向朗 悠々自適の晩年
向朗(しょうろう)字は巨達(きょたつ)
荊州襄陽郡宜城県の人(??~247)
蜀の臣。
家柄は低く、早くに父を亡くし二人の兄に育てられた。
若い頃は司馬徽(しばき)に師事し、徐庶(じょしょ)、韓嵩(かんすう)、龐統と親しかった。
広く学問を修めたが品行は整えず、実務能力の高さで評判を得た。
荊州牧の劉表(りゅうひょう)に臨沮県長に任じられた。
208年、劉表が没すると劉備に仕え、四県の統治を任された。
214年、劉備が益州を制圧すると巴西、牂牁、房陵ら三郡の太守を歴任した。
223年、劉禅が即位すると歩兵校尉となった。後に王連(おうれん)の後任として丞相長史を務めた。(『向朗伝』)
廖立(りょうりつ)は地位に不満を抱き、劉備や関羽すら批判し免職されたが、向朗も「平凡な人間で、馬良(ばりょう)兄弟を聖人と思っていたほどだから、道理に合うことはできず長史は務まらない」とこき下ろした。(『廖立伝』)
225年、諸葛亮が南征の際には丞相府の仕事を取り仕切った。(『向朗伝』)
227年、諸葛亮は北伐を前に張裔(ちょうえい)か向朗のどちらかを留府長史にさせたいと考え楊洪(ようこう)に相談した。
楊洪は「張裔は天性の明晰な判断力を持ち、激務の処理を得意としますが、公平ではありません。裏表の少ない向朗の下につければ一挙両得でしょう」と進言した。
人々は楊洪は自身が長史になりたいから張裔の足を引っ張ったのではと勘ぐったが、後に張裔が別の者と諍いを起こすと、楊洪の眼力の確かさを称えた。(『楊洪伝』)
227年、北伐に随行し漢中に赴いた。
(228年、街亭の戦いで敗れると?)馬謖(ばしょく)は逃亡し、友人の向朗はそれを黙認した罪により免職された。
(※馬謖は馬良の弟であり、くしくも廖立の予言が的中した形になる)
数年後、光禄勲に復帰した。
234年、諸葛亮が没すると左将軍となり、功績を採り上げられ顕明亭侯に封じられ特進を授かった。(『向朗伝』)
238年、詔勅により張皇后(ちょうこうごう)へ皇后の璽綬を、劉璿(りゅうせん)へ皇太子の印綬を授けた。(『張皇后伝』・『劉璿伝』)
免職となってからは名誉職だったようで、没するまで20年近くは学問に励み悠々自適の日々を送った。
80歳を超えても書物を集め研究を続け、当時に並ぶ者がなかった。
賓客や子弟に講義をしたが、古義を説くのみで時事は語らず、かえって評価を受けた。上は官僚から下は子供まで広く慕われた。
247年に没し、春秋左氏伝を引き「ただ貧乏なだけで、貧乏は人間にとって悩みではない。ただ和を尊重し努力せよ」と遺言した。
子の向条(しょうじょう)も博識で御史中丞に上り、晋でも江陽太守・南中軍司馬を務めた。
甥の向寵(しょうちょう)は諸葛亮に出師表で「軍事のことは全て彼に諮問してください」と託されるほどの人物だったが、向朗より早く240年に蛮族と戦い討ち死にした。
その弟の向充(しょうじゅう)は尚書に上った。(『向朗伝』)
陳寿は「学問を好んで倦むこと無く、記録に値する人物である」と評した。
「演義」では関羽の補佐を務めたと記されるだけで出番はない。
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