の娘を迎えた。

また楊豊は息子が処罰されそうになった時に、孫資に助けられた。

宗豔だけは特に孫資に助けられたとも、反省したとも記されない。(『孫資伝』)



宗恵叔  鍾繇の玉玦を曹丕に教える


宗恵叔(そうけいしゅく)字が恵叔か
荊州南陽郡の人(??~??)

魏の臣?

「魏略」に曰く。
曹丕は鍾繇(しょうよう)が珍貴な玉玦(飾り玉)を持っていると宗恵叔に聞いて欲しくなり、弟の曹植(そうしょく)らを通じて伝えさせると、鍾繇はすぐさま贈った。(『鍾繇伝』)



宗子卿  侯音を騙し東里袞を救う?


宗子卿(そうしけい)字が子卿か
出身地不明(??~??)

魏の臣。

218年10月、南陽郡宛県の守将の侯音(こうおん)が反乱し、南陽太守の東里袞(とうりこん)を捕らえ、籠城した。
樊城で関羽に備えていた曹仁が討伐し、翌219年1月に陥落させ侯音を斬った。(『武帝紀』)

「曹瞞伝」に曰く。
この頃、南陽周辺で官民は役務に苦しみ、侯音の反乱に従い東里袞を捕らえ、関羽と同盟した。
南陽郡の功曹の宗子卿は「あなたが民心に従い決起したことは誰もが支持します。しかし東里袞を捕らえたことは道理に反します。私が協力するから彼を釈放してください」と進言した。
侯音が同意し釈放すると、宗子卿は夜に城を抜け出し、東里袞とともに兵を集めて城を包囲し、曹仁の援軍を得て侯音を討ち取った。(『武帝紀』)

「楚国先賢伝」に曰く。
侯音が反乱した時、功曹の応余(おうよ)は東里袞を助けて逃走した。
追っ手に追いつかれると応余は東里袞をかばい7つの矢傷を受けながら「侯音は理性を失い反乱したが、間もなく討伐される。君たちはもともと善人なのになぜ侯音に従うのか。私が死んで主君(東里袞)が助かるなら悔いはない」と説得し、血と涙を流した。追っ手は心打たれて撤退し、応余は絶命した。
侯音の討伐後、曹仁は応余を手厚く弔い、報告を受けた曹操も感嘆し(故郷の)村の門に業績を記させ、穀物を下賜した。

258年、改めて功績を採り上げられ、孫の応倫(おうりん)を官吏に取り立て、褒美を与えた。(『高貴郷公紀』)

宗子卿と応余の逸話は食い違うが、「帝紀」に事績が記された応余と、真贋の怪しい「曹瞞伝」にしか見えない宗子卿では分が悪い。



宗承  袁術の何顒殺害を思い留まらせる


宗承(そうしょう)字は不明
荊州南陽郡の人(??~??)

後漢の臣?

「漢末名士録」に曰く。
袁術は大勢のいる席上で何顒(かぎょう)を批判し「識見ある大先輩で高名明徳な王徳弥(おうとくび)を無視している。貪婪放蕩で不純な許攸(きょゆう)と親しくしている。郭泰(かくたい)・賈彪(かひょう)が貧窮しているのに肥えた馬に乗り道を練り歩いている」と3つの罪を数え上げた。
陶丘洪(とうきゅうこう)が「王徳弥は賢者だが世の難事を救う才は無い。許攸は不純だが危難に立ち向かい泥をかぶることを厭わない。何顒は善人の筆頭に王徳弥、危難を救う人物の筆頭に許攸を挙げている。そのうえ何顒は虞偉高(ぐいこう)のために仇討ちした義士だが、その仇は巨万の富を蓄える名士だった。もし何顒が痩せ馬にのって道で引っくり返っていれば、たちまちその仇の配下に殺されるだろう」と反論したが袁術は納得しなかった。
後年、袁術は宗承(そうしょう)に会った時も何顒を殺すと息巻いたが「あなたは英傑を厚遇して評判を天下に轟かせるべきだ」とたしなめられ、ようやく思い留まった。(『荀攸伝』)

袁術とは宮門の下で会ったと記され、後漢の臣だろう。



宗預  鄧芝と費禕に次ぐ


宗預(そうよ)字は徳豔(とくえん)
荊州南陽郡安衆県の人(??~264)

蜀の臣。

荊州牧の頃の劉備に仕えたと思われ、212年からの益州侵攻では張飛に従い進軍した。

223年、諸葛亮から主簿に任じられ、参軍右中郎将に昇進した。

234年、諸葛亮が没すると、呉は魏の侵攻に備え、蜀との国境へ1万の兵を増員した。
蜀もやはり国境へ派兵したため両国に軍事的緊張が生じた。
そこで宗預が呉へ赴くと、孫権は「呉と蜀は一家のようなものだが、なぜ国境の兵を増やすのか」と詰問した。
宗預は「呉が増員すれば蜀も増やします。どちらも情勢のなせるわざですから、互いに問いただす必要もありません」と答え、孫権は大笑いした。
孫権は彼の剛直さを讃え、以前に使者を務めた鄧芝(とうし)・費禕(ひい)に次ぐ敬意を示した。

その後は侍中・尚書に昇進し、247年に屯騎校尉に就いた。
鄧芝が「礼記には60歳を過ぎたら軍事に携わらないとあるが、君は60歳で初めて兵を預かるがどういうことだ」とからかうと、宗預は「あなたは70歳で車騎将軍を務めているではありませんか」と返した。(※裴松之は「鄧芝は自分を棚に上げ、宗預は人の嫌がることを言っている。余計な記録である」と述べている)
鄧芝は驕慢で(かつ高齢で地位も高いため)大将軍の費禕ら誰もが遠慮したが、宗預だけは一切折れなかった。

再び呉に使いすると、孫権は彼の手を握って涙を流し「君はいつも両国の友好を取り結んできた。君は高齢で私も老い衰えた。たぶん二度と会えないだろう」と別れを惜しみ、大きな真珠を与えた。(『宗預伝』)

251年、樊建(はんけん)が呉に使いした時、孫権は重病で会えなかったため、諸葛恪(しょかつかく)に宗預と人物を比較させた。
諸葛恪は「才能と見識は宗預に及びませんが、性質は勝っています」と評した。(『董厥伝』)

後将軍に上り、(呉との国境の)永安に駐屯し征西大将軍を務め、関内侯に封じられた。
258年、病で成都に召還され、後に鎮軍大将軍・兗州刺史を兼任した。
その頃、諸葛瞻(しょかつせん)が実権を握っていたため、廖化(りょうか)は挨拶に行こうと宗預を誘った。だが宗預は「お互い70代になり高い地位も得た。後は死を待つだけなのに、年少の輩に何を求めてこせこせ挨拶するのだ」と断った。

なお廖化の官位は張翼(ちょうよく)と同等で、宗預の上だったという。

蜀が滅亡し264年、宗預と廖化は(劉禅とともに)洛陽へ移住させられたが、二人とも途上で病没した。(『宗預伝』)

陳寿は「孫権の厳しい発言に対抗し称賛された」と評した。

「演義」でも諸葛亮死後に呉へ使いし、史実と同様の問答で孫権に称賛された。



宗養  程喜に印相鑑定術を伝授


宗養(そうよう)字は不明
出身地不明(??~??)

印鑑職人。

後に魏の征北将軍を務める程喜(ていき)は、印鑑職人の宗養に師事し、印相(印鑑の吉凶)鑑定術を伝授され、そこから十二家の鑑定法が生まれたという。(『夏侯尚伝』)



倉慈  敦煌郡を復興させる


倉慈(そうじ)字は孝仁(こうじん)
揚州九江郡の人(??~??)

魏の臣。

郡の役人を務めた。建安年間(196~220)に曹操が当地で屯田を始め希望者を募った時、それに応じて綏集都尉となった。

黄初年間(220~226)の末に長安県令を務め、清廉・倹約に励み、官民は畏敬の念を払った。

太和年間(227~232)に敦煌太守に上った。
敦煌郡は異民族との国境線にあたり、動乱のため中央から切り離され、20年にわたり太守がいない時期もあった。
豪族がのさばり、前太守の尹奉(いんほう)らも旧習に従うだけで手出しできなかった。
倉慈は赴任すると道理に沿って強きをくじき弱きを助けた。
豪族の土地は有り余っているのに、庶民には錐を刺すほどの土地も無かったが、一家の人数に応じて租税を割り振り、公正に土地を分配した。
治安も悪く県では裁判沙汰に対処できず、郡の行政庁に裁きを求める人が集まっていた。倉慈は自ら視察して罪の軽重を判断し、死刑以外は鞭打ちで放免して片付け、1年で処刑されたのは10人に満たなかった。
異民族との交易も豪族を介さないようにし、護衛の兵で守った。

数年後、在官のまま没すると官民は親戚を亡くしたように嘆き、遺影を描いて飾った。異民族も悲しみ、集って弔問に訪れた。中には(当地の風習か)顔を刀で傷つけて弔意を表す者もいた。そして祠を建て、共同で祀った。

後任の太守の王遷(おうせん)は倉慈の統治を見習ったが及ばず、その次の太守の趙基(ちょうき)は王遷にも及ばなかった。
趙基の後を受けた皇甫隆(こうほりゅう)が最新鋭の農具や灌漑技術を持ち込むと、人々は剛毅で決断力に富む点では倉慈に及ばないが、勤勉で愛情と恩恵があり、下民のために利益をもたらしたことでは倉慈に次ぐと皇甫隆を評価した。(『倉慈伝』)

陳寿は「鄭渾(ていこん)と倉慈は筋道の立った思いやりのある政治を行った。魏の名太守である」と評した。

「演義」には登場しない。



桑馥  杜夔の同郷の弟子C


桑馥(そうふく)字は不明
司隷河南郡の人(??~??)

魏の臣。音楽家。

魏の音楽家の杜夔(とき)の弟子で、同郷の邵登(しょうとう)・張泰(ちょうたい)・桑馥はみな太楽丞まで上り、陳頏(ちんこう)は司律中郎将となった。(『杜夔伝』)



曾夏


未作成



棗拠


未作成



棗祗  屯田制を建言する


棗祗(そうし)字は不明
豫州潁川郡の人(??~??)

魏の臣。

曹操の挙兵の頃から従う。
評判を聞いた袁紹に招かれたが、それを断り東阿県令に任じられた。
194年、呂布が反乱し兗州を制圧すると、范と東阿だけが抵抗した。次いで飢饉が起こった時にも持ち堪えた。
さらに黄巾賊の残党を許昌で破り、物資を奪った。(『任峻伝』)

196年、韓浩(かんこう)とともに屯田制を建言し、任峻(じんしゅん)が実行役を担った。(『任峻伝』・『武帝紀』)
はじめ牛の数を計算し輸送していたが、棗祗は豊作や凶作の時には不都合だと反対した。曹操は改める必要は無いと考えたが、棗祗が主張を曲げないため、荀彧(じゅんいく)と議論させた。
さらに侯声(こうせい)が「棗祗の案は官に都合が良いが、民には不都合だ」と意見を述べた。
曹操は迷った末に棗祗の案を採用し、屯田都尉に取り立てた。結果、大豊作を招き田地は増大し、国庫は満たされた。

棗祗・任峻の功績は絶大だったが、ともに早く亡くなった。
曹操は棗祗へ陳留太守を追贈したが、報いるには列侯しなければ足りないと考え、後年に子の棗処中(そうしょちゅう)に爵位を与え、亡父を祀らせた。

孫の棗拠(そうきょ)が晋の冀州刺史に上るなど、子孫にも才能は受け継がれた。(『任峻伝』)



棗処中  棗祗の子


棗処中(そうしょちゅう)字が処中か
豫州潁川郡の人(??~??)

魏の臣。
棗祗(そうし)の子。

父は屯田制を建言し功績は絶大だったが、早く亡くなった。
曹操は棗祗へ陳留太守を追贈したが、報いるには列侯しなければ足りないと考え、後年に子の棗処中に爵位を与え、亡父を祀らせた。

子の棗拠(そうきょ)が晋の冀州刺史に上るなど、子孫にも棗祗の才能は受け継がれた。(『任峻伝』)



棗嵩


未作成

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