三国志 せ 2


全柔


未作成



全緝  全琮の従子B


全緝(ぜんしゅう)字は不明
揚州呉郡銭唐県の人(??~??)

呉の臣。
全琮(ぜんそう)の従子。

257年、諸葛誕が魏に反乱すると、呉の孫綝(そんちん)は全懌(ぜんえき)や全端(ぜんたん)・全翩(ぜんへん)・全緝らを救援に向かわせた。
だが孫綝の無謀な采配で大敗を喫し、命令を拒否した指揮官の朱異(しゅい)を殺され、士気は大いに下がった。
また国内では内紛が起こり、全禕(ぜんい)が弟の全儀(ぜんぎ)とともに母を連れて魏へ亡命するなど全氏の勢力は削られた。
鍾会は全禕・全儀に命じて「孫綝は全懌らの苦戦に怒り、国許に残った一族を処刑しようとしている」という手紙を全懌に届けさせ、全懌・全端らは魏へ降伏した。
全員が列侯された。(『孫亮伝』・『鍾会伝』)



全緒  全琮の長男


全緒(ぜんしょ)字は不明
揚州呉郡銭唐県の人(??~??)

呉の臣。
全琮(ぜんそう)の長男。

幼い頃から名を知られ、奉朝請として出仕し、地方で兵権を与り、揚武将軍、牛渚督を務めた。(『全琮伝』)

241年、全琮は寿春を攻めたが、王凌(おうりょう)に撃退された。
追撃により秦晃(しんこう)の軍が壊滅したが、顧譚(こたん)と張休(ちょうきゅう)が奮戦して食い止め、全緒と従兄弟の全端(ぜんたん)が反撃に出てどうにか追い返した。
だが戦後、顧譚・張休に雑号将軍が授けられた一方で、全緒は裨将軍、全端は偏将軍を与えられただけに留まり、元から顧譚と敵対していた全琮ら父子との仲はますます険悪となった。(『顧譚伝』)

252年、孫亮が即位すると、皇后の父の全尚(ぜんしょう)ら一族は高位に上り、全氏は外戚としてかつてない栄華を極めた。(『孫亮全夫人伝』)

全緒も鎮北将軍に上り、同年の東興の戦いでは丁封(ていほう)とともに献策し、先鋒として魏軍を打ち破った。
この功により長男(もしくは全緒)が亭侯に封じられた。
44歳で没した。(『全琮伝』)

257年、諸葛誕が魏に反乱すると、呉の孫綝(そんちん)は全緒の弟の全懌(ぜんえき)や全端らを救援に向かわせた。
だが孫綝の無謀な采配で大敗を喫し、命令を拒否した指揮官の朱異(しゅい)を殺され、士気は大いに下がった。
また国内では内紛が起こり、全緒の子の全禕(ぜんい)・全儀(ぜんぎ)が母を連れて魏へ亡命するなど全氏の勢力は削られた。
鍾会は全禕・全儀に命じて「孫綝は全懌らの苦戦に怒り、国許に残った一族を処刑しようとしている」という手紙を全懌に届けさせ、全懌・全端は魏へ降伏した。(『孫亮伝』・『鍾会伝』)

257年の一連の出来事に全緒の動向が見えず、その前に死去していたと思われる。



全尚  全夫人の父


全尚(ぜんしょう)字は不明
揚州呉郡銭唐県の人?(??~??)

呉の臣。
全夫人の父。

242年、孫和(そんか)が太子になると、かつて彼とその母を讒言した孫魯班(そんろはん)は排斥を恐れ、異母弟の孫覇(そんは)に肩入れし対抗させるとともに、孫権に最も可愛がられていた末弟の孫亮に取り入るため、夫の一族の娘(全夫人)を孫亮の妻に勧めた。
やがて二宮の変により孫和と孫覇は共倒れとなり、孫亮が太子に立てられた。(『孫亮伝』・『孫覇伝』)

252年、孫亮が即位すると、舅の全尚は城門校尉に任じられ、都亭侯に封じられた。
さらに滕胤(とういん)の後任として太常・衛将軍を継ぎ、永平侯に進み録尚書事となった。
全氏はかつてない栄華を極めたが257年、諸葛誕の反乱に際して全端(ぜんたん)が一族を率い援軍に派遣されたところ、その隙に起こった内紛により勢力を削られた。全端は魏へ投降し、一族は衰退した。(『孫亮全夫人伝』・『諸葛誕伝』)

258年、皇帝の孫亮は、専権を振るう孫綝の排除を図り、姉の孫魯班、舅の全尚らとともに密議を凝らした。
だが計画は洩れ、孫綝は先制攻撃を仕掛けて、宮城を包囲すると孫亮を廃位した。

計画漏洩の経緯は諸説ある。「正史」に曰く。
全夫人は孫綝の従姉の娘にあたるため、計画を孫綝へ密告した。

「江表伝」に曰く。
孫亮はまず全尚の息子の全紀(ぜんき)に計画を告げた。母は孫綝の従姉だから決して話さないよう念押ししたが、息子から話を聞いた全尚はそれを妻に伝えてしまい、あっさり孫綝にばれた。
孫亮は「お前の父が間抜けだから大事が駄目になった」と全夫人を罵り、全紀は「父のせいで申し訳ないことをしてしまい面目ない」と自害した。

後世の孫盛(そんせい)は「聡明な孫亮が全夫人にうっかり話したとは思えない。江表伝の記述の方が辻褄が合っている」と評した。

また孫綝は次の皇帝として孫休を招く際に「全尚は器量以上に重い官位にありながら一言も諫言せず、しかも敵国に内通した」と述べているが、これは方便だろう。(『孫綝伝』)

孫亮・全夫人・孫魯班は配流された。全尚は一族とともに零陵へと強制移住させられ、後に殺害された。(『孫綝伝』・『孫亮全夫人伝』)



全静  全緒か全寄の子


全静(ぜんせい)字は不明
揚州呉郡銭唐県の人(??~??)

呉の臣。
全緒(ぜんしょ)か全寄(ぜんき)の子。
全琮(ぜんそう)の孫にあたる。

257年、全氏の一族は魏に降伏した。
叔父の全懌(ぜんえき)は平東将軍に任じられ臨湘侯に封じられた。その甥(兄の子)の全禕(ぜんい)・全儀(ぜんぎ)・全静らも太守に任じられたり列侯された。

ちなみに全禕・全儀は全緒の子と明記されるが、全静は「全懌の兄の子」とあり、次兄の全寄の子の可能性がある。(『全琮伝』)



全琮  名臣、晩節を汚す


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全端  魏へ降伏する


全端(ぜんたん)字は不明
揚州呉郡銭唐県の人?(??~??)

呉の臣。
全琮(ぜんそう)の甥。

241年、全琮は寿春を攻めたが、王凌(おうりょう)に撃退された。
追撃により秦晃(しんこう)の軍が壊滅したが、顧譚(こたん)と張休(ちょうきゅう)が奮戦して食い止め、全端・全緒(ぜんしょ)が反撃に出てどうにか追い返した。
だが戦後、顧譚・張休に雑号将軍が授けられた一方で、全緒は裨将軍、全端は偏将軍を与えられただけに留まり、元から顧譚と敵対していた全琮ら父子との仲はますます険悪となった。(『顧譚伝』)

252年、孫亮が即位すると、皇后の父の全尚(ぜんしょう)ら一族は高位に上り、全氏は外戚としてかつてない栄華を極めた。(『孫亮全夫人伝』)

同年、魏軍が攻め寄せると諸葛恪(しょかつかく)は東興の東西に城を築き、西城を全端に、東城を留略(りゅうりゃく)に守らせた。
魏軍は撃退された。(『孫亮伝』)

257年、諸葛誕が魏に反乱すると、呉の孫綝(そんちん)は全端・全懌(ぜんえき)らを救援に向かわせた。
だが孫綝の無謀な采配で大敗を喫し、命令を拒否した指揮官の朱異(しゅい)を殺され、士気は大いに下がった。
また国内では内紛が起こり、全懌の甥の全禕(ぜんい)・全儀(ぜんぎ)が魏へ亡命するなど全氏の勢力は削られた。
鍾会は全禕・全儀に命じて「孫綝は全懌らの苦戦に怒り、国許に残った一族を処刑しようとしている」という手紙を全懌に届けさせ、全懌・全端は魏へ降伏した。(『孫亮伝』・『鍾会伝』)



全夫人  孫亮の皇后


全夫人(ぜんふじん)名は不明
揚州呉郡銭唐県の人?(??~302?)

孫亮の皇后。
全尚(ぜんしょう)の娘。

頭脳と容色に優れた。

242年、孫和(そんか)が太子になると、かつて彼とその母を讒言した孫魯班(そんろはん)は排斥を恐れ、異母弟の孫覇(そんは)に肩入れし対抗させるとともに、孫権に最も可愛がられていた末弟の孫亮に取り入るため、夫の一族の娘(全夫人)を孫亮の妻に勧めた。
やがて二宮の変により孫和と孫覇は共倒れとなり、孫亮が太子に立てられた。(『孫亮伝』・『孫覇伝』)

252年、孫亮が即位すると、舅の全尚はじめ一族は厚遇され、全氏はかつてない栄華を極めた。
だが257年、諸葛誕の反乱に際して全端(ぜんたん)が一族を率い援軍に派遣されたところ、その隙に起こった内紛により勢力を削られた。全端は魏へ投降し、一族は衰退した。(『孫亮全夫人伝』・『諸葛誕伝』)

258年、孫亮は、専権を振るう孫綝(そんちん)の排除を図り、姉の孫魯班、舅の全尚らとともに密議を凝らした。
だが計画は洩れ、孫綝は先制攻撃を仕掛けて、宮城を包囲すると孫亮を廃位した。

計画漏洩の経緯は諸説ある。「正史」に曰く。
全夫人は孫綝の従姉の娘にあたるため、計画を孫綝へ密告した。

「江表伝」に曰く。
孫亮はまず全尚の息子の全紀(ぜんき)に計画を告げた。母は孫綝の従姉だから決して話さないよう念押ししたが、息子から話を聞いた全尚はそれを妻に伝えてしまい、あっさり孫綝にばれた。
孫亮は「お前の父が間抜けだから大事が駄目になった」と全夫人を罵り、全紀は「父のせいで申し訳ないことをしてしまい面目ない」と自害した。

後世の孫盛(そんせい)は「聡明な孫亮が全夫人にうっかり話したとは思えない。江表伝の記述の方が辻褄が合っている」と評した。(『孫綝伝』)

孫亮・全夫人・孫魯班は配流された。全尚は一族とともに零陵へと強制移住させられ、後に殺害された。(『孫綝伝』・『孫亮全夫人伝』)

孫亮は会稽王とされたが260年、帝位奪回を企み、巫女に命じて皇帝の孫休を呪詛しているという流言があり、侯官侯に格下げされ、移送中に自害した。孫休による毒殺説もある。(『孫休伝』)

その後、全夫人は侯官で暮らし、280年に呉が滅亡すると帰国がかない、永寧年間(301~302)に没した。(『孫亮全夫人伝』)



全翩  全琮の従子A


全翩(ぜんへん)字は不明
揚州呉郡銭唐県の人(??~??)

呉の臣。
全琮(ぜんそう)の従子。

257年、諸葛誕が魏に反乱すると、呉の孫綝(そんちん)は全懌(ぜんえき)や全端(ぜんたん)・全翩・全緝(ぜんしゅう)らを救援に向かわせた。
だが孫綝の無謀な采配で大敗を喫し、命令を拒否した指揮官の朱異(しゅい)を殺され、士気は大いに下がった。
また国内では内紛が起こり、全禕(ぜんい)が弟の全儀(ぜんぎ)とともに母を連れて魏へ亡命するなど全氏の勢力は削られた。
鍾会は全禕・全儀に命じて「孫綝は全懌らの苦戦に怒り、国許に残った一族を処刑しようとしている」という手紙を全懌に届けさせ、全懌・全端らは魏へ降伏した。
全員が列侯された。(『孫亮伝』・『鍾会伝』)



単経  公孫瓚配下の(偽)兗州刺史


単経(ぜんけい)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫瓚(こうそんさん)の臣。

公孫瓚は厳綱(げんこう)に冀州を、田楷(でんかい)に青州を、単経に兗州を統治させた。
(※厳綱・田楷は公孫瓚が独自に刺史に任命したとあり、単経も刺史になっただろう)(『公孫瓚伝』)

192年、袁術は袁紹と敵対すると、公孫瓚に救援要請し、劉備・単経・陶謙(とうけん)らが兵を進めたが、袁紹は曹操と協力し全て打ち破った。(『武帝紀』)



単固  令狐愚の謀叛を密告せず斬られる


単固(ぜんこ)字は恭夏(きょうか)
兗州山陽郡の人(??~251?)

魏の臣。
単伯龍(ぜんはくりゅう)と夏侯氏(かこうし)の子。

器量の備わった質実な人柄だった。
正始年間(240~249)、兗州刺史の令狐愚(れいこぐ)は単伯龍と親しかったため、単固を別駕に招いたが、病を理由に断られた。ますます礼遇するようになったが、単固は喜ばなかった。
だが母の夏侯氏に「父と親しくし、お前にも目を掛けてくれるのだから仕官するのが当然です」とたしなめられ、楊康(ようこう)と並ぶ腹心となった。

後に令狐愚は王凌(おうりょう)とともに謀叛を企み、単固と楊康もその計画を知っていた。
令狐愚は決行前に重病に倒れ、楊康が都に招聘されると、単固も病を理由に官を辞した。
令狐愚は病没し、楊康が計画を密告したため、251年、王凌は捕らえられた。
司馬懿は単固に事情を知っているか尋ねたが否定されたため、一族もろとも逮捕し、拷問したが単固は口を割らなかった。
司馬懿は業を煮やし、楊康も捕らえ単固と論戦させた。単固は弁明に詰まった末に「おいぼれめ、主君(令狐愚)を裏切った上に私の一族を滅ぼしておいて、自分が生き長らえられるか考えてみろ」と罵った。
単固は謀叛を知っていたと断じられ、処刑を命じられた。

慣例で処刑前に家族との面談が許可されており、単固は母と会ったが恥じ入って顔も上げられなかった。
夏侯氏は「お前は仕官したくなかったのに、私が無理強いしたせいです。仕官したのだから(主君の名誉を守るために)こうするしかありませんでした。これで一門は衰えるでしょうが、残念には思いません。本当の気持ちを話しておくれ」と語りかけたが、単固は顔を上げず、何も言わず処刑された。

楊康は謀叛の密告により列侯されるのを期待していたが、単固との論戦により多くの嘘が明らかとなり、結局ともに処刑された。
単固は処刑場に向かいながら楊康を「おいぼれの下衆め、お前の死は自業自得だ。死者に知覚があるなら、どの面下げてあの世へ行く(※令狐愚に会う)つもりだ」と罵った。(『王凌伝』)

「魏略」では脂習(ししゅう)、龐淯(ほういく)、文聘(ぶんぺい)、王脩(おうしゅう)、成公英(せいこうえい)、郭憲(かくけん)らとともに「純固伝」に列伝された。(『王脩伝』)



単子春  管輅を世に出した琅邪太守


単子春(ぜんししゅん)字が子春か
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「管輅別伝」に曰く。
管輅(かんろ)は徐州琅邪郡の学校一の俊才とうたわれ、琅邪太守の単子春はぜひ会いたいと望み、100人の賓客を集めた。論客として知られた者も多く、管輅は「緊張しているのでまず酒を3升(※当時の単位は現在の1/10という)飲ませてください」と言い、単子春は喜んで与えると自ら論戦を挑んだ。
管輅は「私は詩経・論語・易の本文を読んだだけで学問は浅く、注釈や故事を引くこともできませんので、五行や鬼神についてのみ論じます」と言い、単子春は「それが最も難しいことなのに、お前はそれを容易だと言うのか」と驚いた。
かくして議論は始まり、管輅はまるで美しい言葉が花開き枝葉を伸ばすように論じた。典籍に頼らず自身の考えを述べ、論客らも加わって挑んだが、管輅は一人ひとりに余裕を持って反論した。人々は議論に夢中で酒も食事も忘れたまま日が暮れた。
単子春は「まるで司馬相如の賦のような議論だった。必ずや彼は天文や地理の変化の根本原理を解明するだろう。ただ弁舌の才があるだけではない」と感嘆し、管輅の名は徐州に轟き神童と呼ばれた。(『管輅伝』)



単伯龍  単固の父


単伯龍(ぜんはくりゅう)字が伯龍か
兗州山陽郡の人(??~??)

魏の臣。
単固(ぜんこ)の父。夏侯氏(かこうし)の夫。

正始年間(240~249)、兗州刺史の令狐愚(れいこぐ)は単伯龍と親しかったため、単固を別駕に招いたが、病を理由に断られた。ますます礼遇するようになったが、単固は喜ばなかった。
だが母の夏侯氏に「父と親しくし、お前にも目を掛けてくれるのだから仕官するのが当然です」とたしなめられ、楊康(ようこう)と並ぶ腹心となった。

後に令狐愚は王凌(おうりょう)とともに謀叛を企み、単固と楊康もその計画を知っていた。
251年、令狐愚は決行前に重病に倒れてすぐに亡く、楊康が密告したため王凌は捕らえられた。
単固は令狐愚の名誉を守るため計画を知らないと言い張って処刑された。密告した楊康も単固との論戦により多くの嘘が明るみになり、ともに処刑された。(『王凌伝』)



単甫  趙達の師


単甫(ぜんほ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

趙達(ちょうたつ)は若い頃、後漢の侍中であった単甫のもとで学問を修め、その思考は精緻で綿密だった。

後に趙達(ちょうたつ)は九宮一算の術(占術)を極め「八絶」の一人に数えられた。(『趙達伝』)



単颺  王者と黄龍が50年以内に現れる


単颺(ぜんよう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

176年、豫州沛国譙県に黄龍が現れた。
太史令の単颺は橋玄(きょうげん)に何の前兆か尋ねられ「沛国に王者が現れます。黄龍も50年以内に再び現れるでしょう。天の所業には常に兆候があります」と答えた。
居合わせた(?)殷登(いんとう)はこれを記憶し、44年後の220年に再び黄龍が現れると「単颺の言葉が証明された」と言った。

「王沈の魏書」に曰く、曹丕は喜び殷登に穀物300石を与えた。(『文帝紀』)



宣威王


未作成



宣靖  八交の一人


宣靖(せんせい)字は不明
兗州山陽郡の人(??~??)

後漢の臣?

「漢紀」に曰く。
劉表(りゅうひょう)と同郡出身の張隠(ちょういん)・薛郁(せついく)・王訪(おうほう)・宣靖・公緒恭(こうしょきょう)・劉祗(りゅうし)・田林(でんりん)ら8人は名高く、「八交」あるいは「八顧」と呼ばれた。(『劉表伝』)

劉表以外の7人はそれ以外の事績がない。
また「八顧」は前代に郭泰(かくたい)が属する八顧の方が著名である。



宣璠  董卓の命令で楊彪を弾劾した司隷校尉


宣璠(せんはん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「華嶠漢書」に曰く。
191年、董卓は長安へ遷都しようとしたが司徒の楊彪(ようひょう)に猛反対された。
董卓は司隷校尉の宣璠に命じて、天災を理由に楊彪を弾劾し罷免させた。(『董卓伝』)



宣隆  諸葛誕の反乱に反対し殺された配下A


宣隆(せんりゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

257年、諸葛誕の反乱の際に主簿の宣隆と部曲督の秦絜(しんけつ)は強く反対したため殺された。
曹髦は「暴君の紂王を諌めて殺された比干のように身内でもないのに(身内のように敢然と)反対した」と詔勅を下して称え、二人の遺児を騎都尉とし、忠義を喧伝するよう命じた。(『高貴郷公紀』)



然人  高句麗の主簿


然人(ぜんじん)
高句麗の人(??~??)

高句麗の臣。

夫余と高句麗は玄菟郡の支配下にあったが、遼東太守の公孫度(こうそんど)が勢力を伸ばすと、ともに遼東郡の支配下に入った。
高句麗王の伯固(はくこ)は大加(※官名)の優居(ゆうきょ)や主簿の然人らを送り、富山賊との戦いに協力した。(『東夷伝』)



瞻晏


未作成



瞻彊


未作成



瞻廉


未作成



銭欽


未作成



銭銅  孫策に一掃された烏程県の勢力B


銭銅(せんどう)字は不明
揚州呉郡烏程県の人(??~196?)

烏程県の豪族?

196年頃、孫策が呉郡へ勢力を伸ばした時、烏程県には鄒他(すうた)や銭銅、嘉興県には王晟(おうせい)らがおり、それぞれ数千~1万余の兵を集めていた。
孫策がそれらを討伐すると、母の呉夫人(ごふじん)は「王晟はお前の父(孫堅)とは奥座敷に通り妻と挨拶するほど親しかったが、今や一族は誅滅され彼だけが残りました。老人一人を恐れることはありません」と助命嘆願したため、孫策は王晟だけを見逃し、他(鄒他・銭銅)は一家皆殺しにした。(『孫策伝』)



銭博  張津の残党B


銭博(せんはく)字は不明
交州高涼郡の人(??~??)

交州刺史の張津(ちょうしん)の配下。

張津が荊州刺史の劉表(りゅうひょう)と争い、配下に寝首をかかれた後も銭博と夷廖(いりょう)は勢力を保っていたが、交州刺史に着任した歩騭(ほしつ)によって駆逐された。(『薛綜伝』)

220年、呂岱(りょたい)が歩騭の後を継ぎ交州刺史になると、銭博は降伏を申し入れた。孫権の許可が下り、高涼西部都尉に任じられた。(『呂岱伝』)



鮮于銀  鮮于輔の一族?


鮮于銀(せんうぎん)字は不明
幽州漁陽郡の人?(??~??)

劉虞(りゅうぐ)の配下。

191年、劉虞は従事の鮮于銀と田疇(でんちゅう)を朝貢させた。(『後漢書 劉虞伝』)
田疇は騎都尉の任命を固辞したが(『田疇伝』)、鮮于銀は直後の「公孫瓚伝」で騎都尉と記されており、この時に任命されたと思われる。

田疇らが帰国する前の193年、劉虞は公孫瓚(こうそんさん)に殺害された。(『田疇伝』)
鮮于輔(せんうほ)は報復のため、旧臣の斉周(せいしゅう)、鮮于銀らと協力し、異民族に太いパイプを持つ閻柔(えんじゅう)を擁立し、烏桓・鮮卑・漢民族まで数万の兵を結集した。
そして公孫瓚方の漁陽太守の鄒丹(すうたん)を討ち取り4千もの首級を上げ、劉虞の子の劉和(りゅうか)や、公孫瓚と敵対する袁紹配下の麴義(きくぎ)の兵と合流した。
199年、公孫瓚は袁紹に攻められ自害した。(『公孫瓚伝』・『後漢書 公孫瓚伝』)

鮮于輔はその後、曹操に降伏し魏の重臣となるが、斉周、鮮于銀の消息は不明。ともに曹操に仕えたと考えるのが自然か。
また鮮于銀と鮮于輔の関係もわからない。



鮮于嗣  秘密裏に平定した楽浪太守


鮮于嗣(せんうし)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

景初年間(237~239)、曹叡は帯方太守の劉昕(りゅうきん)と楽浪太守の鮮于嗣を新たに任命し、秘密裏に海路から赴任させ平定した。
そして韓の諸国の指導者らに印綬を贈り手懐けた。(『東夷伝』)

239年には帯方郡、240年には楽浪郡の太守が交代している。
劉昕・鮮于嗣は他に事績がなく、妄想を働かせるとこういった平定作戦を担う特殊工作員なのだろうか。



鮮于丹  淳于丹のモデル?


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鮮于輔  劉虞の仇を討つ


鮮于輔(せんうほ)字は不明
幽州漁陽郡の人(??~??)

魏の臣。

はじめは幽州刺史の劉虞(りゅうぐ)に従事として仕えたが193年、劉虞は公孫瓚(こうそんさん)に殺害された。
鮮于輔は報復のため、旧臣の斉周(せいしゅう)、鮮于銀(せんうぎん)らと協力し、異民族に太いパイプを持つ閻柔(えんじゅう)を擁立し、烏桓・鮮卑・漢民族まで数万の兵を結集した。
そして公孫瓚方の漁陽太守の鄒丹(すうたん)を討ち取り4千もの首級を上げ、劉虞の子の劉和(りゅうか)や、公孫瓚と敵対する袁紹配下の麴義(きくぎ)の兵と合流した。
199年、公孫瓚は袁紹に攻められ自害した。(『公孫瓚伝』・『後漢書 公孫瓚伝』)

鮮于輔は国人の要請を受け、太守の事務を代行した。かねてから親しい田豫(でんよ)を長史に取り立て、その勧めで曹操に帰順した。(『田豫伝』)

鮮于輔は曹操に歓待され、建忠将軍に任じられ、幽州6郡の統治を任された。
さらに200年、閻柔も曹操へ帰順すると、改めて鮮于輔の降伏が評価され、左度遼将軍となり、亭侯に封じられた。
曹操は袁紹を破ると、「袁紹が公孫瓚(こうそんさん)を討った時、私は茫然とするだけだった。勝てたのは天の御心であり、諸君のおかげである」と感謝した。
鮮于輔を幽州へ凱旋させ鎮撫の任に当たらせた。
曹操が袁氏を追撃し烏丸族を討伐すると、鮮于輔も従軍した。(『公孫瓚伝』)

205年、三郡の烏丸族が漁陽郡にいた鮮于輔を攻撃したため、曹操は救援した。

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に建忠将軍・昌郷亭侯として連名した。(『武帝紀』)

216年頃、徐邈(じょばく)は禁酒令に背いて泥酔し、聴取されると「聖人(清酒)に当たった」と悪びれなかったため曹操は激怒した。同じ幽州出身の鮮于輔が「普段は慎み深く、酔って吐いた言葉でしょう」と弁護したため処刑は免れた。(『徐邈伝』)

220年、曹丕が帝位につくと鮮于輔を虎牙将軍、閻柔を度遼将軍に任じ、ともに爵位を県侯に上げ、特進を授けた。(『公孫瓚伝』)

黄初年間(220~226)、曹丕は鮮于輔を通じて蜀へ好条件で降伏勧告したが、劉禅は従わなかった。(『後主伝』)

224年、鮮卑の大人(王)の軻比能(かひのう)は、宿敵の素利(そり)・歩度根(ほどこん)と争ったため、田豫に攻撃された。
軻比能は輔国将軍の鮮于輔に手紙を送り、仲裁を頼んだ。鮮于輔が上聞し、曹丕は田豫に軻比能との和睦を命じた。その隙に軻比能は兵を集め力を蓄えた。(『鮮卑伝』)

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