三国志 し 10


秦夫人  曹玹・曹峻の母


秦夫人(しんふじん)名は不明
出身地不明(??~??)

曹操の側室。
曹玹(そうけん)、曹峻(そうしゅん)の母。(『武文世王公伝』)



秦宓  当意即妙の論客


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秦翊  劉馥に説得された袁術配下B


秦翊(しんよく)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

はじめ袁術に仕えた。
建安年間(196~220)はじめ、劉馥(りゅうふく)に説得され戚寄(せきき)とともに軍勢を引き連れ曹操へ鞍替えした。(『劉馥伝』)



秦朗  曹叡の腰巾着


秦朗(しんろう)字は元明(げんめい)
并州新興郡の人(??~??)

魏の臣で曹操の養子。
呂布に仕えた秦宜禄(しんぎろく)と杜氏(とし)の子。

紆余曲折あり、秦宜禄は張飛に殺され、杜氏は曹操の側室となった。
杜氏は寵愛され夫人の位にまで上り、秦朗も曹操に「世の中に私ほど連れ子を可愛がるものがいるだろうか」と自慢されるほど我が子同然に寵愛された。(『明帝紀』)

同時期に何晏(かあん)も母が曹操の側室となり、曹丕・秦朗と兄弟のように育てられた。秦朗は慎重な性格でおとなしくしたが、何晏は遠慮を知らずまるで太子のように振る舞ったため、曹丕は彼を嫌い姓や字ではなく「養子」と呼んだ。(『曹真伝』)

無能で気ままに遊び歩くが厚遇され、曹叡(そうえい)の代には驃騎将軍に上った。曹叡はその頃たびたび処刑を命じたが、秦朗はただの一度も反対せず、ただの一人も人材を推挙しなかった。口うるさくない彼は曹叡の信頼を受け、幼名の阿蘇(あそ)と親しく呼ばれ、褒美や大邸宅を下賜された。周囲の者は秦朗が無能だと知っていたが、仲良くすれば恩恵が得られるので、こぞって賄賂を贈ったため、莫大な富を蓄えた。

戦働きもいちおうしており、233年には反乱した鮮卑の討伐に赴き、大勝した。(『明帝紀』)
翌年には五丈原で諸葛亮と対峙した司馬懿への援軍としても派遣されている。(『晋書 宣帝紀』)

古代の指南車(常に南を指し示す車)について議論し、実在すると言う馬鈞(ばきん)を、秦朗は高堂隆(こうどうりゅう)とともに嘲笑したが、馬鈞は実際に造ってみせた。(『杜夔伝』)

239年、曹叡は病に倒れると、曹宇(そうう)を大将軍に任じ、曹爽(そうそう)・曹肇(そうちょう)・夏侯献(かこうけん)・秦朗ら親族に補佐させようと考えた。
ところが謙虚な曹宇は固辞し、側近の劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)は曹肇・夏侯献と敵対していたため猛反対し、曹爽と司馬懿を推薦した。

結局、劉放・孫資の意見が通り、曹宇・秦朗らは都から出され要職から退けられた。(『明帝紀』・『劉放伝』)
その後の消息は不明だが「魏略」で秦朗は孔桂(こうけい)とともに「佞倖篇」に収められた。佞倖とは「こびへつらう」の意である。(『明帝紀』)

「演義」では司馬懿の配下の前将軍として登場。蜀に偽装投降した鄭文(ていぶん)が秦朗と名乗る偽物を瞬殺したが、諸葛亮は「司馬懿が瞬殺されるような雑魚を前将軍にするはずがない」と見抜いた。
結局、秦朗は諸葛亮の罠にはまり戦死した。



秦狼


未作成



甄韡  甄温の弟達


甄韡(しんい)字は不明
冀州中山郡無極の人(??~??)

魏の臣。
甄像(しんぞう)と広楽郷君(こうらくきょうくん)の子。

235年、父が没し兄の甄暢(しんちょう)が後を継ぐと、弟の甄温(しんおん)、甄韡、甄艶(しんえん)ら3人も列侯された。(『甄皇后伝』)



甄逸  甄姫の父


甄逸(しんいつ)字は不明
冀州中山郡無極の人(??~185)

曹丕の正室である甄姫の父。

祖先の甄邯は王莽の建国を助けた腹心で、家は代々2千石の官吏だった。
甄逸は上蔡の県令を務め、妻の張氏(ちょうし)との間に8人の子に恵まれたが、末娘の甄姫が3歳の時に没した。

「王沈魏書」に曰く。
甄姫は毎晩、眠っている時に半透明の人物が現れ、衣を掛けられており、家人はいつも不審がっていたが、この時も3歳とは思えないほどに酷く嘆き悲しんだため、彼らは非凡さを感じたという。

227年3月、孫(甄姫の子)にあたる二代皇帝の曹叡は、魏昌県安城郷の1千戸を甄逸に追贈し、敬侯と諡した。
235年、曹叡は従兄の甄像(しんぞう)に魏昌侯を追贈したのに合わせ、翌236年に甄逸も魏昌侯に改めた。(『甄皇后伝』)



甄栄  甄姫の兄姉たち


甄栄(しんえい)字は不明
冀州中山郡無極の人(??~??)

甄逸(しんいつ)と張氏(ちょうし)の子ら。
8人兄妹で末妹の甄姫が曹丕の正室となった。

長男の甄豫(しんよ)は夭折した。
次男の甄儼(しんげん)は孝廉に推挙され、大将軍掾、曲梁県長になったが、196年に没した。彼の子孫が家を継いでいった。
三男の甄堯(しんぎょう)は孝廉に推挙された。
長女の甄姜(しんきょう)、次女の甄脱(しんだつ)、三女の甄道(しんどう)、四女の甄栄は名前しかわからない。(『甄皇后伝』)



甄豔  甄温の弟達


甄豔(しんえん)字は不明
冀州中山郡無極の人(??~??)

魏の臣。
甄像(しんぞう)と広楽郷君(こうらくきょうくん)の子。

235年、父が没し兄の甄暢(しんちょう)が後を継ぐと、弟の甄温(しんおん)、甄韡(しんい)、甄豔ら3人も列侯された。(『甄皇后伝』)



甄温  甄一族の重鎮


甄温(しんおん)字は仲舒(ちゅうじょ)
冀州中山郡無極の人(??~??)

魏・晋の臣。
甄像(しんぞう)と広楽郷君(こうらくきょうくん)の子。

235年、父が没し兄の甄暢(しんちょう)が後を継ぐと、弟の甄温、甄韡(しんい)、甄艶(しんえん)ら3人も列侯された。(『甄皇后伝』)

254年、三代皇帝・曹芳の廃位を求める上奏に、射声校尉・安陽郷公として連名した。(『斉王紀』)
ちなみに父や251年に没した甄暢も射声校尉で、官位を継いだと思われる。

「晋諸公賛」に曰く。
264年、一族の甄悳(しんとく)、郭建(かくけん)らが公となり加増されたのに伴い、甄温も輔国大将軍、侍中を加えられた。
265年、晋代になると甄悳・郭建・甄温は特進となり、甄悳が司馬炎の姉婿にあたるため、以後も一族は厚遇された。(『甄皇后伝』)



甄姫  薄幸の麗人


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甄喜


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甄毅  甄姫の従兄の子


甄毅(しんき)字は不明
出身地不明(??~??)

二代皇帝・曹叡の母である甄姫の従兄の子。

青龍年間(233~237)、曹叡は甄毅と、甄姫の甥ら3人を列侯させた。
甄毅はしばしば上疏して政治に意見を陳述し、官位は越騎校尉にまで上った。(『甄皇后伝』)



甄挙  傅燮を列侯するよう推挙


甄挙(しんきょ)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

趙忠(ちょうちゅう)は以前、傅燮(ふしょう)に非難されたことを恨み、列侯の話を握りつぶしたことがあった。
趙忠が車騎将軍に上ると、黄巾の乱の功績を改めて論じるよう命じられ、執金吾の甄挙らは傅燮を列侯するよう推した。
趙忠は弟の趙延(ちょうえん)を使者に立て、慇懃な態度で「受ければ領邑は1万戸を超えるでしょう」と言うと傅燮は顔色を変え「厚遇と不遇は天命で、功績を採り上げられないのは時勢である。(先に列侯を握りつぶされておいて今さら)私的に賞賜など望むものか」と拒絶した。
趙忠はいよいよ恨みを深くしたが、傅燮の名声は高く手出しできなかった。だが多くの権力者に睨まれ、傅燮は難を避けるため漢陽太守に赴任した。(『後漢書 傅燮伝』)



甄姜  甄姫の兄姉たち


甄姜(しんきょう)字は不明
冀州中山郡無極の人(??~??)

甄逸(しんいつ)と張氏(ちょうし)の子ら。
8人兄妹で末妹の甄姫が曹丕の正室となった。

長男の甄豫(しんよ)は夭折した。
次男の甄儼(しんげん)は孝廉に推挙され、大将軍掾、曲梁県長になったが、196年に没した。彼の子孫が家を継いでいった。
三男の甄堯(しんぎょう)は孝廉に推挙された。
長女の甄姜、次女の甄脱(しんだつ)、三女の甄道(しんどう)、四女の甄栄(しんえい)は名前しかわからない。(『甄皇后伝』)



甄堯  甄姫の兄姉たち


甄堯(しんぎょう)字は不明
冀州中山郡無極の人(??~??)

甄逸(しんいつ)と張氏(ちょうし)の子ら。
8人兄妹で末妹の甄姫が曹丕の正室となった。

長男の甄豫(しんよ)は夭折した。
次男の甄儼(しんげん)は孝廉に推挙され、大将軍掾、曲梁県長になったが、196年に没した。彼の子孫が家を継いでいった。
三男の甄堯は孝廉に推挙された。
長女の甄姜(しんきょう)、次女の甄脱(しんだつ)、三女の甄道(しんどう)、四女の甄栄(しんえい)は名前しかわからない。(『甄皇后伝』)



甄儼  甄姫の兄姉たち


甄儼(しんげん)字は不明
冀州中山郡無極の人(??~??)

甄逸(しんいつ)と張氏(ちょうし)の子ら。
8人兄妹で末妹の甄姫が曹丕の正室となった。

長男の甄豫(しんよ)は夭折した。
次男の甄儼は孝廉に推挙され、大将軍掾、曲梁県長になったが、196年に没した。彼の子孫が家を継いでいった。
三男の甄堯(しんぎょう)は孝廉に推挙された。
長女の甄姜(しんきょう)、次女の甄脱(しんだつ)、三女の甄道(しんどう)、四女の甄栄(しんえい)は名前しかわからない。(『甄皇后伝』)



甄皇后  曹芳の最初の皇后


甄皇后(しんこうごう)名は不明
冀州中山郡毋極県の人(??~251)

曹芳の最初の皇后。
祖父は曹丕の正室だった甄姫の兄にあたる甄儼(しんげん)。

243年に立后されたが251年7月19日に没し、懐皇后と諡された。(『斉王紀』)



甄黄  曹淑と冥婚する


甄黄(しんこう)字は不明
出身地不明(232?~232?)

二代皇帝・曹叡の母である甄姫の従孫。

232年、曹叡は娘の曹淑(そうしゅく)が没すると平原懿公主と諡し、霊廟を建立した。そしてすでに死去していた甄黄と冥婚させ、郭皇后(かくこうごう)の従弟の郭悳(かくとく)を甄黄の養子にし、甄悳(しんとく)と名乗らせ平原侯として後を継がせた。
他家から養子にとる強引な手法は、後世にわたって批判された。

青龍年間(233~237)、曹叡は甄姫の従兄の子の甄毅(しんき)と、甄姫の甥ら3人を列侯させ、239年には甥の子の幼い甄暢(しんちょう)へ次々と官位を与え、甄姫の兄嫁の廟を建て、その地域を母を想う故事にならい渭陽里と名付けるなど、母の一族への厚遇は続いた。(『甄皇后伝』)

なお曹淑は1歳にならずに没しており、甄黄も同年齢で没したと思われる。



甄子然  孔融に祀られた孝子


甄子然(しんしぜん)字が子然か
青州北海郡の人(??~??)

素性不明。

「続漢書」に曰く。
孝行で評判を取ったが早逝した。
190年、北海国相に赴任した孔融は、甄子然に会えなかったことを残念に思い、県の鎮守の社に祀った。(『孔融伝』)



甄紹  甄暢の子


甄紹(しんしょう)字は不明
冀州中山郡無極の人(??~??)

魏の臣。
甄暢(しんちょう)の子。

251年に没した父の後を継いだ。
嘉平年間(249~254)に甄暢の2人の子が列侯されたとあり、兄弟もいたようだが他に記述はなく、叔父の甄温(しんおん)らが後に一族の重鎮となっており、あるいは早逝したのかもしれない。(『甄皇后伝』)



甄像  甄姫の甥


甄像(しんぞう)字は不明
冀州中山郡無極の人(??~235)

魏の臣。
甄儼(しんげん)と劉氏(りゅうし)の子。

父は曹丕の正室である甄姫の次兄だが、196年に没した。
甄姫は義姉の劉氏と実の姉妹のように仲睦まじく、遺児の甄像もかわいがった。

227年3月、従弟(甄姫の子)にあたる二代皇帝の曹叡は、魏昌県安城郷の1千戸を祖父の甄逸(しんいつ)に追贈し、敬侯と諡した。嫡孫の甄像が爵位を継ぎ、虎賁中郎将に任命された。
230年11月、甄姫の御陵が低地にあったため、甄像は太常を兼務し朝陽に改装し、散騎常侍に上った。
234年夏、呉軍が揚州に攻め寄せると、甄像は伏波将軍に任じられ、節を預かり軍を監督した。呉軍を撃退し、射声校尉に転じた。

235年、甄像は没した。
衛将軍を追贈され、魏昌県を領土とし、貞侯と諡された。子の甄暢(しんちょう)が後を継いだ。
243年、娘が三代皇帝・曹芳(そうほう)の皇后となった。(『甄皇后伝』)



甄脱  甄姫の兄姉たち


甄脱(しんだつ)字は不明
冀州中山郡無極の人(??~??)

甄逸(しんいつ)と張氏(ちょうし)の子ら。
8人兄妹で末妹の甄姫が曹丕の正室となった。

長男の甄豫(しんよ)は夭折した。
次男の甄儼(しんげん)は孝廉に推挙され、大将軍掾、曲梁県長になったが、196年に没した。彼の子孫が家を継いでいった。
三男の甄堯(しんぎょう)は孝廉に推挙された。
長女の甄姜(しんきょう)、次女の甄脱、三女の甄道(しんどう)、四女の甄栄(しんえい)は名前しかわからない。(『甄皇后伝』)



甄暢  甄氏の後継ぎ


甄暢(しんちょう)字は不明
冀州中山郡無極の人(??~251)

魏の臣。
甄像(しんぞう)と広楽郷君(こうらくきょうくん)の子。

235年に没した父の後を継いで魏昌侯となり、甄温(しんおん)ら3人の弟も列侯された。
甄暢は二代皇帝の曹叡の母である甄姫の家を継いでおり、まだ幼い彼を曹叡はことのほか厚遇した。
239年、父と同じ射声校尉、散騎常侍に任じられ、大邸宅を建てられ、曹叡もたびたび訪れた。後庭には甄暢の祖母のために高殿と廟が作られ、曹叡はその地域を母を想う故事にならい渭陽里と名付けた。

251年正月に没した。
車騎将軍を追贈され恭侯と諡された。子の甄紹(しんしょう)が後を継いだ。(『甄皇后伝』)



甄道  甄姫の兄姉たち


甄道(しんどう)字は不明
冀州中山郡無極の人(??~??)

甄逸(しんいつ)と張氏(ちょうし)の子ら。
8人兄妹で末妹の甄姫が曹丕の正室となった。

長男の甄豫(しんよ)は夭折した。
次男の甄儼(しんげん)は孝廉に推挙され、大将軍掾、曲梁県長になったが、196年に没した。彼の子孫が家を継いでいった。
三男の甄堯(しんぎょう)は孝廉に推挙された。
長女の甄姜(しんきょう)、次女の甄脱(しんだつ)、三女の甄道、四女の甄栄(しんえい)は名前しかわからない。(『甄皇后伝』)



甄悳  司馬炎の姉婿


甄悳(しんとく)字は彦孫(げんそん)
荊州西平郡の人(??~??)

魏・晋の臣。
郭立(かくりつ)の長男。

二代皇帝・曹叡の皇后の郭皇后は従姉にあたる。
旧姓の郭悳(かくとく)や郭徳と記されることも多い。

「晋諸公賛」に曰く。
才能も学問も無いが慎み深く謙虚だった。

232年、曹叡は娘の曹淑(そうしゅく)が没すると平原懿公主と諡し、甄姫(曹叡の母)の従孫ですでに死去していた甄黄(しんこう)と冥婚させた。
そして郭皇后の従弟の郭悳を甄黄の養子にし、甄悳と名乗らせ平原侯として後を継がせた。
他家から養子にとる強引な手法は、後世にわたって批判された。

「晋諸公賛」に曰く。
司馬師は実権を握ると、皇后の血統に結びつこうと考え、甄悳に娘を嫁がせた。その娘が早逝してしまうと、弟の司馬昭が娘の京兆長公主(けいちょうちょうこうしゅ)を嫁がせた。(『甄皇后伝』)

甄悳と弟の郭建(かくけん)は揃って鎮護将軍となり列侯された。(『明元郭皇后伝』)

254年、三代皇帝・曹芳の廃位を求める上奏に、中堅将軍・平原侯として連名した。その際に名は「郭徳」と記されている。(『斉王紀』)

「晋諸公賛」に曰く。
264年、広安県公となり1800戸に加増された。
265年、晋の代になると甄悳・郭建と一族の甄温(しんおん)は特進となり、甄悳が司馬炎の姉婿にあたるため、以後も一族は厚遇された。
甄悳は権力を得ても変わらず節操正しく、質素を重んじため誰からも尊敬された。晩年には宗正に転任し侍中に昇進した。

太康年間(280~289)、司馬炎の弟の司馬攸(しばゆう)は兄と反目し、都から追放されそうになった。甄悳と、司馬炎の娘婿の王済(おうせい)は有能な彼を追放するのは得策ではないと反対した。
人々は称賛したが司馬炎は不快に感じ、王済を左遷し、甄悳も大鴻臚に転任させ侍中・光禄大夫を付与させた。

その後、甄悳は病没し、中軍大将軍を追贈され恭公と諡された。
後を継いだ子の甄喜(しんき)も、父と同じく才能は無いが野心を持たなかったため、宗室に連なりながらも八王の乱に巻き込まれずに済んだという。(『甄皇后伝』)



甄豫  甄姫の兄姉たち


甄豫(しんよ)字は不明
冀州中山郡無極の人(??~??)

甄逸(しんいつ)と張氏(ちょうし)の子ら。
8人兄妹で末妹の甄姫が曹丕の正室となった。

長男の甄豫は夭折した。
次男の甄儼(しんげん)は孝廉に推挙され、大将軍掾、曲梁県長になったが、196年に没した。彼の子孫が家を継いでいった。
三男の甄堯(しんぎょう)は孝廉に推挙された。
長女の甄姜(しんきょう)、次女の甄脱(しんだつ)、三女の甄道(しんどう)、四女の甄栄(しんえい)は名前しかわからない。(『甄皇后伝』)



審栄  審配を破滅させた甥


審栄(しんえい)字は不明
冀州魏郡陰安県の人(??~??)

袁尚(えんしょう)の臣。
審配(しんぱい)の甥(兄の子)。

204年、曹操が袁尚(えんしょう)の本拠地の鄴を包囲し、袁尚の本隊も敗走すると、城の東門を開いて曹操軍を招き入れた。審配は捕らえられ処刑された。(『武帝紀』)

「先賢行状」に曰く、捕らえられた審配は誰が裏切ったか知らず、曹操に審栄だと教えられると「小僧め、役立たずのくせにそんなことをしおって」と歯噛みした。(『袁紹伝』)

「演義」でも同様に裏切るが、親交のあった辛毗(しんぴ)の家族を審配に殺された報復として行ったことにアレンジされた。



審固  楊俊に抜擢される


審固(しんこ)字は不明
司隷河内郡の人(??~??)

魏の臣。

衛恂(えいじゅん)とともに兵士の身分から楊俊(ようしゅん)に抜擢された。
審固は郡太守を歴任し、衛恂は御史・県令に上った。(『楊俊伝』)



審悳  曹休に討ち取られる


審悳(しんとく)字は不明
出身地不明(??~227)

呉の臣。

227年、皖城に駐屯したが曹休(そうきゅう)に撃破され討ち取られた。
これを機に韓綜(かんそう)が同年に、翟丹(てきたん)が翌年に魏へ降伏した。(『曹休伝』・『呉主伝』)



審配  剛直さと忠烈に並ぶ者なし


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