三国志 し 4


周谷


未作成



周氏  卞皇后の母


周氏(しゅうし)名は不明
出身地不明(??~??)

卞皇后(べんこうごう)の母。

「王沈魏書」に曰く。
160年、後の卞皇后が生まれた時、何日も部屋に黄気が満ちた。
父の卞遠(べんえん)が不審に思い占い師の王旦(おうたん)に尋ねると「これはめでたい徴です」と言われた。(『武宣卞皇后伝』)

黄初年間(220~226)、曹丕は卞皇后の亡き両親に爵位を追贈しようとしたが、陳羣(ちんぐん)に「女性に爵位を授ける制度はない」と諌められ、それを認めて典範として定めさせた。

230年、曹叡は典範に背き、曾祖父の卞広(べんこう)に開陽恭侯、祖父の卞遠に敬侯、祖母の周氏に陽都君、母の甄皇后に敬侯夫人の諡を追贈した。(『武宣卞皇后伝』)



周氏


未作成



周祗


未作成



周術  諸葛玄の前任の豫章太守


周術(しゅうじゅつ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

諸葛亮は幼い頃に父を亡くし、弟の諸葛均(しょかつきん)とともに従父の諸葛玄(しょかつげん)を頼った。
諸葛玄は袁術に(勝手に)豫章太守に任命され、諸葛亮らを連れて赴任した。
朝廷は朱皓(しゅこう)を正式な太守に任じ、諸葛玄は旧知の荊州牧の劉表(りゅうひょう)に身を寄せた。

「献帝春秋」に異聞がある。
豫章太守の周術が没すると劉表は諸葛玄を(勝手に)後任とし南昌に駐屯させた。
朝廷は朱皓を正式な太守に任じ、朱皓は揚州刺史の劉繇(りゅうよう)に兵を借りて攻撃し南昌を制圧した。
197年、西城に撤退した諸葛玄は反乱した民に殺され、首を劉繇のもとへ送られた。(『諸葛亮伝』)

「演義」では本伝が採用され諸葛玄が戦死しないこともあり登場しない。
「横山三国志」では逸話がミックスされ、はじめ豫章太守だった諸葛玄が劉表に招かれて荊州へ移り、後任の太守の周術が病死したため諸葛玄が再任されると朱皓も同時に任命されており、争いになった。



周峻


未作成



周浚  王渾に振り回された副将


周浚(しゅうしゅん)字は開林(かいりん)
豫州汝南郡安成県の人(??~??)

魏・晋の臣。
周裴(しゅうはい)の子。

父は少府まで上った。
果敢かつ剛毅で才知があり、人物鑑定眼に優れた。同郷の史曜(しよう)は貧しい出自で無名だったが、周浚は友人として付き合い、妹を嫁がせた。史曜は後に大いに名を上げた。
はじめ州郡の招きに応じなかったが、魏に仕え尚書郎となった。昇進を重ね御史中丞となり、やがて折衝将軍・揚州刺史に任じられ射陽侯に封じられた。

当時、晋・呉の諸将は交易する人々を襲って略奪していた。呉の蔡珪(さいけい)は弟の蔡敏(さいびん)へ手紙を送り「古来より国境地帯では軍も国も信義を尊んでいた。だが今は略奪が横行していると聞く。弟よ、小利を貪り大いなる備えを忘れるな」と戒めた。
この手紙が晋の斥候に奪われ、読んだ周浚は「君子である」と感心した。
呉征伐の際に蔡珪を探し当て、どこの出身か問うと蔡珪は汝南郡だと答え、周浚は「私は呉に君子などいないと思っていたが、やはりあなたは同郷の人だったか」と冗談を飛ばした。

279年からの呉征伐では王渾(おうこん)の指揮下に入り、呉の主力と戦い丞相の張悌(ちょうてい)ら数千の首級を挙げ、1万人以上の捕虜を得た。(『晋書 周浚伝』)

「晋紀」に曰く。
張悌・孫震(そんしん)・沈瑩(しんえい)は3万の兵を率い長江を渡って迎撃した。
晋の張喬(ちょうきょう)は7千の兵で揚荷橋を守っていたが降伏を申し出た。諸葛靚(しょかつせい)は無視して殲滅すべきだと進言したが、張悌は「強敵が前方に控えており、小勢にかかずらっている場合ではない。それに降伏してきた者を殺すのは不祥だ」と却下した。
諸葛靚はなおも「こいつらは援軍が来ないからひとまず偽って降伏しただけで、本心ではありません。戦意を失っている今のうちに全員生き埋めにすべきで、捨て置けば後の災いとなります」と反対したが、張悌は聞き入れなかった。
晋の張翰(ちょうかん)・周浚と対峙し、沈瑩の兵は「青巾兵」と呼ばれ勇猛だったが三度攻めても晋軍はびくともせず、退却しようとすると混乱が起こり、薛勝(せつしょう)・蔣班(しょうはん)に追撃され大破された。張喬も挙兵して背後を襲い、張悌・孫震・沈瑩らは捕らえられた。(『孫晧伝』)

別働隊の王濬(おうしゅん)が長江の上流で快進撃を続けると、周浚配下の何惲(かうん)は「我々が精鋭の張悌を斬り、呉の人々は上も下も震え上がっています。王濬の勢いも盛んで、このまま呉の都の建業に迫れば戦わずして降伏させられるでしょう」と進言した。
周浚ももっともだと思い王渾に相談しようとすると、何惲は「王渾は機を察するのに疎く、保身を考え過失を避けるので、きっと耳を貸さないでしょう」と言い、王渾はその予想通りに「詔勅には江北で呉軍と対峙せよとだけ書かれている。あなたは武名高いが単身では勝てないだろう。命令に背けば称賛されず、勝てなければもっと罪は重い。王濬も私の指示に従うよう詔勅が下されているから、合流してから進軍すればいい」と却下した。
何惲は「王濬は向かうところ敵なく、間違いなく勝てるのにそれを放棄してわざわざ指示を受けに来るなどありえません。戦場では主君の命令に背いてでも臨機応変に対応すべきです。失敗を恐れるのは「智」ではなく、勝利するとわかっているのにやらないのは「忠」ではありません。進軍しなければ揚州の誰もが恨みに思うでしょう」と食い下がったが、王渾は聞き入れなかった。
はたして王濬は王渾の指示を無視して兵を進め、孫晧を降伏させた。
王渾は激怒し王濬を弾劾した。何惲は周浚へ「我々の意見を却下し進軍を止めた時点で勝機を失っていたのに、王渾は未練がましく功績を競おうとしています。王濬も黙っていないので醜い争いになるのは勧められません」と言い、周浚はすぐ王渾を諌めたが、これも聞き入れられず王濬と王渾・周浚は激しく争うこととなった。(『晋書 周浚伝』)

王渾・王濬は激しく非難し合い、周浚も呉の宝物を略奪し、戦果も水増ししたと濡れ衣を着せられた。(『晋書 王渾伝』)

呉征伐の武功により爵位は成武侯に進み、領邑6千戸となった。翌281年、揚州刺史の役所を秣陵(建業)に移し、呉の旧臣のうち反乱者を討伐し、従う者は客人としてもてなし、才徳ある者を探し求め、非常に威厳と恩徳があったため、旧臣は喜んで従った。

侍中に上り、司馬炎に一族の年少の者で任用すべき人材を問われ、叔父の子の周恢(しゅうかい)と従父の子の周馥(しゅうふく)を清廉であるとして推挙した。
父と同じく少府に上り、将作大匠を兼任した。宗廟を改築し500戸を加増され、後に王渾の後任の使持節・都督揚州諸軍事・安東将軍となり在官中に没した。
子の周顗(しゅうぎ)が後を継いだ。(『晋書 周浚伝』)

安東将軍の時、狩猟に出て雨に降られ、李氏(りし)の家で雨宿りした。その時、家には父兄が不在だったが李氏は一人の下女とともに猪や羊をさばき数十人分の御馳走を揃えた。非常に手際が良いのに人の声すら聞こえず、周浚は不思議に思い奥を覗くと、若く美しい李氏が一人で料理していた。
感心した周浚は妾に迎えたいと望み、父兄は反対したが李氏は「家門が衰えているのになぜ一人の娘を惜しむのですか。貴族と縁戚になれば利益が望めます」と説得した。
周顗ら三人の男子に恵まれ、長じると「私が節を曲げて妾となったのは、実家のためです。お前たちが世話しないなら私は命を惜しみません」と脅しつけ、李氏の実家も貴族となった。(『晋書 周顗母李氏伝』)



周循


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周処  無頼漢、改心す


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周舒  当塗高とは魏なり


周舒(しゅうじょ)字は叔布(しゅくふ)
益州巴西郡閬中県の人(??~??)

隠者。
周羣(しゅうぐん)の父。

若い頃に楊厚(ようこう)に図讖(予言)を学び、その名声は同門の任安(じんあん)・董扶(とうふ)に次いだ。
たびたび招聘されたが応じなかった。

ある人に「春秋讖(※後漢の初期に書かれた予言書)には漢に代わるものは当塗高とありますが、その意味はなんですか」と問われると「当塗高とは魏なり」と答えた。郷里の学者は密かにその話を言い伝えた。

子の周羣も幼い頃から図讖を教えられ、たびたび予言を的中させ「蜀書」に列伝された。孫の周巨(しゅうきょ)にも受け継がれた。(『周羣伝』)

任安に図讖を学んだ杜瓊(とけい)は、後に譙周(しょうしゅう)に「当塗高とは魏」の解説を求められ「魏とは宮城の門の名称だ。塗(道)に当たって高くそびえている」と読み解いた。(『杜瓊伝』)



周条


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周尚


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周承


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周邵


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周昭


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周慎  孫堅の無能な上司


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周生  司馬懿の殺害を企てる


周生(しゅうせい)字は不明
豫州潁川郡の人(??~??)

庶民?

出仕前の司馬懿は隠者の胡昭(こしょう)と親しくしていた。ある時、同郷の周生が司馬懿の殺害を企てたと聞き、胡昭は遠路はるばると出向き制止した。周生ははじめ耳を貸さなかったが、涙ながらに説得されると心を動かされ取り止めた。
胡昭はこれを口外しなかったが、彼の誠実さは有名だった。(『管寧伝』)



周生烈  「義例」を著した徴士


周生烈(しゅうせいれつ)字は不明
涼州敦煌郡の人(??~??)

隠者。
姓が周生で名が烈。

経書の注釈を著し、孫叔然(そんしゅくぜん)、董遇(とうぐう)らの注釈とともに広く世間に伝わった。
著作の「義例」が「論語集解」に引用され、他の著書も「中経簿」に見えるという。(『王朗伝』)

涼州刺史の張既(ちょうき)が招聘した人物の一人で、みな名声と地位を得たと記される。(『張既伝』)

だが「王朗伝」には「魏はじめの徴士(官位に就かない高徳の士)」と記され矛盾している。(『王朗伝』)



周旌


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周宣  魏の夢占い師


周宣(しゅうせん)字は孔和(こうか)
青州楽安郡の人(??~239)

魏の臣。

夢占いに長けた。
郡の役人の時、太守の楊沛(ようはい)が「8月1日に曹公(曹操)が来られ、杖と薬酒をくれるだろう、と言われる夢を見た」と相談した。
周宣は「杖は力のない者を立たせ、薬酒は病気を治します。8月1日に黄巾賊が滅ぼされるでしょう」と見立て、的中させた。

劉楨(りゅうてい)が、四本足の蛇が門の中に穴を掘って住み着く夢を見た。
周宣は「これはあなたではなく国家についての予知夢です。蛇は女を表し、足は蛇にあるべきではありません。女が反乱し誅殺されるでしょう」と見立てた。
その後、女賊の鄭(てい)と姜(きょう)が反乱し討伐された。

曹丕が「宮殿の瓦が2枚落ち、つがいの鴛鴦に変化する夢を見た」と相談した。
周宣は「後宮でにわかに人が亡くなられます」と答えた。
曹丕が実はそんな夢を見ていないと明かすと(※それにしても曹丕は性格が悪い)周宣は「夢は意(心)に他なりません。意が言葉に表現されれば吉凶は定められます」と言った。
この言葉が終わらないうちに、宮女が人を殺したという急報が届いた。

曹丕は今度は「青い気が地面から立ち昇り、天までつながる夢を見た」と相談した。
周宣は「高貴な女性が冤罪で死にます」と答えた。
曹丕は皇后の甄姫に自害を命じたことだと思い当たり、止めさせようとしたが間に合わなかった。

曹丕はさらに「銅銭をこすって文様を摩耗させようとするが、ますますはっきりしてくる」夢を伝えたが、周宣は何も言わなかった。曹丕が重ねて尋ねると「これは陛下の家庭のことです。そうしたいのに太后がお許しにならないのでしょう」と答えた。
曹丕は弟の曹植(そうしょく)を処刑させたかったが、卞太后(べんたいこう)に反対されていた。

曹丕は周宣を中郎とし、太史を兼任させた。

ある人が「夢で芻狗(祭祀に使うワラで作った犬)を見た」と相談した。
周宣は「ご馳走にありつけます」と言い的中させた。
同じ人がまた芻狗が夢に出たと言うと、今度は「車から落ちて足を折ります」と答え、これも的中させた。
またまた芻狗が夢に出ると「火事が起こります」と占い、的中した。
その人が「実は一度もそんな夢を見ていない。どうして当たるのか」と不思議がると、周宣は「これは神霊があなたにそう言うように仕向けたのです。実際に夢を見たのと同じことです」と言った。
さらに「なぜ同じ夢なのに3回とも違う結果なのか」と聞かれると「芻狗は祭祀に使われ、お供え物をされます。終わると馬車で轢かれ、車ごと燃やす儀式を行います」と解いた。

周宣の夢占いは十中八九は的中し、人相見で評判を博した朱建平(しゅけんぺい)と並び称された。
この他にも数多くの占いを的中させた。

239年(明帝の末年と記される)に没した。(『周宣伝』)

陳寿は彼らを「方技伝」にまとめ「奥深く隔絶した巧みさであり、非凡な優れた技術だった。司馬遷も「史記」に不思議な事柄を載せ、常識を超えた物事の存在を知らしめたから、それにならった」と記している。



周泰  傷だらけの戦士


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周忠  周瑜の従父の太尉


周忠(しゅうちゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。
周瑜の従父。

192年、光禄勲の時、皇甫嵩(こうほすう)の後任の太尉に任じられ、録尚書事となった。(『後漢書 献帝紀』)

父の周景(しゅうけい)と同じく太尉に上った。(『周瑜伝』)

「三輔決録注」に曰く。
三公に欠員が出るたび、周忠・皇甫嵩らはいったん辞退し士孫瑞(しそんずい)を推薦した。(『董卓伝』)

「献帝紀」に曰く。
李傕(りかく)は太尉の周忠らを嫌悪していたため殺そうとしたが、賈詡に「天子の大臣をなぜ殺そうとするのか」と諌められ思いとどまった。(『賈詡伝』)

兵を集め李傕らを討とうとしていた朱儁(しゅしゅん)は、周忠・賈詡の献策により宮中に招かれた。
配下は反対したが「詔勅には逆らえない。李傕らは凡庸で長期的計画を持たず、変事は必ず起こる。私が内からそれに乗じれば万事解決できる」と応じた。(『後漢書 朱儁伝』)

193年、(天変地異が続いたため?)罷免され朱儁が後任の太尉になった。(『後漢書 献帝紀』)

李傕・郭汜(かくし)らが仲間割れを起こし、郭汜は朱儁を人質に取って利用しようとした。剛直な朱儁は怒りからその日のうちに病を発し没した。(『後漢書 朱儁伝』)



周朝  区星に呼応した賊徒A


周朝(しゅうちょう)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

長沙郡で反乱した区星(おうせい)は1万人を集め周辺を攻撃したが、長沙太守に赴任した孫堅に1月も経たずに撃破された。
周朝・郭石(かくせき)も区星に呼応し零陵・桂陽郡で民衆を率い反乱していたが、孫堅は郡境を越えて討伐し全て平定した。

「呉録」に曰く。
豫章郡宜春県からも救援要請を受けた。任地外への討伐は本来は違法のためやめるよう進言されたが、孫堅は「私には文徳もなくただ征伐によって功績を立ててきた。郡境を越えて討伐し人々を救えるなら、罪を得たとしても天下の人々になんら恥じることはない」と構わず出撃した。(『孫堅伝』)

188年、長沙・零陵・桂陽郡で反乱した不服住民の周朝・蘇馬(そば)らの討伐で朱治(しゅち)は手柄を立てた。(『朱治伝』)



周直  李通に暗殺される


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周毖  人事で董卓を苦しめる


周毖(しゅうひ)字は仲遠(ちゅうえん)
涼州武威郡の人(??~190)

後漢の臣。
豫州刺史を務めた周慎(しゅうしん)の子。(『後漢書 献帝紀』)

名や出身地に異同が見られるので以下に列記する。
「後漢書 献帝紀」等は周珌(しゅうひつ)と記す。(※後漢書は名の細かな差異が多い)
「蜀書 許靖伝」は周毖、漢陽郡の人と記す。
「董卓伝」の注に引く「英雄記」は周毖、字は仲遠、武威郡の人と記す。

189年、董卓は実権を握ると許靖(きょせい)と吏部尚書の周毖に人事を任せた。荀爽(じゅんそう)・韓融(かんゆう)・陳紀(ちんき)らが昇進し公・卿・郡守に取り立てられた。(『許靖伝』)

董卓は少帝を廃そうと考え、袁紹に相談したが逃げられた。
侍中の周毖・伍瓊(ごけい)・何顒(かぎょう)らは裏で袁紹と内通していたため「袁紹は廃位という大事に関わるのを恐れただけです。下手に賞金首にして刺激すれば、代々の名家の袁氏は多くの味方を集めて挙兵するでしょう」と警告した。
董卓は袁紹を勃海太守に任じ、列侯して恩を売った。(『袁紹伝』)

尚書の周毖や伍瓊は韓馥(かんふく)、劉岱(りゅうたい)、孔伷(こうちゅう)、張咨(ちょうし)、張邈(ちょうばく)らを各地の刺史・太守に推挙したが、190年、挙兵した袁紹に呼応した。
董卓は内通して自分を売ったと思い込み、周毖と伍瓊を処刑した。(『董卓伝』)



周鳳


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周魴  髪を剃って曹休を騙す


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周勃


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周瑜  歴史を変えられなかった天才


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周不疑  悲運の神童


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修武盧  軻比能とともに魏と交易する


修武盧(しゅうぶろ)
烏丸の人(??~??)

代郡烏丸の大人(指導者)?

222年、鮮卑の大人の軻比能(かひのう)は配下や修武盧ら3千騎で牛馬7万頭を率い、魏と交易した。さらに中原から亡命してきた人々を送還するなど融和政策を進めた。(『鮮卑伝』)



従銭  牟平の賊徒


従銭(じゅうせん)字は不明
青州東莱郡牟平の人(??~??)

賊徒。

数千の仲間を集めて暴れまわっていたが、何夔(かき)と張遼に討伐された。(『何夔伝』)



習温


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習氏  李衡の賢妻


習氏(しゅうし)名は不明
出身地不明(??~??)

李衡(りこう)の妻。

253年、李衡は丹陽太守への出向を願い出た。
当時、丹陽の役所で孫休が暮らしており、李衡は妻の習氏の忠告も聞かず、法律に則って孫休を容赦なく取り締まり、窮屈に思った孫休は会稽へと移住した。

258年、孫休が皇帝に即位すると、意趣返しをされると思い李衡は「お前の言うことを聞かなかったばかりにこんなことになってしまった」と妻に嘆き、魏に亡命しようと言うと、習氏は「あなたには庶民の身から引き立てられた恩があります。それに何度も孫休様へ無礼を働いたのに、今さら疑心暗鬼にかられて保身のために亡命したら、人々に顔向けできません」とたしなめた。

そして習氏は「孫休様はもともと善事や名声を好みます。即位して天下に自身を誇示しようという時に、私怨であなたを殺そうとはしないでしょう。むしろ自ら処罰を乞えば生き延びるどころか厚遇を得られます」と自首を勧めた。
はたして李衡が自首すると、孫休は後に仕えることになる主君を攻撃した故事を引き、李衡は主君のために尽くしただけだと言い、威遠将軍の官位を加増した。

李衡は常々、家業を営み財産をなしたいと考えていたが、習氏に反対されていた。そこで故郷に近い武陵郡に妻に内緒で土地を買い、みかんを千株植えさせ、十人の小作人に世話させた。
李衡は臨終の床で子を呼び「母さんが家業に反対するから我が家は貧乏だが、実は木の奴僕を千人召し抱えている。彼等は衣食も要求せず毎年、絹を一匹ずつ送ってくれるから、それを家計の足しにしなさい」と遺言した。
死後、話を聞いた習氏は「柑橘を植えたのでしょう。小作人が10人いなくなって7~8年経ちます。父さんは司馬遷の「千株のみかんは諸侯の財産に匹敵する」という言葉を好んで口にしていました。私は富貴より徳義を重んじなさいと忠告したものです」と言った。

280年頃には李衡のみかん畑は毎年、絹数千匹もの利益を上げ、家計を潤すようになった。晋の咸康年間(335~342)にその畑の跡地が記録されているという。(『孫休伝』)



習授  婁圭の暴言を告げ口する


習授(しゅうじゅ)字は不明
荊州南郡の人(??~??)

魏の臣。

「呉書」に曰く。
婁圭(ろうけい)と車に同乗していた時、曹操父子と行き合った。
習授が「父子揃ってこのよう(絢爛豪華?)だとは、なんと素晴らしいことか」と感嘆すると、婁圭は「(うらやましければ)自分もそうすればよい。ただ眺めているだけとは」と皮肉った。
習授が叛心を疑わせるこの不遜な言葉を言上したため、婁圭は処刑された。(『孔融伝』)



習忠  習禎の子


習忠(しゅうちゅう)字は不明
荊州襄陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
習禎(しゅうてい)の子。

父は龐統に次ぎ、馬良(ばりょう)を上回る名声があり、子の習忠も有名だった。
尚書郎まで上った。(『楊戯伝』)

子の習隆(しゅうりゅう)は歩兵校尉に上り、向充(しょうじゅう)とともに諸葛亮の霊廟の建立に貢献した。(『諸葛亮伝』)



習禎  龐統に次ぎ、馬良を上回る名声


習禎(しゅうてい)字は文祥(ぶんしょう)
荊州襄陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
習忠(しゅうちゅう)の父。

洒脱で談論に巧みで、名声は龐統に次ぎ、馬良(ばりょう)を上回った。(『楊戯伝』)
妹が龐統の弟の龐林(ほうりん)に嫁いだ。(『龐統伝』)

劉備に仕え、214年に益州が制圧されると、雒県・郫県の県令を経て広漢太守に上った。
しかし他の事績は伝わっていない(ため立伝されなかった)。

子の習忠も有名で尚書郎まで上った。(『楊戯伝』)

孫の習隆(しゅうりゅう)は歩兵校尉に上り、向充(しょうじゅう)とともに諸葛亮の霊廟の建立に貢献した。(『諸葛亮伝』)

楊戯(ようぎ)は「季漢輔臣賛」で「善良で広く志を伸ばした、益州の優れた人物」と評した。(『楊戯伝』)



習隆  習忠の子


習隆(しゅうりゅう)字は不明
荊州襄陽郡の人(??~??)

蜀の臣。
習忠(しゅうちゅう)の子。習禎(しゅうてい)の孫。

宮中の書物の校勘に当たった。(『楊戯伝』)

234年、諸葛亮が没すると、あちこちで霊廟を建立したいとの申し出があったが、礼の原則を盾に朝廷は認めなかった。
歩兵校尉の習隆と向充(しょうじゅう)は「古代にも多くの偉人が霊廟を建てられました。諸葛亮の徳義はあまねく手本とされ、王室が滅びなかったのも彼のおかげです。それなのに祭祀は民衆や異民族の間だけで行われています。陛下(劉禅)は民衆の言うままに霊廟を建てれば原則を破り、また都に建てれば(劉備らの)宗廟に近すぎるから迷っているのでしょう。
ならば諸葛亮の霊廟は彼の墳墓の近くに建て、親族にのみ祭祀を許可し、他の者には参詣だけを認めましょう」と進言し、認められた。(『諸葛亮伝』)



脩  劉曄の母


脩(しゅう)姓は不明
出身地不明(??~??)

劉曄(りゅうよう)の母。
劉普(りゅうふ)の夫。

劉曄が7歳、兄の劉渙(りゅうかん)が9歳の時に病に倒れ「父(劉普)の側近は人に取り入り悪事を引き起こす性質で、私の死後に家をむちゃくちゃにするに違いないと心配です。お前達が大きくなって彼らを除けば思い残すことはありません」と子らに遺言した。
劉曄は13歳になると「母の言葉を実行しましょう」と言ったが、劉渙は「どうしてそんなことができよう」とためらった。劉曄はそれを聞くや自ら側近を殺し、母の墓に報告へ行った。
家中は仰天し、劉普も激怒すると劉曄は頭を下げ「母上のご遺言です。父上にお願いもせず勝手に行った罰は受けます」と謝った。劉普は見どころがあると思い、結局咎めなかった。(『劉曄伝』)



脩允  郭馬の乱のきっかけとなる


脩允(しゅういん)字は不明
出身地不明(??~279)

呉の臣。
脩則(しゅうそく)の子。

268年、父の脩則は晋軍の霍弋(かくよく)、毛炅(もうけい)と戦い敗死した。

271年、陶璜(とうこう)は交阯を攻め、毛炅を捕虜にした。武勇に優れるため解放しようとしたが、脩允は父の仇であると、処刑を願った。
毛炅にも恭順する意思はなく、陶璜に拷問されてもひるまず「お前たちの父親は死んだ犬だ」などと罵り続けながら殺された。
(※この逸話は「華陽国志」に記されるが、「漢晋春秋」や「晋書」とは顛末が異なっている)(『孫晧伝』)

孫晧は陶璜を武昌督に任じ、合浦太守の脩允と(交州牧を?)交替させようとしたが、交州の人々が陶璜を留任させるように請願したため、陶璜は元の地位に復した。(『晋書 陶璜伝』)

279年、合浦太守の脩允は桂林太守に転任となったが、病気のため広州に留まり、先に私兵隊長の郭馬(かくば)に500の兵を預けて桂林郡へ行かせ、異民族の慰撫に当たらせた。
ところが脩允はそのまま没し、兵は分割され各地へ転属させられることになった。郭馬らは父祖の代から同じ軍団に属しており、分かれることを望まなかった。
折しも孫晧は課税のため広州の戸籍を正確に調べようとしており、民衆は不安を抱いていた。郭馬は軍団の将らと共謀し、兵や民衆を扇動して蜂起した。

同年冬、晋の大軍が呉へ侵攻を開始し、内外から攻められた呉は翌年に滅亡した。(『孫晧伝』)



脩則  脩允の父


脩則(しゅうそく)字は不明
出身地不明(??~268)

呉の臣。

268年、呉は交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)と前部督(※「晋書」では大都督)の脩則に交阯郡を攻めさせた。
南中監軍の霍弋(かくよく)は、益州から毛炅(もうけい)らと大軍を率いて迎撃に出て、劉俊と脩則を討ち取った。(『孫晧伝』・『晋書 陶璜伝』)

271年、陶璜(とうこう)は交阯を攻め、毛炅を捕虜にした。武勇に優れるため解放しようとしたが、脩則の子の脩允(しゅういん)は父の仇であると、処刑を願った。
毛炅にも恭順する意思はなく、陶璜に拷問されてもひるまず「お前たちの父親は死んだ犬だ」などと罵り続けながら殺された。
(※この逸話は「華陽国志」に記されるが、「漢晋春秋」や「晋書」とは顛末が異なっている)(『孫晧伝』)



襲粛


未作成



祝奥  賈逵に惑わされた謀臣


祝奥(しゅくおう)字は不明
出身地不明(??~??)

郭援(かくえん)の臣。

202年、郭援は河東郡を攻め、賈逵(かき)を捕虜とした。
賈逵は開戦前から「もし戦になれば皮氏(※地名)を占拠した方が勝つ」と考え、包囲されかかると使者を出して皮氏を占拠するよう進言していた。このままでは間に合わないと思い、郭援の謀臣の祝奥を言葉巧みに迷わせ、進軍を7日間遅らせたため、皮氏の占拠は間に合った。(『賈逵伝』)

「魏略」に賈逵を助けた義士の祝公道(しゅくこうどう)という人物がいる。あるいは同一人物か。



祝公道  賈逵を救った侠客


祝公道(しゅくこうどう)字が公道か
司隸河南尹の人(??~??)

侠客。

202年、并州刺史の高幹(こうかん)は曹操に反旗を翻し、郭援(かくえん)に河東郡を攻撃させ、役人をしていた賈逵(かき)も捕らえられた。
賈逵は屈服せず郭援を罵ったが、県長として善政を布いていたため官民が助命嘆願し、殺害されなかった。
穴蔵に閉じ込められた賈逵が「ますらおはいないのか。正しい人間を死なせてよいのか」と言うと、祝公道はそれを聞き、夜に牢を襲撃して解放してやった。

郭援が討伐された後、賈逵は自分を救ったのが祝公道だと知った。
後に祝公道は別の罪に問われた。賈逵は救おうとしたが、当時の彼の力では及ばず、祝公道が(処刑され)没すると、喪服に着替えて死を悼んだ。(『賈逵伝』)

「魏略」では孫嵩(そんすう)、楊豊(ようほう)、鮑出(ほうしゅつ)とともに「勇侠伝」に列伝された。
著者の魚豢(ぎょかん)は「司馬遷は季布を助けた周氏・朱家を讃えたが、孫嵩・祝公道の義心はそれ以上である。彼らの名を消さず、軽薄な世俗を正すことを願う」と評した。(『閻温伝』)



祝恬  劉焉の師(?)の司徒


祝恬(しゅくてん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。
司徒を務めた。

劉焉(りゅうえん)は王族に連なるため若くして昇進し中郎となったが、師の祝公(しゅくこう)が没すると喪に服すため官を辞した。
裴松之は祝恬のことだろうと推測する。(『劉焉伝』)



祝臂  徐晃・曹洪に撃破された賊徒


祝臂(しゅくひ)字は不明
豫州汝南郡㶏強県の人(??~??)

賊徒。

200年、官渡の戦いで徐晃は曹洪(そうこう)とともに㶏強の賊の祝臂を撃破した。(『徐晃伝』)



宿舒  降伏で油断させ呉を偵察した使者A


宿舒(しゅくじょ)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫淵(こうそんえん)の臣。

232年、呉は周賀(しゅうが)・裴潜(はいせん)を遼東へ向かわせたが、魏の田豫(でんよ)に撃破され周賀が斬られた。

「魏略」に曰く。
魏は遼東を懐柔するため「周賀に同行していた宿舒は辛くも逃げ延びたが魂が抜けたようになってしまった。宿舒は使者の役目を押し付けられただけで罪はない」と述べた。(『公孫度伝』)

同年冬、公孫淵は校尉の宿舒と郎中令の孫琮(そんそう)を呉へ送り降伏を申し出た。

233年、宿舒・孫琮の帰国に孫権は1万の兵と使者を同行させた。
顧雍(こよう)らは公孫淵はまだ信頼できないから、護衛の兵を数百人付けるだけでいいと諌めたが孫権は聞き入れず、公孫淵は裏切り使者を殺して兵を奪った。(『呉主伝』)

「魏略」に曰く。
公孫淵は魏に恭順の意を示すため「宿舒・孫琮が偵察したところ呉の兵は少なく、孫権は彼らから私の息子のことを聞き、勝手に官位を与えました」と述べた。

「魏臣名奏」に曰く。
夏侯献(かこうけん)は上表で「公孫淵は呉を頼りにしようとしたが、宿舒らが呉の兵が少ないと報告したため断交した」と述べた。(『公孫度伝』)



荀緯  王象とともに推挙される


荀緯(じゅんい)字は公高(こうこう)
司隷河内郡の人(182~223)

魏の臣。

若くして文学を愛好し、長じると建安七子には及ばないが優れた文才の持ち主と評された。
建安年間(196~220)に(『王粲伝』)、并州刺史の梁習(りょうしゅう)の推薦で常林(じょうりん)、楊俊(ようしゅん)、王淩(おうりょう)、王象(おうしょう)らとともに召し出され、県長に任じられた。(『常林伝』)

軍謀掾、太子庶子と昇進して行き、散騎常侍・越騎校尉にまで上った。(『王粲伝』)

222年、曹丕はかつて後継者争いの際に自分に敵対した楊俊を憎んでおり、些細な罪で自害を命じた。
司馬懿、王象、荀緯らは平伏し、頭から血を流すほど助命嘆願したが、楊俊は罪を認め、自害した。
王象も悲憤から病に倒れ、間もなく没した。(『楊俊伝』)

翌223年、荀緯もまた42歳で没した。(『王粲伝』)



荀彝  荀攸の父


荀彝(じゅんい)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

後漢の臣。
荀曇(じゅんたん)の子。
荀攸(じゅんゆう)の父。

「漢紀」に曰く。
州の従事を務めた。荀彧の又従兄弟だった。

父の荀曇より先に没し、荀攸は荀彝の弟の荀衢(じゅんく)に養育されたと思われる。(『荀攸伝』)

荀攸が13歳の時には既に没しており、没年は169年以前だろう。
荀攸が7~8歳の時に叔父を気遣った逸話もあり、さらに5~6年前か。



荀昱  荀攸の大伯父


荀昱(じゅんいく)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

後漢の臣。
荀曇(じゅんたん)の兄。
荀攸(じゅんゆう)の大伯父。

「漢紀」に曰く。
弟の荀曇とともに傑物で並外れた才能があった。
荀昱は李膺(りよう)らとともに「八俊」と呼ばれ、沛国相まで上った。(『荀攸伝』)



荀彧  王佐の才


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荀愔  荀攸の族父


荀愔(じゅんいん)字は不明
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

後漢の臣。
荀攸(じゅんゆう)の族父。

「荀氏家伝」に曰く。
族子の荀祈(じゅんき)とともに著名だった。
荀祈は孔融(こうゆう)と肉刑について意見を戦わせ、荀愔は孔融と聖人の優劣について議論した。ともに「孔融集」に収録された。
後に有道に推挙されて朝廷に召され、(曹操の)丞相祭酒まで上った。(『荀攸伝』)



荀頵  荀彧の曾孫


荀頵(じゅんいん)字は温伯(おんはく)
豫州潁川郡穎陰県の人(??~??)

晋の臣。
荀甝(じゅんかん)の子。
荀彧の曾孫。

父が没すると後を継いだ。
「荀氏家伝」に曰く、羽林右監となったが若くして没した。

「晋陽秋」に曰く。
子の荀崧(じゅんすう)は開府儀同三司まで上り、子孫は宋代まで続いている。(『荀彧伝』)



荀羽  荀寓の子


荀羽(じゅんう)字は不明
豫州潁川郡潁陰の人(??~??)

晋の臣。
荀寓(じゅんぐう)の子。荀彧の曾孫。

父が没すると後を継ぎ、父と同じく尚書まで上った。(『荀彧伝』)



荀禹  江夏郡を寡兵で救援


荀禹(じゅんう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

226年、曹丕の死に乗じ孫権が荊州江夏郡を攻撃した。群臣は救援を求めたが、曹叡は「孫権は水戦に慣れているのにあえて陸戦を仕掛けたのは急襲するためだ。だが江夏太守の文聘(ぶんぺい)はよく防ぎ、攻撃側には倍の兵力が必要だがそれも足りていない。持久戦になったから絶対に長居はしない」と言い、援軍は送らず治書侍御史の荀禹を慰労に向かわせた。
荀禹は道すがら1千の兵を集め、江夏に到着すると山に登って狼煙を上げ、それを見た孫権は撤退した。(『明帝紀』)



荀惲  荀彧の長男


荀惲(じゅんうん)字は長倩(ちょうせん)
豫州潁川郡潁陰県の人(??~??)

魏の臣。
荀彧の長男。
「荀彧伝」に附伝される。

曹操の娘の安陽公主(あんようこうしゅ)をめとった。
212年、父が没すると爵位を継ぎ、虎賁中郎将まで上った。

曹丕と曹植(そうしょく)が激しく後継者争いをした時、曹丕は礼に背いてまで荀彧にへりくだったが、荀彧の死後に荀惲は曹植と親しくし、また曹丕の親友の夏侯尚(かこうしょう)と不仲だったため、義兄弟ながら曹丕にはひどく憎まれた。
しかし二人の息子は甥に当たることから、荀惲が若くして没すると曹丕はかわいがった。

子の荀甝(じゅんかん)が後を継ぎ、散騎常侍・広陽郷侯まで上ったが30歳で没した。(『荀惲伝』)

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