三国志 そ 7


孫弼  劉類に理不尽に責められる


孫弼(そんひつ)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
施畏(しい)、倪顗(げいぎ)、胡業(こぎょう)らは刺史・太守を務めたがいずれも苛酷と評された。
中でも劉類(りゅうるい)が最も酷かったが、人間関係の処理に長けたため失脚しなかった。
嘉平年間(249~254)、弘農太守に赴任すると下役200余人に休暇も与えずもっぱら急ぎでもない仕事をさせた。過失があれば重さに関わらず髪を引き抜き杖でめった打ちし、投獄したり引きずり出したりを3~4度繰り返した。
銭を探すためあちこち掘らせたため市場は穴だらけだった。
表では簡素化を口にし、巡視に出ると無理に挨拶に来ないよう命じておきながら、来ない者を記憶して陥れた。
他人を信頼せず、上役を外に出すと下役に尾行させて監視し、それも信用できず小使いや奴婢に下役も監視させた。
ある時、巡察に出て民家で宿を取った。たまたま犬と豚が騒ぎ出すと配下が勝手に殺して食べようとしていると思い込み、五官掾の孫弼を連れてこさせ土下座させた。事情を聞くと詳しく調べなかったことに引け目を感じたが、他のことにかこつけて責め続けた。
100歳近い民の尹昌(いんしょう)は巡察を知ると子に抱えられながら挨拶に赴いたが、劉類は「こんな死人をわざわざ私に会わせるのか」と子を叱りつけた。彼の無礼さは全てこのようだった。
刺史や太守に降級・免職・死刑を口にしてはいけない「三不肯」という古い慣習があったが、郡民は苦しみ「劉府君(知事)には三不肯がある」と門に書きつけた。劉類は態度を改めなかった。
その後、司馬昭が外征のため弘農郡を通った時に郡の人々が「もうろくし郡を治める力がない」と訴え、都に召され五官中郎将となった。(『梁習伝』)



孫苗  孫鄰の後継ぎ


孫苗(そんびょう)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫鄰(そんりん)の子。孫賁(そんふん)の孫。

249年、父が没すると後を継いだ。

他に弟の孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)・孫歆(そんきん)や、叔父の孫安(そんあん)・孫熙(そんき)・孫績(そんせき)らもしかるべき官位についた。(『孫賁伝』)



孫布  王淩を騙すも満寵に見破られる


孫布(そんふ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

231年、呉の孫布が揚州刺史の王淩(おうりょう)へ降伏を願い出て、兵で出迎えてくれるよう頼んだ。
王淩は許可を求めたが、征東将軍の満寵(まんちょう)は罠だと考え反対した。王淩と満寵は以前から仲違いしており、満寵が老いと疲労で惑乱したと訴え、都へ召還させた。満寵は留守を務める配下に王淩へ兵を与えないよう命じた。
はたして王淩は出撃しようとしたが700の兵しか得られず、孫布に襲撃され半数以上が死傷した。
曹叡は満寵を引見し、異常がないと考え任地に戻した。満寵は都に留まりたいと重ねて訴えたが、認められなかった。(『満寵伝』)

一方で「呉書」には戦果が少なすぎて失敗と見なされたか「王淩は感づいて撤退した」と記され、また孫布の役職は中郎将と記される。(『呉主伝』)



孫賁  孫堅死後に軍を率いた甥


孫賁(そんふん)字は伯陽(はくよう)
揚州呉郡富春県の人(??~??)

孫羌(そんきょう)の長男。
孫堅の甥(兄の子)、孫策・孫権の従兄にあたる。

両親は弟の孫輔(そんほ)が赤児の頃に亡くなり、長男の孫賁が育てた。
出仕して郡の督郵守長を務めていたが、叔父の孫堅が挙兵すると官を辞して麾下に加わった。

191~192年に孫堅が戦死すると、軍勢を引き継ぎ故郷に棺を届け、以降は袁術の傘下に入った。
袁紹が九江太守に周昴(しゅうこう)を任命し袁術と敵対すると、孫賁は周昴を打ち破った。袁術は(かつて孫堅が務めた)豫州刺史を孫賁に与えた。
後に丹陽都尉に転じ、征虜将軍を兼任して山越の平定にあたった。(『孫賁伝』)

揚州刺史の劉繇(りゅうよう)が勢力を伸ばすと、丹陽郡から下がり歴陽へ退いた。袁術は(孫堅の義弟の)呉景(ごけい)とともに孫賁へ攻撃を命じたが何年経っても(※「劉繇伝」によると1年余り)破れず苦戦した。(『孫策伝』・『劉繇伝』)

そこへ従弟の孫策が援軍に現れると、またたく間に劉繇を撃破し豫章へ追いやった。
孫策は孫賁・呉景を(袁術の本拠地の)寿春へ帰した。(『孫賁伝』)

(197年、)袁術は帝位を僭称した。呉景は広陵太守を務め、孫賁は九江太守に任じられ、一族の孫香(そんこう)は汝南太守を務めていた。
孫策は袁術からの独立を決意し、孫賁らに誘いを掛けた。呉景はすぐに職務を捨てて走り、孫賁は寿春で兵を預かっていたため困難だったが、妻子を残して逃げた。孫香は任地が遠く戻れなかった。(『孫賁伝』)

廬江太守の劉勲(りゅうくん)を孫輔とともに破り、江夏太守の黄祖(こうそ)と戦った。(『孫賁伝』・『孫輔伝』)

(197年、)劉繇が病没すると豫章を制圧し、太守に任じられた。
その頃、僮芝(とうし)が勝手に廬陵太守を名乗っていたため、孫策は「豫章で僮芝の喉元を押さえ、門戸を見張って欲しい。有利と見たら孫輔に攻撃させ、周瑜に助勢を命じてください」と頼んだ。
後に僮芝が病にかかったと聞くと、孫輔・周瑜に攻撃させ、廬陵を制圧した。(『孫賁伝』)

曹操は袁紹と対峙し、まずは後顧の憂いを断とうと孫策によしみを通じた。姪を孫策の弟の孫匡(そんきょう)に嫁がせ、息子の曹彰(そうしょう)の妻に、孫賁の娘を迎えた。
また袁紹を破った後、夏侯惇は孫賁へ長沙郡を授けると誘いを掛けた。(『孫策伝』)

都亭侯に封じられ、208年には朝廷から劉隠(りゅういん)が遣わされ、正式に征虜将軍に任じられ、豫章太守も兼任となった。(『孫賁伝』)

同年、曹操が荊州を制圧すると、孫賁は二心を抱き、息子を人質として曹操のもとへ送ろうとした。朱治(しゅち)はそれを聞くと面会を求め、情勢を説いて翻意させた。(『朱治伝』)

官職にあること11年にして没し、子の孫鄰(そんりん)が後を継いだ。(『孫賁伝』)

弟の孫輔は、孫権では統治は難しいと考え、密かに曹操と内通したのが発覚し、幽閉され数年後に没した。(『孫輔伝』)

陳寿は孫賁らを「宗室伝」としてまとめ「ある者は国家の基礎を定め、ある者は国境の守り。任務を立派に果たしたのだから、栄誉を受けるのは当然である」と評した。

「演義」には登場しない。



孫奮  孫権の不肖の五男


孫奮(そんふん)字は子揚(しよう)
揚州呉郡富春県の人(??~270)

孫権の五男。
母は仲姫(ちゅうき)。

199年、袁術(えんじゅつ)の遺族は孫策の手に落ち、子の袁燿(えんよう)は呉に仕えた。その娘は孫奮に嫁いだ。(『袁術伝』)

252年、斉王に立てられた。
同年、弟の孫亮が2代皇帝に即位し、幼い彼に代わり諸葛恪(しょかつかく)が実権を握った。
諸葛恪は各地の要害に皇族が配置されているのを厭い、孫奮を武昌から豫章に移そうと考えた。
諸葛恪は手紙を送り、孫奮が配下に私的な警護をさせていること、側近を勝手に殺していること、傅役の呂岱(りょたい)の進言を無視し、華錡(かき)を捕縛し、楊融(ようゆう)を脅していることを、いつでも処罰できると脅して従わせた。
孫奮は荒れ狂い、ますます狩猟にふけるようになって官吏を苦しめた。

翌253年、諸葛恪が誅殺されると、政変に乗じて首都の建業へ進出しようとした。謝慈(しゃじ)に止められると殺害してしまい、とうとう地位を剥奪され庶民に落とされ、身柄を章安県に移された。(『孫奮伝』)

258年7月、孫亮は恩赦を出し、孫奮を章安侯に封じた。(『孫亮伝』・『孫奮伝』)

270年、4代皇帝の孫皓は寵愛する王氏(おう)を亡くし、悲しみのあまり政務を放り出し数ヶ月の間、表に出なかった。
やがて孫皓の死亡説が流れ、孫奮か、その従兄弟の孫奉(そんほう)が即位するという噂が流れた。(※「孫皓伝」では噂が流れたのは274年と記される)
豫章太守の張俊(ちょうしゅん)はそれを真に受け、孫奮の母の仲姫の墓を掃除し恩を売ろうとした。
孫皓は噂を知ると激怒し、孫奮とその5人の子と孫奉を処刑し、張俊を車裂きにした。(『孫策伝』・『孫奮伝』)

「江表伝」には異説が記される。
孫奮は都に召還され、長年にわたり監禁された。孫奮は子らが結婚を禁じられたまま30~40歳近くなってしまい、かくなる上は息子や娘同士で夫婦になり、子孫を残せるよう取り計らって欲しいと訴えた。
孫皓は聞き入れず自害を命じた。孫奮は重ねて「国政に携わるつもりはなく、ただ余生を送りたいだけです」と訴えたが、子らとともに服毒自殺させられた。

ただし裴松之は「孫奮はすぐに処刑され、子が30~40歳になるまで時間が経っているわけがない。孫皓の悪逆さを誇張するための創作である」と指摘している。(『孫奮伝』)

陳寿は「没落したのは自業自得だが、一家皆殺しはとばっちりである」と同情を寄せている。



孫輔  曹操に内通した孫権の従兄


孫輔(そんほ)字は国儀(こくぎ)
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫羌(そんきょう)の子。孫権の従兄にあたる。

赤児の頃に両親が亡くなり、兄の孫賁(そんふん)に育てられた。(『孫賁伝』)

揚武校尉として孫策が三郡を平定するのを助けた。
丹陽郡の攻略にあたっては西に軍営を置いて袁術の侵攻を阻むとともに、民衆や逃亡者を説得して麾下に組み入れた。
さらに孫策とともに陵陽を攻めて祖郎(そろう)を捕縛した。(『孫輔伝』)

廬江太守の劉勲(りゅうくん)を兄の孫賁と攻めた際には自ら先頭に立って戦った。(『孫策伝』・『孫輔伝』)

(197年、)劉繇(りゅうよう)が病没すると孫賁は豫章を制圧し、太守に任じられた。
その頃、僮芝(とうし)が勝手に廬陵太守を名乗っていたため、孫策は「豫章で僮芝の喉元を押さえ、門戸を見張って欲しい。有利と見たら孫輔に攻撃させ、周瑜に助勢を命じてください」と頼んだ。
後に僮芝が病にかかったと聞くと、孫輔・周瑜に攻撃させ、廬陵を制圧した。(『孫賁伝』)

孫輔は廬陵太守に任じられ、後に平南将軍に上り、仮節を授かり交州刺史となった。(『孫輔伝』)

太乙の術(占術)の名手で後に「八絶」の一人に数えられる劉惇(りゅうとん)は戦乱を避けて廬陵郡へ移住し、孫輔に仕えた。
天文に明るく占術に通じているため南方一帯に名が轟いた。
水害・旱害・侵攻を占い百発百中で、孫輔は軍師に任じ、人々は「神明」と呼び敬った。(『劉惇伝』)

孫輔は孫権では統治は難しいと考え、密かに曹操と内通した。
それを聞いた孫権は張昭(ちょうしょう)を連れ、素知らぬ振りで孫輔と会い「あなたは私に愛想を尽かされたのか。どうして他人に挨拶するのか」と聞いた。
孫輔は否定したが、張昭が内通の手紙を示すと、恥じ入って弁解の言葉もなかった。
孫輔の側近はみな処刑され、兵も奪われ、東方へ強制移住のうえ幽閉され数年後に没した。

孫興(そんこう)・孫昭(そんしょう)・孫偉(そんい)・孫昕(そんきん)ら4人の子はそれぞれしかるべき地位についた。(『孫輔伝』)

また娘は駱統(らくとう)に嫁いだ。212年より後のことで、すでに孫輔は幽閉されていると思われ、内通の発覚後も子には累は及ばなかった。(『駱統伝』)

「演義」には登場しない。



孫奉  孫策の孫


孫奉(そんほう)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~270)

孫紹(そんしょう)の子。孫策の孫にあたる。

父が没すると上虞侯の爵位を継いだ。(『孫策伝』)

270年、4代皇帝の孫皓は寵愛する王氏(おう)を亡くし、悲しみのあまり政務を放り出し数ヶ月の間、表に出なかった。
やがて孫皓の死亡説が流れ、孫権の五男の孫奮(そんふん)か、孫奉が即位するという噂が流れた。(※「孫皓伝」では噂が流れたのは274年と記される)
それを聞いた孫皓は激怒し、孫奮と孫奉を殺した。(『孫策伝』・『孫奮伝』)



孫茂


未作成



孫封  孫壱の弟


孫封(そんほう)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~256)

呉の臣。
孫奐(そんかん)の子。

256年、専権を振るう孫綝(そんちん)に逆らい重臣の滕胤(とういん)と呂拠(りょきょ)が謀叛の罪を着せられて殺された。孫封もそれに加担したとして自害させられた。

また姉妹が滕胤と呂拠に嫁いでいたため兄の孫壱(そんいつ)も関与を疑われ、翌年には魏へ亡命している。(『孫静伝』)



孫𠅨  孫休の四男


孫𠅨(そんほう)字は㷏(よう)
揚州呉郡富春県の人(??~265?)

孫休の四男。

孫休は学問を好み、名と字はオリジナルでなければいけないと唱え、4人の息子に独自に考案した漢字の名と字を付けた。
(※裴松之は「前代の教えに反し、後世に笑われる愚かさで、こんなことをしているから死後に墓の土も乾かないうちに妻子が皆殺しになったのだ」と罵倒している)

「江表伝」に曰く、264年、病の重くなった孫休は口が利けず、字を書いて丞相の濮陽興(ぼくようこう)を呼び寄せ、長男の孫𩅦(そんわん)を彼に拝礼させると、濮陽興の手を取って孫𩅦を指ささせ、後事を託した。(『孫休伝』)

その頃、蜀が滅び、交州が離反しと情勢が不安定で、群臣は幼い孫𩅦よりも、孫晧に後を継がせるべきだと考え、孫休の皇后の朱夫人(しゅふじん)に伺いを立てた。
彼女は「私は夫を失った一人の女に過ぎず、国家のことはわかりません。国を保ち、祖先の祭祀が続けられるならそれで良いでしょう」と同意した。
だが孫晧は即位からわずか1ヶ月で皇太后から皇后へ降格させ、さらに孫𩅦を豫章王、弟の孫𩃙(そんこう)を汝南王、孫壾(そんもう)を梁王、孫𠅨を陳王に封じ、四兄弟を都から出した。

翌265年、孫晧は朱夫人を殺し、また孫𩅦ら四兄弟を幽閉し、年長の2人は殺された。(『孫晧伝』)

裴松之の言葉を見る限り、下の2人も間もなく殺されただろう。



孫曼


未作成



孫密  孫資の子の(自称)三豫


孫密(そんみつ)字は不明
并州太原郡の人(??~??)

魏の臣。
孫資(そんし)の子。

曹叡の代に名家の子弟の諸葛誕、夏侯玄(かこうげん)ら12人は自らを「四聡八達」と呼び合った。
衛烈(えいれつ)、劉煕(りゅうき)、孫密ら3人は彼らに及ばなかったが、父の威光もあり「三豫」と呼ばれた。
曹叡は彼ら15人を「軽薄な風潮を助長する」と酷く嫌い、全員を免職にした。(『諸葛誕伝』)

ちなみに衛烈・劉煕・孫密の父の衛臻(えいしん)、劉放(りゅうほう)、孫資は曹爽(そうそう)が専横を極めると揃って官を辞しており、三家の交友が垣間見える。(『衛臻伝』・『劉放伝』)

250年、父が没すると兄弟の孫宏(そんこう)が後を継いだ。(『孫資伝』)



孫壾  孫休の三男


孫壾(そんもう)字は昷(きょ)
揚州呉郡富春県の人(??~265?)

孫休の三男。

孫休は学問を好み、名と字はオリジナルでなければいけないと唱え、4人の息子に独自に考案した漢字の名と字を付けた。
(※裴松之は「前代の教えに反し、後世に笑われる愚かさで、こんなことをしているから死後に墓の土も乾かないうちに妻子が皆殺しになったのだ」と罵倒している)

「江表伝」に曰く、264年、病の重くなった孫休は口が利けず、字を書いて丞相の濮陽興(ぼくようこう)を呼び寄せ、長男の孫𩅦(そんわん)を彼に拝礼させると、濮陽興の手を取って孫𩅦を指ささせ、後事を託した。(『孫休伝』)

その頃、蜀が滅び、交州が離反しと情勢が不安定で、群臣は幼い孫𩅦よりも、孫晧に後を継がせるべきだと考え、孫休の皇后の朱夫人(しゅふじん)に伺いを立てた。
彼女は「私は夫を失った一人の女に過ぎず、国家のことはわかりません。国を保ち、祖先の祭祀が続けられるならそれで良いでしょう」と同意した。
だが孫晧は即位からわずか1ヶ月で皇太后から皇后へ降格させ、さらに孫𩅦を豫章王、弟の孫𩃙(そんこう)を汝南王、孫壾を梁王、孫𠅨(そんほう)を陳王に封じ、四兄弟を都から出した。

翌265年、孫晧は朱夫人を殺し、また孫𩅦ら四兄弟を幽閉し、年長の2人は殺された。(『孫晧伝』)

裴松之の言葉を見る限り、下の2人も間もなく殺されただろう。



孫嘿


未作成



孫瑜  幻の蜀王


個別ページへ



孫佑  荀勗に救われた門番


孫佑(そんゆう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「世語」に曰く。
満長武(まんちょうぶ)は司馬昭に仕え、260年、曹髦が殺された時には門番をしていた。
そこへ司馬昭の弟で、満長武の妹婿でもある司馬幹(しばかん)が現れたが、司馬昭の家に近いため別の門から入るよう促した。そのせいで司馬幹の到着が遅れたのを司馬昭は怒った。
また257年、諸葛誕の反乱の際に満長武の父の満偉(まんい)は病のため従軍せず、その子(満長武?)も父が心配だと反乱が片付くやさっさと離脱したことを根に持っており、とうとう満長武を問責して拷問死させ、満偉も罷免し平民に落とした。人々は同情を寄せた。(『満寵伝』)

「晋書」によく似た異説がある。
門を守っていた大将軍掾の孫佑は司馬幹に別の門から入るよう促した。そのせいで司馬幹の到着が遅れたのを司馬昭は怒り孫佑を一族ごと殺そうとした。だが荀勗(じゅんきょく)は「孫佑の責任は追及すべきですが、罪の軽重を気分で決めてはいけません。曹髦を殺した成倅(せいさい)の罪が一族に及ばなかったのに、孫佑を一族ごと殺せば、人々は疑問に思うでしょう」と反対した。
孫佑は罷免のうえ庶民に落とされるだけで許された。(『晋書 荀勗伝』)



孫邕  鮑勛の死のきっかけを作る


孫邕(そんよう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

225年、陳留太守の孫邕は鮑勛(ほうくん)を訪ねる際、設営中で標識が立っているだけの陣をつい横切った。劉曜(りゅうよう)は処罰しようとしたが鮑勛はそれをなだめた。
その後、劉曜が罪を犯したため鮑勛が罷免しようとすると、劉曜は孫邕を不問にした件を訴えた。かねてから鮑勛を憎んでいた曹丕は、これ幸いと投獄した。懲役5年か罰金がせいぜいだったが、曹丕は強権発動し処刑させてしまった。(『鮑勛伝』)

侍中の盧毓(ろいく)が昇進する際、曹叡(そうえい)は自ら後任を選ばせた。盧毓は鄭沖(ていちゅう)を推挙したが曹叡は「聞いたこともない者を選べ」と言い、改めて孫邕と阮武(げんぶ)を推挙し、孫邕が選ばれた。(『盧毓伝』)

241年、王基(おうき)らとともに隠者の管寧(かんねい)を推挙したが、ちょうど管寧は病没した。(『管寧伝』)

孫邕、鄭沖、曹羲(そうぎ)、荀顗(じゅんぎ)、何晏(かあん)らは「論語集解」を著した。(『晋書 鄭沖伝』)

254年、三代皇帝・曹芳(そうほう)の廃位を求める上奏に、光禄大夫・関内侯として連名した。(『斉王紀』)



孫邕  王和平の一番弟子


孫邕(そんよう)字は不明
青州済南郡の人(??~??)

素性不明。

曹丕の「典論」に曰く。
光和年間(178~183)、王和平(おうかへい)は道術を好み仙人になろうと志した。
若い頃からの弟子の孫邕とともに都に赴いたが当地で没してしまい、孫邕は百冊の著書や数袋の仙薬とともに棺に収め葬った。
その後、別の弟子の夏栄(かえい)が王和平は尸解(※死して仙人になること)したのだと言い、孫邕は貴重な本や仙薬を自分のものにしなかったことを長く悔やんだ。
曹丕は「(仙人などいないのに)古代から間違ったことを信じて馬鹿なことをしでかすのは一人だけではない」と皮肉った。(『華佗伝』)



孫燿


未作成



孫翊  配下に殺された孫権の弟


個別ページへ



孫旅  孫苗の弟


孫旅(そんりょ)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫鄰(そんりん)の子。孫賁(そんふん)の孫。

249年、父が没すると兄の孫苗(そんびょう)が後を継いだ。

孫旅や兄弟の孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)・孫歆(そんきん)や、叔父の孫安(そんあん)・孫熙(そんき)・孫績(そんせき)らもしかるべき官位についた。(『孫賁伝』)



孫慮  孫権の次男


孫慮(そんりょ)字は子智(しち)
揚州呉郡富春の人(213~232)

孫権の次男。

幼い頃から聡明かつ器用で父にかわいがられた。
228年3月、16歳で建昌侯に封じられた。(『孫慮伝』)
また潘濬(はんしゅん)の娘を妻に迎えた。(『潘濬伝』)

229年、孫権は武昌から建業に遷都し、武昌に太子の孫登(そんとう)はじめ皇子を置き、傅役に陸遜をつけた。
当時の孫慮は闘鴨に熱中していたが、陸遜に学問に励むよう苦言を呈されると、すぐさま闘鴨の設備を取り壊した。(『陸遜伝』)

230年、丞相の顧雍(こよう)は孫慮を賞賛し、王位に就けるよう上奏した。
孫権はいったん却下したが、重ねて某存(そん ※姓は不詳)に上奏されると、王位に就ける代わりに開府を認めた。(『孫慮伝』)

231年、孫慮は鎮軍大将軍となり、半州で開府し、薛綜(せっそう)を長史に任じ事務統括を任せた。また個人的に書物を与えたという。(『薛綜伝』)

人々は年若い孫慮は独断専行するのではと危ぶんだが、彼は法を遵守し、進言によく耳を傾け、期待以上に立派な統治をした。

だが232年正月、20歳の若さで没した。(『孫慮伝』)
孫権は悲しみのあまり食事も喉を通らなくなり、孫登が武昌から駆けつけ、代わりに政務を執るほどだった。(『孫登伝』)
息子がなかったため封国は除かれた。(『孫慮伝』)

陳寿はすぐ下の弟の孫和(そんか)とともに「優れた資質を備え、自ら修養に努めた」と称え、ともに早逝したことを哀しんでいる。

孫登も241年に33歳の若さで没し、後継者に悩んだ孫権は判断を誤り、二宮の変を引き起こした。
孫登か孫慮のどちらかが長寿を得ていれば、呉の命運は変わっていただろう。



孫慮


未作成



孫亮  呉の幼帝


個別ページへ



孫楞  留賛とともに戦死


孫楞(そんりょう)字は不明
出身地不明(??~255)

呉の臣。

255年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)が魏に反乱すると呉は援軍を出したが、速やかに討伐されたため撤退した。
殿軍を務めた留賛(りゅうさん)は蔣班(しょうはん)に撃破され、将軍の孫楞・蔣脩(しょうしゅう)とともに戦死した。(『孫亮伝』)



孫倫  芍陂の役で樊城を包囲


孫倫(そんりん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

「晋紀」に曰く。
241年、呉の全琮(ぜんそう)が芍陂を攻め、朱然(しゅぜん)・孫倫が樊城を包囲し、諸葛瑾(しょかつきん)・歩騭(ほしつ)は柤中へ侵攻した。(※芍陂の役)
全琮が敗走した後も樊城の包囲は続き、司馬懿は自ら救援を願い出たが、朝臣は反対した。司馬懿は兵法書を引きそれを退けると遮二無二で突撃を仕掛ける構えを見せ、泡を食った朱然は撤退し、追撃され大損害を受けた。(『斉王紀』)



孫鄰  9歳で豫章太守を継いだ孫賁の子


孫鄰(そんりん)字は公達(こうたつ)
揚州呉郡富春県の人(??~249)

呉の臣。
孫賁(そんふん)の子。

生まれつき鋭敏な頭脳を備え、若い時から令名を馳せた。

父が没すると9歳で豫章太守を継ぎ、都郷侯に封じられた。
20年近く豫章を治め、反乱を鎮圧し治績を上げた。
やがて都に上り、繞帳督に任じられた。

当時、荊州を治めていた潘濬(はんしゅん)は、舒燮(じょしょう)が罪を犯して投獄されると、以前にも彼を見損なうことがあったため、ついに処刑を命じた。多くの者がとりなそうとしたが潘濬は聞く耳を持たなかった。
そこで孫鄰は「舒燮の父の舒邵(じょしょう)はかつて、仇討ちをした後に兄弟でかばい合い、義人であると讃えられました。呉が天下統一を果たしたら、中原の人々は必ずや舒邵の子はどうしているか尋ねるでしょう。潘濬に殺されたと答えることになりますがよろしいですか」と問うた。
潘濬は即座に考えを改め、釈放した。

夏口・沔中督に昇進し、威遠将軍となり、いずれも立派な手腕を示した。
249年に没し、子の孫苗(そんびょう)が後を継いだ。

他に子の孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)・孫歆(そんきん)や、弟の孫安(そんあん)・孫熙(そんき)・孫績(そんせき)らもしかるべき官位についた。(『孫賁伝』)



孫礼  虎殺しの名臣


個別ページへ



孫魯育  悲運の妹


個別ページへ



孫魯班  謀略の姉


個別ページへ



孫朗  孫堅の末子


孫朗(そんろう)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫堅の末子で庶子。別名は孫仁(そんじん)。

222年、洞口の戦いで定武中郎将の孫朗は、指揮を執る呂範(りょはん)の命令に背いて火を放ち、軍需物資を焼いてしまった。
呂範はすぐさま孫朗を呉へ送還し、事態を重く見た孫権は孫朗の一族を孫氏から外し、丁(てい)という姓に改めさせ、孫朗を死ぬまで禁固させた。

この逸話は「江表伝」に兄の孫匡(そんきょう)の話として記されるが、裴松之は「孫堅は191年に戦死しており、孫匡が20歳あまりで任官せず死去したという記述と矛盾する」と指摘し、孫朗の誤記だと推測している。(『孫匡伝』)

「演義」では字を早安(そうあん)、母は呉国太(ごこくたい)と設定され、また別名の孫仁は孫夫人(孫尚香)の本名に流用された。



孫狼  陸渾県で関羽に呼応


孫狼(そんろう)字は不明
司隸河南郡陸渾県の人(??~??)

賊徒。

218年、陸渾県長の張固(ちょうこ)は、命令を受けて徴兵し漢中へ送ろうとしたが、遠隔地への赴任を嫌がる人々を扇動し、平民の孫狼が反乱した。
張固は十余人の部下を連れ、陸渾山で暮らす隠者の胡昭(こしょう)を頼り抵抗した。
孫狼は関羽に服属し、官位と武器を授けられなおも戦いを続けたが反乱軍は「胡先生の地域は侵犯するな」と誓い合ったため、一帯は被害を免れた。(『管寧伝』)

その後は不明だが2年後に関羽は戦死しており、掃討されたと思われる。



孫𩅦  孫休の長男


孫𩅦(そんわん)字は𦯶(きつ)
揚州呉郡富春県の人(??~265)

孫休の長男。

孫休は学問を好み、名と字はオリジナルでなければいけないと唱え、4人の息子に独自に考案した漢字の名と字を付けた。
(※裴松之は「前代の教えに反し、後世に笑われる愚かさで、こんなことをしているから死後に墓の土も乾かないうちに妻子が皆殺しになったのだ」と罵倒している)

262年、太子に立てられた。

「江表伝」に曰く、264年、病の重くなった孫休は口が利けず、字を書いて丞相の濮陽興(ぼくようこう)を呼び寄せ、孫𩅦を彼に拝礼させると、濮陽興の手を取って孫𩅦を指ささせ、後事を託した。(『孫休伝』)

その頃、蜀が滅び、交州が離反しと情勢が不安定で、群臣は幼い孫𩅦よりも、孫晧に後を継がせるべきだと考え、孫休の皇后の朱夫人(しゅふじん)に伺いを立てた。
彼女は「私は夫を失った一人の女に過ぎず、国家のことはわかりません。国を保ち、祖先の祭祀が続けられるならそれで良いでしょう」と同意した。
だが孫晧は即位からわずか1ヶ月で皇太后から皇后へ降格させ、さらに孫𩅦を豫章王、弟の孫𩃙(そんこう)を汝南王、孫壾(そんもう)を梁王、孫𠅨(そんほう)を陳王に封じ、四兄弟を都から出した。

翌265年、孫晧は朱夫人を殺し、また孫𩅦ら四兄弟を幽閉し、年長の2人は殺された。(『孫晧伝』)

「演義」でも孫休の死後、孫𩅦と孫晧のどちらを帝位につけるか群臣に問われ、朱夫人は判断せず良きにはからうよう命じた。
その後は登場せず、殺害もされない。

  し1  し2  し3  し4  し5
し6  し7  し8  し9  し10  
せ1  せ2  そ1  そ2  そ3  そ4  そ5  そ6  そ7