三国志 そ 5


孫阿  泰山の令となり蔣済の亡き子を助ける


孫阿(そんあ)字は不明
出身地不明(??~??)

歌手。

「列異伝」に曰く。
蔣済(しょうせい)が領軍将軍の時(239~242)、妻の夢に亡くなった息子が現れこう言った。
「私は今は泰山(黄泉の国)で働いていますが、言葉に表せないほど苦労しています。もうすぐ孫阿(そんあ)という男が亡くなり、泰山の令(長官)になるので、どうか今のうちに父上から孫阿へ、私を楽な所へ転任させて欲しいと頼んでください」
妻は蔣済に話したが、彼はただの夢だと取り合わなかった。
だが翌日、またも妻の夢に息子が現れ「私はもう孫阿の迎えに来ていて、彼は明日の真昼に出発します。父上は気難しく理解してくれないので、母上の夢に出てきたのです。どうかもう一度父上に話してください」と言い、孫阿の容姿を詳しく語った。
妻は起きると蔣済へ話を伝えた。人をやって調べさせると孫阿が見つかり、息子が語った通りの容姿だった。
蔣済は「もう少しで息子を裏切るところだった」と涙を流し、孫阿に会い事情を話した。孫阿は死を恐れず、泰山の令になれることを喜び、頼みを快く引き受けた。
蔣済は早く結果が知りたくて、職場から孫阿のそばまで10歩ごとに人を置き、様子を観察させた。午前8時に孫阿は心臓の痛みを訴え、10時には激しくなり、真昼に亡くなった。
蔣済は「我が子の不幸を哀れむが、死後も知覚があったのがうれしい(※また再会できる)」と泣いた。一月余り後、母の夢にまた息子は現れ「録事に転任できました」と報告した。(『蔣済伝』)



孫安  孫鄰の弟A


孫安(そんあん)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫賁(そんふん)の子。孫鄰(そんりん)の弟。

249年、孫鄰が没すると子の孫苗(そんびょう)が後を継いだ。

他に兄弟の孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)・孫歆(そんきん)や、孫鄰の弟の孫安・孫熙(そんき)・孫績(そんせき)らもしかるべき官位についた。(『孫賁伝』)



孫怡  謎の重臣中の重臣


孫怡(そんい)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

東方の州の出身だが、孫権の一族ではないという。

239年、魏から独立した公孫淵(こうそんえん)の援護のため、羊衜(ようどう)・鄭胄(ていちゅう)が使者として向かい、将軍の孫怡が魏へ攻め込み、張持(ちょうじ)・高慮(こうりょ)を撃破し捕虜を得た。(『呉主伝』)

241年、太子の孫登(そんとう)は遺言で「孫怡らは国家のために真心を尽くし、政治の根本に通じている」と評した。

その際ともに列挙されているのが、諸葛瑾(しょかつきん)、歩隲(ほしつ)、朱然(しゅぜん)、全琮(ぜんそう)、朱拠(しゅきょ)、呂岱(りょたい)、吾粲(ごさん)、闞沢(かんたく)、厳畯(げんしゅん)、張承(ちょうしょう)という、全員が呉書に列伝されている重臣中の重臣であり、それに並べられる孫怡は相応の地位と実力を備えていたと思われる。(『孫登伝』)



孫偉  孫輔の子ら


孫偉(そんい)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫輔(そんほ)の子。

孫輔は従弟の孫権では統治は難しいと考え、密かに曹操と内通したのが発覚し、幽閉され数年後に没した。

孫興(そんこう)・孫昭(そんしょう)・孫偉・孫昕(そんきん)ら4人の子はそれぞれしかるべき地位についた。(『孫輔伝』)

また姉妹は駱統(らくとう)に嫁いだ。212年より後のことで、すでに孫輔は幽閉されていると思われ、内通の発覚後も子には累は及ばなかった。(『駱統伝』)



孫異  孫冀(架空)と同一人物?


孫異(そんい)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫韶(そんしょう)の子。

領軍将軍まで上った。(『孫韶伝』)

263年、魏が蜀へ侵攻すると、呉は救援のため魏の後方撹乱を狙い、丁奉を寿春へ向かわせ、留平(りゅうへい)を南郡の施績(しせき)のもとへ赴かせて善後策を練らせ、漢水流域へ丁封(ていほう)・孫異を進撃させた。
だが蜀は滅亡し、これらの軍事行動は取りやめられた。(『孫休伝』)

241年に父が没した際に長男ではない孫越(そんえつ)が後を継ぎ、その兄の孫楷(そんかい)に付して「孫楷の弟の孫異」と記されており、孫越が正室の子で、孫楷・孫異らは側室の子だろうか。(『孫韶伝』)

また「演義」には蜀滅亡の際に、間に合わなかった援軍の一人として登場。左将軍と記される。
その後、陸抗(りくこう)が孫皓から兵権を奪われると孫冀(そんき)という架空の人物が後を継いだ。孫異とよく似た字面で同じ左将軍のため、孫異の誤記か、モデルにしたと思われる。



孫彧  呉に降伏を呼び掛けた孫権の分家筋


孫彧(そんいく)字は不明
揚州呉郡富春県の人?(??~??)

魏の臣。
孫権の分家筋にあたる。

はじめ呉に仕えたが、寿春で魏の捕虜となり降伏した。

264年、曹奐(司馬昭)は詔勅を下し「水曹掾の孫彧は忠実かつ善良で物事の本質を見抜ける人物である。給事黄門侍郎を兼任させ関内侯に封じる。一家眷属を連れ(同じく呉からの降伏者の)徐紹(じょしょう)の副官として南方へ向かい、呉へ降伏を呼び掛けよ」と命じた。(『陳留王紀』)

265年、孫晧は帰還する徐紹・孫彧に使者を同伴させ魏に降伏を申し出た。
濡須まで来たところで徐紹は呼び戻され、魏を称賛した罪により孫晧に殺され、一家眷属は強制移住させられた。(『孫晧伝』)



孫毓  孫観の子


孫毓(そんいく)字は不明
兗州泰山郡の人(??~??)

魏の臣。
孫観(そんかん)の子。

父が没すると後を継いだ。
父と同じく青州刺史に上った。(『臧覇伝』)



孫壱  魏に亡命した呉の宗室


孫壱(そんいつ)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~259)

呉の臣。
孫奐(そんかん)の子。

234年に父が、243年に兄の孫承(そんしょう)が没したため、庶子ながら家督を継ぎ石陽太守となった。

253年、諸葛恪(しょかつかく)が誅殺されると、朱績(しゅせき)・全煕(ぜんき)とともに弟の諸葛融(しょかつゆう)を攻め、自害に追い込んだ。
この功により鎮南将軍から鎮軍将軍に上り、仮節を授かり夏口督となった。(『孫静伝』)

256年、専権を振るう孫綝(そんちん)に逆らい重臣の滕胤(とういん)と呂拠(りょきょ)が殺され、それに加担したとして孫壱の弟の孫封(そんほう)が自害させられた。
妹二人が滕胤と呂拠に嫁いでおり、孫壱も関与を疑われた。(『孫静伝』)

翌257年、魏に反乱した諸葛誕に孫綝は援軍を送り、それに乗じて朱異(しゅい)に孫壱を攻撃させようとした。
孫壱はそれを察知し、手勢1千と滕胤の未亡人である妹を連れて魏へ亡命した。(『孫亮伝』・『孫静伝』)

亡命した際の官位等は使持節・都督夏口諸軍事・鎮軍将軍・沙羨侯と記される。(『高貴郷公紀』)

魏は呉の宗室の亡命を大歓迎し、車騎将軍・儀同三司として迎え入れ呉侯に封じ、廃立された曹芳の側室の邢氏(けいし)を妻として与えた。(『孫静伝』)

曹髦は「微子や楽毅の亡命よりも素晴らしい。侍中・車騎将軍・仮節・交州牧・呉侯に任じ、幕府を開くことを認め、儀同三司を与え、天子の衣装を与えよ」と詔勅を下した。

裴松之は「孫壱は切羽詰まって亡命しただけで称賛されるべき点は無い。三公待遇はやりすぎだ。孟達(もうたつ)や黄権(こうけん)が亡命した時はこんなに厚遇されなかったが、孫壱・孫秀(そんしゅう)・孫楷(そんかい)は極端に優遇された。しかし呉の滅亡後に位階を数等も下げられた。これははじめの待遇が度を越していた結果ではなかろうか」と批判した。(『高貴郷公紀』)

同年、諸葛誕が反乱すると司馬昭は自ら討伐を考えた。ちょうど孫壱が魏へ亡命してきたためある人が「呉は内乱で揉めて出兵できないでしょう。戦いを急ぐ必要はありません」と言ったが、鍾毓(しょういく)は「孫壱が連れてきたのは兵300程度で呉にとって大した損害ではありません。速やかに諸葛誕を討伐しなければ援軍が現れるかも知れません」と反対し、司馬昭もそれに同意し親征した。
(※裴松之は「そもそも呉が内乱で揉めているというのも根拠がなく、鍾毓の意見もとりわけ称揚する価値はない」と指摘する)(『鍾繇伝』)

嫉妬深い邢氏はしばしば乱暴を働いたため家臣に恨まれ、2年後の259年に女中に殺され、孫壱も巻き込まれあっけなく命を落とした。(『孫静伝』・『高貴郷公紀』)

263年、蜀に侵攻した鍾会は「孫壱は困窮の果てに亡命しただけだが盛大な恩寵を受けた。蜀の臣ならばその恩寵は計り知れない」と降伏の誘いをかけた。(『鍾会伝』)



孫壱  孫覇の次男


孫壱(そんいつ)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫覇(そんは)の次男。孫権の孫にあたる。

250年、孫覇は後継者争いで国を傾けた責任により、孫権に自害を命じられた。

五鳳年間(254~256)に兄の孫基(そんき)は呉侯に、孫壱は宛陵侯に封じられた。

264年、孫皓は即位すると、孫覇が父の孫和(そんか)と対立したことを罪に問い、孫基・孫壱の爵位と封国を剥奪し、祖母の謝姫(しゃき)とともに会稽郡烏傷県に配流し、軟禁状態とした。
以後の消息は不明である。(『孫覇伝』)



孫胤


未作成



孫英  孫峻打倒のために擁立されかかる


孫英(そんえい)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~254)

孫登(そんとう)の次男。
孫権の孫。

241年、父が没すると兄弟が早逝していたため後を継ぎ呉侯に封じられた。(『孫登伝』)

253年、孫峻(そんしゅん)は専権を振るう諸葛恪(しょかつかく)が孫和(そんか)を復権させるのを警戒し、諸葛恪を誅殺し孫和を自害させた。(『孫和伝』)

254年、孫英は孫峻の暗殺を企てたが、露見し自害した。

「呉歴」に曰く。
孫和の死には民衆も嘆いた。桓慮(かんりょ)はそれに乗じて不穏分子を糾合し、孫英を擁立しようとしたが露見し殺された。孫英は何も知らなかった。(『孫登伝』)

「孫峻伝」にも孫英は非業の死を遂げたと記され、企てに関与していなかったことが示唆される。(『孫峻伝』)



孫奕  孫韶の子の宗正卿


孫奕(そんえき)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫韶(そんしょう)の子。

宗正卿に上った。(『孫韶伝』)



孫越  孫韶の後継ぎ


孫越(そんえつ)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫韶(そんしょう)の子。

241年に父が没すると後を継ぎ、右将軍まで上った。
兄の孫楷(そんかい)がおり、嫡子だが長男ではなかったと思われる。
孫越の務めていた京下(京城)督を孫楷が継いだ。(『孫韶伝』)

264年4月、以前に呉から魏へ寝返った王稚(おうち)が、海路から句章へ侵攻し、長官を捕虜にし財貨と民衆200余人を略奪した。
孫越はそれを迎撃し、船1隻を拿捕し30人の捕虜を得た。(『孫休伝』)



孫恩  孫綝の腹心の弟


孫恩(そんおん)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~258)

呉の臣。
孫綽(そんしゃく)の子。孫綝(そんちん)の弟。

257年、諸葛誕が魏に反乱すると、孫綝は援軍を差し向けた。
だが無謀な采配で大敗を喫し、指揮官の朱異(しゅい)が命令を拒否すると、彼を粛清し孫恩を後任に据えた。
結局、諸葛誕は敗北し、呉軍も撤退した。

皇帝の孫亮は長じると自ら政治を執るようになり、専権を振るう孫綝はしばしば問責された。
孫綝は身の危険を感じ、威遠将軍で弟の孫拠(そんきょ)に宿衛に当たらせ、さらに都の各地に軍営を作り、武衛将軍の孫恩ら弟を駐屯させ警備を固めた。

258年、孫亮はついに孫綝の排除を決断し、姉の孫魯班(そんろはん)、舅の全尚(ぜんしょう)、寵愛する劉承(りゅうしょう)とともに密議を凝らした。
だが計画は洩れ、孫綝は先制攻撃を仕掛けて、孫恩に蒼龍門外で劉承を殺させ、宮城を包囲すると孫亮を廃位した。(『孫綝伝』)

孫綝は次期皇帝として孫休を招き、孫恩が丞相代行として百官を率い、それを迎え入れた。
孫休は即位すると孫綝を丞相に、孫恩を御史大夫・衛将軍・中軍督に任じ県侯に封じるなど兄弟を厚遇した。
一族から5人も列侯され、それぞれ近衛兵を率いるなど、呉の歴史でも類を見ないほどの権勢を誇った。

翌11月には孫恩は侍中として孫綝の補佐を命じられ、公文書の決裁を分担した。
これらは孫休による懐柔策で、孫綝も内心では警戒していたが、12月に粛清され、一族は皆殺しとされた。(『孫綝伝』・『孫休伝』)



孫河  孫翊とともに殺される


孫河(そんか)字は伯海(はくかい)
揚州呉郡の人(??~204)

孫堅の族子。

実直な性格で議論よりも行動を尊び、積極的に職務に力を尽くした。
孫堅に仕えて常に先鋒を務め、後に近衛兵を指揮し、内々のことを取り仕切るなど腹心として信頼された。(『孫韶伝』)

191年頃、孫堅が戦死すると配下の多くは袁術に仕えたが、孫河と呂範(りょはん)は孫策のもとに残った。
二人だけは常にそばに侍り、山野をめぐって苦楽をともにした。(『孫策伝』・『呂範伝』)

孫策は叔父の呉景(ごけい)に孫河・呂範を預け、反乱した祖郎(そろう)を共同で攻撃した。(『呉景伝』)

おばの兪氏を継ぎ兪河(ゆか)と名乗っていたが、孫策に一族として迎えられ孫姓に復した。
呉郡・会稽郡の平定に功績があり、孫権の代に反乱した廬江太守の李術(りじゅつ)を破ると、威寇中郎将・廬江太守に任じられた。(『孫韶伝』)

烏程県長の時、下役人の吾粲(ごさん)の非凡さを見抜き高く評価した。後に将軍位に上り地方の長官の任命権を得ると、上表し吾粲を曲阿の丞に任じた。(『吾粲伝』)

204年、孫堅の三男の孫翊(そんよく)は側近の辺鴻(へんこう)に殺された。
孫河が孫翊配下の媯覧(きらん)、戴員(たいいん)を叱責すると、実は黒幕だった彼らは「孫翊と親しくない孫河ですらこんなに激怒するなら、兄の孫権には一族を根絶やしにされるだろう」と恐れおののき、孫河も殺してしまい、反乱しようとした。
その後、媯覧らは孫翊の未亡人の徐氏(じょし)によって仇討ちされた。(『孫韶伝』)

孫桓(そんかん)ら4人の子がいたが(まだ幼かったため)、甥の孫韶(そんしょう)が17歳で兵を受け継いだ。(『孫桓伝』・『孫韶伝』)

「演義」では孫桓の父として名前が上がるのみ。三男の孫桓は長男に変更されている。
余談だが「ちくま版」で元の名を「愈河」と誤記されているため、参照した創作ではそれに気づかず愈姓で書かれることが多いという。



孫和  悲運の皇太子


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孫夏  劉備に射殺された孫仲の元ネタ


孫夏(そんか)字は不明
出身地不明(??~185)

黄巾賊。

184年、黄巾の乱が起こると南陽郡では張曼成(ちょうまんせい)が数万人を集めて挙兵し、太守の褚貢(ちょこう)を殺し、宛県に100日以上駐屯した。
張曼成の死後も次々と後継を立て抗戦を続けた。3代目の韓忠(かんちゅう)は降伏したが、怒り心頭に達していた秦頡(しんけつ)は韓忠を殺してしまい、黄巾賊は孫夏を立ててさらに抵抗した。朱儁(しゅしゅん)が攻撃すると孫夏は逃げたが、追いついて首を取り、ようやく鎮圧された。(『後漢書 朱儁伝』)

孫夏を討ったのは西暦に換算すると翌185年である。(『後漢書 霊帝紀』)

「演義」でもこの戦いは描かれるが、4代目の孫夏だけ別人でオリジナルキャラの孫仲(そんちゅう)に置き換わっている。
孫仲は劉備に射殺されており、劉備に手柄を立てさせるためオリキャラに変更されたのだろう。



孫恢  孫韶の子の武陵太守


孫恢(そんかい)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫韶(そんしょう)の子。

武陵太守に上った。(『孫韶伝』)



孫楷  晋へ亡命した孫韶の子


孫楷(そんかい)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~304)

呉の臣。
孫韶(そんしょう)の子。

241年に父が没すると弟の孫越(そんえつ)が後を継いでおり、孫楷は庶子だったと思われる。
孫楷は武衛大将軍・臨成侯となり、孫越の務めていた京下(京城)督を継いだ。
また孫異(そんい)・孫奕(そんえき)・孫恢(そんかい)ら3人の弟もそれぞれ高位に上った。(『孫韶伝』)

258年9月、孫亮を廃位した孫綝(そんちん)は、孫休を次の帝位につけようと考え、宗正の孫楷と董朝(とうちょう)を使者に立て迎えに行かせた。
孫休は魂胆を疑いなかなか応じなかったが、孫楷らに説得され重い腰を上げた。
都につくと孫休はまず孫綝の弟の孫恩(そんおん)と孫楷を面会させ、それから宮廷に入った。
即位すると迎えの礼として董朝を列侯したが、すでに列侯していたからか孫楷には特に礼はなかった。(『孫休伝』)

266年10月、永安の山賊の施但(したん)が反乱した際、孫楷は呉と反乱軍の二股をかけていたと告発する者があり、孫皓に幾度も難詰されたため、怯えていた。(『孫韶伝』)

276年8月(『孫皓伝』)、孫楷は驃騎将軍に任じられ都に召還されると、疑心暗鬼からいよいよ処刑されると考え、妻子や子飼いの兵ら数百人を引き連れ晋へ亡命した。
晋は彼を車騎将軍に任じ、丹陽侯に封じた。

280年、呉が滅亡すると官位を渡遼将軍に落とされた。
304年に死去した。

同じく呉から晋へ亡命した孫秀(そんしゅう)に、厳格に身を処した点では及ばなかったが、名声では勝っていたという。(『孫韶伝』)

また裴松之は「孫秀・孫楷は晋に極端に優遇されたが、呉の滅亡後に位階を数等も下げられた。これははじめの待遇が度を越していた結果ではなかろうか」と述べている。(『高貴郷公紀』)



孫該  別の「魏書」の著者


孫該(そんがい)字は公達(こうたつ)
兗州任城郡の人(??~261)

魏の臣。
「劉劭伝」に附伝される。

記憶力が良く、学問を好んだ。

20歳で上計掾となり、召し出され郎中となり「魏書」を著した。
博士・司徒右長史に転任し、朝廷に戻り著作郎を務め、261年に在官のまま没した。

蘇林(そりん)・韋誕(いたん)らとともに文章は広く伝わった。(『孫該伝』)

彼の「魏書」は残らなかったのか、裴松之の注には見えない。



孫諧  孫鄰の子の城門校尉


孫諧(そんかい)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫鄰(そんりん)の子。孫賁(そんふん)の孫。

249年、父が没すると兄の孫苗(そんびょう)が後を継いだ。

孫諧は城門校尉まで上った。

他に兄弟の孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)・孫歆(そんきん)や、叔父の孫安(そんあん)・孫熙(そんき)・孫績(そんせき)らもしかるべき官位についた。(『孫賁伝』)



孫闓  孫綝の弟の長水校尉


孫闓(そんがい)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~258)

呉の臣。
孫綽(そんしゃく)の子。孫綝(そんちん)の弟。

皇帝の孫亮は長じると自ら政治を執るようになり、専権を振るう孫綝はしばしば問責された。
孫綝は身の危険を感じ、威遠将軍で弟の孫拠(そんきょ)に宿衛に当たらせ、さらに都の各地に軍営を作り、長水校尉の孫闓ら弟を駐屯させ警備を固めた。

258年、孫亮はついに孫綝の排除を図るが計画は洩れ、孫綝は先制攻撃を仕掛けて、宮城を包囲すると孫亮を廃位した。(『孫綝伝』)

新たに即位した孫休は孫綝を丞相に、孫闓を亭侯に封じるなど、兄弟を厚遇した。
一族から5人も列侯され、それぞれ近衛兵を率いるなど、呉の歴史でも類を見ないほどの権勢を誇ったが、これらは孫休による懐柔策で、孫綝も内心では警戒していたが、12月に粛清された。
孫闓は船で魏へ亡命しようとしたが追いつかれ、一族は皆殺しとされた。(『孫綝伝』・『孫休伝』)



孫奐  兄と同じく早逝


孫奐(そんかん)字は季明(きめい)
揚州呉郡富春県の人(195~234)

呉の臣。
孫静(そんせい)の四男。
「孫静伝」に附伝される。

三人の兄はいずれも短命で、219年、兄の孫皎(そんこう)が没すると兵を受け継ぎ、揚武中郎将として江夏太守を兼務した。
1年間の任務だったが、孫皎の業績を遵守し、人材を適材適所に配置したため、当意即妙の受け答えはできなかったが処理は迅速で、兵も民も称賛した。

226年、魏の石陽を攻め、鮮于丹(せんうたん)を背後に回らせると手勢とともに突撃して城を落とし、3人の敵将を捕らえた。
凱旋すると孫権は自ら閲兵し、隊伍が整っているに感嘆し「孫奐は愚鈍だと思っていたが、あれほど軍をきちんと治められる将軍は少ない。何も心配はいらない」と言った。

揚威将軍に上り、沙羨侯に封じられた。
学問を好み、兄と同様に配下にも学問を修めさせ、出世し朝廷に仕える者が数十人に及んだ。

だが兄達と同じく長寿は得られず、234年に40歳で没した。
長男の孫承(そんしょう)も早逝し、後を継いだ庶子の孫壱(そんいつ)は高位に上るも、孫綝(そんちん)に睨まれた末に魏へと亡命している。(『孫奐伝』)

「演義」には登場しない。



孫桓  若き俊英


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孫幹  孫綝の弟の偏将軍


孫幹(そんかん)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~258)

呉の臣。
孫綽(そんしゃく)の子。
孫綝(そんちん)の弟。

皇帝の孫亮は長じると自ら政治を執るようになり、専権を振るう孫綝はしばしば問責された。
孫綝は身の危険を感じ、威遠将軍で弟の孫拠(そんきょ)に宿衛に当たらせ、さらに都の各地に軍営を作り、偏将軍の孫幹ら弟を駐屯させ警備を固めた。

258年、孫亮はついに孫綝の排除を図るが計画は洩れ、孫綝は先制攻撃を仕掛けて、宮城を包囲すると孫亮を廃位した。(『孫綝伝』)

新たに即位した孫休は孫綝を丞相に、孫幹を雑号将軍(※詳細は不明)に任じ亭侯に封じるなど、兄弟を厚遇した。
一族から5人も列侯され、それぞれ近衛兵を率いるなど、呉の歴史でも類を見ないほどの権勢を誇ったが、これらは孫休による懐柔策で、孫綝も内心では警戒していたが、12月に粛清され、一族は皆殺しとされた。(『孫綝伝』・『孫休伝』)



孫観  臧覇の相棒


孫観(そんかん)字は仲台(ちゅうたい)
兗州泰山郡の人(??~??)

魏の臣。
孫康(そんこう)の弟。
別名は嬰子(えいし)。

黄巾の乱が起こると臧覇(ぞうは)とともに挙兵し、徐州刺史の陶謙(とうけん)に従い、騎都尉に任命された。
呉敦(ごとん)・尹礼(いんれい)・昌豨(しょうき)らとともに臧覇を首領に仰ぎ、開陽に駐屯した。(『臧覇伝』・『武帝紀』)

198年、曹操が呂布を攻めると救援したが、呂布が討たれたため逃亡し、臧覇は捕らえられた。だが曹操は彼を気に入り、臧覇を通じて孫観兄弟・呉敦・尹礼が招聘され、孫観は北海太守に、兄の孫康は城陽太守に任じられた。

以降は徐州・青州の統治を任された臧覇のもとで反乱鎮圧に尽力し、臧覇に次ぐ武功を立て、呂都亭侯に封じられた。
204年、鄴が制圧されると子弟を揃って移住させ、曹操は喜び偏将軍・青州刺史に昇格させた。

濡須の戦い(213年、217年のいずれかは不明)では仮節を預かり指揮をとったが、流れ矢を浴びて左足を負傷した。
構わず戦い続けたため曹操は「国のためにも自愛せよ」と振威将軍に転任させたが、矢傷がもとで没した。(『臧覇伝』)

「演義」では臧覇配下の泰山の山賊として登場。曹操に降伏後は出番がない。



孫希


未作成



孫奇


未作成



孫姫  曹彪の母


孫姫(そんき)名は不明
出身地不明(??~??)

曹操の側室。
曹彪(そうひょう)ら3人の母。

曹彪は191年に生まれており、正室の丁夫人(ていふじん)や後の卞皇后(べんこうごう)と同時期に嫁ぎ、素性は不明だが「姫」で止まっているため高貴な身分ではないと思われる。

長男の曹上(そうじょう)、三男の曹勤(そうきん)は早逝し、曹彪は257年に反乱に加担し自害を命じられており、二つの意味で子供には恵まれなかった。(『臨邑殤公子上伝』・『楚王曹彪伝』・『剛殤公勤伝』)



孫基  孫覇の長男


孫基(そんき)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫覇(そんは)の長男。孫権の孫にあたる。

250年、孫覇は後継者争いで国を傾けた責任により、孫権に自害を命じられた。

五鳳年間(254~256)に孫基は呉侯に、弟の孫壱(そんいつ)は宛陵侯に封じられた。

孫基は皇帝の孫亮の側近を務めていたが258年、孫亮の馬を盗んで乗り回した罪で投獄された。
孫亮に罪の重さを尋ねられた侍中の刁玄(ちょうげん)は「死刑に値しますが、孫基の父も亡くなっていることですし、温情を与えてください」と述べた。
だが孫亮は「法は天下の全ての者に平等に適用される。身内だからといって特別な配慮はできない。お前は孫基を救う法的な手段を考えるべきなのに、なぜ感情論で迫るのか」と叱責した。
刁玄は「恩赦の範囲は陛下の裁量に委ねられます」と返し、納得した孫亮は宮中の者へ限定で恩赦を出し、孫基を赦した。

264年、孫皓は即位すると、孫覇が父の孫和(そんか)と対立したことを罪に問い、孫基・孫壱の爵位と封国を剥奪し、祖母の謝姫(しゃき)とともに会稽郡烏傷県に配流し、軟禁状態とした。
以後の消息は不明である。(『孫覇伝』)



孫晞


未作成



孫規  関羽を打ち破る(嘘)


孫規(そんき)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

214年、劉備が益州を制圧すると、孫権は荊州の返還を求めた。
劉備は「涼州を制圧したら返そう」とうそぶき、孫権は荊州の諸郡へ官吏を派遣したが、それも関羽に追い払われ激怒した。
呂蒙は鮮于丹(せんうたん)・徐忠(じょちゅう)・孫規を率いて出兵し、長沙・桂陽の二郡を降伏させたが、零陵太守の郝普(かくふ)は降伏勧告に応じず籠城した。
劉備と関羽の援軍が迫ると、孫権は撤退を命じたが、呂蒙はそれを秘匿すると、同行していた鄧玄之(とうげんし)に「我々は優勢で、あなたの友人の郝普は風前の灯だ。関羽が孫規に打ち破られたのはあなたもその目で見ただろう。城が落ちたら郝普も、百歳近い彼の母も殺される。どうか郝普に戦況を伝えて降伏させて欲しい」と頼んだ。
鄧玄之に説得され郝普は降伏し、騙されたと知って後悔した。(『呉主伝』・『呂蒙伝』)

ちくま版の訳者は「関羽が孫規に打ち破られた」の下りを「意味不明」と述べている。現地にいたはずの鄧玄之がなぜ騙されたのか?という疑問だろうか。



孫熙


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孫熙  孫鄰の弟B


孫熙(そんき)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫賁(そんふん)の子。孫鄰(そんりん)の弟。

249年、孫鄰が没すると子の孫苗(そんびょう)が後を継いだ。

他に兄弟の孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)・孫歆(そんきん)や、孫鄰の弟の孫安(そんあん)・孫熙・孫績(そんせき)らもしかるべき官位についた。(『孫賁伝』)



孫儀  孫峻暗殺に失敗


孫儀(そんぎ)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~255)

呉の臣。
孫皎(そんこう)の子。五男か。

列侯され無難督を務めた。(『孫静伝』)

255年、蜀の使者が訪れると、会見の場で張怡(ちょうい)・林恂(りんしゅん)とともに専権を振るう孫峻(そんしゅん)を暗殺しようと企てたが露見し、自害した。(『孫亮伝』・『孫峻伝』)

孫魯班(そんろはん)はこれに乗じて妹の孫魯育(そんろいく)も計画に加担したと讒言し、処刑させた。(『孫休朱夫人伝』)



孫誼


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孫徽  袁渙に反論される


孫徽(そんき)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

袁渙(えんかん)が梁国相の時、穀熟県長の呂岐(りょき)は朱淵(しゅえん)と爰津(えんしん)を招聘したが、二人とも応じなかったため逮捕したうえ殴り殺した。
その処置を非難する者が多かったが、袁渙は弾劾しなかった。

主簿の孫徽は「朱淵らの罪は死刑に相当せず、県長は死刑を独断で決められません。それに朱淵を師友祭酒に任命しながら、師友に対する処置とは思えません」と反対した。
袁渙は「独断で死刑にしたのは確かに罪である。だが君主が家臣を師友に任命するのは敬意を示すためで、罪があれば罰を加えるべきだ。招聘を無視した罪を議論せずに、弟子が師を殺したと非難するのは見当外れだ。近頃の世は乱れ、下位の者が上位の者を侮っている。世の中の欠陥を助長するのは誤りである」と言い、やはり弾劾しなかった。(『袁渙伝』)

「後漢書 后紀」に同姓同名の人物が登場するが別人と思われる。



孫徽  伏皇后から絹を奪う


孫徽(そんき)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。
名は孫微(そんび)や孫儼(そんげん)とも書かれる。

195年、献帝は董卓残党の支配する長安から逃亡した。(物資が窮乏したため?)董承(とうじょう)は符節令の孫徽に命じて、伏皇后(ふく)の所持していた絹を奪わせた。
孫徽は剣で脅し、抵抗する侍女を斬り捨て、その血が伏皇后の衣に掛かった。(『後漢書 后紀』)

「袁渙伝」に同姓同名の人物が登場するが別人と思われる。



孫休  学者皇帝


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孫拠  孫綝の警護役の弟


孫拠(そんきょ)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~258)

呉の臣。
孫綽(そんしゃく)の子。孫綝(そんちん)の弟。

皇帝の孫亮は長じると自ら政治を執るようになり、専権を振るう孫綝はしばしば問責された。
孫綝は身の危険を感じ、威遠将軍で弟の孫拠に宿衛に当たらせ、さらに都の各地に軍営を作り、武衛将軍の孫恩(そんおん)ら弟を駐屯させ警備を固めた。

258年、孫亮はついに孫綝の排除を図るが計画は洩れ、孫綝は先制攻撃を仕掛けて、宮城を包囲すると孫亮を廃位した。(『孫綝伝』)

孫綝は次期皇帝として孫休を招いた。
孫休は即位すると孫綝を丞相に、孫拠を右将軍・県侯に、孫恩や孫幹(そんかん)、孫闓(そんがい)も県侯に封じるなど兄弟を厚遇した。
一族から5人も列侯され、それぞれ近衛兵を率いるなど、呉の歴史でも類を見ないほどの権勢を誇ったが、これらは孫休による懐柔策で、孫綝も内心では警戒していたが、12月に粛清され、一族は皆殺しとされた。(『孫綝伝』・『孫休伝』)



孫匡  孫堅の四男


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孫羌  孫堅の兄


孫羌(そんきょう)字は聖台(せいだい)
揚州呉郡富春県の人(??~??)

孫堅の同母兄。

次男の孫輔(そんほ)が赤児の頃に妻とともに亡くなり、長男の孫賁(そんふん)が弟を育てた。(『孫賁伝』)

孫賁・孫輔は長じると甥の孫策・孫権を助け軍功を上げたが、孫輔は後に曹操と内通し、兵権を奪われ幽閉された。(『孫賁伝』・『孫輔伝』)



孫恭


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孫昕  孫輔の子ら


孫昕(そんきん)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫輔(そんほ)の子。

孫輔は従弟の孫権では統治は難しいと考え、密かに曹操と内通したのが発覚し、幽閉され数年後に没した。

孫興(そんこう)・孫昭(そんしょう)・孫偉(そんい)・孫昕ら4人の子はそれぞれしかるべき地位についた。(『孫輔伝』)

また姉妹は駱統(らくとう)に嫁いだ。212年より後のことで、すでに孫輔は幽閉されていると思われ、内通の発覚後も子には累は及ばなかった。(『駱統伝』)



孫歆  孫鄰の子の楽郷督


孫歆(そんきん)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫鄰(そんりん)の子。孫賁(そんふん)の孫。

249年、父が没すると兄の孫苗(そんびょう)が後を継いだ。

孫歆は楽郷督まで上った。

他に兄弟の孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)や、叔父の孫安(そんあん)・孫熙(そんき)・孫績(そんせき)らもしかるべき官位についた。(『孫賁伝』)



孫瑾  劉虞に殉じた常山国相


孫瑾(そんきん)字は不明
出身地不明(??~193)

後漢の臣。

「英雄記」に曰く。
193年、劉虞(りゅうぐ)が公孫瓚(こうそんさん)に処刑される時、元の常山国相の孫瑾と掾の張逸(ちょういつ)・張瓚(ちょうさん)は忠義の心に燃えて駆けつけ、公孫瓚を罵倒しともに殺された。(『公孫瓚伝』)



孫瑾


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孫軽  黒山賊の初期メンバーA


孫軽(そんけい)字は不明
出身地不明(??~??)

黒山賊。

張燕(ちょうえん)は故郷の常山郡と周辺の郡の賊徒を糾合し、小頭目の孫軽・王当(おうとう)と合流し軍勢は百万に上り、黒山賊と号した。(『張燕伝』)

204年、張遼は別働隊を率いて趙国・常山郡を攻略し、孫軽らを降伏させた。(『張遼伝』)



孫元  孫礼の子


孫元(そんげん)字は不明
幽州涿郡容城県の人(??~??)

魏の臣。
孫礼(そんれい)の子。

250年、父が没すると後を継いだ。(『孫礼伝』)



孫建


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孫乾  縁の下の力持ち


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孫堅  江東の虎


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孫権  碧眼児


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孫謙  司馬懿を陰ながら助けた曹爽配下


孫謙(そんけん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

「世語」に曰く。
249年、専権を振るう曹爽(そうそう)一派を打倒するため挙兵した司馬懿は武器庫に向かい、その南にある曹爽の屋敷の門前で止められた。
曹爽の妻の劉氏(りゅうし)がおびえ「夫は外にいるのに兵乱が起こっています。どうしたらいいでしょう」と言うと、守将は「奥様、ご心配はいりません」と言い、櫓に登り司馬懿に矢を浴びせようとした。
そばにいた孫謙が「天下の事はどうなるかまだわかりません」と制止し、三度ばかり押し問答をしたため、その間に司馬懿は無事に通過した。(『曹真伝』)

「演義」では無名の守将は潘挙(はんきょ)と名付けられ、問答無用で矢を射かけている。



孫謙  反乱者に擁立される


孫謙(そんけん)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~266)

孫和(そんか)の三男。

258年、孫休は即位すると孫和の3人の子を列侯し、孫謙は永安侯に封じられた。(『孫休伝』)

266年10月、永安の山賊の施但(したん)が反乱し、孫皓の異母弟の孫謙を強引に皇帝として擁立した。孫和の陵墓から楽器や曲蓋(貴族の傘)を奪い、建業まで迫った時には1万余人にも膨れ上がった。
施但は降伏勧告の詔勅を下したが、建業を守る諸葛靚(しょかつせい)はその使者を斬り捨てると丁固(ていこ)とともに出撃した。施但の兵は(※孫皓の暴政に立ち上がった民衆が中心だったためか?)多くが裸身で鎧も着けていなかったので、たやすく打ち破られた。(『孫皓伝』・『孫和伝』)
孫謙はたった一人で馬車に座っており、生け捕りにされた。丁固は捕らえた孫謙の処遇に困り、孫皓に報告すると、毒殺を命じられた。(※「孫皓伝」には自害したと記される)

母親や息子、弟の孫俊(そんしゅん)もともに殺された。(『孫和伝』)



孫謙


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