三国志 し 7


舒燮  父の威光で処刑を免れる


舒燮(じょしょう)字は不明
兗州陳留郡の人(??~??)

呉の臣。
舒邵(じょしょう)の子。

零陵郡重安県長の時、罪を犯して投獄された。荊州を治めていた潘濬(はんしゅん)は、以前にも彼を見損なうことがあったため、ついに処刑を命じた。多くの者がとりなそうとしたが潘濬は聞く耳を持たなかった。
そこで孫鄰(そんりん)は「父の舒邵はかつて、仇討ちをした後に兄弟でかばい合い、義人であると讃えられました。呉が天下統一を果たしたら、中原の人々は必ずや舒邵の子はどうしているか尋ねるでしょう。潘濬に殺されたと答えることになりますがよろしいですか」と問うた。
潘濬は即座に考えを改め、釈放した。(『孫賁伝』)



舒伯膺  舒邵の兄


舒伯膺(じょはくよう)名は不明
兗州陳留郡の人(??~??)

袁術の臣?
舒邵(じょしょう)の兄。

友人が殺されると、弟の舒邵がその仇討ちをした。
兄弟は互いにかばい合って処刑を望んだため、義人であると讃えられ揃って許された。

後に舒邵の子の舒燮(じょしょう)は呉に仕えたが、罪を犯して投獄された。荊州を治めていた潘濬(はんしゅん)は、以前にも彼を見損なうことがあったため、ついに処刑を命じた。多くの者がとりなそうとしたが潘濬は聞く耳を持たなかった。
そこで孫鄰(そんりん)は「父の舒邵はかつて、仇討ちをした後に兄弟でかばい合い、義人であると讃えられました。呉が天下統一を果たしたら、中原の人々は必ずや舒邵の子はどうしているか尋ねるでしょう。潘濬に殺されたと答えることになりますがよろしいですか」と問うた。
潘濬は即座に考えを改め、釈放した。(『孫賁伝』)

舒邵は袁術に仕え県長に上ったが舒伯膺は不明。いちおう袁術の臣とした。



小喬  二喬・妹


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仍弩


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升遷亭公主  桓嘉に嫁いだ内親王


升遷亭公主(しょうせんていこうしゅ)名は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹丕の娘か。

桓階(かんかい)の子の桓嘉(かんか)に嫁いだ。

桓嘉は252年に東興の戦いで戦死し子の桓翊(かんよく)が後を継いだ。升遷亭公主の子だろうか。(『桓階伝』)






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向挙  劉備を皇帝に推挙した謎の重臣B


向挙(しょうきょ)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

220年、劉備を皇帝に推挙する上奏に青衣侯として連名した。(『先主伝』)

連名した劉豹(りゅうひょう)・向挙・殷純(いんじゅん)・趙莋(ちょうさく)・張爽(ちょうそう)には他の事績がない。
こんな重要文書に連名する重臣の事績が残っていないことが、史官を置かなかった蜀の問題点を浮き彫りにしている。

「演義」にも名前のみ登場する。



向氏  張皇后(曹芳)の母


向氏(しょうし)名は不明
出身地不明(??~254)

曹芳の二番目の皇后の張皇后(ちょうこうごう)の母。
張緝(ちょうしゅう)の妻。

「王沈魏書」に曰く。
251年、曹芳は甄皇后(しんこうごう)を亡くすと、寵愛する王貴人(おうきじん)を立后しようとしたが、郭太后(かくたいこう)の反対により、やむなく翌年に張皇后を立てた。
そのため父の張緝が光禄大夫に、母の向氏が安城郷君に取り立てられるなど厚遇されたものの、張皇后は曹芳に冷遇された。

そして254年、夫の張緝は同郷の親友の李豊(りほう)と、魏の重鎮の夏侯玄(かこうげん)とともに司馬師の暗殺を企むも、計画は露見し一網打尽にされた。
一族も連座し処刑されたが、娘の張皇后は廃位されるだけで赦された。(『斉王紀』)

毌丘倹(かんきゅうけん)が反乱した際の上奏に「張緝は妻子とともに皆殺しにされた」とあり、向氏も処刑されたと思われる。(『毌丘倹伝』)



向充  諸葛亮の霊廟を建立させる


向充(しょうじゅう)字は不明
荊州襄陽郡宜城県の人(??~??)

蜀・晋の臣。
向寵(しょうちょう)の弟。
向朗(しょうろう)の甥(兄の子)にあたる。

蜀で射声校尉・尚書を歴任した。(『向寵伝』)

234年、諸葛亮が没すると、あちこちで霊廟を建立したいとの申し出があったが、礼の原則を盾に朝廷は認めなかった。
習隆(しゅうりゅう)と中書郎の向充は「古代にも多くの偉人が霊廟を建てられました。諸葛亮の徳義はあまねく手本とされ、王室が滅びなかったのも彼のおかげです。それなのに祭祀は民衆や異民族の間だけで行われています。陛下(劉禅)は民衆の言うままに霊廟を建てれば原則を破り、また都に建てれば(劉備らの)宗廟に近すぎるから迷っているのでしょう。
ならば諸葛亮の霊廟は彼の墳墓の近くに建て、親族にのみ祭祀を許可し、他の者には参詣だけを認めましょう」と進言し、認められた。(『諸葛亮伝』)

尚書の向充は、来敏(らいびん)の子の来忠(らいちゅう)とともによく姜維を補佐した。(『来敏伝』)

264年、蜀を制圧した衛瓘(えいかん)は戦利品として2つの印鑑を得て、相国の蔵に収めた。
それを聞いた向充は「蜀の旧臣で予知にも優れた譙周(しょうしゅう)は、劉備の「備」は完結という意味があり、劉禅の「禅」は授けるという意味がある。合わせれば「劉氏は完結し、授ける」という意味になる、と話していた。
魏の実権を握るのは相国の司馬炎で、蜀の最後の元号は「炎興」だった。劉氏が帝位を終え、それを授けるという意味を持つ印鑑が、司馬炎の蔵に収められた。これは天の意志である」と語った。

同年、向充は梓潼太守となった。
翌265年、司馬炎は魏から帝位を譲られた。「炎興」は「司馬炎が勃興する」という意味でもあったのだ。(『向寵伝』)



向秀  竹林の七賢・道家を再興させる


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向条  向朗の子


向条(しょうじょう)字は文豹(ぶんひょう)
荊州襄陽郡宜城県の人(??~??)

蜀・晋の臣。
向朗(しょうろう)の子。

父と同様に博学多識だった。
247年、父が没すると後を継いだ。

景耀年間(258~263)に御史中丞になり、晋でも江陽太守・南中軍司馬に上った。(『向朗伝』)



向韶  向雄の父


向韶(しょうしょう)字は不明
司隷河内郡山陽の人(??~??)

魏の臣。

彭城太守を務めた。

子の向雄(しょうゆう)は秦州刺史や河南尹を務め「晋書」に列伝された。(『晋書 向雄伝』)



向存  霍峻に撃退された劉璋の将B


向存(しょうそん)字は不明
出身地不明(??~??)

劉璋(りゅうしょう)の臣。

212年、劉備が益州侵攻を開始すると霍峻(かくしゅん)は葭萌関の守備を任された。
劉璋は扶禁(ふきん)、向存に1万の兵で葭萌関を包囲させたが、霍峻は数百人の兵で1年近く守り抜き、隙をついて出撃し向存を討ち取った。(『霍峻伝』)



向寵  謎の覆面武将


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向雄  意志を貫き通す


向雄(しょうゆう)字は茂伯(ぼうはく)
司隷河内郡山陽の人(??~282?)

晋の臣。
彭城太守を務めた向韶(しょうしょう)の子。
「晋書」に列伝される。

郡主簿として太守の王経(おうけい)に仕えた。(『晋書 向雄伝』)
王経は司隷校尉に上ると向雄を都官従事に抜擢した。(『夏侯玄伝』)
260年、王経が曹髦の挙兵に加担したとして処刑されると、身を顧みず市中で大いに嘆き悲しみ、市井の人々も同情した。
後任の太守の劉準(りゅうじゅん)(※劉毅(りゅうき)と誤記されている)や呉奮(ごふん)らは些細な罪であるいは鞭打ち、あるいは投獄し迫害したが、鍾会に身柄を引き取られた。

265年、その鍾会も蜀の制圧後に反乱し殺された。
向雄が遺体を埋葬してやると、司馬昭は呼びつけ「かつてお前が王経のために哭泣した時は咎めなかったが、反乱した鍾会を埋葬するのは話が別だ。これを見逃しては法が成り立たない」と叱った。
向雄は「鍾会を誅殺し法は全うされ、私は生前の恩義に報い礼をもって埋葬しました。法は定まり礼も広まっているのに、これを咎めては仁賢の士を嘆かせるでしょう」と敢然と反論した。司馬昭は返答に満足し、向雄を歓待してから帰らせた。(『晋書 向雄伝』)

後世の習鑿歯は、向雄の道義とそれを認めた司馬昭の度量をともに称えた。(『鍾会伝』)

黄門侍郎に昇進すると、かつて迫害された劉準・呉奮と同僚になった。
向雄が彼等と口も利かないと聞き、司馬炎は関係修復を命じた。向雄はやむなく劉準を訪ね二度おじぎをし「勅命を受けたので絶縁します」と言い立ち去った。
報告を受けた司馬炎は激怒したが、向雄は「古代は推挙するにも批判するにも礼にのっとりましたが、現代は推挙するなら膝を接するほどで、批判する時は谷川に突き落とすように、礼に外れた行いばかりです。私が劉準へ牙を剥かなかっただけでも幸運です」と弁明し、司馬炎を納得させた。

泰始年間(265~275)に秦州刺史に上り(※胡烈(これつ)が戦死した270年か?)、275年頃には御史中丞・侍中・征虜将軍に昇進した。
280年頃、河南尹になり関内侯に封じられた。
282年頃、司馬炎の弟で声望高い司馬攸(しばゆう)が都から外に出されると聞き、向雄は「陛下の多くの子や兄弟にも、徳望高い人物は稀です。司馬攸様は国益をもたらします」と再考を求めた。
何度も諫言したが司馬炎は全く聞き入れず、激昂した向雄はその足で朝廷を去り、怒りのあまり病を得て間もなく没した。

弟の向匡(しょうきょう)は司馬衷の代に護軍将軍となった。(『晋書 向雄伝』)



向朗  悠々自適の晩年


向朗(しょうろう)字は巨達(きょたつ)
荊州襄陽郡宜城県の人(??~247)

蜀の臣。

家柄は低く、早くに父を亡くし二人の兄に育てられた。
若い頃は司馬徽(しばき)に師事し、徐庶(じょしょ)、韓嵩(かんすう)、龐統と親しかった。
広く学問を修めたが品行は整えず、実務能力の高さで評判を得た。

荊州牧の劉表(りゅうひょう)に臨沮県長に任じられた。
208年、劉表が没すると劉備に仕え、四県の統治を任された。
214年、劉備が益州を制圧すると巴西、牂牁、房陵ら三郡の太守を歴任した。
223年、劉禅が即位すると歩兵校尉となった。後に王連(おうれん)の後任として丞相長史を務めた。(『向朗伝』)

廖立(りょうりつ)は地位に不満を抱き、劉備や関羽すら批判し免職されたが、向朗も「平凡な人間で、馬良(ばりょう)兄弟を聖人と思っていたほどだから、道理に合うことはできず長史は務まらない」とこき下ろした。(『廖立伝』)

225年、諸葛亮が南征の際には丞相府の仕事を取り仕切った。(『向朗伝』)

227年、諸葛亮は北伐を前に張裔(ちょうえい)か向朗のどちらかを留府長史にさせたいと考え楊洪(ようこう)に相談した。
楊洪は「張裔は天性の明晰な判断力を持ち、激務の処理を得意としますが、公平ではありません。裏表の少ない向朗の下につければ一挙両得でしょう」と進言した。
人々は楊洪は自身が長史になりたいから張裔の足を引っ張ったのではと勘ぐったが、後に張裔が別の者と諍いを起こすと、楊洪の眼力の確かさを称えた。(『楊洪伝』)

227年、北伐に随行し漢中に赴いた。
(228年、街亭の戦いで敗れると?)馬謖(ばしょく)は逃亡し、友人の向朗はそれを黙認した罪により免職された。
(※馬謖は馬良の弟であり、くしくも廖立の予言が的中した形になる)

数年後、光禄勲に復帰した。
234年、諸葛亮が没すると左将軍となり、功績を採り上げられ顕明亭侯に封じられ特進を授かった。(『向朗伝』)

238年、詔勅により張皇后(ちょうこうごう)へ皇后の璽綬を、劉璿(りゅうせん)へ皇太子の印綬を授けた。(『張皇后伝』・『劉璿伝』)

免職となってからは名誉職だったようで、没するまで20年近くは学問に励み悠々自適の日々を送った。
80歳を超えても書物を集め研究を続け、当時に並ぶ者がなかった。
賓客や子弟に講義をしたが、古義を説くのみで時事は語らず、かえって評価を受けた。上は官僚から下は子供まで広く慕われた。

247年に没し、春秋左氏伝を引き「ただ貧乏なだけで、貧乏は人間にとって悩みではない。ただ和を尊重し努力せよ」と遺言した。

子の向条(しょうじょう)も博識で御史中丞に上り、晋でも江陽太守・南中軍司馬を務めた。
甥の向寵(しょうちょう)は諸葛亮に出師表で「軍事のことは全て彼に諮問してください」と託されるほどの人物だったが、向朗より早く240年に蛮族と戦い討ち死にした。
その弟の向充(しょうじゅう)は尚書に上った。(『向朗伝』)

陳寿は「学問を好んで倦むこと無く、記録に値する人物である」と評した。

「演義」では関羽の補佐を務めたと記されるだけで出番はない。



劭提


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尚広  孫晧の洛陽入りを的中させる


尚広(しょうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、歩闡(ほせん)の反乱を鎮圧させた孫晧は戦勝を祝って大赦を行い、気が大きくなり尚広に天下統一について筮竹で占わせた。「庚子の年に(天子が用いる)青いきぬがさが洛陽に入るでしょう」と占われ、孫晧は内政を顧みず外征ばかり考えた。
280年、呉は滅亡し孫晧は洛陽へ移送された。この年は確かに庚子であった。(『孫晧伝』)



尚弘  献帝を背負う


尚弘(しょうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

「献帝紀」に曰く。
董卓残党の牛耳る長安を脱出した献帝は洛陽へ向かったが、黄河の岸壁に突き当たり下りるのに苦労した。
皇后の兄の伏徳(ふくとく)が絹を結び合わせて手車を作り、怪力の行軍校尉の尚弘が献帝を背負ってようやく下りられた。(『董卓伝』)



承宮


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昌豨  曹操に何度も背く


昌豨(しょうき)字は不明
徐州東海郡の人?(??~205?)

賊徒。
別名は昌霸(しょうは)。

黄巾の乱が起こると臧覇(ぞうは)は孫観(そんかん)とともに挙兵し、徐州刺史の陶謙(とうけん)に従い、騎都尉に任命された。
昌豨は孫観・呉敦(ごとん)・尹礼(いんれい)らとともに臧覇を首領に仰ぎ、開陽に駐屯した。(『臧覇伝』・『武帝紀』)

198年、曹操が呂布を攻めると救援したが、呂布が討たれたため逃亡し、臧覇は捕らえられた。だが曹操は彼を気に入り、臧覇を通じて孫観兄弟・呉敦・尹礼が招聘された。(『臧覇伝』)

昌豨も曹操に仕えたが200年、劉備が蜂起するとそれに呼応し、東海郡で挙兵した。
付近の郡県も応じ数万の軍勢に膨れ上がったが、すぐに撃破された。(『武帝紀』・『先主伝』)

東海郡襄賁県で炅母(けいぼ)も反乱したが、呂虔(りょけん)に討伐された。(『呂虔伝』)

昌豨の籠もる東海郡の三公山を張遼・夏侯淵は攻めたが、数ヶ月経っても落とせず、兵糧が尽きたため撤退が建議された。
張遼はかつて昌豨とともに呂布に仕えており、「ここ数日の間、昌豨はいつも私を見ており、矢を撃つことも減っている。ためらいがあり全力で戦えないのだろう」と言い、降伏させられるかもしれないと自ら赴いた。

昌豨は山を降りて張遼と話し、利を説かれると降伏した。張遼は単身で昌豨の妻子に挨拶した後、曹操に引き合わせた。昌豨は山に戻ることを許された。
曹操は「これは大将のやり方ではないぞ」と危険を顧みない張遼をたしなめ、張遼は謝罪し「昌豨に(これ以上の)災いをなす勇気はないと判断しました」と言った。(『張遼伝』)

205年の冀州の平定後、またも反乱した。(『于禁伝』)
于禁・臧覇が討伐したが攻め落とせず、夏侯淵が増援に派遣され、十余りの屯営を落とした。(『夏侯淵伝』・『臧覇伝』)

昌豨は于禁と旧友だったため出頭し降伏した。諸将は曹操に引き渡すよう勧めたが、于禁は「包囲後に降伏した者は許さない法がある。それに背いては節義を失う」と言い、昌豨に自ら別れを告げ、泣きながら処刑した。
報告を受けた曹操は「私ではなく于禁のもとに出頭したのは運命なのだろう」と感嘆し、于禁をますます重んじた。(『于禁伝』)

いわゆる「後出師表」に曰く。
諸葛亮は「有能な曹操でさえ昌豨を5回攻めても下せませんでした。無能な私ではましてや勝利は得られません」と上奏した。
(※「後出師表」は多くの矛盾が見られ偽作と疑われている)(『諸葛亮伝』)

「演義」では臧覇配下の泰山の山賊として登場。ただ一人曹操に降伏せず、その後も出番はなかった。



邵疇  命に代えて郭誕を救う


邵疇(しょうちゅう)字は温伯(おんはく)
出身地不明(??~??)

呉の臣。

274年、会稽郡で孫奮(そんふん)が帝位につくという噂が流れた。
奚熙(けいき)はこれを受け会稽太守の郭誕(かくたん)に手紙を送り国政を非難した。
郭誕はこの手紙を孫皓へ報告したが、流言は報告しなかったため逮捕された。

郭誕は動揺のあまり弁解できず、彼の功曹を務める邵疇は、自分に責任があると偽って出頭した。しかし孫皓の怒りは解けず、このままでは共倒れになると思い、自害し遺言で「私は辺境に生まれましたが由緒ある家柄のため同僚を飛び越え高い地位を得ました。しかし非才で、流言など事実ではないのだから心配する必要もないと思っていました。わざわざ下劣な言葉を主君の耳に入れず、終息を待てばいいと主張していたのです。郭誕は私の意見に従っただけなのです」と無実を訴えた。
孫皓は遺言を読み、郭誕の罪を減じ、建安で造船の労役に就かせた。そして邵疇の節義を讃え、全国の郡や県の役所へ、彼の肖像を廟堂に描くよう命じた。

一方、奚熙は兵を集め海路を遮断し抵抗したが、部下に裏切られ殺された。首は都に送られ、一族皆殺しにされた。(『孫皓伝』)



邵悌  鍾会の反乱を予見


邵悌(しょうてい)字は元伯(げんはく)
冀州陽平郡の人(??~??)

魏の臣。

263年、蜀への討伐が始まる前に西曹属の邵悌は司馬昭へ「鍾会は独身ですから、人質は効果が薄く、別の者に任命すべきです」と進言したが、司馬昭は笑って「私もそれは承知している。だが皆が反対する中、私と鍾会だけが蜀を討伐できると考えているから、任せたのだ。蜀を滅ぼした後に君が心配する通りのこと(反乱)が起こっても、蜀の旧臣は震え上がっているから従わず、魏の兵も無事に帰りたいから同調せず、必ず失敗する。心配はいらないが、他人には言うなよ」と答えた。
後に鄧艾が告発され、司馬昭が自ら兵を率いて長安へ向かおうとすると、邵悌は「鍾会の兵は鄧艾の5~6倍あり、あなたが自ら向かう必要はない」と反対した。
司馬昭は「今度は反対するのか。私は信義を第一とし、自ら人を疑おうとはしない。賈充にも鍾会を疑わないのかと聞かれたから、君に兵を預け先行させるから君を疑ってよいのかと聞き返した。私が長安に着く頃には自然と片がつくだろう。これも他人には言うなよ」と退けた。はたして到着すると既に鍾会は反乱に失敗し討たれていた。(『鍾会伝』)



邵登  杜夔の同郷の弟子A


邵登(しょうとう)字は不明
司隷河南郡の人(??~??)

魏の臣。音楽家。

魏の音楽家の杜夔(とき)の弟子で、同郷の邵登・張泰(ちょうたい)・桑馥(そうふく)はみな太楽丞まで上り、陳頏(ちんこう)は司律中郎将となった。(『杜夔伝』)



邵南


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邵瑁  公孫淵を懐柔する使者B


邵瑁(しょうぼう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
232年、公孫淵(こうそんえん)が呉と交流すると、魏は断交すれば罪に問わないと懐柔し、遼東へ郎中の衛慎(えいしん)・邵瑁を使者として送った。(『公孫度伝』)



商升


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商曜  夏侯淵・徐晃に討伐された賊徒


商曜(しょうよう)字は不明
涼州太原郡の人(??~211)

賊徒。

211年、反乱し夏侯淵・徐晃に討伐された。(『武帝紀』)

夏侯淵は徐晃を指揮して20余りの屯営を落とし、商曜を斬り、根城を破壊した。(『夏侯淵伝』)

210年(※誤記か、210年に反乱し斬られたのが翌年か)、徐晃は商曜を斬った。(『徐晃伝』)



常忌  羅憲に推挙された蜀の旧臣A


常忌(じょうき)字は不明
益州蜀郡の人(??~??)

蜀・晋の臣。

「襄陽記」に曰く。
蜀滅亡後の268年、蜀の旧臣の羅憲(らけん)は司馬炎に下問され、任用すべき蜀の旧臣として陳寿や常忌らの名を挙げ、即刻みな登用されいずれも名声を博した。(『霍峻伝』)



常俱


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常洽  献帝を安心させる


常洽(じょうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

董卓が討たれ残党の李傕(りかく)・郭汜(かくし)が激しく争い、李傕は献帝を幽閉しようとした。李傕は司徒の趙温(ちょうおん)が従わないとわかっていたため、先に幽閉した。
趙温は恐れずこんこんと李傕をさとし激怒されたが、李傕の従弟の李応(りおう)がかつて趙温に仕えていたため数日にわたり弁護し、処刑は免れた。

「献帝起居注」に曰く、献帝は趙温が李傕を諌めたと聞くと「李傕には善悪を判断する力がない。趙温の言葉は厳しすぎるから、心が凍りつくほど心配だ」と案じたが、侍中の常洽が「李応がもうなだめました」と伝え安心させた。(『董卓伝』)



常旹  常林の処刑された上の子


常旹(じょうじ)字は不明
司隸河内郡温県の人(??~257)

魏の臣。
常林(じょうりん)の子。

父が83歳で没すると後を継いだ。
泰山太守となったが法を犯して処刑され、弟の常静(じょうせい)が爵位を継いだ。

「王隠か虞預晋書」に曰く。
257年、諸葛誕の反乱に際し、常旹は病気と称して従軍しなかったため司馬昭に処刑された。(『常林伝』)

「晋書」では名を常時と書かれる。(『晋書 文帝紀』)



常静  常林の後継ぎの下の子


常静(じょうせい)字は不明
司隸河内郡温県の人(??~??)

魏の臣。
常林(じょうりん)の子。

父が83歳で没すると兄の常旹(じょうじ)が後を継いだ。
常旹は泰山太守となったが法を犯して処刑され、弟の常静が爵位を継いだ。

「王隠か虞預晋書」に曰く。
257年、諸葛誕の反乱に際し、常旹は病気と称して従軍しなかったため司馬昭に処刑された。(『常林伝』)



常雕  イマジン 朱桓に斬られたと


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常播  2年の拷問に耐える


常播(じょうは)字は文平(ぶんぺい)
益州蜀郡江原県の人(??~??)

蜀の臣。

県に出仕し主簿功曹を務めた。
237年、県長の朱游(しゅゆう)が横領の罪を誣告された際に、弁護してやった。
常播は数千回も杖打ちされ、3度の裁判を経て2年あまり幽閉された。拷問のたびに「早く処罰しろ。ごたごた訊ねる必要はない」とだけ言った。
主簿の楊玩(ようがん)が常播と同じ証言をし、ようやく事態がはっきりし朱游は死刑を免れた。
常播の身を捨てて主君に尽くし、節義を貫いた態度を誰もが称賛した。

孝廉に推挙され、郪県長に登用され、50余歳で没した。
事績は「旧徳伝」に記載され、後世の趙敦(ちょうとん)は彼の肖像を描き、それに賛を書いて讃えた。(『楊戯伝』)



常伯先  常林の父


常伯先(じょうはくせん)名は不明
司隸河内郡温県の人(??~??)

素性不明。
常林(じょうりん)の父。

常林が7歳の時、父の友人が訪れ、「伯先はいるか。お前はなぜ拝礼しないのか」と言われると、常林は「拝礼すべき客でも、父を字で呼ぶ無礼な相手にはする必要はありません」と答え、一同を感心させた。(『常林伝』)



常房  朱褒の反乱を察知し殺される


常房(じょうぼう)字は不明
出身地不明(??~223)

蜀の臣。

「魏氏春秋」に曰く。
益州従事の常房は牂牁郡を巡視し、太守の朱褒(しゅほう)が反乱を企んでいると聞き、主簿を尋問して殺した。
朱褒は報復して常房を殺し、反乱を企んでいたと逆に誣告した。諸葛亮はそれに騙されて常房の子らを殺し、4人の弟を越雋郡へ流した。朱褒は収まらず、雍闓(ようがい)に呼応して反乱した。

裴松之は「朱褒の誣告を(諸葛亮ならば)当然偽りだと見抜くはずで、みだりに無実の人間を殺し邪悪な朱褒を喜ばせるわけがなく、ほとんど作り話だろう」と反論する。(『後主伝』)



常林  鞭打ちの血が騒ぐ


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章誑  呂布に内応した許耽の司馬


章誑(しょうきょう)字は不明
出身地不明(??~??)

劉備の臣。

「英雄記」に曰く。
196年、劉備が袁術の討伐に出た隙をつき、呂布は徐州を制圧しようとした。
劉備の中郎将の許耽(きょたん)は司馬の章誑を派遣して、留守居役の張飛が曹豹(そうひょう)を殺したため城内が混乱していることを伝え、内応を約束した。成功し呂布は徐州を制圧した。(『呂布伝』)



章陵王


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焼戈  羌族の氷帝


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焦已  祖郎と共闘する賊徒


焦已(しょうい)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

「江表伝」に曰く。
197年、孫策は「呂布と行呉郡太守・安東将軍の陳瑀(ちんう)とともに袁術を討伐せよ」と詔勅を下された。
ところが陳瑀は孫策の襲撃を企て、都尉の万演(ばんえん)らを送り、周辺の祖郎(そろう)・焦已・厳白虎(げんはくこ)ら反抗勢力に官位を約束して蜂起させようとした。
だが孫策はそれを見抜き、呂範(りょはん)・徐逸(じょいつ)に先制攻撃させ、陳瑀の兵や妻子ら4千人を捕虜にした。(『孫策伝』)



焦彝  諸葛誕の腹心


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焦和  青州を滅ぼした夢想家


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焦矯


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焦倹  羊続の遺志を尊重した府丞


焦倹(しょうけん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。
羊続(ようしょく)の臣。

羊続は奢侈に流れる風潮を深く憎んだ。
189年に没した時も遺言により100万銭もの香典を辞退し、府丞の焦倹も遺志を尊重し1銭たりとも受け取らなかった。
詔勅で称賛され、香典ではなく泰山太守を通じて遺族へ銭が賜与された。(『後漢書 羊続伝』)



焦璜  龔禄の後任の越雋太守


焦璜(しょうこう)字は不明
出身地不明(??~225?)

蜀の臣。

225年、越雋太守の龔禄(きょうろく)は叟族の反乱により殺された。
次の太守の焦璜も殺されると後任は尻込みして郡に入らず、800余里も離れた安上県に住んだ。
そこで勇猛な張嶷が太守に赴任し、3年で平定した。(『張嶷伝』)



焦子文  竇礼失踪事件の犯人


焦子文(しょうしぶん)字が子文か
出身地不明(??~??)

魏の臣。

曹芳の代、護軍将軍に仕える兵卒の竇礼(とうれい)が外出したまま帰らず、逃亡とみなされ妻の盈(えい)ら家族は奴隷の身分に落とされた。
盈は冤罪を訴えたが聞く耳持たれず、高柔(こうじゅう)に泣きつき「夫は身寄りがなく、世話になった老婆を母として養い、子供をよくかわいがった人で、軽はずみに家族を捨てたりしません」と言った。
高柔は竇礼が誰かに金を貸したか尋ね、同僚の焦子文が借りたまま返さないと聞くと、たまたま別の事件で投獄されていた焦子文を尋問した。
話のついでに「前にも金を奪ったそうだな」と聞くと焦子文は否定したが顔色が変わったのを見逃さず「竇礼から奪ったのに嘘をつくな」と問い詰めると焦子文はしどろもどろになった。高柔は「竇礼を殺したのを白状しろ」と迫り、犯行の一部始終と遺体を埋めた場所を自白させた。
盈ら家族の身分は元に戻り、この事件を戒めとするよう(※安易に決めつけないよう)公布された。(『高柔伝』)



焦勝  張掖郡の神秘的な石の変化を報告


焦勝(しょうしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

「捜神記」に曰く。
267年、張掖郡で建安年間(196~220)に発見されていた神秘的な石に刻まれた文章に異同があったため、張掖太守の焦勝がそれを報告した。
新たに5頭の馬と1人の騎士、「金」「中」「大司馬」「王」「大吉」「開寿」「金当取之」の文字が現れていた。(『明帝紀』)



焦触  上手く立ち回った男


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焦先  いやその理屈はおかしい


焦先(しょうせん)字は孝然(こうぜん)
司隸河東郡の人(??~??)

隠者。

「魏略」に曰く。
190年、20余歳の時に白波黄巾軍を避けて、同郷の侯武陽(こうぶよう)とともに揚州へ疎開し、妻を娶った。
196年、河東郡へ帰り侯武陽は大陽県に家を構えたが、焦先は境に留まった。
211年、馬超らの蜂起により関中は大混乱に陥り、焦先は家族を失い、黄河の河原で草をはみ、衣服さえない暮らしを始めた。
大陽県長の朱南(しゅなん)は彼を見かけると逃亡者だと思い逮捕しようとしたが、侯武陽は狂人だと弁護し、穀物が支給されるように取り計らってやった。
後に伝染病により多くの死者が出ると、焦先は埋葬を命じられ、子供にさえ軽蔑された。しかし彼は気にすることなく大通りを闊歩し、一方で慎み深く、飢えも寒さも我慢し、道で人に行き合えば「草むらに住む私は狐や兎の仲間だ」と物陰に隠れて姿を見せまいとした。瓜牛廬(カタツムリの殻のような小屋)を作って寝起きし、空腹になると日雇い労働をし、食事だけ得て賃金は返した。

嘉平年間(249~254)に赴任した河東太守の賈穆(かぼく)は、焦先を訪ね、食事を出したが彼は話しも食べもしなかった。
賈穆が「国家は私をあなたの主君として遣わしたのに、あなたは話しも食べもしない。主君として不適当だから辞任しなくてはなるまい」と言うと焦先は「いやその理屈はおかしい」とだけ言った。

翌年、魏が呉を攻めると、ある人が焦先に意見を求めた。焦先は意味のわからない歌を返した。魏軍が敗北すると、この歌はそれを予言したものだと考えられ、焦先は狂人ではなく隠者だと持ち上げられた。

河東郡の董経(とうけい)は奇矯な人物を好んだため、焦先に会いに行き「先ちゃん久しぶりだな。白波黄巾軍から逃げたことを覚えているかい」と旧友のように振る舞った。董経は侯武陽が彼を助けた逸話を知っていたため、黙ったままの焦先に「武陽を覚えているか」とさらに尋ねた。焦先は「もう彼には恩を返した」とだけ答え、それきり黙った。
それから1年余りして89歳で病没した。

「高士伝」には別の事績が記される。
焦先は天涯孤独の身で、漢王室の衰退を見てから口を利かなくなった。220年、漢が滅びると黄河の岸に小屋を建て、全裸で寝起きし、数日に一度、日雇いをして食事を摂るだけの生活をした。
河東太守の杜恕(とじょ)は衣服を贈ろうとしたが、無言を通された。
噂を聞いた司馬師は董経を送ったが、やはり話せなかった。
その後、火事で小屋を失うと建て直さず地べたで寝起きした。大雪の日にもそのままで、見つけた人は凍死したと思い近づくと、焦先は寒さを気にもしていなかった。百余歳で亡くなった。

「高士伝」を著した皇甫謐(こうほひつ)は、焦先とはどんな人物だったのか尋ねられ、「人間は栄誉を求め、衣服・家・言葉・家族を捨てられない。焦先はその全てを捨て、天地を家として現実を抜け出し、他人も四海の広大さも彼の興味を惹かない。人類の歴史で彼の境地に至った者はいない」と述べた。

また「魏氏春秋」に曰く。
耿黼(こうほ)は焦先を仙人だと考え、傅玄(ふげん)は鳥獣と同じ性情だと評し、二人とも焦先の伝記を書いたが、彼を理解することはできなかったという。(『管寧伝』)



焦伯  曹髦の挙兵に従った配下B


焦伯(しょうはく)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏氏春秋」に曰く。
260年、曹髦は司馬昭を討つため挙兵し、宂従僕射の李昭(りしょう)と黄門従官の焦伯を引き連れ出撃した。(『高貴郷公紀』)

曹髦は殺害されるが李昭・焦伯の消息は不明である。



蔣壱


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蔣延


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蔣琬  諸葛亮の後継者


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蔣凱  蔣済の孫


蔣凱(しょうがい)字は不明
豫州沛国平阿県の人?(??~??)

晋の臣。
蔣秀(しょうしゅう)の子。蔣済(しょうせい)の孫。

父が没すると後を継いだ。
咸熙年間(264~265)に五等爵の制度が設けられると、蔣済の功績により下蔡子に取り立てられた。(『蔣済伝』)



蔣幹  「演義」なんて●ねばいい


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蔣奇  実現しなかった2つの計画に関わる


蔣奇(しょうき)字は不明
出身地不明(??~??)

袁紹の臣。

200年、官渡の戦いで淳于瓊(じゅんうけい)が輜重隊を迎えに行こうとした時、沮授(そじゅ)は「蔣奇に別働隊を与え曹操の襲撃を警戒させるべきだ」と進言したが、袁紹は聞き入れなかった。
はたして曹操の奇襲により淳于瓊は敗れ、兵糧を失った袁紹軍は大敗を喫した。(『袁紹伝』)

敗戦により審配(しんぱい)の2人の子が曹操の捕虜になった。審配と敵対する孟岱(もうたい)は蔣奇を通じて「審配の一族の兵は多く、しかも子らが人質に取られており、必ず裏切ります」と吹き込んだ。郭図(かくと)・辛評(しんひょう)も同意した。
袁紹はいったん審配と孟岱を交代させたが、日頃は審配と敵対する逢紀(ほうき)が絶対に裏切らないと弁護してやり、取りやめとなった。(『後漢書 袁紹伝』)

「演義」では曹操軍は蔣奇軍に変装して淳于瓊を騙した。襲撃後、今度は淳于瓊軍に変装して蔣奇を騙し、張遼が不意打ちで蔣奇を殺した。



蔣義渠  謎多き男


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蔣休


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蔣欽  呂蒙と並び称される


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蔣顕  蔣斌の弟


蔣顕(しょうけん)字は不明
荊州零陵郡湘郷県の人(??~264)

蜀の臣。
蔣琬(しょうえん)の子。蔣斌(しょうひん)の弟。
「蔣琬伝」に附伝される。

263年、魏軍が侵攻すると鍾会は蔣斌へ、蔣琬の墓に詣でたいと申し出て、蔣斌は快諾し墓所を教えた。
蜀が滅亡すると蔣斌は鍾会のもとへ出頭し、友人として遇された。(『蔣琬伝』)

弟の蔣顕は太僕を務め(※「蔣顕伝」では太子僕と記される)、劉禅の勅命を姜維に届け降伏させた。(『後主伝』)

蔣顕も兄と同様に才能・学識を鍾会に評価されたが翌264年、鍾会は反乱し、蔣斌・蔣顕とともに殺された。(『蔣顕伝』)

「統制を失った兵に殺された」とあり、鍾会の反乱に加担したのか、一味と見なされ殺されたのかは不明である。

「演義」でも姜維へ降伏の勅命を届けた。兄が鍾会と交流しないので戦死もしない。

「横山三国志」では名前は記されないが、最終話で姜維に降伏を命じた勅使が蔣顕だろう。



蔣康


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