孫賁 孫堅死後に軍を率いた甥
孫賁(そんふん)字は伯陽(はくよう)
揚州呉郡富春県の人(??~??)
孫羌(そんきょう)の長男。
孫堅の甥(兄の子)、孫策・孫権の従兄にあたる。
両親は弟の孫輔(そんほ)が赤児の頃に亡くなり、長男の孫賁が育てた。
出仕して郡の督郵守長を務めていたが、叔父の孫堅が挙兵すると官を辞して麾下に加わった。
191~192年に孫堅が戦死すると、軍勢を引き継ぎ故郷に棺を届け、以降は袁術の傘下に入った。
袁紹が九江太守に周昴(しゅうこう)を任命し袁術と敵対すると、孫賁は周昴を打ち破った。袁術は(かつて孫堅が務めた)豫州刺史を孫賁に与えた。
後に丹陽都尉に転じ、征虜将軍を兼任して山越の平定にあたった。(『孫賁伝』)
揚州刺史の劉繇(りゅうよう)が勢力を伸ばすと、丹陽郡から下がり歴陽へ退いた。袁術は(孫堅の義弟の)呉景(ごけい)とともに孫賁へ攻撃を命じたが何年経っても(※「劉繇伝」によると1年余り)破れず苦戦した。(『孫策伝』・『劉繇伝』)
そこへ従弟の孫策が援軍に現れると、またたく間に劉繇を撃破し豫章へ追いやった。
孫策は孫賁・呉景を(袁術の本拠地の)寿春へ帰した。(『孫賁伝』)
(197年、)袁術は帝位を僭称した。呉景は広陵太守を務め、孫賁は九江太守に任じられ、一族の孫香(そんこう)は汝南太守を務めていた。
孫策は袁術からの独立を決意し、孫賁らに誘いを掛けた。呉景はすぐに職務を捨てて走り、孫賁は寿春で兵を預かっていたため困難だったが、妻子を残して逃げた。孫香は任地が遠く戻れなかった。(『孫賁伝』)
廬江太守の劉勲(りゅうくん)を孫輔とともに破り、江夏太守の黄祖(こうそ)と戦った。(『孫賁伝』・『孫輔伝』)
(197年、)劉繇が病没すると豫章を制圧し、太守に任じられた。
その頃、僮芝(とうし)が勝手に廬陵太守を名乗っていたため、孫策は「豫章で僮芝の喉元を押さえ、門戸を見張って欲しい。有利と見たら孫輔に攻撃させ、周瑜に助勢を命じてください」と頼んだ。
後に僮芝が病にかかったと聞くと、孫輔・周瑜に攻撃させ、廬陵を制圧した。(『孫賁伝』)
曹操は袁紹と対峙し、まずは後顧の憂いを断とうと孫策によしみを通じた。姪を孫策の弟の孫匡(そんきょう)に嫁がせ、息子の曹彰(そうしょう)の妻に、孫賁の娘を迎えた。
また袁紹を破った後、夏侯惇は孫賁へ長沙郡を授けると誘いを掛けた。(『孫策伝』)
都亭侯に封じられ、208年には朝廷から劉隠(りゅういん)が遣わされ、正式に征虜将軍に任じられ、豫章太守も兼任となった。(『孫賁伝』)
同年、曹操が荊州を制圧すると、孫賁は二心を抱き、息子を人質として曹操のもとへ送ろうとした。朱治(しゅち)はそれを聞くと面会を求め、情勢を説いて翻意させた。(『朱治伝』)
官職にあること11年にして没し、子の孫鄰(そんりん)が後を継いだ。(『孫賁伝』)
弟の孫輔は、孫権では統治は難しいと考え、密かに曹操と内通したのが発覚し、幽閉され数年後に没した。(『孫輔伝』)
陳寿は孫賁らを「宗室伝」としてまとめ「ある者は国家の基礎を定め、ある者は国境の守り。任務を立派に果たしたのだから、栄誉を受けるのは当然である」と評した。
「演義」には登場しない。
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