任愷 賈充との暗闘に敗れる
任愷(じんがい)字は元褒(げんほう)
徐州楽安郡博昌県の人(??~??)
魏・晋の臣。
任昊(じんこう)の子。
幼少より博識で、曹叡の娘の斉長公主(せいちょうこうしゅ)をめとり、中書侍郎・散騎常侍に上った。
晋代には侍中となり、昌国県侯に封じられた。
国政の才があり、事の大小を問わず多くを取りまとめた。誠実で正しく、国政を第一に考えたため、司馬炎に信頼された。(『晋書 任愷伝』)
王祥(おうしょう)・何曾(かそう)・鄭沖(ていちゅう)は老齢を理由に何度も引退を申し出たが、司馬炎は任愷を通じて得失を説き、認めなかった。(『晋書 王祥伝』)
泰始年間(265~275)のはじめ、鄭沖・王祥・何曾・荀顗(じゅんぎ)・裴秀(はいしゅう)ら重臣が次々と老齢を理由に引退した。
司馬炎はしばしば任愷を彼らのもとへ派遣して政治の相談をさせた。
任愷は賈充の人柄を嫌い、なるべく国政に携わらせまいと抑えてきた。賈充は「任愷は節操が固く器量があり正しいので太子の補佐にふさわしい」と勧め、太子少傅に転任させ国政から遠ざけた。
司馬炎は侍中の職はそのままにしようとしたが、これも賈充が阻止した。
後に秦州・雍州で鮮卑が反乱すると、司馬炎に誰に対処させればよいか尋ねられた任愷は賈充を勧めた。
庾純(ゆうじゅん)も賛成し詔勅が下されたが、賈充は荀勗(じゅんきょく)と共謀してそれを防いだ。
任愷には庾純・張華(ちょうか)・温顒(おんぎょう)・向秀(しょうしゅう)・和嶠(かきょう)が味方し、賈充には楊珧(ようちょう)・王恂(おうじゅん)・華廙(かよく)が肩入れし派閥争いが起こった。
司馬炎はこれを憂慮し、任愷・賈充を招き「朝廷は一体となり、大臣は融和すべきだ」と仲裁した。
任愷・賈充は表立っては争わなくなったが、裏ではますます恨みを深めた。賈充は推薦して任愷を吏部尚書・奉車都尉に転任させた。
任愷は人事を任され公正に仕事に励んだが、かえって司馬炎に謁見する機会は減った。
賈充はその隙に荀勗・馮紞(ふうちん)とともに画策し、任愷が天子の食器を用いていると讒言し、司馬珪(しばけい)に弾劾させついに罷免した。調査したところ食器は妻の斉長公主の嫁入り道具だった。
讒言により司馬炎の心も離れ、山濤(さんとう)の推挙で河南尹に就任したが、盗賊を捕らえられず罷免され、光禄勲に転じた。
常に公正で真面目に務めたため官民問わず慕われており、杜友(とゆう)・劉良(りゅうりょう)らは助けようと上奏を試みたが、賈充は罪を犯した劉友(りゅうゆう)と関わりがあると糾弾するなど追撃の手を緩めず、任愷・杜友・劉良は揃って罷免された。
自暴自棄となり、酒に溺れて歓楽にふけった。特に美食にこだわり、何劭(かしょう)も美食家で知られ一食で国内の珍味を食べ尽くしたが、任愷はこれをも超え、食卓には箸の置き場も無かった。
司馬炎は朝廷に復帰させ慰撫したが、任愷はただ泣くだけで何も言わなかった。太僕・太常に転じた。
かつて任愷が推挙した魏舒(ぎじょ)が司徒に任じられ、任愷はその任命の使者を命じられた。
魏舒は度量が大きく鷹揚だが、国政の才では任愷に及ばないと評判だったが、魏舒が国政に携わり、任愷は卿の身分のままで、憤慨し嘆いた。
任愷は志を得られず、憂いを抱いたまま没した。享年61。
「元」と諡され、子の任罕(じんか)が後を継いだ。(『晋書 任愷伝』)
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