周浚 王渾に振り回された副将
周浚(しゅうしゅん)字は開林(かいりん)
豫州汝南郡安成県の人(??~??)
魏・晋の臣。
周裴(しゅうはい)の子。
父は少府まで上った。
果敢かつ剛毅で才知があり、人物鑑定眼に優れた。同郷の史曜(しよう)は貧しい出自で無名だったが、周浚は友人として付き合い、妹を嫁がせた。史曜は後に大いに名を上げた。
はじめ州郡の招きに応じなかったが、魏に仕え尚書郎となった。昇進を重ね御史中丞となり、やがて折衝将軍・揚州刺史に任じられ射陽侯に封じられた。
当時、晋・呉の諸将は交易する人々を襲って略奪していた。呉の蔡珪(さいけい)は弟の蔡敏(さいびん)へ手紙を送り「古来より国境地帯では軍も国も信義を尊んでいた。だが今は略奪が横行していると聞く。弟よ、小利を貪り大いなる備えを忘れるな」と戒めた。
この手紙が晋の斥候に奪われ、読んだ周浚は「君子である」と感心した。
呉征伐の際に蔡珪を探し当て、どこの出身か問うと蔡珪は汝南郡だと答え、周浚は「私は呉に君子などいないと思っていたが、やはりあなたは同郷の人だったか」と冗談を飛ばした。
279年からの呉征伐では王渾(おうこん)の指揮下に入り、呉の主力と戦い丞相の張悌(ちょうてい)ら数千の首級を挙げ、1万人以上の捕虜を得た。(『晋書 周浚伝』)
「晋紀」に曰く。
張悌・孫震(そんしん)・沈瑩(しんえい)は3万の兵を率い長江を渡って迎撃した。
晋の張喬(ちょうきょう)は7千の兵で揚荷橋を守っていたが降伏を申し出た。諸葛靚(しょかつせい)は無視して殲滅すべきだと進言したが、張悌は「強敵が前方に控えており、小勢にかかずらっている場合ではない。それに降伏してきた者を殺すのは不祥だ」と却下した。
諸葛靚はなおも「こいつらは援軍が来ないからひとまず偽って降伏しただけで、本心ではありません。戦意を失っている今のうちに全員生き埋めにすべきで、捨て置けば後の災いとなります」と反対したが、張悌は聞き入れなかった。
晋の張翰(ちょうかん)・周浚と対峙し、沈瑩の兵は「青巾兵」と呼ばれ勇猛だったが三度攻めても晋軍はびくともせず、退却しようとすると混乱が起こり、薛勝(せつしょう)・蔣班(しょうはん)に追撃され大破された。張喬も挙兵して背後を襲い、張悌・孫震・沈瑩らは捕らえられた。(『孫晧伝』)
別働隊の王濬(おうしゅん)が長江の上流で快進撃を続けると、周浚配下の何惲(かうん)は「我々が精鋭の張悌を斬り、呉の人々は上も下も震え上がっています。王濬の勢いも盛んで、このまま呉の都の建業に迫れば戦わずして降伏させられるでしょう」と進言した。
周浚ももっともだと思い王渾に相談しようとすると、何惲は「王渾は機を察するのに疎く、保身を考え過失を避けるので、きっと耳を貸さないでしょう」と言い、王渾はその予想通りに「詔勅には江北で呉軍と対峙せよとだけ書かれている。あなたは武名高いが単身では勝てないだろう。命令に背けば称賛されず、勝てなければもっと罪は重い。王濬も私の指示に従うよう詔勅が下されているから、合流してから進軍すればいい」と却下した。
何惲は「王濬は向かうところ敵なく、間違いなく勝てるのにそれを放棄してわざわざ指示を受けに来るなどありえません。戦場では主君の命令に背いてでも臨機応変に対応すべきです。失敗を恐れるのは「智」ではなく、勝利するとわかっているのにやらないのは「忠」ではありません。進軍しなければ揚州の誰もが恨みに思うでしょう」と食い下がったが、王渾は聞き入れなかった。
はたして王濬は王渾の指示を無視して兵を進め、孫晧を降伏させた。
王渾は激怒し王濬を弾劾した。何惲は周浚へ「我々の意見を却下し進軍を止めた時点で勝機を失っていたのに、王渾は未練がましく功績を競おうとしています。王濬も黙っていないので醜い争いになるのは勧められません」と言い、周浚はすぐ王渾を諌めたが、これも聞き入れられず王濬と王渾・周浚は激しく争うこととなった。(『晋書 周浚伝』)
王渾・王濬は激しく非難し合い、周浚も呉の宝物を略奪し、戦果も水増ししたと濡れ衣を着せられた。(『晋書 王渾伝』)
呉征伐の武功により爵位は成武侯に進み、領邑6千戸となった。翌281年、揚州刺史の役所を秣陵(建業)に移し、呉の旧臣のうち反乱者を討伐し、従う者は客人としてもてなし、才徳ある者を探し求め、非常に威厳と恩徳があったため、旧臣は喜んで従った。
侍中に上り、司馬炎に一族の年少の者で任用すべき人材を問われ、叔父の子の周恢(しゅうかい)と従父の子の周馥(しゅうふく)を清廉であるとして推挙した。
父と同じく少府に上り、将作大匠を兼任した。宗廟を改築し500戸を加増され、後に王渾の後任の使持節・都督揚州諸軍事・安東将軍となり在官中に没した。
子の周顗(しゅうぎ)が後を継いだ。(『晋書 周浚伝』)
安東将軍の時、狩猟に出て雨に降られ、李氏(りし)の家で雨宿りした。その時、家には父兄が不在だったが李氏は一人の下女とともに猪や羊をさばき数十人分の御馳走を揃えた。非常に手際が良いのに人の声すら聞こえず、周浚は不思議に思い奥を覗くと、若く美しい李氏が一人で料理していた。
感心した周浚は妾に迎えたいと望み、父兄は反対したが李氏は「家門が衰えているのになぜ一人の娘を惜しむのですか。貴族と縁戚になれば利益が望めます」と説得した。
周顗ら三人の男子に恵まれ、長じると「私が節を曲げて妾となったのは、実家のためです。お前たちが世話しないなら私は命を惜しみません」と脅しつけ、李氏の実家も貴族となった。(『晋書 周顗母李氏伝』)
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