三国志 し 9


諸葛氏


未作成



諸葛綽  諸葛恪に殺された長男


諸葛綽(しょかつしゃく)字は不明
徐州琅邪郡陽都の人(??~250?)

呉の臣。
諸葛恪(しょかつかく)の長男。

騎都尉を務めた。
二宮の変に深く関わったため、騒動が収まると孫権は諸葛恪へ身柄を渡し再教育を命じた。
諸葛恪は彼を毒殺し責任を取らせた。

253年、諸葛恪は専権を振るったため孫峻(そんしゅん)によって誅殺された。
二人の弟や一族も皆殺しとなり、呉から諸葛氏の血は絶えた。(『諸葛恪伝』)



諸葛緒  蜀征伐で鍾会に陥れられた雍州刺史


諸葛緒(しょかつしょ)字は不明
徐州琅邪郡陽都県の人(??~??)

魏・晋の臣。

255年、孫峻(そんしゅん)は10万の兵と号して魏を攻めた。
諸葛誕は鄧艾を肥陽に駐屯させたが、鄧艾は敵軍から遠く要害でもないと見ると駐屯地を変更し、泰山太守の諸葛緒を派遣して呉軍に抵抗させ、勝利を得た。(『鄧艾伝』)

263年、蜀討伐にあたり征西将軍の鄧艾と雍州刺史の諸葛緒がそれぞれ諸軍を統率し二方面から侵攻した。(『陳留王紀』)

姜維は建威に向かった諸葛緒と対峙し、1月余り後に鄧艾に敗走した。(『姜維伝』)

司馬昭は諸葛緒に姜維の退路を断たせた。姜維は鄧艾に敗北し、退路が無いと知ると諸葛緒の背後に回ろうとした。諸葛緒はそれを防ごうと30里後退し、その隙に姜維は撤退に成功した。(『鄧艾伝』)

鄧艾は成都へ向かい進撃し、諸葛緒は剣閣に籠もる姜維への対処を命じられていたがそれに合流した。
さらに鍾会と合流し諸葛緒・鍾会は姜維の攻撃に向かったが、鍾会は兵を独占したいと企み、「諸葛緒はおじけづいて進軍しない」と讒言し、囚人護送車に乗せて都へ送った。
鍾会は蜀を滅ぼした後に姜維とともに反乱し、討伐された。

「百官名」に曰く。
(陥れられた諸葛緒は赦され)晋代に太常・崇礼衛尉となり、子の諸葛沖(しょかつちゅう)は廷尉に上った。

「兗州記」に曰く。
孫の諸葛詮(しょかつせん)は兗州刺史に、諸葛玫(しょかつばい)は侍中・御史中丞に上った。(『鍾会伝』)

孫娘の諸葛婉(しょかつえん)は司馬炎の側室となり晋書に列伝される。(『晋書 諸葛夫人伝』)

「演義」でも姜維の陽動に掛かり撤退を許すが、策を立てたのはなぜか姜維ではなく架空の腹心に変更されている。
また讒言ではなく、姜維に敗北したため鍾会に殺されそうになり、衛瓘(えいかん)らのとりなしで囚人護送車に乗せられており、この流れだと普通に処罰されそうだがその後は登場しない。



諸葛尚  父とともに玉砕した諸葛瞻の子


諸葛尚(しょかつしょう)字は不明
徐州琅邪郡陽都県の人(??~263)

蜀の臣。
諸葛瞻(しょかつせん)の長子。諸葛亮の孫。

263年、魏の鄧艾と戦い父とともに討ち死にした。
同年、成都は陥落し蜀は滅亡した。

「華陽国志」に曰く。
諸葛尚は「父も私も国家の厚い恩誼を得ていたのに、さっさと黄皓(こうこう)を斬らなかったから敗北を招いたのだ。生きていてなんになろうか」と慨嘆し玉砕を遂げた。(『諸葛亮伝』)

「演義」や「横山三国志」でも父とともに戦死したことが記される。



諸葛竦  諸葛恪の次男


諸葛竦(しょかつしょう)字は不明
徐州琅邪郡陽都の人(??~253)

呉の臣。
諸葛恪(しょかつかく)の次男。

兄の諸葛綽(しょかつしゃく)は二宮の変に深く関わったため、父によって毒殺された。
やがて父も呉の実権を握り専権を振るうようになり、諸葛竦は幾度か諌めたが聞き入れられず、いつか災いを被るのではないかと危惧した。

253年、ついに諸葛恪は孫峻(そんしゅん)によって誅殺された。
当時、長水校尉だった諸葛竦は弟の諸葛建(しょかつけん)とともに母を連れて逃亡したが、白都まで逃げたところで追っ手の劉承(りゅうしょう)に追いつかれ、諸葛竦は斬られた。
諸葛建は長江を渡ったが魏領へ逃げ込む前に追いつかれ、一族皆殺しにされた。(『諸葛恪伝』)

滕胤(とういん)は娘が諸葛竦に嫁いでいたため、辞職を申し出たが、孫峻は故事を引き、思い留まらせた。
滕胤と孫峻は内心ではしっくり行っていなかったが、表面上は互いを立てるように振る舞い、協力して事にあたった。(『滕胤伝』)



諸葛璋  諸葛亮に降伏勧告した謁者僕射


諸葛璋(しょかつしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「諸葛亮集」に曰く。
223年、劉備が没すると魏の華歆(かきん)・王朗(おうろう)・陳羣(ちんぐん)・許芝(きょし)・謁者僕射の諸葛璋らはそれぞれ諸葛亮へ手紙を送り降伏勧告した。
諸葛亮はそれを無視して「正議」を著し、魏を批判した。(『諸葛亮伝』)

姓からして諸葛亮の同族だろうが他に事績がなく素性はわからない。



諸葛靚


未作成



諸葛詮  諸葛緒の孫


諸葛詮(しょかつせん)字は徳林(とくりん)
徐州琅邪郡陽都県の人(??~??)

晋の臣。
諸葛沖(しょかつちゅう)の子。諸葛緒(しょかつしょ)の孫。

「兗州記」に曰く。
諸葛詮は兗州刺史に、弟の諸葛玫(しょかつばい)は侍中・御史中丞に上った。(『鍾会伝』)

妹の諸葛婉(しょかつえん)は273年に後宮に入り司馬炎の夫人となった。
諸葛詮は散騎常侍を務めた。(『晋書 諸葛夫人伝』)



諸葛瞻  二代目は凡人


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諸葛誕  疑心暗鬼が破滅を招く


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諸葛沖  諸葛緒の子


諸葛沖(しょかつちゅう)字は不明
徐州琅邪郡陽都県の人(??~??)

晋の臣。
諸葛緒(しょかつしょ)の子。

「百官名」に曰く。
諸葛緒は晋代に太常・崇礼衛尉となり、子の諸葛沖は廷尉に上った。

「兗州記」に曰く。
諸葛沖の子の諸葛詮(しょかつせん)は兗州刺史に、諸葛玫(しょかつばい)は侍中・御史中丞に上った。(『鍾会伝』)

何攀(かはん)が廷尉平に任命されると、廷尉卿の諸葛沖は何攀が益州出身であるため侮っていたが、ともに裁決を担当すると一転して賛嘆し感服するようになった。(『晋書 何攀伝』)

娘の諸葛婉(しょかつえん)は司馬炎の側室となり晋書に列伝される。(『晋書 諸葛夫人伝』)



諸葛直  孫権の無茶振りで殺された将軍B


諸葛直(しょかつちょく)字は不明
出身地不明(??~231)

呉の臣。

230年、将軍の衛温(えいおん)と諸葛直に命じて兵1万で夷州(台湾)と亶州(一説に種子島)を捜索させた。亶州には徐福が移住したと伝わる。
しかし亶州ははるか遠方にあって探し当てられず、夷州から数千人の民を連れ帰るだけに終わった。

231年、衛温・諸葛直は任務を果たせなかった咎で誅殺された。(『呉主伝』)



諸葛玫  諸葛緒の処刑された孫


諸葛玫(しょかつばい)字は仁林(じんりん)
徐州琅邪郡陽都県の人(??~307)

晋の臣。
諸葛沖(しょかつちゅう)の子。諸葛緒(しょかつしょ)の孫。

「兗州記」に曰く。
諸葛詮(しょかつせん)は兗州刺史に、弟の諸葛玫は侍中・御史中丞に上った。(『鍾会伝』)

姉の諸葛婉(しょかつえん)は273年に後宮に入り司馬炎の夫人となった。

307年、義弟(妻の弟)の周穆(しゅうぼく)とともに司馬熾を廃し、周穆の舅の司馬覃(しばたん)を即位させるよう司馬越(しばえつ)に勧めた。
司馬越は却下したが重ねて勧められると激怒し、諸葛玫・周穆の処刑を命じた。
死に臨み諸葛玫が「君に何を伝えようか」と言うと、周穆は「今さら話すことはない」と返し、人々は周穆が事を主導していたと察した。(『晋書 諸葛夫人伝』)



諸葛攀  諸葛喬の子


諸葛攀(しょかつはん)字は不明
徐州琅邪郡陽都県の人(??~??)

蜀、後に呉の臣。
諸葛喬(しょかつきょう)の子。

父は呉の重臣である諸葛瑾(しょかつきん)の次男だが、実子のない叔父の諸葛亮の養子となり蜀に仕えた。
諸葛喬は25歳で早逝し、幼い諸葛攀は蜀で養育された。

253年、諸葛瑾の後を継いだ諸葛恪(しょかつかく)が誅殺されると家名を継ぐため呉に戻ったが、諸葛攀もまた早逝してしまい呉の諸葛氏は断絶した。

子の諸葛顕(しょかつけん)は蜀に残り、滅亡後は河東へ諸葛亮の孫らとともに移住させられた。(『諸葛亮伝』)



諸葛融  諸葛瑾のパリピの三男


諸葛融(しょかつゆう)字は叔長(しゅくちょう)
徐州琅邪郡陽都県の人(??~253)

呉の臣。
諸葛瑾(しょかつきん)の三男。
「諸葛瑾伝」に附伝される。

鷹揚な性格で、広く浅く豊富な知識を持っていた。様々な技芸に通じていたため無官のうちから孫権にたびたび遊びに呼び出されていた。後に騎都尉に任じられた。

赤烏年間(238~251)に陳表(ちんひょう)、顧邵(こしょう)とともに数万人を指揮して屯田を行った。陳表が没すると後を引き継いだ。(『諸葛融伝』)

241年、父が没すると諸葛恪(しょかつかく)はすでに自身の功績で列侯され、次兄の諸葛喬(しょかつきょう)は叔父の諸葛亮の養子になっていたため、三男の諸葛融が父の爵位と職務を継いだ。(『諸葛融伝』・『諸葛亮伝』)
歩協(ほきょう)らも同様に父の職務と兵を継いだが、孫権は朱然(しゅぜん)に命じて、彼ら後継ぎの子弟を指揮させた。(『朱然伝』)

公安督に就任すると、当時は平穏無事で秋と冬には狩猟で軍事訓練し、春と夏には大宴会を開いた。一人ひとりを手厚くもてなし、得意な遊戯を聞き出しては互角の対戦相手を用意して楽しませるなどしたため、千里の彼方から参加する者もいた。
父や兄の諸葛恪は質素に振る舞ったが、諸葛融は派手な衣装を好むなど一族でただ一人贅を尽くした。(『諸葛融伝』)

250年、魏の王昶(おうちょう)が江陵を攻めると、朱績(しゅせき ※朱然の子)は必死に防戦し、撤退させた。
朱績は諸葛融に手紙を送り、連携して王昶を追撃しようとしたが、約束を破り諸葛融が現れなかったため取り逃がしてしまった。
孫権は朱績を激賞するとともに、諸葛融を強く叱責したが、兄の諸葛恪が高位にあったため官位は奪われなかった。元から不仲だった朱績と諸葛兄弟は一層険悪な間柄となった。(『朱然伝』)

252年、孫権が没すると奮威将軍に転じた。(『諸葛融伝』)
諸葛恪は諸葛融へ手紙を送り、孫権の恩に感謝し、後継ぎの孫亮を支える決意を述べ、弟のお前にも特別扱いはしない、と告げた。だが諸葛恪は増長し、呉の実権を握ってしまう。(『諸葛恪伝』)

253年、諸葛恪が淮南を攻めると仮節を授かり、西方の魏軍を攻撃した。(『諸葛融伝』)
諸葛恪は朱績に出撃を要請しておきながら、彼の兵は進ませず、諸葛融にその任務を兼ねさせた。(『朱然伝』)

同年冬、独裁と遠征の失敗で人心を失った諸葛恪は、孫峻(そんしゅん)に誅殺された。
諸葛融の城にも朱績らの討伐軍が迫った。変事を知らない諸葛融は慌てふためきなんの抵抗もできず、城を包囲されると毒をあおって自害した。一説には金粉を飲んで死んだともいう。
3人の息子も誅殺された。(『諸葛融伝』)

家を継がせるため、次兄の子の諸葛攀(しょかつはん)が呉に呼び戻されたが、彼もまた早逝してしまい家名は途絶えた。(『諸葛亮伝』)

陳寿は「諸葛恪が弟への手紙で述べたように、もし口だけではなくその通りにしていれば、後悔せず、災禍も被らなかった」と指摘している。

「演義」には登場しない。



諸葛亮  英雄ここにあり


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申儀  DQNの弟


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申耽  流される男


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任安  杜微・杜瓊・何宗の師


任安(じんあん)字は定祖(ていそ)
益州広漢郡綿竹県の人(124~202)

隠者。

若い頃は太学で孟子を学び、いくつかの経書にも通じた。
さらに同郡の楊厚(ようこう)に図讖(予言)を学び、その術を究めた。
当時の人々は「楊厚を知りたければ任安に問え」や「今の世で古を行うのは任安」と称えた。(『後漢書 儒林伝』)
同門の董扶(とうふ)と学問・品行において同等の名声を博し、周舒(しゅうじょ)が二人に次いだ。(『秦宓伝』・『周羣伝』)

故郷に帰り教鞭をとると、遠方から多くの弟子が押し寄せた。(『後漢書 儒林伝』)
杜微(とび)や杜瓊(とけい)、何宗(かそう)も若い頃に任安に師事した。(『杜微伝』・『杜瓊伝』・『楊戯伝』)

はじめは州郡に仕官したが、後に官を辞すと、太尉からの2度の招聘や博士への任命など、全て病気と称して断った。(『後漢書 儒林伝』)
秦宓(しんふく)は益州牧の劉焉(りゅうえん)へ彼を朝廷に推挙するよう勧めたが、その上奏は戦乱のため都に届かなかった。

202年に79歳で没した。
門下生は師のために碑銘を建てた。

後に諸葛亮が秦宓へ、任安の優れた点を尋ねると「ひとの善事を記憶し、ひとの過失を忘れることです」と答えた。(『秦宓伝』)



任燠  魏の歴史に残る太守B(※事績不明)


任燠(じんいく)字は不明
青州楽安郡の人(??~??)

魏の臣。

清河太守を務めた。
陳寿は魏の歴史の中で優秀な太守5人の中に任燠を入れた。しかし5人の中で呉瓘(ごかん)と任燠の事績は残っていないと裴松之は記す。(『倉慈伝』)



任奕


未作成



任罕  任愷の子


任罕(じんか)字は子倫(しりん)
徐州楽安郡博昌県の人(??~??)

晋の臣。
任愷(じんがい)の子。任昊(じんこう)の孫。
「晋書 任愷伝」に附伝される。

父が没すると後を継いだ。(『晋書 任愷伝』)

幼い頃から家風に則ったが、才能は父に及ばなかった。
だが徳行で評判を取り「清平佳士」と呼ばれた。
黄門侍郎・散騎常侍・兗州刺史・大鴻臚を歴任した。(『晋書 任罕伝』)



任嘏  毒舌王昶にも称えられた人格者


任嘏(じんか)字は昭先(しょうせん)
青州楽安郡博昌県の人(??~??)

魏の臣。

以下「別伝」に曰く。
代々の名族で、幼い頃から賢く「蔣氏の翁、任氏の童」と郷里の人々にうたわれた。
父の任旐(じんちょう)も立派な品行に優れた人物だったが母は8歳で亡くし、大人と同じ悲しみを表して号泣し善良そのものと称えられた。
14歳ではじめて学問をすると同じ質問を二度とせず、3年で五経をそらんじその義理を究め、諸説を包括し全てを通覧したため学者から神童と呼ばれた。
戦乱により家は貧しくなり魚を売って生計を立てた。重税を掛けられ値段が数倍になっても、元の値段で売った。また共同で家畜を8匹ずつ買い、値上がりして60匹分になっても元のまま8匹分の値段で買い戻しに応じた。時価で売った共同購入者は恥じ入って返金した。近所の者が無断で任嘏の田を使用しても「私が貸してやったのです」と咎めず、無断で使った者は恥じて返還した。
村で争いごとがあると誰もが任嘏の意見を聞かずには安心できなかった。父兄らは行跡の悪い子弟を「お前の行為を任君に知られてもよいのか」と叱責した。

曹操は四海から人材を招き、任嘏は曹植(そうしょく)の庶子(※官位)から始まり相国東曹属、尚書郎を務めた。
曹丕の代に黄門侍郎となり、進言は常に直筆で記し、下問に備えて原本を持ち歩き、自ら届けるまで決して封をしなかった。曹丕はその善良さと慎重さを称えた。
東郡・趙郡・河東太守を歴任し各地に教化は行き渡り、離れてからもなお教えは残った。
純粋・柔和な人柄でいつも自分に足りないことがあるように虚心で、何かを恐れているように敬意のこもった態度だった。身を修め道義を実践しながら、それをひけらかさず表に出さなかったため、称賛する者は稀だった。
4万字に及ぶ38篇の著書を遺し、没すると元の下役だった程威(ていい)・劉固(りゅうこ)・上官崇(じょうかんすう)らが業績と文書を集めて上奏し、時の皇帝はそれを編集するよう詔勅した。

王昶(おうちょう)の「家誡」に曰く。
任嘏は純粋で道を踏み外さず、内は明敏でありながら外には思いやりがあり、遠慮深く謙虚で、汚れた場所も避けず、臆病ながら義に対しては勇敢で、朝廷では我が身の利害を気に掛けなかった。私は彼に親しみ立派だと思った。我が子が任嘏のようであることを望む。(『王昶伝』)



任愷  賈充との暗闘に敗れる


任愷(じんがい)字は元褒(げんほう)
徐州楽安郡博昌県の人(??~??)

魏・晋の臣。
任昊(じんこう)の子。

幼少より博識で、曹叡の娘の斉長公主(せいちょうこうしゅ)をめとり、中書侍郎・散騎常侍に上った。
晋代には侍中となり、昌国県侯に封じられた。

国政の才があり、事の大小を問わず多くを取りまとめた。誠実で正しく、国政を第一に考えたため、司馬炎に信頼された。(『晋書 任愷伝』)

王祥(おうしょう)・何曾(かそう)・鄭沖(ていちゅう)は老齢を理由に何度も引退を申し出たが、司馬炎は任愷を通じて得失を説き、認めなかった。(『晋書 王祥伝』)

泰始年間(265~275)のはじめ、鄭沖・王祥・何曾・荀顗(じゅんぎ)・裴秀(はいしゅう)ら重臣が次々と老齢を理由に引退した。
司馬炎はしばしば任愷を彼らのもとへ派遣して政治の相談をさせた。

任愷は賈充の人柄を嫌い、なるべく国政に携わらせまいと抑えてきた。賈充は「任愷は節操が固く器量があり正しいので太子の補佐にふさわしい」と勧め、太子少傅に転任させ国政から遠ざけた。
司馬炎は侍中の職はそのままにしようとしたが、これも賈充が阻止した。
後に秦州・雍州で鮮卑が反乱すると、司馬炎に誰に対処させればよいか尋ねられた任愷は賈充を勧めた。
庾純(ゆうじゅん)も賛成し詔勅が下されたが、賈充は荀勗(じゅんきょく)と共謀してそれを防いだ。

任愷には庾純・張華(ちょうか)・温顒(おんぎょう)・向秀(しょうしゅう)・和嶠(かきょう)が味方し、賈充には楊珧(ようちょう)・王恂(おうじゅん)・華廙(かよく)が肩入れし派閥争いが起こった。
司馬炎はこれを憂慮し、任愷・賈充を招き「朝廷は一体となり、大臣は融和すべきだ」と仲裁した。
任愷・賈充は表立っては争わなくなったが、裏ではますます恨みを深めた。賈充は推薦して任愷を吏部尚書・奉車都尉に転任させた。
任愷は人事を任され公正に仕事に励んだが、かえって司馬炎に謁見する機会は減った。
賈充はその隙に荀勗・馮紞(ふうちん)とともに画策し、任愷が天子の食器を用いていると讒言し、司馬珪(しばけい)に弾劾させついに罷免した。調査したところ食器は妻の斉長公主の嫁入り道具だった。

讒言により司馬炎の心も離れ、山濤(さんとう)の推挙で河南尹に就任したが、盗賊を捕らえられず罷免され、光禄勲に転じた。
常に公正で真面目に務めたため官民問わず慕われており、杜友(とゆう)・劉良(りゅうりょう)らは助けようと上奏を試みたが、賈充は罪を犯した劉友(りゅうゆう)と関わりがあると糾弾するなど追撃の手を緩めず、任愷・杜友・劉良は揃って罷免された。

自暴自棄となり、酒に溺れて歓楽にふけった。特に美食にこだわり、何劭(かしょう)も美食家で知られ一食で国内の珍味を食べ尽くしたが、任愷はこれをも超え、食卓には箸の置き場も無かった。
司馬炎は朝廷に復帰させ慰撫したが、任愷はただ泣くだけで何も言わなかった。太僕・太常に転じた。

かつて任愷が推挙した魏舒(ぎじょ)が司徒に任じられ、任愷はその任命の使者を命じられた。
魏舒は度量が大きく鷹揚だが、国政の才では任愷に及ばないと評判だったが、魏舒が国政に携わり、任愷は卿の身分のままで、憤慨し嘆いた。
任愷は志を得られず、憂いを抱いたまま没した。享年61。
「元」と諡され、子の任罕(じんか)が後を継いだ。(『晋書 任愷伝』)



任岐  賈龍とともに挙兵も返り討ち


任岐(じんき)字は不明
出身地不明(??~191)

劉焉(りゅうえん)の臣。

益州従事の賈龍(かりゅう)は黄巾賊を一掃し、益州牧の劉焉を迎え入れた。
だが劉焉は益州で独立する野望を抱いており、張魯(ちょうろ)と結託して漢中への交通路を遮断した。さらに州内の豪族を殺して権威を高めた。(『劉焉伝』)
191年(『後漢書 劉焉伝』)、賈龍はこれに反発し、犍為太守の任岐とともに劉焉を攻めたが、返り討ちに遭いともに戦死した。

「英雄記」には別の経緯が記される。
犍為太守の任岐は勝手に将軍を自称し、従事の陳超(ちんちょう)とともに挙兵し劉焉を攻めたが返り討ちにされた。
都の実権を握る董卓は、趙謙(ちょうけん)に軍勢を与え益州に向かわせ、賈龍を説得し劉焉を討伐させた。
だが劉焉は勇猛な青羌族に迎撃させ、賈龍を討ち取った。(『劉焉伝』)



任夔  曹洪に瞬殺された呉蘭配下


任夔(じんき)字は不明
出身地不明(??~218)

蜀の臣。

218年、呉蘭(ごらん)の指揮下で曹洪(そうこう)と戦い、敗死した。(『武帝紀』)

「演義」では呉蘭の制止も聞かず相手を侮り曹洪に斬られた。
「吉川三国志」では任双(じんそう)に謎の改名。
「横山三国志」では任雙(じんそう)にさらに改名され、呉蘭を焚き付けて戦わせた。



任光


未作成



任昊  任愷の父


任昊(じんこう)字は不明
徐州楽安郡博昌県の人(??~??)

魏の臣。
任愷(じんがい)の父。

254年、曹芳の廃位を求める上奏に太常として連名した。(『斉王紀』)

「斉王紀」には名を任晏(じんあん)と記されるが、「晋書 任愷伝」に任愷の父は太常と記され、昊と晏は字面が似ており、「集解」も任昊と同一人物と記している。(『晋書 任愷伝』・『三国志集解』)

任愷は曹叡の娘の斉長公主(せいちょうこうしゅ)をめとり、父と同じ太常まで上ったが、賈充との政争に敗れ、不遇をかこった。(『晋書 任愷伝』)



任氏


未作成



任峻  曹操の初期の兵站を担う


任峻(じんしゅん)字は伯達(はくたつ)
司隷河南郡中牟県の人(??~204)

曹操の臣。

寛大で人情が深く、包容力があり、物の道理を心得ていた。
飢饉が起こると友人の孤児を引き取り、一族で困窮した者を助けた。

董卓が都を席巻する混乱の中、中牟県令の楊原(ようげん)は逃亡を企てたが、任峻は「誰もが董卓に怒っていますが、きっかけがなく決起できないだけです。あなたが口火を切れば後に続くでしょう」と説得し、「関東10県の兵を集めれば1万人を下りません。河南尹を代行し募兵しましょう」と進言した。
楊原はそれに従い、任峻に主簿を命じた。任峻は上奏して河南尹を代行し兵を集めた。
ちょうど曹操の軍が県境に入ってきたため、張奮(ちょうふん)と相談して協力を決め、郡を挙げて迎えるとともに、一族と食客を数百人集めて合流した。曹操は大いに喜び、任峻を騎都尉に任じるよう上表し、さらに従妹をめとらせた。

その後は曹操が討伐に出ると、留守と兵站を任された。(『任峻伝』)
飢饉と旱害に見舞われると、196年、棗祗(そうし)・韓浩(かんこう)の建言で屯田制を始め、任峻は典農中郎将として実行役を担い、数年で倉庫を満載にした。(『任峻伝』・『武帝紀』)

200年、官渡の戦いでは兵器と食糧の輸送を司った。袁紹軍に補給路を脅かされると、補給部隊の守備を強化させて兵站を守った。
曹操は逆に袁紹軍の兵站を断ち大勝を得た。(『任峻伝』・『武帝紀』)
任峻は功績により都亭侯に上り300戸を与えられ、長水校尉に昇進した。

204年に没し、曹操を大いに嘆かせた。子の任先(じんせん)が後を継いだが、彼も早逝し、子が無かったため領国は没収された。

しかし曹丕の代に改めて功績を採り上げられ、成侯と諡するとともに、中の子(次男?)の任覧(じんらん)が関内侯に封じられた。(『任峻伝』)

陳寿は「義兵を上げ、それから曹操に帰伏した。土地を切り拓き穀物を増産し、倉庫は満ちあふれ、功績は最高だった」と激賞している。

「演義」では一ヶ所に名前だけ出てくる。



任先  任峻の上の子


任先(じんせん)字は不明
司隷河南郡中牟県の人(??~??)

魏の臣。
任峻(じんしゅん)の子。長男?

204年、父が没すると任先が後を継いだ。
任先も亡くなると子が無かったため、領国を没収された。

曹丕の代に父の功績を改めて採り上げられ、任峻の中の子(次男?)の任覧(じんらん)が関内侯に封じられた。(『任峻伝』)



任度


未作成



任旐  任嘏の人格者の父


任旐(じんちょう)字は子旟(しよ)
青州楽安郡博昌県の人(??~??)

後漢の臣。
任嘏(じんか)の父。

以下「別伝」に曰く。
代々の名族で、立派な品行を称えられた。
184年、黄巾の乱が起こると賊軍は博昌県にも迫ったが、彼らは「任旐は天下の賢人だと聞いている。賊がどうしてその郷に入れるだろうか」と言い立ち去った。
これにより名声が轟き、州郡から孝廉に推挙され、酸棗・祝阿県令を歴任した。
子の任嘏も父譲りの人格者で8歳の時に母を亡くし、大人と同じ悲しみを表して号泣し善良そのものと称えられた。才智にも優れ魏の太守を歴任した。(『王昶伝』)



任藩  曹操に魏公即位を勧めた祭酒B


任藩(じんはん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に祭酒として連名した。(『武帝紀』)



任福  蔡方を討伐した屯騎校尉


任福(じんふく)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

225年、利城郡の兵士の蔡方(さいほう)が郡を上げて反乱し太守の徐質(じょしつ)を殺した。
青州刺史の王凌(おうりょう)と、派遣された屯騎校尉の任福・歩兵校尉の段昭(だんしょう)が討伐した。反乱軍のうち脅迫され従わされた者や、亡命した者は罪を許された。(『文帝紀』)

唐咨(とうし)はこの際に反乱軍の指導者として担ぎ上げられた。(※殺害した太守の名は徐箕(じょき)と記される)
敗れた唐咨は呉へ亡命した。(『諸葛誕伝』)



任養  馬超を迎え入れた天水郡民


任養(じんよう)字は不明
涼州天水郡の人(??~??)

天水郡の民。

211年、曹操に敗れた馬超が天水郡上邽県へ逃げ込むと、郡民の任養らがこぞって歓迎し、県令代行の閻温(えんおん)はそれを止められず州へ逃げ帰った。(『閻温伝』)



任覧  任峻の中の子


任覧(じんらん)字は不明
司隷河南郡中牟県の人(??~??)

魏の臣。
任峻(じんしゅん)の子。次男?

204年、父が没すると兄の任先(じんせん)が後を継いだ。
任先も亡くなると子が無かったため、領国を没収された。(『任峻伝』)

任覧は魏諷(ぎふう)と親しくしたが、同郷の鄭袤(ていほう)は魏諷を奸雄と見抜き、必ず災いをなすと言い距離を置いた。
魏諷は219年に反乱を起こし、任覧は眼識の確かさを讃えた。(『晋書 鄭袤伝』)

曹丕の代に父の功績を改めて採り上げられ、中の子(次男?)の任覧が関内侯に封じられた。(『任峻伝』)



岑昏  呉を傾けた奸臣


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岑晊


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岑述  張裔に絡まれた司塩校尉


岑述(しんじゅつ)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

司塩校尉を務めた。
張裔(ちょうえい)と諍いを起こし、仇敵の間柄となった。
非は張裔にあり、諸葛亮は彼へ「あなたとは金石のような堅い友情を結んだつもりなのに、私が岑述へ期待を掛けただけのことを、なぜ我慢できないのだ」と苦言を呈した。(『楊洪伝』)



沈瑩  身を捨てて名を残す


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沈珩  趙咨の次の使者


沈珩(しんこう)字は仲山(ちゅうざん)
揚州呉郡の人(??~??)

呉の臣。

若い頃から経書をはじめ学芸全般に通じ、特に「春秋左氏伝」と「国語」に詳しかった。

220年、魏から呉王に封ぜられた孫権は趙咨(ちょうし)を魏への使者に立て、趙咨は大任を果たした。
曹丕は孫権の長男の孫登(そんとう)に爵位を授けようとしたが、幼年を理由に辞退し、西曹掾の沈珩が智謀に優れ外交交渉も巧みであることから、断りの使者として送るとともに献上物を捧げた。

曹丕が「呉は魏に攻められると疑っているのか」と問うと、沈珩は故事を引き「疑ってはいませんが、もし盟約を違えるならばもちろんその備えはあります」と答えた。
曹丕がさらに「呉の太子(孫登)が人質に来ると聞いたが確かか」と問うと、沈珩は「私は末席を汚す身なので知りません」としらばっくれた。
曹丕は応対を気に入り、側近くに招くと終日語り合い、沈珩は言葉に詰まること無く素早く受け答えした。

帰国すると沈珩は「密かに調査したところ劉曄(りゅうよう)が奸計をめぐらし、魏が盟約を守り通すことはありません。兵法にも敵が侵略しないことを頼みにせず、侵略されない実力があることを頼みにすべきだ、とあります。軍需物資を蓄え、人材を集めれば天下を窺うこともできます」と、趙咨と同じく魏の裏切りとそのための備えを訴えた。

孫権は使者の任を良く果たしたと称え、永安郷侯に封じた。
官位は少府にまで上った。(『呉主伝』)

陸機(りくき)は「弁亡論」で「趙咨・沈珩は使者の任に当たり、機転の利く応対により国の名誉を外国にまで広げた」と評した。(『孫晧伝』)

「演義」には趙咨は登場するが、沈珩は登場しない。



沈成  李通に敗れた陽安郡の賊徒C


沈成(しんせい)字は不明
豫州陽安郡の人?(??~200)

賊徒。

200年、曹操は豫州汝南郡の2県を割き、陽安郡を設置すると李通(りつう)を都尉(太守代行)に任じた。
李通は郡内の賊徒の瞿恭(くきょう)・江宮(こうきゅう)・沈成を撃破し首を曹操へ送った。(『李通伝』)



沈弥  甘寧とともに反乱するも失敗A


沈弥(しんび)字は不明
出身地不明(??~??)

劉璋(りゅうしょう)の臣。

「英雄記」に曰く。
194年、劉璋が益州刺史を継ぐと、朝廷(を牛耳る李傕(りかく)ら)は扈瑁(こぼう)を益州刺史に任じ、漢中に入らせた。
荊州別駕の劉闔(りゅうこう)や、劉璋配下の沈弥・婁発(ろうはつ)・甘寧ら不穏分子はそれに呼応し劉璋を攻撃したが、敗北し荊州へ逃げた。劉璋は趙韙(ちょうい)に追撃させた。(『劉焉伝』)

甘寧は後に呉の重臣となるが沈弥・婁発の消息は不明である。



沈䁕  高岱の友人


沈䁕(しんびん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣?

許貢(きょこう)が呉郡を乗っ取った時、高岱(こうたい)は太守を避難させ、自身は徐州刺史の陶謙(とうけん)に援軍を出させたが、許貢に母を人質に取られた。
許貢は出頭を命じたが、高岱の弁舌と慇懃さに心打たれ、思わず母を解放した。
高岱が帰ろうとすると、許貢は我に返り追っ手を差し向けたが、高岱は友人の張允(ちょういん)と沈䁕に船を用意してもらっていたため無事に逃げ切った。(『孫策伝』)



沈友  正しすぎて孫権に粛清される


沈友(しんゆう)字は子正(しせい)
揚州呉郡の人(176~204)

孫権の臣。

以下「呉録」に曰く。
11歳の時(185年)、朝廷から巡察に来た華歆(かきん)に非凡な人物と見込まれ「一緒に車に乗って話そう」と誘われた。沈友は後ろへ下がり「君子がよしみを通じる際には宴を開き礼の定めに従うものです。仁義は衰微し聖道が崩壊の危機に瀕した今、あなたが天子の命を受けて巡察しているのはそうした風俗を治め正すためなのに、軽々しく礼の手続きを無視されるのは薪を背負って火事を消しに行くようなもので、火の手をますます盛んにするだけではありませんか」と諌めた。
華歆は恥じ入り「桓帝・霊帝の代以来で多くの英俊はいたが、幼くしてかくも優れた者はいなかった」と感嘆した。

成人する頃には広く学問を修め多くに精通し文章も巧みだった。武事も好み「孫子の兵法」に注を付けた。弁舌にも優れ彼と議論を応酬できる者はいなかった。
皆が沈友の筆・口舌・刀剣はずば抜けていると評した。

孫権は礼を厚くして招聘した。沈友は王者や覇者としての方略や目前の急務について論じ、孫権も顔つきを改めて慎み深く耳を傾けた。荊州を制圧すべきだとの計略を受け入れた。
だが厳しい態度で会議に臨み、妥協を許さぬ正義の論陣を張ったため、無能な臣下に謀叛を企んでいると誣告された。

204年、会議の席で沈友は孫権を非難した。
孫権は彼を引きずり出し「お前が謀叛を企んでいると言う者がいるぞ」と言い、もはや死は免れないと悟った沈友は「天子がおられるのにそれをないがしろにする者は謀叛人と同じである」と孫権を当てこすり、殺された。享年29。
孫権は沈友がやがては自分にも制御できなくなると考え、あえて誣告に乗ったのである。(『呉主伝』)



辛機  黄華に追い出された酒泉太守


辛機(しんき)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

220年、曹操が没すると西平郡の麴演(きくえん)が二度にわたり反乱した。
張進(ちょうしん)・黄華(こうか)も呼応し、黄華は酒泉太守の辛機を追放し、太守を名乗った。
雍州・涼州の豪族が揃って反乱し大勢力となり、毌丘興(かんきゅうこう)は前に麴演を討伐した蘇則(そそく)に救援を求めた。
蘇則は金城に駐屯する郝昭(かくしょう)・魏平(ぎへい)と合流し、速攻を仕掛けた。騙し討ちしようとした麴演を逆に騙して処刑し、張進を討ち取り、黄華を降伏させた。(『蘇則伝』)



辛憲英  全てを見抜く才女


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辛敞  姉さん、事件です


辛敞(しんしょう)字は泰雍(たいよう)
涼州隴西郡の人(??~??)

魏の臣。
辛毗(しんぴ)の子。

曹叡の代に劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)が権勢を振るい、誰もが交際を求めたが辛毗は一切それに加わらなかった。
それを子の辛敞は憂い「劉放・孫資が権力を握り、人々は影のようにくっついています。父上は少し心を抑えられ、妥協なさらないと悪口を言われます」と批判した。
すると辛毗は「劉放・孫資と上手く行かなくても、せいぜい三公になれないだけだ。三公になりたいために節義を失う者がどこにいる」と叱りつけた。
この言葉が耳に入ったのだろう、後に王思(おうし)の後任に辛毗が推された時、劉放・孫資は「辛毗は誠実だが強情で妥協しません」と反対し、起用されなかった。

父が没すると後を継いだ。
249年、権力を握る曹爽(そうそう)が曹芳を連れて都を空けた隙に、司馬懿が決起し、都の城門を閉じた。魯芝(ろし)は兵を率いて城門を突破しようと考え、大将軍(曹爽)参軍の辛敞を誘った。
辛敞は判断に迷い、姉の辛憲英(しんけんえい)に「人々は司馬懿が国家に不利益をもたらそうとしていると噂しています。彼の行いは正しいのでしょうか」と相談した。
辛憲英は「司馬懿はそうせざるを得なかったのです。先帝(曹叡)が臨終の際に司馬懿と曹爽に後事を託したことはみな覚えています。しかし曹爽は権力を独り占めし、主君に不忠で、人道に背いています。曹爽は司馬懿の相手にもなりません。処刑されるでしょう」と言った。
辛敞がならば城を出ないほうがいいのかと聞くと、辛憲英は「職務は人の大義です。あなたは曹爽の臣下なのだから、主君のために死ぬのが務めです」と言い、かくして辛敞は魯芝とともに城門を突破し、曹爽のもとへ駆けつけた。
曹爽一派は処刑されたが、辛敞と魯芝は赦免された。事が落ち着くと辛敞は「姉に相談しなければ、危うく道義に外れ身を滅ぼすところだった」と嘆息した。

辛敞は咸熙年間(264~265)に河内太守を務め、官位は衛尉にまで上った。(『辛毗伝』)



辛曾  左昌の救援を渋った従事A


辛曾(しんそう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

184年、辺章(へんしょう)が反乱すると、涼州刺史の左昌(さしょう)は軍の編成にかこつけて数千万銭を盗んだ。蓋勲(がいくん)が諌めると逆恨みし、前線に飛ばし敗北させて罪に問おうとしたが、蓋勲はしばしば戦功を上げた。
辺章は金城郡を攻め、蓋勲は救援するよう言ったが左昌は無視した。金城太守の陳懿(ちんい)が戦死し、さらに進軍して左昌も包囲された。
左昌が救援要請を出すと、蓋勲とともに駐屯していた従事の辛曾・孔常(こうじょう)らはそれをためらったが、蓋勲は故事を引いて激怒し、すぐさま救援に赴いた。
蓋勲が辺章らの罪を責めると、「左昌があなたの指示に従いすぐ兵を出していたら考えを改めたかも知れないが、ここまで罪を重ねてはもう降伏できない」と言い、辺章は撤退した。

左昌は横領の罪により断罪され、宋梟(そうきゅう)が後任の涼州刺史となった。(『後漢書 蓋勲伝』)



辛韜  荀攸に質問をはぐらかされる


辛韜(しんとう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣?
荀攸(じゅんゆう)の従兄弟(おばの子)。

「王沈魏書」に曰く。
辛韜が荀攸にかつて冀州を攻略した時のことを質問すると、荀攸は「辛毗(しんぴ)が袁譚(えんたん)の使者として降伏を願い出たから、官軍が冀州を討伐したのだ。私は何も知らない」と言った。
以後、辛韜も他の人々も二度と荀攸に軍事や国事について質問しなくなった。(『荀攸伝』)

「荀攸は討伐に随行し計略を巡らせたが、(曹操だけに話したため)諸将や肉親でも内容を知る者はいなかった」という記述への注として付けられており、荀攸の口の堅さを示す一例だろう。
「どうしても知りたければ辛毗に聞け」とも読め、辛韜と同姓でもあり、すると荀攸のおばは辛毗の一族に嫁いだのだろうか。



辛毗  臆さず諫言、臆さず収拾


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辛評  郭図とともに暗躍した辛毗の兄


辛評(しんひょう)字は不明
豫州潁川郡陽翟県の人(??~??)

袁紹の臣。
辛毗(しんぴ)の兄。

191年、荀彧は冀州牧の韓馥(かんふく)の招きに応じたが、到着すると袁紹に地位を奪われていた。弟の荀諶(じゅんしん)や同郷の辛評・郭図(かくと)らは袁紹に任用され、荀彧も厚遇されたが、袁紹は大事をなせる人物ではないと判断して辞去し、曹操に仕えた。(『荀彧伝』)

郭嘉もはじめ袁紹に仕えたが、参謀の辛評・郭図へ「袁紹は周公旦の真似をし士人にへりくだるが人物を使う機微を知らない。色々やろうとするがおろそかで、策略を好むが決断力がない。天下の大難を救い、王者の事業をなすことはできない」と言い立ち去った。(『郭嘉伝』)

辛毗は辛評とともに袁紹に仕えた。(『辛毗伝』)

200年、官渡の戦いの敗北により審配(しんぱい)の2人の子が曹操の捕虜になった。審配と敵対する孟岱(もうたい)は蔣奇(しょうき)を通じて「審配の一族の兵は多く、しかも子らが人質に取られており、必ず裏切ります」と吹き込んだ。郭図・辛評も同意した。
袁紹は孟岱を監軍に任じ、鄴の守備を審配と交代させたが、日頃は審配と敵対する逢紀(ほうき)が絶対に裏切らないと弁護してやり、取りやめとなった。(『後漢書 袁紹伝』)

202年、袁紹が後継者を決めないまま没したため、兄の袁譚(えんたん)を擁する辛評・郭図と、弟の袁尚(えんしょう)を擁する審配・逢紀は敵対した。
審配・逢紀は序列通りに袁譚が後を継げば辛評らに迫害されると恐れ、袁紹のかねてからの意向と称し袁尚に後を継がせた。(『袁紹伝』)

袁譚は曹操に対抗するため袁尚に兵と軍需物資を求めたが、疑心暗鬼の袁尚は拒否した。辛評・郭図は「これも、あなたを外に出して後継者から外したのも全て審配の仕業です」と吹き込み、激怒した袁譚はとうとう袁尚を攻撃したが敗れた。(『後漢書 袁譚伝』)

「魏氏春秋」に曰く。
荊州牧の劉表(りゅうひょう)は兄弟を仲裁し、袁尚に「変事は辛評・郭図によって引き起こされた」と述べた。

「先賢行状」に曰く。
袁譚・袁尚が敵対した時、辛毗と郭図の家族は袁尚の本拠地の鄴から脱出できたが、辛評の家族だけは捕らえられた。
204年、曹操が鄴を陥落させると、守っていた審配は「辛評・郭図が冀州を破滅に追い込んだ」と激怒し、辛評の家族を殺させた。
辛毗はこの時、救援要請のため曹操軍におり、辛評の家族を救出しようとしたが間に合わなかった。曹操は剛直な審配を気に入り助命しようとしたが、辛毗が号泣して反対したため処刑した。(『袁紹伝』)

鄴陥落の際に辛評自身も殺されたとする説もある。

「演義」では曹操と袁譚が決裂すると降伏を申し出に行ったが、拒絶された上に寝返るよう勧誘された。忠義者の辛評は断ったが、袁譚に寝返りを疑われ、怒りのあまり病を得て没した。



晋宗  魏に寝返り賀斉に捕らえられる


晋宗(しんそう)字は不明
出身地不明(??~223?)

呉から魏に寝返った臣。

223年、戯口を守っていた晋宗は、同僚の王直(おうちょく)を殺し、部下を引き連れ魏へ寝返った。
魏は晋宗を蘄春太守に任じ、国境を荒らさせ、晋宗は安楽にいる人質を奪おうと企てた。
賀斉(がせい)が侵攻してきた曹休(そうきゅう)を撃退し、余裕ができたため、孫権は賀斉・糜芳(びほう)・劉邵(りゅうしょう)・鮮于丹(せんうたん)・胡綜(こそう)らに命じ蘄春を攻撃させた。
彼等は小勢で奇襲を掛け、晋宗を生け捕りにした。(『呉主伝』・『賀斉伝』・『胡綜伝』)



秦宜禄  NTR夫


秦宜禄(しんぎろく)字は不明
并州新興郡の人(??~199)

呂布、後に曹操の配下。

董卓殺害の実行犯の一人に秦誼(しんぎ)という人物がおり、同一人物と思われる。(『後漢書 董卓伝』)

198年、呂布は下邳城を曹操に包囲されると、袁術(えんじゅつ)のもとに秦宜禄・許汜(きょし)・王楷(おうかい)を送り救援要請した。
秦宜禄は王族(袁術が殺した劉寵(りゅうちょう)か)の娘と強引に縁組させられ、援軍も結局送られず呂布は滅亡した。
秦宜禄は曹操に仕え、下邳城に残してきた妻の杜氏(とし)は曹操の側室にされた。

翌年、劉備が曹操に反旗を翻すと、県長を務めていた秦宜禄は張飛に「妻を奪った男に仕えるのは愚かだ」とけしかけられ、それに加担しようとした。
だがすぐに後悔し離脱しようとしたため張飛に殺された。

その後、杜氏は秦宜禄との子の秦朗(しんろう)ともども曹操に寵愛され、ともに高位に上った。(『明帝紀』)



秦絜  諸葛誕の反乱に反対し殺された配下B


秦絜(しんけつ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

257年、諸葛誕の反乱の際に主簿の宣隆(せんりゅう)と部曲督の秦絜は強く反対したため殺された。
曹髦は「暴君の紂王を諌めて殺された比干のように身内でもないのに(身内のように敢然と)反対した」と詔勅を下して称え、二人の遺児を騎都尉とし、忠義を喧伝するよう命じた。(『高貴郷公紀』)



秦頡  張曼成を討ち取るも反乱軍に斬られる


秦頡(しんけつ)字は不明
出身地不明(??~186)

後漢の臣。

184年、黄巾の乱が起こると南陽郡では張曼成(ちょうまんせい)が数万人を集めて挙兵し、太守の褚貢(ちょこう)を殺し、宛県に100日以上駐屯した。
後の南陽太守の秦頡が攻撃し張曼成を討ち取ったが、黄巾賊は趙弘(ちょうこう)を後継に立て、十数万人に膨れ上がった。
朱儁(しゅしゅん)・荊州刺史の徐璆(じょきゅう)・秦頡が1万8千の兵で宛城を包囲したが落とせず、朱儁は罷免されかかったが司空の張温(ちょうおん)の擁護により却下された。
趙弘を討ち取ったが、韓忠(かんちゅう)が後継に立てられ抗戦を続けた。朱儁は賊軍をおびき寄せて撃破し、韓忠は小城に籠もり降伏を申し出た。徐璆・秦頡・張超(ちょうちょう ※張邈の弟ではなく書家で著名な方)は認めようと言ったが、朱儁は「許せばつけ上がり平定できない」と攻撃を続けたが陥落できなかった。
やがて「死にものぐるいで戦っているから勝てない」と気付き、わざと退路を開けてやると韓忠は城外へ出て撃破された。降伏したが怒り心頭に達していた秦頡は韓忠を殺してしまい、黄巾賊は孫夏(そんか)を立ててさらに抵抗した。朱儁が攻撃しようやく鎮圧された。(『後漢書 朱儁伝』)

186年、江夏郡で兵士の趙慈(ちょうじ)が反乱し、南陽太守の秦頡を殺し6県を陥落させた。
廬江太守の羊続(ようしょく)は南陽太守に転任して討伐に当たることとなり、まず見すぼらしい服に着替え、童子一人を連れ各県を視察して回った。それをもとに各県の風土や官民の性質を次々と言い当てると、郡内の人々は種がわからず畏怖した。
そして荊州刺史の王敏(おうびん)とともに討伐し、趙慈ら5千の首級を挙げた。残党は降伏し、羊続は罪に問わなかった。郡内は平定され万民は喜んで服従した。(『後漢書 羊続伝』)



秦晃  芍陂の戦いで戦死


秦晃(しんこう)字は不明
出身地不明(??~241)

呉の臣。

241年、全琮(ぜんそう)は寿春を攻めたが、芍陂で王凌(おうりょう)に撃退された。
追撃により中郎将の秦晃(しんこう)ら十余人が戦死するなど潰走しかけたが、顧譚(こたん)と張休(ちょうきゅう)が奮戦して食い止め、全端(ぜんたん)・全緒(ぜんしょ)が反撃に出てどうにか追い返した。

だが戦後、顧譚・張休に雑号将軍が授けられた一方で、全緒は裨将軍、全端は偏将軍を与えられただけに留まり、元から顧譚と敵対していた全一族との仲はますます険悪となった。(『呉主伝』・『顧譚伝』)



秦秀


未作成



秦松  孫策・孫権の初期の参謀


秦松(しんしょう)字は文表(ぶんひょう)
徐州広陵郡の人(??~??)

呉の臣。

197年頃、孫策は呉郡・会稽郡を制圧すると、配下を周辺の太守に任じ、張昭(ちょうしょう)・張紘(ちょうこう)・秦松・陳端(ちんたん)を参謀に迎えた。(『孫策伝』)

張紘・陳端と同郷で、ともに孫策の参謀を務めたが、秦松・陳端は早くに没した。(『張紘伝』)

孫策が張昭・張紘・秦松らと議論していると、末席にいたまだ10歳ほどの陸績(りくせき)が故事を引いて反論し、一同を感心させた。(『陸績伝』)

「江表伝」に曰く、202年、袁紹を撃破した曹操は、孫権に息子を人質に出すよう要求した。張昭や秦松らも結論を出せず、孫権は周瑜を連れて母の呉夫人(ごふじん)と相談した。
周瑜は曹操にも勝てる軍備はあり、情勢を見極めてからでも遅くはないと意見し、呉夫人も「もっともな言葉です。私は周瑜を我が子のように思っています。お前も兄として仕えなさい」と同意し、人質を送らなかった。

「江表伝」に曰く、208年、曹操の大軍が迫ると誰もが降伏論を唱える中、周瑜は冷静に分析し勝算があると言った。孫権は「張昭や秦松は妻子の安否に心引かれ、私情だけで降伏論を唱え、私の期待に応えてくれない。あなたと魯粛だけが私と心を一つにしている」と喜び開戦を決めた。

「江表伝」に曰く、210年、劉備は孫夫人(孫尚香)をめとり、帰る際には孫権・張昭・秦松・魯粛らが見送った。(『周瑜伝』)

孫権は陸遜とともに周瑜・魯粛・呂蒙の功績を振り返り「赤壁の戦いの際に、張昭・秦松が降伏論を唱える中、魯粛は即座に反論し開戦論を唱えてくれた」と語った。(『呂蒙伝』)



秦静  高堂隆・蘇林と並ぶ老学者


秦静(しんせい)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

博士を務めた。

景初年間(237~239)、曹叡は蘇林(そりん)・秦静らが年老い、彼らの学問が断絶するのを心配し、有望な官吏に高堂隆(こうどうりゅう)・蘇林・秦静らに師事させるよう詔勅を下した。
だが数年後に高堂隆らは揃って没したため、彼らの学問は廃れてしまった。(『高堂隆伝』)



秦旦  遼東から決死の脱出に成功した呉臣A


秦旦(しんたん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

「呉書」に曰く。
233年、孫権は遼東の公孫淵(こうそんえん)へ友好の使者を送った。
だが公孫淵は使者の張弥(ちょうび)・許晏(きょあん)を殺し兵や物資を奪おうと企て、随行していた配下らを各地へ分散して幽閉した。
中使の秦旦・張羣(ちょうぐん)・杜徳(ととく)・黄彊(こうきょう)ら60人は玄菟郡に移され、民家に住み食事を提供された。
40日余り経ち、秦旦は「我々は使者の任も果たせず死んだも同然だ。太守の王賛(おうさん)には400ほどの兵しかなく、決起してこれを打ち破ればたとえ殺されても心残りはない。今よりはよほどマシだ」と挙兵を誘った。
8月19日夜に挙兵を決めたが、決起日の昼に部下の張松(ちょうしょう)が裏切り、挙兵を知った王賛は門を封鎖した。
秦旦らは城壁を乗り越え脱出したが、張羣は膝が腫れており、杜徳が肩を貸していたものの6~700里逃げた山中でついに倒れ伏した。仲間らは涙し、張羣は自分を見捨てて逃げるよう勧めたが、杜徳は「祖国から万里も離れた土地で生死を共にした仲間をどうして見捨てられるか」と自分は看病のため残ると決断した。杜徳は山菜や木の実を採ってしのぎ、秦旦・黄彊は数日後に高句麗にたどり着いた。
句麗王の位宮(いきゅう)は事情を聞くと喜んで兵を出し、張羣・杜徳を助け、4人を呉へ送り届けるとともに朝貢した。
孫権に目通りした秦旦らは感極まり、孫権は称えて4人を校尉に任じた。(『呉主伝』)



秦伯南  曹真の父?B


秦伯南(しんはくなん)字が伯南か
出身地不明(??~195)

曹操の友人。
曹真(そうしん)の父か。

「魏略」に曰く。
曹操と親しかった。
興平年間(194~195)末期、袁術に追われた曹操は秦伯南の家へ逃げ込んだ。追手が居所を尋ねると秦伯南は自分が曹操だと名乗り殺された。
曹操は彼に感謝し一族に迎え入れ、遺児の曹真を養育した。

正史には曹真の父は曹邵(そうしょう)と記される。
しかし裴松之は「曹真は邵陵侯に封じられた。誤記でなければ議論の余地がないほどおかしい」と(※父の名を避けるのが常識であり、父と同名の邵はありえない)指摘する。(『曹真伝』)



秦博


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