秦朗 曹叡の腰巾着
秦朗(しんろう)字は元明(げんめい)
并州新興郡の人(??~??)
魏の臣で曹操の養子。
呂布に仕えた秦宜禄(しんぎろく)と杜氏(とし)の子。
紆余曲折あり、秦宜禄は張飛に殺され、杜氏は曹操の側室となった。
杜氏は寵愛され夫人の位にまで上り、秦朗も曹操に「世の中に私ほど連れ子を可愛がるものがいるだろうか」と自慢されるほど我が子同然に寵愛された。(『明帝紀』)
同時期に何晏(かあん)も母が曹操の側室となり、曹丕・秦朗と兄弟のように育てられた。秦朗は慎重な性格でおとなしくしたが、何晏は遠慮を知らずまるで太子のように振る舞ったため、曹丕は彼を嫌い姓や字ではなく「養子」と呼んだ。(『曹真伝』)
無能で気ままに遊び歩くが厚遇され、曹叡(そうえい)の代には驃騎将軍に上った。曹叡はその頃たびたび処刑を命じたが、秦朗はただの一度も反対せず、ただの一人も人材を推挙しなかった。口うるさくない彼は曹叡の信頼を受け、幼名の阿蘇(あそ)と親しく呼ばれ、褒美や大邸宅を下賜された。周囲の者は秦朗が無能だと知っていたが、仲良くすれば恩恵が得られるので、こぞって賄賂を贈ったため、莫大な富を蓄えた。
戦働きもいちおうしており、233年には反乱した鮮卑の討伐に赴き、大勝した。(『明帝紀』)
翌年には五丈原で諸葛亮と対峙した司馬懿への援軍としても派遣されている。(『晋書 宣帝紀』)
古代の指南車(常に南を指し示す車)について議論し、実在すると言う馬鈞(ばきん)を、秦朗は高堂隆(こうどうりゅう)とともに嘲笑したが、馬鈞は実際に造ってみせた。(『杜夔伝』)
239年、曹叡は病に倒れると、曹宇(そうう)を大将軍に任じ、曹爽(そうそう)・曹肇(そうちょう)・夏侯献(かこうけん)・秦朗ら親族に補佐させようと考えた。
ところが謙虚な曹宇は固辞し、側近の劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)は曹肇・夏侯献と敵対していたため猛反対し、曹爽と司馬懿を推薦した。
結局、劉放・孫資の意見が通り、曹宇・秦朗らは都から出され要職から退けられた。(『明帝紀』・『劉放伝』)
その後の消息は不明だが「魏略」で秦朗は孔桂(こうけい)とともに「佞倖篇」に収められた。佞倖とは「こびへつらう」の意である。(『明帝紀』)
「演義」では司馬懿の配下の前将軍として登場。蜀に偽装投降した鄭文(ていぶん)が秦朗と名乗る偽物を瞬殺したが、諸葛亮は「司馬懿が瞬殺されるような雑魚を前将軍にするはずがない」と見抜いた。
結局、秦朗は諸葛亮の罠にはまり戦死した。
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