三国志 そ 4


曹熾  曹仁の父


曹熾(そうし)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

後漢の臣?
曹仁の父。

「王沈魏書」に曰く。
侍中・長水校尉を務めた。

220年、曹丕は王位につくと曹仁を昇進・加増させ、曹熾に陳穆侯を追贈し、墓守10軒を置いてやった。(『曹仁伝』)



曹鑠  曹操の次男


曹鑠(そうしゃく)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹操と劉夫人(りゅうふじん)の次男。

母が早逝したため、兄の曹昂(そうこう)とともに丁夫人(ていふじん)に育てられたと思われる。(『武宣卞皇后伝』)

曹鑠も早逝した。
229年、領国と諡号を追贈された。
233年、子の曹潜(そうせん)が後を継いだが同年に没した。
234年、子の曹偃(そうえん)が後を継いだ。領邑は2500戸。
236年、曹偃も没し、子も無かったため領国は没収された。
255年、異母兄弟の曹茂(そうぼう)の子の曹竦(そうしょう)が後を継いだ。(『相殤王鑠伝』)



曹淑  曹叡の愛娘


曹淑(そうしゅく)字は不明
豫州沛国譙県の人(232~232)

二代皇帝・曹叡の娘。

232年、曹叡は娘の曹淑が没すると平原懿公主と諡し、霊廟を建立した。(『甄皇后伝』)
さらに盛大に葬儀を催し、自ら群臣を率いて陵墓に詣でようとしたため、重臣の陳羣(ちんぐん)は「1歳にもならない人物を成人の礼で送り、朝廷を挙げて服喪するなど聞いたこともありません。せめて陛下自身で群臣を率い霊柩車で送るのはおやめください。人々はそのまま遷都するのではないかと危ぶんでいます。人々を惑わせ、費用が掛かるだけです。いたずらに天下を騒がせる必要はありません」と諫言した。(『陳羣伝』)
同じく楊阜(ようふ)も「曹操・曹丕の葬儀の時でさえ、変事を恐れ都を留守にはしませんでした。歩くことさえできない赤児のために野辺送りは必要ありません」と反対したが曹叡はどちらも聞き入れなかった。(『楊阜伝』)

曹叡はさらに甄姫(曹叡の母)の従孫ですでに死去していた甄黄(しんこう)を曹淑と冥婚させ、郭皇后(かくこうごう)の従弟の郭悳(かくとく)を甄黄の養子にし、甄悳(しんとく)と名乗らせ平原侯として後を継がせた。
他家から養子にとる強引な手法は、後世にわたって批判された。(『甄皇后伝』)



曹峻  曹操の子の陳留王


曹峻(そうしゅん)字は子安(しあん)
豫州沛国譙県の人(??~259)

曹操と秦夫人(しんふじん)の子。

兄の曹玹(そうけん)は215年までに早逝した。(『済陽懐王玹伝』)

216年、郿侯に封じられた。
翌217年、襄邑に国替えされ、221年に公に進んだ。
222年、陳留王となり、224年に襄邑県王とされたが、翌225年にまた陳留王に復した。

259年に没し、恭王と諡された。子の曹澳(そういく)が後を継いだ。

景元年間(260~264)までに加増され4700戸に至った。(『陳留恭王峻伝』)



曹純  早世した麒麟児


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曹詢  曹芳の兄


曹詢(そうじゅん)字は不明
豫州沛国譙県の人(231~244)

三代皇帝・曹芳の兄。

曹叡の子はいずれも早逝したため、曹詢・曹芳の兄弟が、太子候補として養育された。
その出自は厳重に秘匿され誰も知らなかった。
「魏氏春秋」に曰く、曹彰(そうしょう)の子の曹楷(そうかい)が父とされるが真偽は不明である。(『斉王紀』)

235年、曹芳が4歳で斉王、曹詢が5歳で秦王となった。

「魏略」に曰く。
239年、危篤に陥った曹叡は兄弟を呼ぶと後見の司馬懿に会わせ、曹芳を後継者に指名した。(『明帝紀』)

244年8月、14歳で没した。
領国は没収され秦国は京兆郡に編入された。(『斉王紀』)

兄を差し置き曹芳が後継者にされたのは、曹詢が病弱だったためだろうか。



曹遵  演義で曹真に恩返しA


曹遵(そうじゅん)字は不明
豫州沛国譙県の人?(??~??)

魏の臣。
曹真(そうしん)の一族。

若い頃から曹真・朱讃(しゅさん)とともに曹操に仕えた。
しかし曹遵・朱讃は若くして没してしまい、曹真は自分の領邑を分けて二人の息子らに与えたいと願い出た。
詔勅で認められ、100戸ずつ分けられ関内侯に封じられた。(『曹真伝』)

「演義」ではその恩返しのように曹真配下として曹遵・朱讃は登場する。
曹遵は曹真の従弟に設定され、魏延に討ち取られた。



曹初  曹仁の孫


曹初(そうしょ)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
曹泰(そうたい)の子。曹仁の孫。

父が没すると後を継いだ。
叔父の曹楷(そうかい)・曹範(そうはん)も封邑を分割し列侯された。(『曹仁伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に越騎校尉・睢陽侯として連名した人物が曹初だと「三国志集解」は推定する。(『斉王紀』)



曹上  曹彪の兄弟


曹上(そうじょう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹操と孫姫(そんき)の子。
曹彪(そうひょう)の兄弟。
記述の順から曹上、曹彪、曹勤(そうきん)の順に生まれたか。

曹上・曹勤はともに早逝し、231年に国と諡号を追贈されたが、後継ぎはなかった。(『臨邑殤公子上伝』・『剛殤公子勤伝』)

曹彪は生き長らえたが251年、57歳の時に王淩(おうりょう)の反乱に加担し自害を命じられた。(『楚王彪伝』)



曹乗  曹整の早逝した兄弟


曹乗(そうじょう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹操と李姫(りき)の子。

上から順に曹乗、曹整(そうせい)、曹京(そうけい)の三兄弟。
曹乗と曹京は早逝した。

231年、曹乗は穀城の殤公子を、曹京は霊の殤公子を追贈されたが、後継ぎは立てられなかった。(『穀城殤公子乗伝』)



曹邵  曹真の父?A


曹邵(そうしょう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~190?)

曹操の一族。
曹真(そうしん)の父か。

189年冬、曹操が挙兵すると(呼応して)徒党を募ったため州郡によって殺された。
曹操は幼くして孤児となった曹真を哀れみ、自分の息子らとともに養育し、曹丕とは起居をともにさせた。

「王沈魏書」に曰く。
忠誠で才略があり曹操に信任された。
初平年間(190~193)、挙兵した曹操に従い仲間を集め活躍した。しかし豫州刺史の黄琬(こうえん)が曹操の殺害を企て、曹操は難を逃れたが曹邵は殺された。

「魏略」に曰く。
曹真の父は秦伯南(しんはくなん)である。

裴松之は「曹真は邵陵侯に封じられた。誤記でなければ議論の余地がないほどおかしい」と(※父の名を避けるのが常識であり、父と同名の邵はありえない)指摘する。(『曹真伝』)



曹紹  曹操の従弟


曹紹(そうしょう)字は不明
豫州沛国譙県の人?(??~??)

曹操の従弟。

郎中を務めた。
没後に曹操の子の曹整(そうせい)が後を継いだ。
217年に曹整は郿侯になったとあり、217年以前に没したとわかる。(『郿戴公子整伝』)



曹竦  曹鑠の後継ぎ


曹竦(そうしょう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹茂(そうぼう)の子。曹操の孫。

255年、父の異母兄弟の曹鑠(そうしゃく)の後を継いだ。(『相殤王鑠伝』)



曹彰  曹操の血をさっぱり受け継がなかった子


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曹植  詩聖


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曹仁  鉄壁


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曹真  魏を支えた巨漢


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曹尋  曹協の子


曹尋(そうじん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~248)

曹協(そうきょう)の子。曹丕の孫。

父は早逝しており、235年に曹尋が後を継いだ。
239年、900戸を加増され3000戸となった。
248年、曹尋も没し、子が無かったため国は没収され、賛殤王と諡された。(『賛哀王協伝』)



曹震  曹洪の子


曹震(そうしん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
曹洪(そうこう)の子。

曹操の代に曹洪の領地から分割して列侯された。
232年、父が没すると兄弟の曹馥(そうふく)が爵位を継いだ。
曹洪の族父の曹瑜(そうゆ)も列侯されている。(『曹洪伝』)



曹諶  曹抗の子


曹諶(そうしん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹抗(そうこう)の子。
曹操の曾孫にあたる。

237年、父が没し、後を継いだ。

景元年間(260~264)までに加増され1900戸に至った(『樊安公均伝』)



曹蕤  曹丕の子の北海王


曹蕤(そうずい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~233)

曹丕と潘淑媛(はんしゅくえん)の子。

226年、兄の曹叡が即位すると陽平県王に封じられた。
232年、北海王に転封された。
233年、没した。

234年、曹操の曾孫の曹賛(そうさん)が後を継ぎ昌郷侯となった。(『北海悼王蕤伝』)



曹嵩  曹操の地味な父


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曹性  夏侯惇を有名にした男


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曹整  曹操と李姫の次男


曹整(そうせい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~218)

曹操と李姫(りき)の次男。

父の従弟に当たる曹紹(そうしょう)の後を継いだ。(『郿戴公子整伝』)

203年、曹操と袁譚(えんたん)が和睦すると、袁譚の娘を妻に迎えた。
(※ただし裴松之は袁紹の喪がまだ明けておらず、婚約だけ済ませた可能性を指摘している)
ともあれ早くも翌年に袁譚の裏切りにより和睦は破棄され、娘も離縁された。(『武帝紀』)

217年、郿侯に封じられたが翌年に没した。
221年、爵位が進み戴公の諡号を追贈され、異母兄弟の曹拠(そうきょ)の子の曹範(そうはん)が後を継いだ。
235年、曹範も没するとその弟の曹闡(そうせん)が翌年に後を継いだ。(『郿戴公子整伝』)



曹節  悲劇の皇后


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曹潜


未作成



曹闡  曹拠の三男


曹闡(そうせん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹拠(そうきょ)の子。三男か。
曹操の孫にあたる。

東安郷公に封じられていたが236年、前年に没した次兄の曹範(そうはん)の後を継ぎ郿侯となった。
正元~景元年間(254~264)の間に1800戸まで加増された。(『郿戴公子整伝』)



曹爽  絵に描いたような独裁者


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曹琮  曹拠の長男


曹琮(そうそう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹拠(そうきょ)の子。長男か。
曹操の孫にあたる。

208年に没した伯父の曹沖(そうちゅう)の後を継いだ。
217年に鄧侯、222年に冠軍公、223年に己氏公となった。
237年、父とともに器物を製作する禁令を犯したため領邑を300戸減らされ都郷侯へと格下げされたが、2年後に己氏公に戻された。
246年、平陽公に国替えされた。
景初~景元年間(237~264)の間に1900戸まで加増された。(『鄧哀王沖伝』)



曹操  乱世の姦雄


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曹則  曹爽の弟ら


曹則(そうそく)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~249?)

魏の臣。
曹真(そうしん)の子ら(四男?)。

231年、魏の重鎮だった父が没すると兄の曹爽(そうそう)が後を継ぎ、曹則・曹皚(そうがい)ら5人の弟も列侯された。(『曹真伝』)

二人のその後は不明だが、早逝していなければ、249年に曹爽一派が司馬懿に処刑された際に、連座したと思われる。
だが五男と思われる曹彦(そうげん)が要職に就く一方で曹則・曹皚の記述はなく、既に没していた可能性も低くないかもしれない。



曹泰  曹仁の子


曹泰(そうたい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
曹仁の子。

223年(※朱桓伝には222年と記される。222年に始まり223年に終戦か)、曹仁は常雕(じょうちょう)・曹泰・王双(おうそう)・諸葛虔(しょかつけん)を率い濡須を攻めた。
守る朱桓(しゅかん)は曹泰と対陣して焼き討ちを掛け、駱統(らくとう)・厳圭(げんけい)の別働隊に常雕を攻撃させ、常雕を討ち取り王双を捕らえ、撤退させた。(『呉主伝』・『朱桓伝』・『駱統伝』)

同223年、父が没すると後を継いだ。
官位は鎮東将軍・仮節まで上り、後に甯陵侯へ移封された。

没すると子の曹初(そうしょ)が後を継ぎ、弟の曹楷(そうかい)・曹範(そうはん)も封邑を分割し列侯された。(『曹仁伝』)



曹沖  曹操が溺愛した神童


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曹攄


未作成



曹肇  曹叡に後事を託されかける


曹肇(そうちょう)字は長思(ちょうし)
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹休(そうきゅう)の子。

228年、父が没すると後を継いだ。
時世にあった才幹を持ち、散騎常侍・屯騎校尉になった。
皇帝の曹丕は曹休と親しく、曹肇の弟の曹簒(そうさん)へも父の領邑から300戸分け与え、列侯した。(『曹休伝』)

曹肇は族弟で二代皇帝の曹叡(そうえい)と親しく、239年、曹叡は病に倒れると、曹宇(そうう)を大将軍に任じ、曹爽(そうそう)・曹肇・夏侯献(かこうけん)・秦朗(しんろう)ら親族に補佐させようと考えた。
ところが謙虚な曹宇は固辞し、側近の劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)は曹肇・夏侯献と敵対していたため猛反対し、曹爽と司馬懿を推薦した。
結局、劉放・孫資の意見が通り、曹宇・曹肇らは都から出され要職から退けられた。(『明帝紀』・『劉放伝』)

正始年間(240~249)に没し、衛将軍を追贈された。(『曹休伝』)



曹珍  撤退する孫峻・呂拠に撃破される


曹珍(そうちん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

255年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)が魏に反乱すると呉は援軍を出した。
しかし速やかに討伐されたため、孫峻(そんしゅん)は撤退した。その途中に将軍の曹珍の軍と遭遇したが、孫峻・呂拠(りょきょ)は撃破した。(『孫亮伝』・『呂拠伝』)



曹悌  曹楷の子ら


曹悌(そうてい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹楷(そうかい)の子。
曹操の曾孫にあたる。

231年、曹悌が従伯父(曹丕の子)にあたる曹礼(そうれい)の、兄弟の曹温(そうおん)が同じく従伯父の曹邕(そうよう)の後をそれぞれ継ぎ王となった。

曹悌は元城王から232年に梁王となり、曹温は邯鄲王から232年に魯陽王となった。
景初~景元年間(237~264)の間に何度も加増され、曹悌は4500戸、曹温は4400戸に上った。(『元城哀王礼伝』・『邯鄲懐王邕伝』)



曹鼎  曹洪の伯父


曹鼎(そうてい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

後漢の臣。
曹洪(そうこう)の伯父。

「王沈魏書」に曰く。
尚書令となり、曹洪を蘄春県長に任じた。(『曹洪伝』)



曹騰  曹操の祖父


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曹徳  陶謙に殺された曹操の弟


曹徳(そうとく)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~194)

曹嵩(そうすう)の子。
曹操の弟。

「世語」に曰く。
194年、曹操は泰山太守の応劭(おうしょう)に、父の曹嵩ら家族を迎えに行かせた。
曹操と敵対する徐州牧の陶謙(とうけん)は先手を打って曹嵩のもとへ兵を送った。応劭の迎えだと思った家族は警戒せず、まず曹徳が殺され、逃げようとした曹嵩らも皆殺しにされた。
応劭は責任を恐れて逃亡し、曹操は陶謙へ復讐の兵を挙げた。(『武帝紀』)

「演義」では「韋昭の呉書」で曹嵩を殺した、陶謙配下の張闓(ちょうがい)によって殺された。



曹璠  廉昭に弾劾される


曹璠(そうはん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

尚書左丞を務めた。
廉昭(れんしょう)に「処罰すべきことがあれば申告せよという詔令を無視した」と責任を問われ弾劾された。(『杜畿伝』)



曹範  曹泰の弟B


曹範(そうはん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
曹仁の子。曹泰(そうたい)の弟。

曹泰が没するとその子の曹初(そうしょ)が後を継ぎ、弟の曹楷(そうかい)や曹範も封邑を分割し列侯された。(『曹仁伝』)



曹範  曹拠の次男


曹範(そうはん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~235)

曹拠(そうきょ)の子。次男か。
曹操の孫にあたる。

221年、曹拠の異母兄弟で218年に没した曹整(そうせい)の後を継いだ。
222年に平氏侯、223年に成武侯、229年に成武公となり、235年に没し悼公と諡された。
子はなく、弟の曹闡(そうせん)が翌年に後を継いだ。(『郿戴公子整伝』)



曹丕  冷徹なる二代目


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曹豹  ヘタレ王


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曹彪  反乱に加担した皇族


曹彪(そうひょう)字は朱虎(しゅこ)
豫州沛国譙県の人(195~251)

曹操と孫姫(そんき)の子。次男か。

216年、寿春侯に封じられた。
221年、爵位が進み汝陽公に移封された。
222年、弋陽王に進み、同年に呉王へ移封された。(『楚王彪伝』)

223年、異母兄の曹彰(そうしょう)が急逝した。(『任城威王彰伝』)
「魏氏春秋」に曰く、曹植(そうしょく)と曹彪は葬儀の帰りに別れ難く、久闊を叙したいと思ったが、法により禁じられていた。
怒った曹植は筆を執り「白馬王彪に贈る」という詩を書いた。
(※これは南北朝時代に編まれた「詩品」でも最上位の「絶唱」に挙げられる名作だという。なお実際に白馬王に封じられたのは3年後のことで、「魏氏春秋」の誤りか、後世の人が序文(序文にのみ白馬王の呼称がある)と題名を付けたものと推測される)(『陳思王植伝』)

224年、寿春県王になった。
226年、白馬へ移封された。(『楚王彪伝』)

賈洪(かこう)が白馬国相となった。(※延康年間(220)に赴任と誤記(?)されている)
学問を好む曹彪は賈洪に師事し、大臣らよりも厚遇した。(『王朗伝』)

231年、入朝した。
232年、楚王となったが朝廷で禁令を犯し、翌233年に3県1500戸を削られた。
234年、大赦により領邑を返還された。
239年、500戸を加増され3000戸となった。(『楚王彪伝』)

車騎将軍の王淩(おうりょう)と兗州刺史の令狐愚(れいこぐ)は、曹芳を廃位し曹彪を帝位につかせようと考えた。

「漢晋春秋」に曰く、幼い曹芳では司馬懿に対抗できないと考え、壮年の曹彪を擁立し対抗しようという狙いである。
「魏略」に曰く、令狐愚は曹彪が智勇兼備だと聞いていた。東郡に「白馬河に妖馬が現れた」や「白馬に乗る者は朱虎」という噂が流れると、これこそ曹彪が帝位につく予兆だと思った。

249年、張式(ちょうしょく)を派遣して曹彪と連絡を取ったが、11月に令狐愚は病死した。
王淩は一人で計画を進め、250年に天文を見て「急に高貴な者が現れる」と読み、好機到来と考えた。
251年、呉軍が河をせき止めると、討伐軍を要請し、それに乗じて反乱しようとしたが、許可を得られなかった。
そこで楊弘(ようこう)を派遣して兗州刺史の黄華(こうか)に協力させようとした。楊弘・黄華はすぐさま司馬懿に密告し、王淩は捕らえられ、自害した。(『王淩伝』)

曹彪には自分で始末をつけるよう詔勅が下され、自害した。享年57。
妻子は処刑は免れたが平民に落とされ、平原郡へ移住させられた。属官らは関与の疑いで全員処刑された。
領国は没収され淮南郡に編入された。

254年、「曹彪は自業自得とはいえ不憫に思う。恥を忍び欠点を大目に見るのは、親族に親しむ道である」と詔勅が下され、子の曹嘉(そうか)が常山真定王として後を継いだ。(『楚王彪伝』)

曹彪は以前、優れた人相見として知られる朱建平(しゅけんぺい)に「藩国を得るが57歳で兵禍に遭う」と占われており、的中してしまった。(『朱建平伝』)

255年、反乱した文欽(ぶんきん)は郭淮へ手紙を送り「王淩は専横を極める司馬懿を倒そうとしたが失敗し、曹彪にも波及して殺害された」と主張した。(『毌丘倹伝』)

「演義」には曹彪・王淩・令狐愚はいずれも登場しない。



曹彬  曹真の弟


曹彬(そうひん)字は不明
豫州沛国譙県の人?(??~??)

魏の臣。
曹真(そうしん)の弟。
曹邵(そうしょう)か秦伯南(しんはくなん)の子。

曹丕の代に曹真の領邑から200戸分けられ列侯された。(『曹真伝』)



曹彬  曹操の弟の薊公


曹彬(そうひん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹嵩(そうすう)の子。
曹操の弟。

時期は不明だが没後に、恭と諡され薊公を追贈されたと思われる。

甥(曹操の子)の曹均(そうきん)が後を継いだ。(『樊安公均伝』)



曹敏  曹矩の後継ぎ


曹敏(そうびん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹均(そうきん)の子。
曹操の孫にあたる。(『樊安公均伝』)
母は張繍(ちょうしゅう)の娘か。(『張繍伝』)

217年、父の異母兄弟の曹矩(そうく)の後を継ぎ、臨晋侯に取り立てられた。
222年、曹矩に范陽公が追贈され、224年に曹敏が范陽王となった。
226年、句陽に国替えされた。
232年、曹矩は閔王に進み、曹敏は琅琊王となった。(『范陽閔王矩伝』)

233年、曹丕の子の曹蕤(そうずい)が没すると、翌234年、曹敏の子の曹賛(そうさん)が後を継ぎ昌郷侯となった。(『北海悼王蕤伝』)

景元年間(260~264)までに加増され3400戸に至った。
没すると原王と諡され、子の曹焜(そうこん)が後を継いだ。(『范陽閔王矩伝』)



曹不興  八絶・絵画の曹不興


曹不興(そうふこう)字が不興か
出身地不明(??~??)

呉の臣。
絵画の名手で「八絶」の一人に数えられる。

孫権の命で屏風に絵を描いた時、誤って筆を落とし汚れを付けてしまった。そこで汚れに筆を入れ蝿の絵にした。完成すると、孫権は本物の蝿と思い、手で払おうとした。(『趙達伝』)



曹孚  曹袞の子


曹孚(そうふ)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹袞(そうこん)の子。
曹操の孫にあたる。

235年、父が没すると後を継いだ。

景元年間(260~264)までに加増され3400戸に至った。(『中山恭王袞伝』)



曹馥  曹洪の後継ぎ


曹馥(そうふく)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
曹洪(そうこう)の子。

232年、父が没すると爵位を継いだ。
他に兄弟の曹震(そうしん)は父の生前に列侯されており、兄と見られる。曹洪の族父の曹瑜(そうゆ)も列侯されている。(『曹洪伝』)



曹文叔  夏侯令女の亡夫


曹文叔(そうぶんしゅく)名は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
曹爽(そうそう)の従弟。

「列女伝」に曰く。
夏侯令女(かこうれいじょ)をめとったが早逝した。
夏侯令女は年若く子も無かったため再婚させられてしまうと考え、喪が明けると髪を切り、操を貫く覚悟を示した。しかし実家は再婚させようとし、夏侯令女はすぐさま両耳を自分で切り落とした。
曹爽に身を寄せて暮らしていたが、249年、専権を振るう曹爽は司馬懿に粛清され、一族がことごとく殺された。
夏侯令女の叔父は曹氏との姻戚関係を解消し、無理やり身柄を引き取った。父の夏侯文寧(かこうぶんねい)は不憫に思い、また再婚を勧めると夏侯令女は悲嘆に暮れながら承知した。
そうして父と叔父を油断させた彼女は鼻も削ぎ落としてしまった。ある人が「そもそも人間の一生は塵が草の上に乗っているような(はかなく辛い)ものなのに、どうして自ら辛い目に遭うのか。御主人の一族も皆殺しにされたのに誰に操を立てているのか」と尋ねると「仁者は盛衰によって節義を改めず、義人は存亡によって心を変えません。曹氏が隆盛だった頃さえ節操を貫こうと願っていたのに、ましてや滅亡した今どうして平気で見捨てられるでしょう。獣のようなことはできません」と答えた。
司馬懿はこれを聞いて感動し、夏侯令女に養子を取り亡夫の家を継がせることを認めた。彼女の名声は天下に鳴り響いた。(『曹真伝』)

「演義」でもこの逸話は描かれたが、夏侯令女は夏侯令の女(むすめ)と読み間違えられ、曹文叔の妻とのみ記される。



曹炳  曹熊の子


曹炳(そうへい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~238)

魏の臣。
曹熊(そうゆう)の子。曹操の孫。

父は221年以前に早逝した。
234年に哀王として後を継ぎ領邑2500戸を得たが、238年に没した。
子がなく国は没収された。(『蕭懐王熊伝』)



曹輔


未作成



曹芳  廃位された三代皇帝


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曹茂  曹操の反省しない子


曹茂(そうぼう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹操と趙姫(ちょうき)の子。

217年、万歳亭侯に封じられた。
218年、平輿侯に転封された。
222年、乗氏公に転封され爵位が進んだ。
226年、中丘公に転封された。

傲慢で強情な性格だったため曹操には愛されず、曹丕の代になってもただひとり王になれなかった。

227年、聊城公に転封され、ようやく王に進んだ。
曹叡は「あなたは若い頃から礼を学ばず、長じてからも善道に励まなかった。先帝(曹丕)は賢人でなければ諸侯にしない故事にならい王位につけなかったが、卞太后(べんたいこう)はそれを気にされたびたび王位につけるよう申し出られた。聞けばあなたも少しは物がわかるようになり前非を悔い、善を修めたいと願っているらしい。卞太后に免じて王位につける」と詔勅を下した。

232年、曲陽王に転封された。
242年、異母兄弟の曹徽(そうき)が没したが、曹茂は喉の痛みを理由に哭礼せず、生活も宮殿への出入りも喪に服さずいつも通りだった。
所管の役人は改易するよう上奏したが、1県500戸を削るだけに留められた。
244年、楽陵王に転封された。領国は租税が少なく、子供も多いため500戸を返還され、700戸を加増された。
嘉平~景元年間(249~264)の間に何度も加増され、合わせて5000戸になった。(『楽陵王茂伝』)

255年、子の曹竦(そうしょう)が異母兄弟の曹鑠(そうしゃく)の後を継いだ。(『相殤王鑠伝』)



曹髦  魏帝最後の反抗


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曹褒


未作成



曹穆  曹叡の子の繁陽王


曹穆(そうぼく)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~229)

曹叡の子。

228年、繁陽王に封じられた。
翌229年に没した。(『明帝紀』)



曹瑜  曹洪の族父


曹瑜(そうゆ)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
曹洪(そうこう)の族父。

慎み深く誠実な人柄で、衛将軍まで上り列侯された。(『曹洪伝』)



曹熊  吊られたクマー


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曹邕  曹丕と蘇姫の子


曹邕(そうよう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~229)

曹丕と蘇姫(そき)の子。

221年、淮南公となり九江郡を領国とした。
翌年に淮南王に上り、223年に陳王、225年に邯鄲王に移った。
229年に没し、懐王と諡された。

231年、従甥(曹丕の弟の曹楷(そうかい)の子)の曹温(そうおん)が後を継いだ。(『曹邕伝』)



曹亮  曹純の孫


曹亮(そうりょう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
曹演(そうえん)の子。曹純(そうじゅん)の孫。

父が没すると後を継いだ。(『曹純伝』)



曹林  曹操の子の沛王


曹林(そうりん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~256)

曹操と杜氏(とし)の子。
別名は曹豹(そうひょう)。(『武帝紀』)

母はもともと呂布配下の秦宜禄(しんぎろく)の妻だったが、紆余曲折あり198年に曹操の側室となり、寵愛され曹林ら3人の子に恵まれた。(『明帝紀』)

211年、饒陽侯に封ぜられたのを皮切りに各地に転封され、222年に譙王となった。曹操の故郷に封ぜられたことからも寵愛ぶりがうかがえる。(『沛穆王林伝』)

215年、早逝した異母兄弟の曹玹(そうけん)の後を、曹林の子の曹賛(そうさん)が継いだが、曹賛もまた早逝したため、その弟の曹壱(そういつ)が継いだ。(『済陽懐王玹伝』)

黄初年間(220~226)に隗禧(かいき)が郎中に任じられると、高名な儒学者の彼を曹林は師事した。隗禧も誠意をもって教え、多くの褒美を下賜された。(『王朗伝』)

232年、転封され沛王となったたため、母の杜氏は沛王太妃(はいおうたいひ)とも称される。(『沛穆王林伝』)

235年、同母弟の曹袞(そうこん)が病に倒れたため、母とともに見舞ったが、曹袞は息を引き取り、詔勅により曹林が葬儀を執り行った。(『中山恭王袞伝』)

景元年間(260~264)まで何度も加増され4700戸に至った。
没すると穆王の諡号を贈られ、子の曹緯(そうい)が後を継いだ。(『沛穆王林伝』)

ただし256年に没したと記されており、景元年間(260~264)に加増されたのは曹緯か、それとも単なる誤記と思われる。(『高貴郷公紀』)

また孫娘は竹林の七賢の一人である嵆康(けいこう)に嫁いでいる。(『沛穆王林伝』)

曹袞をはじめ他の王には処罰を受けた記録がまま見られるが、曹林にはそうした記述は見当たらず、無難に生涯を過ごしたと思われる。



曹霖  曹丕の子のトウカイテイオー


曹霖(そうりん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~249?)

曹丕と仇昭儀(きゅうしょうぎ)の子。
曹髦の父。

曹丕に寵愛されたが粗暴な性格で、後宮の女官や側妾を痛めつけたり、殺すことがたびたびあった。(『東海定王霖伝』)

220年、帝位についた曹丕は、衛臻(えいしん)に追放した曹植(そうしょく)の様子を尋ねた。衛臻はその徳性を褒め称えたが、曹丕の寵愛する曹霖については触れなかった。(『衛臻伝』)

222年、河東王に立てられた。
225年、館陶県王に改封された。
226年、曹叡が即位すると、曹丕の遺言で他の諸王より厚遇された。
232年、東海王に改封された。

249年に没し、子の曹啓(そうけい)が後を継いだ。(『東海定王霖伝』)
「明帝紀」には250年12月27日逝去と記される。(『明帝紀』)

254年、曹芳が廃位されると、曹叡の正室の郭太后(かくたいこう)の意向で、曹霖の子で曹叡の甥にあたる曹髦が帝位についた。(『斉王紀』)

余談だがwikiには嘉平2年12月15日(251年1月24日)没と記され典拠が全くわからない。
※「高貴郷公紀」が出典だと追記されたが、「高貴郷公紀」にも250年12月27日と「明帝紀」と同じ没日が書かれている。



曹礼  幻の二代皇帝


曹礼(そうれい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~229)

曹丕と徐姫(じょき)の子。

「魏略」に曰く。
曹丕は正室の甄姫と不仲の末に死を命じたため、甄姫との子の曹叡に後を継がせることを渋り、はじめは曹礼を後継ぎに考えていたので、曹叡は長らく太子に指名されなかった。(『明帝紀』)

221年、秦公となり京兆郡を領国とした。
翌年に京兆王に上り、225年に元城王に移った。(『曹礼伝』)

229年4月に没し(『明帝紀』)、哀王と諡された。

231年、従甥(曹丕の弟の曹楷(そうかい)の子)の曹悌(そうてい)が後を継いだ。(『曹礼伝』)



曹廉  曹琬の子


曹廉(そうれん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹琬(そうえん)の子。
曹操の曾孫にあたる。

父が没すると、後を継いだ。(『豊愍王昂伝』)

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