三国志 し 1


士壱  士燮の波乱万丈の弟


士壱(しいつ)字は不明
交州蒼梧郡広信県の人(??~??)

士賜(しし)の子。
士燮(ししょう)の弟。士匡(しきょう)の父。
「士燮伝」に附伝される。

蒼梧郡で督郵を務めた。
交州刺史の丁宮(ていきゅう)が都に召還されると、心を込めて送別し、感激した丁宮は「私がもし三公に上ったらあなたを招聘しよう」と約束した。
188年、司徒に上った丁宮は言葉通りに士壱を招いたが、都に到着すると既に罷免されていた。
だが後任の司徒の黄琬(こうえん)も士壱を厚く礼遇した。

「呉書」に曰く、都の実権を握った董卓は黄琬と敵対し、士壱は心を尽くして黄琬を助け、高い評判を得たが董卓に憎まれた。
董卓は士壱を昇進させないよう布告したため、何年も昇進できず、191年に董卓が長安へ遷都すると、官を捨てて故郷へ帰った。

兄の士燮は交州の交趾太守を務めており、交州刺史の朱符(しゅふ)が異民族の反乱により殺され、州が混乱に陥ると、弟の士壱を合浦太守、士䵋(しい)を九真太守、士武(しぶ)を南海太守に任命するよう上表し、兄弟で周辺の地盤を固めた。
中原の戦乱を逃れて交州に疎開する士人も多く、都から遠く離れた地にあり、士燮一族は並ぶ者のない権勢を手に入れた。

210年、孫権が歩騭(ほしつ)を交州刺史として派遣すると、士燮はその支配下に入って人質を送り、士燮と士壱の子はみな中郎将に任じられた。
また益州の豪族の雍闓(ようがい)に働きかけて孫権に協力させ、その功で士壱は偏将軍・都郷侯に上った。

226年、士燮が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、士燮の支配域の北を広州、南を交州に分割し、呂岱(りょたい)を広州刺史、戴良(たいりょう)を交州刺史、陳時(ちんじ)を士燮の後任の交趾太守に赴任させた。

だが士燮の子の士徽(しき)は交趾太守を自称し、配下の異民族兵を動員し、それを阻止しようとした。
配下の桓鄰(かんりん)は不利を悟り叩頭して兵を引くよう懇願したが、士徽は激怒し彼を鞭打って殺した。
桓鄰の兄の桓治(かんち)と子の桓発(かんはつ)は、復讐のため兵を集め、士徽を数ヶ月にわたり攻めたが、城を落とせず和睦した。

様子をうかがっていた呂岱は戴良と合流し、交趾郡に迫った。さらに交友のあった士燮の甥の士匡を調略し、降伏すれば太守の地位を没収するだけで許すと士徽に伝えさせた。
士徽は観念し、兄弟の士祗(しし)・士幹(しかん)・士頌(ししょう)らとともに降伏したが、処刑された。(※孫盛は呂岱を信義にもとると非難した)

士壱・士䵋(しい)・士廞(しきん)や士匡も降伏し、処刑は免じられたが庶民に落とされた。
数年後、士壱・士䵋は法を犯したとして誅殺され、士廞は病死した。
残された士廞の妻へ、米と銭が支給された。(『士徽伝』)



士䵋  士燮の地味な弟


士䵋(しい)字は不明
交州蒼梧郡広信県の人(??~??)

士賜(しし)の子。
士燮(ししょう)の弟。
「士燮伝」に附伝される。

兄の士燮は交州の交趾太守を務めており、交州刺史の朱符(しゅふ)が異民族の反乱により殺され、州が混乱に陥ると、弟の士壱(しいつ)を合浦太守、士䵋を九真太守、士武(しぶ)を南海太守に任命するよう上表し、兄弟で周辺の地盤を固めた。
中原の戦乱を逃れて交州に疎開する士人も多く、都から遠く離れた地にあり、士燮一族は並ぶ者のない権勢を手に入れた。

226年、士燮が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、士燮の支配域の北を広州、南を交州に分割し、呂岱(りょたい)を広州刺史、戴良(たいりょう)を交州刺史、陳時(ちんじ)を士燮の後任の交趾太守に赴任させた。

だが士燮の子の士徽(しき)は交趾太守を自称し、配下の異民族兵を動員し、それを阻止しようとした。
配下の桓鄰(かんりん)は不利を悟り叩頭して兵を引くよう懇願したが、士徽は激怒し彼を鞭打って殺した。
桓鄰の兄の桓治(かんち)と子の桓発(かんはつ)は、復讐のため兵を集め、士徽を数ヶ月にわたり攻めたが、城を落とせず和睦した。

様子をうかがっていた呂岱は戴良と合流し、交趾郡に迫った。さらに交友のあった士燮の甥の士匡(しきょう)を調略し、降伏すれば太守の地位を没収するだけで許すと士徽に伝えさせた。
士徽は観念し、兄弟の士祗(しし)・士幹(しかん)・士頌(ししょう)らとともに降伏したが、処刑された。(※孫盛は呂岱を信義にもとると非難した)

士壱・士䵋・士廞(しきん)や士匡も降伏し、処刑は免じられたが庶民に落とされた。
数年後、士壱・士䵋は法を犯したとして誅殺され、士廞は病死した。
残された士廞の妻へ、米と銭が支給された。(『士䵋伝』)



士幹  士徽の弟A


士幹(しかん)字は不明
交州蒼梧郡広信県の人(??~226?)

士燮(ししょう)の子。士徽(しき)の弟。

226年、士燮が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、士燮の支配域の北を広州、南を交州に分割し、呂岱(りょたい)を広州刺史、戴良(たいりょう)を交州刺史、陳時(ちんじ)を士燮の後任の交趾太守に赴任させた。

だが士燮の子の士徽は交趾太守を自称し、配下の異民族兵を動員し、それを阻止しようとした。
配下の桓鄰(かんりん)は不利を悟り叩頭して兵を引くよう懇願したが、士徽は激怒し彼を鞭打って殺した。
桓鄰の兄の桓治(かんち)と子の桓発(かんはつ)は、復讐のため兵を集め、士徽を数ヶ月にわたり攻めたが、城を落とせず和睦した。

様子をうかがっていた呂岱は戴良と合流し、交趾郡に迫った。さらに交友のあった士燮の甥の士匡(しきょう)を調略し、降伏すれば太守の地位を没収するだけで許すと士徽に伝えさせた。
士徽は観念し、兄弟の士祗(しし)・士幹・士頌(ししょう)らとともに降伏したが、処刑された。(※孫盛は呂岱を信義にもとると非難した)

士壱(しいつ)・士䵋(しい)・士廞(しきん)や士匡も降伏し、処刑は免じられたが庶民に落とされた。
数年後、士壱・士䵋は法を犯したとして誅殺され、士廞は病死した。
残された士廞の妻へ、米と銭が支給された。(『士燮伝』)



士徽  士燮の墓穴を掘った子


士徽(しき)字は不明
交州蒼梧郡広信県の人(??~226?)

士燮(ししょう)の子。
「士燮伝」に附伝される。

226年、士燮が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、士燮の支配域の北を広州、南を交州に分割し、呂岱(りょたい)を広州刺史、戴良(たいりょう)を交州刺史、陳時(ちんじ)を士燮の後任の交趾太守に赴任させた。

だが士徽は交趾太守を自称し、配下の異民族兵を動員し、それを阻止しようとした。
配下の桓鄰(かんりん)は不利を悟り叩頭して兵を引くよう懇願したが、士徽は激怒し彼を鞭打って殺した。
桓鄰の兄の桓治(かんち)と子の桓発(かんはつ)は、復讐のため兵を集め、士徽を数ヶ月にわたり攻めたが、城を落とせず和睦した。

様子をうかがっていた呂岱は戴良と合流し、交趾郡に迫った。さらに交友のあった士燮の甥の士匡(しきょう)を調略し、降伏すれば太守の地位を没収するだけで許すと士徽に伝えさせた。
士徽は観念し、兄弟の士祗(しし)・士幹(しかん)・士頌(ししょう)らとともに降伏したが、処刑された。(※孫盛は呂岱を信義にもとると非難した)

士壱(しいつ)・士䵋(しい)・士廞(しきん)や士匡も降伏し、処刑は免じられたが庶民に落とされた。
数年後、士壱・士䵋は法を犯したとして誅殺され、士廞は病死した。
残された士廞の妻へ、米と銭が支給された。(『士徽伝』)

「呂岱伝」には別の経緯が描かれる。
士燮が没すると士徽は安遠将軍・九真太守に任じられ、呂岱は上表し広州・交州の設置と呂岱・戴良の刺史就任の認可を得た。
だが士徽はそれを拒絶し着任を阻止しようとした。
呂岱は3千の兵を率い、昼夜兼行で海上から交趾郡へ迫った。士氏は長く周辺を治めているから慎重にすべきだと進言する者がいたが、呂岱は「こんなに早く急襲されるとは思っていない。時間を掛ければ防備を固められ、7つの郡から異民族の兵が集まる」と却下し、道を急がせた。
はたして士徽は呂岱の出現に恐慌をきたし、兄弟6人を引き連れて降伏したが、揃って処刑された。
残党の甘醴(かんれい)・桓治はなおも抵抗したが、呂岱に打ち破られ南方は平定された。(『呂岱伝』)

「演義」には士燮すら登場しない。



士匡  呂岱に利用された士燮の甥


士匡(しきょう)字は不明
交州蒼梧郡広信県の人(??~??)

士壱(しいつ)の子。士燮(ししょう)の甥。
「士燮伝」に附伝される。

226年、士燮が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、士燮の支配域の北を広州、南を交州に分割し、呂岱(りょたい)を広州刺史、戴良(たいりょう)を交州刺史、陳時(ちんじ)を士燮の後任の交趾太守に赴任させた。

だが士燮の子の士徽(しき)は交趾太守を自称し、配下の異民族兵を動員し、それを阻止しようとした。
配下の桓鄰(かんりん)は不利を悟り叩頭して兵を引くよう懇願したが、士徽は激怒し彼を鞭打って殺した。
桓鄰の兄の桓治(かんち)と子の桓発(かんはつ)は、復讐のため兵を集め、士徽を数ヶ月にわたり攻めたが、城を落とせず和睦した。

様子をうかがっていた呂岱は戴良と合流し、交趾郡に迫った。さらに交友のあった中郎将の士匡を師友従事に任じて調略し、降伏すれば太守の地位を没収するだけで許すと士徽に伝えさせた。
士徽は観念し、兄弟の士祗(しし)・士幹(しかん)・士頌(ししょう)らとともに降伏したが、処刑された。(※孫盛は呂岱を信義にもとると非難した)

士壱・士䵋(しい)・士廞(しきん)や士匡も降伏し、処刑は免じられたが庶民に落とされた。
数年後、士壱・士䵋は法を犯したとして誅殺され、士廞は病死した。
残された士廞の妻へ、米と銭が支給された。(『士匡伝』)



士廞  士燮の人質の子


士廞(しきん)字は不明
交州蒼梧郡広信県の人(??~??)

士燮(ししょう)の子。

父の士燮は交州の交趾太守を務めており、交州刺史の朱符(しゅふ)が異民族の反乱により殺され、州が混乱に陥ると、弟の士壱(しいつ)を合浦太守、士䵋(しい)を九真太守、士武(しぶ)を南海太守に任命するよう上表し、兄弟で周辺の地盤を固めた。
中原の戦乱を逃れて交州に疎開する士人も多く、都から遠く離れた地にあり、士燮一族は並ぶ者のない権勢を手に入れた。

210年、孫権が歩騭(ほしつ)を交州刺史として派遣すると、士燮はその支配下に入った。
220年、士廞を人質として送った。士廞は武昌太守に任じられ、他の兄弟や従兄弟も全て中郎将に任じられた。

226年、士燮が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、抵抗した士燮の子の士徽(しき)は敗北し、士氏の勢力は一掃された。
士廞も処刑は免じられたが庶民に落とされた。
数年後、士廞は病死し、息子は無く、残された妻へ米と銭が支給された。(『士燮伝』)



士祗  士徽の兄


士祗(しし)字は不明
交州蒼梧郡広信県の人(??~226?)

士燮(ししょう)の子。士徽(しき)の兄。
「士燮伝」に附伝される。

226年、士燮が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、士燮の支配域の北を広州、南を交州に分割し、呂岱(りょたい)を広州刺史、戴良(たいりょう)を交州刺史、陳時(ちんじ)を士燮の後任の交趾太守に赴任させた。

だが士燮の子の士徽は交趾太守を自称し、配下の異民族兵を動員し、それを阻止しようとした。
配下の桓鄰(かんりん)は不利を悟り叩頭して兵を引くよう懇願したが、士徽は激怒し彼を鞭打って殺した。
桓鄰の兄の桓治(かんち)と子の桓発(かんはつ)は、復讐のため兵を集め、士徽を数ヶ月にわたり攻めたが、城を落とせず和睦した。

様子をうかがっていた呂岱は戴良と合流し、交趾郡に迫った。さらに交友のあった士燮の甥の士匡(しきょう)を調略し、降伏すれば太守の地位を没収するだけで許すと士徽に伝えさせた。
士徽は観念し、兄弟の士祗・士幹(しかん)・士頌(ししょう)らとともに降伏したが、処刑された。(※孫盛は呂岱を信義にもとると非難した)

士壱(しいつ)・士䵋(しい)・士廞(しきん)や士匡も降伏し、処刑は免じられたが庶民に落とされた。
数年後、士壱・士䵋は法を犯したとして誅殺され、士廞は病死した。
残された士廞の妻へ、米と銭が支給された。(『士祗伝』)

弟の士徽が主導権を握り、「呂岱伝」でも孫権に士徽が後継ぎ扱いされているように見え、士祗は庶兄だったのだろう。



士頌  士徽の弟B


士頌(ししょう)字は不明
交州蒼梧郡広信県の人(??~226?)

士燮(ししょう)の子。士徽(しき)の弟。

226年、士燮が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、士燮の支配域の北を広州、南を交州に分割し、呂岱(りょたい)を広州刺史、戴良(たいりょう)を交州刺史、陳時(ちんじ)を士燮の後任の交趾太守に赴任させた。

だが士燮の子の士徽は交趾太守を自称し、配下の異民族兵を動員し、それを阻止しようとした。
配下の桓鄰(かんりん)は不利を悟り叩頭して兵を引くよう懇願したが、士徽は激怒し彼を鞭打って殺した。
桓鄰の兄の桓治(かんち)と子の桓発(かんはつ)は、復讐のため兵を集め、士徽を数ヶ月にわたり攻めたが、城を落とせず和睦した。

様子をうかがっていた呂岱は戴良と合流し、交趾郡に迫った。さらに交友のあった士燮の甥の士匡(しきょう)を調略し、降伏すれば太守の地位を没収するだけで許すと士徽に伝えさせた。
士徽は観念し、兄弟の士祗(しし)・士幹(しかん)・士頌らとともに降伏したが、処刑された。(※孫盛は呂岱を信義にもとると非難した)

士壱(しいつ)・士䵋(しい)・士廞(しきん)や士匡も降伏し、処刑は免じられたが庶民に落とされた。
数年後、士壱・士䵋は法を犯したとして誅殺され、士廞は病死した。
残された士廞の妻へ、米と銭が支給された。(『士燮伝』)



士燮  交州の怪物


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士武  士燮の早逝した弟


士武(しぶ)字は不明
交州蒼梧郡広信県の人(??~??)

士賜(しし)の子。
士燮(ししょう)の弟。

兄の士燮は交州の交趾太守を務めており、交州刺史の朱符(しゅふ)が異民族の反乱により殺され、州が混乱に陥ると、弟の士壱(しいつ)を合浦太守、士䵋(しい)を九真太守、士武を南海太守に任命するよう上表し、兄弟で周辺の地盤を固めた。
中原の戦乱を逃れて交州に疎開する士人も多く、都から遠く離れた地にあり、士燮一族は並ぶ者のない権勢を手に入れた。

士武は早くに病死した。

226年、士燮が没すると孫権はそれに乗じて勢力を奪おうと考え、抵抗した士燮の子の士徽(しき)は敗北し、士氏の勢力は一掃された。(『士燮伝』)



支富  北伐に呼応する?月支の指導者


支富(しふ)
月支の人(??~??)

月支の指導者。

「諸葛亮集」に曰く。
227年、劉禅は詔勅を下しその中で「呉の孫権と同盟し、さらに涼州の諸王は月支・康居の蛮侯の支富・康植(こうしょく)ら20数名を蜀へ派遣して連絡を取り合っており、諸葛亮の北伐に応じて出撃する」と述べた。(『後主伝』)



司蕃  桓範に脅され開門する


司蕃(しばん)字は不明
出身地不明(??~249?)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
249年、司馬懿が専権を振るう曹爽(そうそう)一派の粛清に乗り出すと、桓範(かんはん)に協力を求めた。
だが桓範は息子に諌められ、曹爽が連れていた曹芳に味方しようとし、都から出ようとした。
門候の司蕃はかつて桓範が登用した役人だったため、詔勅が下ったと偽り開門を命じた。司蕃は詔勅を見せるよう求めたが、登用した恩を盾に怒鳴りつけて開門させた。司馬懿が反乱したからついてくるよう命じたが、徒歩の司蕃はついていけず脱落した。
曹爽は桓範の進言に耳を貸さず司馬懿に降伏し、桓範ははじめ罪に問われなかったが、司蕃が(開門した罪を)自首し桓範の言葉を詳らかに伝えると、司馬懿は「たぶらかし反逆に導いた者は反逆者と同罪だ」と曹爽とともに処刑した。(『曹真伝』)

同罪ならば司蕃も処刑されただろう。

「演義」でもこの逸話は描かれた。



司隸  黄巾の乱に呼応した賊徒たち


司隸(しれい)字は不明
出身地不明(??~??)

賊徒。

「九州春秋」に曰く。
184年の黄巾の乱に呼応し黒山賊、白波賊、司隸ら賊徒が各地で挙兵した。多い者で2~3万、少ない者でも数千の兵を率いていた。
霊帝は討伐できなかったためその中の楊鳳(ようほう)を黒山校尉に任じて人事権を与え取り締まらせたが、勢力は拡大し数え切れないほどになった。(『張燕伝』)

列挙された賊徒はほとんどが異名で、司隸も単に出身地か根拠地かもしれない。



史阿  曹丕の剣の師


史阿(しあ)字は不明
司隸河南尹の人(??~??)

剣術家。

「典論」に曰く。
曹丕は「多くの師匠に剣術を学んだが、東西南北の剣術はそれぞれ異なり、最も優れていたのは都のものだった。桓帝・霊帝の頃に王越(おうえつ)が都で高名で、彼の剣術を会得した史阿に私は師事した」と語った。(『文帝紀』)



史渙  韓浩と並び称される


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史郃


未作成



史璜  張津と同時期に没する


史璜(しこう)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

蒼梧太守を務めていたが、交州刺史の張津(ちょうしん)が暗殺された頃に同じく没した。

劉表(りゅうひょう)は太守と刺史の後任に自分の息の掛かった者を勝手に送り込み、朝廷はそれに対抗して交趾太守の士燮(ししょう)に蒼梧・交趾を含む周囲7郡の支配権を与えた。
お墨付きを得た士燮の交州支配はここから始まる。(『士燮伝』)



史静  史渙の子


史静(しせい)字は不明
豫州沛国の人?(??~??)

魏の臣。
史渙(しかん)の子。

209年、父が没すると後を継いだ。(『史渙伝』)



史路  楽隠の門生


史路(しろ)字は不明
出身地不明(??~??)

楽隠(がくいん)の門生。

189年、師の楽隠は政争に巻き込まれ死亡した。
史路は門生の牽招(けんしょう)とともに白刃を冒して遺体を奪回し、帰郷しようとしたが、その途上で山賊に襲われた。史路らが一斉に逃げる中、牽招は一人残り、見逃してくれるよう泣いて頼んだ。山賊たちはその意気に打たれて見逃してやり、以来、牽招の名は広く知られるようになり、やがて魏の重臣となった。
史路の消息は不明である。(『牽招伝』)



施畏  苛酷で著名な刺史・太守達A


施畏(しい)字は不明
揚州丹陽郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
施畏、倪顗(げいぎ)、胡業(こぎょう)らは刺史・太守を務めたがいずれも苛酷と評された。
中でも劉類(りゅうるい)が最も酷かった。(『梁習伝』)



施寛


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施朔  孫綝誅殺の立役者


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施正


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施但  孫謙を擁立し反乱


施但(したん)字は不明
揚州呉郡永安県の人(??~266?)

賊徒。

266年10月、永安の山賊の施但が反乱し、孫皓の異母弟の孫謙(そんけん)を強引に擁立した。孫和(そんか)の陵墓から楽器や曲蓋(貴族の傘)を奪い、建業まで迫った時には1万余人にも膨れ上がった。
施但は降伏勧告をしたが、建業を守る諸葛靚(しょかつせい)はその使者を斬り捨てると丁固(ていこ)とともに出撃した。施但の兵は(※孫皓の暴政に立ち上がった民衆が中心だったためか?)多くが裸身で鎧も着けていなかったので、たやすく打ち破られた。(『孫皓伝』・『孫和伝』)
丁固は捕らえた孫謙の処遇に困り、孫皓に報告すると、毒殺を命じられた。(※「孫皓伝」には自害したと記される)(『孫和伝』)

かつて望気者(気を見ることのできる能力者)が「荊州には王者の気があり、揚州を圧倒しているので建業では事が順調に進まない」と進言したため、孫皓は武昌へと遷都していた。
さらに荊州との州境にある貴族や名家の墳墓を破壊し、王者の気を鎮めようとした。
施但の反乱鎮圧を聞くと孫皓は喜び、天子が荊州の兵を派遣し、揚州の賊を討伐し、王者の気を鎮めたのだと喧伝し、施但の妻子を処刑した。
そして12月、都を建業に戻した。(『孫皓伝』)

ちなみに施但は敗走したとだけ記され、生死不明であり、逃げ延びた可能性もある。



施明


未作成



是儀  人生ノーミスクリア


是儀(しぎ)字は子羽(しう)
青州北海郡営陵の人(??~??)

呉の臣。

もともと姓は氏(し)だったが、仕えていた孔融(こうゆう)に「氏は民の上が欠けた字だ」とからかわれ、是に改めた。
その後、戦乱を避けて劉繇(りゅうよう)を頼り、劉繇が孫策に敗れると会稽に移り住んだ。(『是儀伝』)

200年、孫権に仕え、是儀は騎都尉に任じられ、胡綜(こそう)や徐詳(じょしょう)とともに政治の中枢を担った。(『是儀伝』・『胡綜伝』)

219年、呂蒙が関羽の背後をつく計画を立てた時、孫権は是儀に意見を求めた。全面的に賛成し、自らも討伐軍に加わり、首尾よく関羽を討ち取ると忠義校尉に任じられた。是儀は辞退したが、孫権は故事を引き、受けさせた。(『是儀伝』)

220年、孫権が呉王に任ぜられると胡綜・徐詳とともに列侯された。(『胡綜伝』)
是儀は裨将軍、侍中に加え兵も預けられようとしたが、軍事の才は無いと固辞して受けなかった。

黄武年間(222~229)、劉邵(りゅうしょう)のもとで魏の曹休(そうきゅう)をおびき寄せる計略を立てた。
228年、ついに周魴(しゅうほう)の偽装投降が成功し、曹休軍を大破した。(『是儀伝』・『周魴伝』)
この功により是儀は偏将軍に昇進し、朝廷で尚書の事務全般と、訴訟の一切を任され、さらに皇族・貴族の子弟の教育係も務めた。

229年、孫権は帝位につくと建業に遷都し、元の都の武昌を太子の孫登(そんとう)と是儀に任せた。
孫登は補佐に付けられた是儀を尊重し、何か事を起こす時には必ず意見を求めた。是儀は都郷侯に進んだ。(『是儀伝』)

232年、次男の孫慮(そんりょ)が没すると、孫権は悲しみの余り政務が執れなくなり、孫登は是儀とともに建業へ移り、政務を代行した。是儀は侍中・中執法に戻り官庁間の折衝や司法を担当した。(『是儀伝』・『孫登伝』)

呂壱(りょいつ)が孫権の寵愛をかさに着て専権を振るい、諸臣に濡れ衣を着せては投獄していた折、刁嘉(ちょうか)も誹謗中傷の罪をかぶせられた。
孫権は激怒し刁嘉を獄に下し、関係者に事情聴取した。誰もが呂壱の目を恐れて刁嘉が誹謗していたと偽ったが、是儀だけは聞いたことがないと正直に答えた。人々が是儀の身を案じると「いま私の首には刀が当たっています。なぜ刁嘉のために嘘をつき、自ら一族皆殺しの危機を招く必要がありましょうか。諸君が本当に刁嘉が誹謗しているのを見たなら、その経緯を答えることができるでしょう」と言い、意見を変えなかった。
孫権は是儀の態度を見て考え直し、刁嘉を釈放した。

234年、諸葛亮が没すると使者として蜀に赴き、同盟をさらに固めさせた。帰国後、是儀は尚書僕射を授けられた。

241年、孫登が33歳の若さで没すると、代わって三男の孫和(そんか)が皇太子に立てられたが、一方で弟の孫覇(そんは)も孫権に目を掛けられ、孫和と同等の処遇を与えられた。

是儀は孫覇の傅役を命じられたが、後継者争いが起こることを危ぶみ、孫覇は軍事の才があるのだから外に出し、長幼の区別を付けるべきだと訴えたが、孫権は聞き入れなかった。

是儀は事あるごとに人を引き立て、欠点をあげつらうことはなかった。意見を求められても中立を保つことに孫権が不満を持つと「主君が上におられ、臣はその下で職務に励むだけです。職務を十分に果たせないことだけを恐れており、愚かな意見を申し上げて主君の心を乱すつもりはありません」と答えた。

是儀は職務に当たること数十年、ただの一度の過ちも犯さず、81歳で没した。
呂壱でさえ、是儀には落ち度を見つけられず手出しできなかった。
孫権は「もし人々がみな是儀のようであれば刑法など無用なものなのだが」と賛嘆した。
是儀は蓄財に興味を持たず、金を得れば全て貧しい者に分け与え、粗末な衣服と食事で過ごした。
是儀の家の隣に大きな屋敷が建った時、孫権が誰の屋敷かと尋ねると、側近はその位置から「是儀の家でしょう」と答えた。
だが是儀の清貧ぶりを知っていた孫権は即座に間違いだと断じた。

またある時に孫権は是儀の家を訪ね、普段の食事を出させた。
あまりに粗末な食事を前に孫権は嘆息し、その場で俸禄の増額を命じ蓄財を勧めたが、是儀は特別の恩恵を与えられては心苦しいと重ねて辞退したという。

陳寿は「是儀・徐詳・胡綜は国家経営に大きな業績を残し、家に例えるなら垂木である。是儀は清潔で慎み深く、正しい道を守って質素だった」と評した。

なお「演義」には三人とも登場しない。(『是儀伝』)



師宜官  誰にも真似はさせない


師宜官(しぎかん)字は不明
出身地不明(??~??)

書家。
姓が師、名が宜官。

「四体書勢」に曰く。
霊帝が書道を愛好したため、能書家が多く生まれた。
中でも師宜官が第一人者で、才能を大いに自負しており、技法を真似られまいと、簡札(紙代わりの木札)をすぐに削ったり燃やしたりした。
そこで梁鵠(りょうこく)はダミーの簡札を用意し、師宜官を酔わせた隙にすり替えて、その技法を学んだ。
後に梁鵠は曹操に仕え、師宜官よりも優れていると評価された。(『武帝紀』)

「四体書勢」の著者の衛恒(えいこう)も能書家で、「師宜官は大字を書き、邯鄲淳(かんたんじゅん)は小字を書いた」と評した。
(※「晋書 衛瓘伝」では「梁鵠は大字を書き」と記される。裴松之の引用ミスだろうか)(『衛覬伝』)

師宜官は1丈(約240cm)の大きさの字を書くことも、1寸(約2.4cm)四方に千文字を書くこともできた。
金を持たずに酒を飲み、代金代わりとして壁に字を書き、後で代金を支払うと壁の字を消した。
後に袁術に仕えた。晋代に冀州鉅鹿郡に残る石碑は袁術が建てたもので、碑文は甚だ巧みであり、師宜官が書いたものとされる。(『晋書 衛瓘伝』)



師簒  巻き添え集団リンチ


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師亮  蘇則を冷遇するが恨まれず


師亮(しりょう)字は不明
涼州安定郡の人(??~??)

涼州安定郡の富豪。

「魏略」に曰く。
蘇則(そそく)の家は代々の名家だったが、興平年間(194~195)に董卓残党らによって三輔が混乱し飢饉になり、涼州北地郡へ避難した。安定郡へ移り富豪の師亮(しりょう)を頼ったが冷遇されると「天下はいずれ安定し、混乱は長く続くまい。必ず帰ってきてここの太守となり、俗な連中をくじいてやる」と嘆息した。
吉茂(きつぼう)らとともに南の太白山に隠棲し、書物に親しんだ。
安定太守に赴任すると師亮ら冷遇した者は逃げ出そうとしたが、蘇則は人をやって安心させてやり、謝礼で旧恩に報いた。(『蘇則伝』)



時苗  飲んだくれ蔣済死すべし


時苗(じびょう)字は徳冑(とくちゅう)
冀州鉅鹿郡の人(??~??)

魏の臣。

以下「魏略」に曰く。
若い頃から清廉で悪を憎んだ。
建安年間(196~220)に丞相府の官吏となった。
寿春の県令に任じられ、威信ある統治をした。揚州の行政府は寿春にあり、赴任した時苗は治中の蔣済(しょうせい)へ挨拶に訪れた。
ところが酒好きの蔣済は泥酔しており、門前払いした。
腹を立てた時苗は家に帰ると、木の人形を作り「酒徒蔣済(飲んだくれ蔣済)」と記し、朝晩それに矢を射るのを日課にした。
人々は流石に不謹慎だと思ったが、時苗の清廉さも実績も人並み外れていたため口出しできなかった。

寿春県令を1年務め、赴任した際に車を引かせた牝牛が仔牛を産んだ。任地を去るにあたり「仔牛はここで産まれたのだからこの地の物だ」と置いていこうとした。役人は「牛は父がわからないから母に帰属すべきです」と連れていくよう勧めたが、時苗は母牛だけを連れ帰った。
人々は清廉にしても極端過ぎると感じたが、この件で時苗の名は天下に轟いた。

都に戻り太官令となり、九品官人法が制定されると鉅鹿郡の人物評価を担当した。寛大ではなく、欠点を記す時にははるか以前のことでも根に持って許さなかった。
その頃、太尉にまで上った蔣済は、時苗の恨みと不敬な行為を憎まなかった。時苗も蔣済が高位に上ったからといって意志を曲げなかった。(まさか日課を続けていたということか?)

太官令となり数年経つと、厳しく取り締まらなくても風紀が自然と改まった。
典農中郎将に昇進し、正始年間(240~249)に病没した。

「魏略」で時苗は常林(じょうりん)、沐並(もくへい)、吉茂(きつぼう)とともに「清介伝」に収録されている。
清介は「潔癖すぎて度量が狭い」の意である。(『蔣済伝』)



脂習  孔融を悼んだ友人


脂習(ししゅう)字は元升(げんしょう)
司隸京兆郡の人(??~??)

後漢・魏の臣。

中平年間(184~189)、郡に仕官した。
三公の役所から召され、上席に推挙され太医令となった。
献帝の長安・許昌遷都のどちらにも随行した。

孔融(こうゆう)は曹操が司空に上り後漢の実権を握っても、同等の官位だった頃と同じ態度で、高慢な文書を送り続けていた。
友人の脂習はいつもそれを咎めたが孔融は聞き入れず、208年についに処刑された。
累が及ぶのを恐れ、誰も弔おうとしなかったが、脂習は孔融の遺体をさすりながら「あなたは私を捨てて死んだ。私はこれから誰と語り合えばよいのか」と嘆いた。
曹操はいったん脂習を逮捕したものの、誠実さを認めて釈放した。
脂習は都の東の土橋のふもとに移り住んだ。

後に曹操に目通りし謝罪すると、曹操は敬意をもって字で呼び「元升、君は元から気概があったからな」と言った。
そして脂習の家を訪ねたが転居していたため、穀物100石を贈った。

黄初年間(220~226)に曹丕は起用したいと思ったが、高齢であると群臣は反対した。だが曹丕は旧友(孔融)への誠実さを改めて讃え、中散大夫に任じた。
後に官を辞して80余歳で没した。

「魏略」では龐淯(ほういく)、文聘(ぶんぺい)、王脩(おうしゅう)、成公英(せいこうえい)、郭憲(かくけん)、単固(ぜんこ)らとともに「純固伝」に列伝された。(『王脩伝』)



斯従


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斯敦


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摯虞


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士孫瑞  王允とともに董卓暗殺計画を練る


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士孫萌  士孫瑞の子


士孫萌(しそんほう)字は文始(ぶんし)
司隷扶風郡の人(??~??)

後漢の臣。
士孫瑞(しそんずい)の子。

父は献帝の洛陽帰還に貢献し戦死した。

「三輔決録注」に曰く。
196年、許昌へ遷都した後、献帝は士孫瑞の功績を採り上げ、子の士孫萌を澹津亭侯に封じた。
士孫萌は父譲りの才能と学問があり、建安七子の王粲(おうさん)と親しく、領国へ赴く際に詩を贈り合い「王粲集」に収録された。(『董卓伝』)



日律推演


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司馬威  司馬倫の帝位簒奪に協力し誅殺される


司馬威(しばい)字は景曜(けいよう)
司隸河内郡温県の人(??~??)

晋の臣。
司馬洪(しばこう)の子。司馬望(しばぼう)の孫。

276年、父が没すると後を継ぎ河間王となった。
277年、章武王に移封された。
祖父の家を継いだ従兄弟の司馬奇(しばき)が、祖父譲りの強欲で弾劾されたため、288年に代わって家督を継いだ。

凶暴な性格で歯止めが効かず、実権を握る司馬倫(しばりん)におもねった。
299年、散騎常侍に上り、司馬倫・駱休(らくきゅう)とともに司馬衷に迫り印綬を奪って退位させ中書令となった。
301年、司馬倫が失脚し復位した司馬衷は、司馬威を幼名の阿皮(あひ)と呼び「よくも私の指をひねり印綬を奪ったな。殺すしかない」と誅殺した。(『晋書 司馬望伝』)



司馬瑋


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司馬遺  司馬朗の子


司馬遺(しばい)字は不明
司隸河内郡温県の人(??~??)

魏の臣。
司馬朗(しばろう)の子。

217年、父が疫病により没した。
226年、曹叡は帝位につくと司馬遺を昌武亭侯に封じ領邑100戸を与えた。
さらに司馬朗の弟の司馬孚(しばふ)は、子の司馬望(しばぼう)に司馬朗の後を継がせた。
後に司馬遺が没すると司馬望の次男の司馬洪(しばこう)が後を継いだ。(『司馬朗伝』・『晋書 司馬望伝』)



司馬懿  仲達の野望


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司馬永  司馬幹の次男


司馬永(しばえい)字は不明
司隸河内郡温県の人(??~??)

晋の臣。
司馬幹(しばかん)の子。

嫡男の司馬広(しばこう)は早逝し、次男の司馬永は290年に安徳県公に封じられ散騎常侍に上り、ともに善士だった。
西晋末期の争乱により一門は滅亡した。(『晋書 司馬幹伝』)



司馬弈  司馬望の長男


司馬弈(しばえき)字は不明
司隸河内郡温県の人(??~??)

魏・晋の臣。
司馬望(しばぼう)の長男。

黄門郎に上ったが父より先に没した。
三男の司馬整(しばせい)も早くに没し、司馬弈の子の司馬奇(しばき)が司馬望の後を継いだが、祖父譲りの強欲により弾劾され爵位を下げられ、次男の司馬洪(しばこう)の子の司馬威(しばい)が改めて司馬望の後を継いだが司馬威も誅殺されてしまい、司馬奇が再び後を継いだ。
四男の司馬楙(しばぼう)も王位に上った。(『晋書 司馬望伝』)



司馬炎  三国統一


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司馬瓌  司馬孚の六男の太原王


司馬瓌(しばかい)字は子泉(しせん)
出身地不明(??~274)

魏・晋の臣。
司馬孚(しばふ)の六男。

254年、曹芳の廃位を求める上奏に散騎常侍として連名した。(※晋書によると司馬瓌は265年に秘書監(600石)に過ぎず当時2千石の散騎常侍だったとは思えない。別人か)(『斉王紀』)

はじめ魏の長楽亭侯、後に貴寿郷侯に封じられた。振威将軍・秘書監を歴任し固始子に封じられた。
265年、司馬炎が帝位につくと太原王に封じられ、領邑5496戸となり、翌266年に封国へ行った。
268年、都に戻り東中郎将となった。

274年に没した。
司馬炎は「忠孝で篤実な心を持ち、智恵と器量に優れていた。文武の官職を歴任し、政務の実績があった。封国で異民族を従わせ、都を鎮守した見識は記録に値する。不幸にして早くに薨じとても悼ましい」と詔勅を下し、前将軍を追贈した。
子の司馬顒(しばぎょう)が後を継ぎ、河間王に移封された。(『晋書 司馬孚伝』)



司馬幹  狂気か正気か司馬懿の七男


司馬幹(しばかん)字は子良(しりょう)
司隸河内郡温県の人(232~311)

魏・晋の臣。
司馬懿と張春華(ちょうしゅんか)の子。司馬懿の七男。
名は司馬榦とも書く。

若くして魏の安陽亭侯に封じられ、後に撫軍中郎将に任命され、平陽郷侯に進んだ。(『晋書 司馬幹伝』)

「世語」に曰く。
満長武(まんちょうぶ)は司馬昭に仕え、260年、曹髦が殺された時には門番をしていた。
そこへ司馬昭の弟で、満長武の妹婿でもある安陽亭侯の司馬幹が現れたが、司馬昭の家に近いため別の門から入るよう促した。そのせいで司馬幹の到着が遅れたのを司馬昭は怒った。
また257年、諸葛誕の反乱の際に満長武の父の満偉(まんい)は病のため従軍せず、その子(満長武?)も父が心配だと反乱が片付くやさっさと離脱したことを根に持っており、とうとう満長武を問責して拷問死させ、満偉も罷免し平民に落とした。人々は同情を寄せた。(『満寵伝』)

「晋書」によく似た異説がある。
門を守っていた孫佑(そんゆう)は司馬幹に別の門から入るよう促した。そのせいで司馬幹の到着が遅れたのを司馬昭は怒り孫佑を一族ごと殺そうとした。だが荀勗(じゅんきょく)は「孫佑の責任は追及すべきですが、罪の軽重を気分で決めてはいけません。曹髦を殺した成倅(せいさい)の罪が一族に及ばなかったのに、孫佑を一族ごと殺せば、人々は疑問に思うでしょう」と反対した。
孫佑は罷免のうえ庶民に落とされるだけで許された。(『晋書 荀勗伝』)

264年、五等爵が創設されると定陶伯に改封された。
265年、司馬炎が帝位につくと平原王に封じられ領邑1万1300戸となり馬と服を与えられた。
咸寧年間(275~280)のはじめ、諸王は都から出され封国に向かったが、司馬幹は重病により情緒不安定で、極めて純粋かつ情欲が無かったため特例で都に留め置かれた。
太康年間(280~289)の末に光禄大夫となり、侍中を加えられ、特別に金章紫綬を受け三公に次ぐ待遇となった。
290年、司馬衷が帝位につくと侍中のまま左光禄大夫に上り剣履上殿と入朝不趨を許された。

大国の王でありながら政務は執らなかったが、人事は必ず才能で人を選んだ。高い爵位と俸禄を得ながらまるでそれが無いように振る舞い、褒美の品は全て山積みにしたまま腐らせていた。
長雨が続くと牛車を外に出して幌の無い車を中に入れ、(逆ではないかと)理由を問われると「覆いの無いものは中に入れるべきだ」と答えた。
朝臣が訪問しても必ず車馬を門外に留めさせ、そのまま一晩中会わないこともあった。しかし司馬衷に拝謁すると、他者への対応は穏和かつ恭順で全く落ち度がなかった。
相次いで愛妾が亡くなると、棺に釘を打たず部屋に寝かせておいて、様子を見に行ったり屍姦し、腐乱するとようやく葬った。

司馬倫(しばりん)が実権を握ると衛将軍に任じられ、301年に(司馬倫を殺し)司馬衷が復位すると侍中に戻り太保を加えられた。
代わって実権を得た司馬冏(しばけい)を誰もが祝福したが、司馬幹は百銭だけを渡し「司馬倫を打倒した功績を百銭だけ祝うが、事態は解決していないから慎むべきだ」と諌めた。
またある時、司馬冏を訪ねると寝台に寝そべり、司馬冏を立たせたまま「あなたは白女の子(※司馬倫)を真似してはいけない」と戒めた。
302年、司馬冏も専横により誅殺されると「宗室は日々衰退し、この子が最も良かったのに殺されてしまった。晋の行く末は危うい」と慟哭した。
次に実権を握った司馬越(しばえつ)は面会を求めたが、司馬幹は門を閉ざした。司馬越がしばらく待っていると人をやって挨拶だけさせ、自身は門の隙間から様子を見ていた。人々は意図がわからず重病のせいだとも、隠居したのだとも噂した。

311年、80歳で没した。
間もなく劉聡(りゅうそう)が洛陽を制圧した混乱から、諡号は贈られなかった。
嫡男の司馬広(しばこう)は早逝し、次男の司馬永(しばえい)は散騎常侍に上り、ともに善士だった。
西晋末期の争乱により一門は滅亡した。(『晋書 司馬幹伝』)



司馬岐  司馬芝の子も名裁き


司馬岐(しばき)字は不明
司隷河内郡温県の人(??~??)

魏の臣。
司馬芝(しばし)の子で、司馬懿の族子にあたる。
「司馬芝伝」に附伝される。

河南尹として比類なき名声を誇った父が没すると爵位を継ぎ、河南丞から廷尉正、陳留国相に上った。

梁郡では関係者が多すぎて数年に渡り係争中の事件があり、詔勅により司馬岐が裁判を担当した。
役人は拷問を用いようとしたが、司馬岐はその必要はないと言い、囚人を引き出して聴取すると、疲れ果てた彼らは正直に証言し、一日で決着がついた。この功により廷尉となった。

この頃、曹爽(そうそう)が実権を握り、取り巻きの鄧颺(とうよう)らがおこぼれにあずかっていた。
ある時、圭泰(けいたい)が曹爽に逆らい拘留された。訊問した鄧颺が処刑しようとすると、司馬岐は彼を「国と王を支えるべき人物が、私怨で無実の人を処罰すれば、民は不安に陥る」と非難した。
鄧颺は恥と怒りから退室し、身の危険を悟った司馬岐は病気を理由に辞職し、1年経たないうちに35歳の若さで没してしまった。

子の司馬肇(しばちょう)が後を継ぎ、太康年間(280~289)に冀州刺史、尚書にまで上っている。(『司馬芝伝』)

陳本(ちんほん)は法律を読まなかったが廷尉として評判を取り、司馬岐らよりも優れていた。(『陳矯伝』)



司馬奇  司馬望譲りの強欲な孫


司馬奇(しばき)字は不明
司隸河内郡温県の人(??~??)

晋の臣。
司馬弈(しばえき)の子。司馬望(しばぼう)の孫。

司馬弈は祖父より先に没し、後継ぎの叔父の司馬整(しばせい)も早逝したため、祖父の家を継いだ。
だが祖父譲りの強欲で限度を知らず、交州や広州まで使者を送って交易し私腹を肥やしたため弾劾され、288年に三縦亭侯へ爵位を下げられ、家督も奪われた。
しかし家督を継いだ従兄弟の司馬威(しばい)が301年に誅殺されたため、司馬奇が棘陽王に封じられ再び後を継いだ。(『晋書 司馬望伝』)



司馬機  司馬昭の七男


司馬機(しばき)字は太玄(たいげん)
司隸河内郡温県の人(??~??)

司馬昭の七男。

早逝した叔父の司馬京(しばけい)の後を継いだ。
265年、燕王に封じられ6663戸を与えられた。

275年頃に領国から都に戻って歩兵校尉になり、漁陽郡を領国に加えられ、侍中に上った。
青州都督・鎮東将軍・仮節に任命され、2万戸に加増された。

没すると甥の司馬冏(しばけい)の子が後を継いだが、八王の乱により司馬冏が処刑されると国も廃された。(『晋書 司馬京伝』)



司馬徽  万事之善哉善哉


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司馬顒


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司馬倶  謎の司馬一族


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司馬京  司馬懿の早逝した五男


司馬京(しばけい)字は子佐(しさ)
司隸河内郡温県の人(??~??)

司馬懿の五男で、伏夫人(ふくふじん)の子(三男)。

魏の末期に清恵亭侯に封じられた。
24歳で没し、射声校尉を追贈された。

甥(司馬昭の子)の司馬機(しばき)が後を継いだ。(『晋書 司馬京伝』)



司馬広  司馬幹の嫡男


司馬広(しばこう)字は不明
司隸河内郡温県の人(??~??)

晋の臣。
司馬幹(しばかん)の子。

嫡男の司馬広は早逝し、次男の司馬永(しばえい)は散騎常侍に上り、ともに善士だった。
西晋末期の争乱により一門は滅亡した。(『晋書 司馬幹伝』)



司馬洪  司馬望の次男


司馬洪(しばこう)字は孔業(こうぎょう)
司隸河内郡温県の人(??~276)

魏・晋の臣。
司馬望(しばぼう)の次男。

226年、曹叡は帝位につくと司馬朗(しばろう)の子の司馬遺(しばい)を昌武亭侯に封じ領邑100戸を与えた。
さらに司馬朗の弟の司馬孚(しばふ)は、子の司馬望に司馬朗の後を継がせた。
後に司馬遺が没すると司馬望の次男の司馬洪が後を継いだ。(『司馬朗伝』・『晋書 司馬望伝』)

魏に仕え典農中郎将・原武太守を歴任し、襄賁男に封じられた。
265年、司馬炎が帝位につくと河間王に封じられた。
276年に没し平と諡された。
はじめ上の子の司馬威(しばい)が後を継いだが、司馬望の家を継いだため下の子の司馬混(しばこん)が代わって後継ぎとなった。(『晋書 司馬望伝』)



司馬混  司馬洪の後継ぎ


司馬混(しばこん)字は不明
司隸河内郡温県の人(??~276)

晋の臣。
司馬洪(しばこう)の子。司馬望(しばぼう)の孫。

276年、父が没するとはじめ兄の司馬威(しばい)が後を継いだが、司馬望の家を継いだため弟の司馬混が代わって章武王となった。
官位は散騎常侍まで上った。

没後の311年、洛陽が陥落すると(※永嘉の乱)司馬混の子はみな胡族に捕らわれたが、末子の司馬滔(しばとう)だけが解放され、断絶していた章武王を継いだ。(『晋書 司馬望伝』)



司馬子舒


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司馬氏


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司馬氏


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司馬氏


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司馬芝  晋代まで語り継がれる


司馬芝(しばし)字は子華(しか)
司隷河内郡温県の人(??~??)

魏の臣。
司馬懿の族兄。

一族の中では無名だったが楊俊(ようしゅん)は「司馬朗(しばろう)が先に名声を上げたが、実質的な内容では司馬芝がずっと優れている」と評価した。(『楊俊伝』)

戦乱を避けて母を連れ荊州に疎開した。その途上で賊に襲われ同行者は逃げ出したが、司馬芝が土下座し慈悲を乞うと、賊は孝行息子であると感心して見逃した。(『司馬芝伝』)

裴潜(はいせん)は荊州牧の劉表(りゅうひょう)に賓客として待遇されていたが、彼は親しい王粲(おうさん)・司馬芝に「劉表は覇者となる人物ではないが、周の文王を気取るつもりだ。長くはあるまい」と言い、長沙郡へ移った。(『裴潜伝』)

司馬芝は農耕をして暮らし、曹操が荊州を制圧すると菅の県長として登用された。
当地では郡主簿の劉節(りゅうせつ)が家柄を盾に法を破り、強盗すら働いていた。
司馬芝は彼の配下の王同(おうどう)を徴兵しようとしたが、劉節を恐れて県の役人は反対した。
劉節は王同をかくまい、逆に司馬芝を徴兵失敗のかどで訴えた。県の役人は自分が王同の代わりに徴兵されようと言ったが、司馬芝は郡太守の郝光(かくこう)に事情を訴えると、かねてから司馬芝を信頼していた郝光は、即座に劉節を徴発した。
「司馬芝は郡主簿を兵卒にした」と州にまでその名は轟いた。

広平県令に転じると、曹操の旧友で列侯もされた劉勲(りゅうくん)は増長し、配下が法を犯しても大目に見るよう要求したが、司馬芝はそれを無視して処罰した。後に劉勲は処刑され、彼の悪事に加担した者も連座されたが、相手にしなかった司馬芝は称賛された。

大理正に上った。ある時、公儀の絹が盗まれ便所で発見された。女工が疑われ投獄されたが、司馬芝は「盗品が先に、容疑者が後から見つかりました。拷問で冤罪を起こす恐れがあります」と釈放を求め、曹操も許可した。

甘陵・沛・陽平の太守を歴任しいずれも治績を上げ、黄初年間(220~226)に河南尹となった。
部下に教訓を与え「君主は教令を設けても官吏に違反させないことはできない。官吏は違反できるが罪は必ず知られる。教令に違反されるのは主君の落ち度であり、違反した官吏は災難に陥る。これが政治の上手く行かない理由だ」と述べた。

妻の伯父である董昭(とうしょう)を通じて便宜を図ってくれるよう頼む者がいたが、司馬芝の性格をよく知る彼は、恐れをなして取り次がなかった。

部下同士でかんざし盗難の告発があり、容疑者は別のかんざしだと反論した。司馬芝は「かんざしの区別など付かないし、たかがかんざし一つで軽々しく同輩を傷つけるな。もうやめて追求するな」とさとした。

226年、曹叡が帝位につくと関内侯に封じられた。
曹洪(そうこう)の乳母の当(とう)が罪を犯した時、卞太后(べんたいこう)は宦官の呉達(ごたつ)を派遣し釈放させようとしたが、司馬芝は無視してさっさと処刑を命じた。
事後に報告し独断を詫びたが、曹叡は「処理は正しく何も謝罪することは無い。今後も宦官が何か言ってきても取り合う必要はない」と言った。

河南尹を11年務めたが、たまたま諸王が禁令を破って住民と関わったため、監督不行き届きの罪で免職されてしまった。

その後、復帰すると官位は大司農まで上り、農業政策の重要さを説き、曹叡も従った。

上役から質問される時には、前もって属官に会い意図を確かめたため、返答は常に考え抜かれたものだった。
誠実な人柄だが品行を誇らず、議論に際して面と向かって相手をやり込めることはあっても、職務を離れれば非難しなかった。
在官のまま没し、家に余財は無かった。
河南尹として、彼に及ぶ者は40年以上経った今もいないと、陳寿は記している。

後を継いだ子の司馬岐(しばき)も、父譲りの名裁きを見せたが若くして病没した。(『司馬芝伝』)

「傅子」に曰く、河南は天下の中心であり、利益と悪事の集まる土地である。歴代の河南尹で、司馬芝の統治は漁網の大綱を引っ張るように非常に大まかだった。次の河南尹の劉静(りゅうせい)は小さな網の目で非常に細かく、李勝(りしょう)は規則を壊して一時的な名声を得た。そして傅嘏(ふか)は司馬芝の大綱を立て直し、劉静の網の目を裁ち、李勝の壊したものを繕った。(『傅嘏伝』)

陳寿は「忠誠にして不正に陥らず、硬い物を吐き出したり、柔らかい物を呑み込まない(強者を恐れ弱者を侮らない)」と評した。

「演義」には登場しない。



司馬師  司馬家の麒麟児・兄


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司馬順  禅譲なんて認めない


司馬順(しばじゅん)字は子思(しし)
司隸河内郡温県の人(??~??)

魏の臣。
司馬懿の弟の司馬通(しばつう)の次男。

習陽亭侯に封じられた。(『晋書 宗室伝』)
「杜畿伝」には龍陽亭侯に封じられたとあるが、誤記か別名だろうか。(『杜畿伝』)

265年、晋の禅譲に際し「唐虞(堯・舜のこと。堯は平和裏に舜へ帝位を譲り、理想の君主とされる)とはかけ離れているのに何が禅譲だ」と嘆き悲しんだため配流された。
その後も没するまで意志を曲げなかった。(『晋書 宗室伝』)



司馬儁


未作成



司馬駿  司馬懿の麒麟児の六男


司馬駿(しばしゅん)字は子臧(しぞう)
司隸河内郡温県の人(232~286)

司馬懿の六男で、伏夫人(ふくふじん)の子(四男)。

麒麟児で5~6歳で上奏し、経書を暗唱した。清潔かつ堅実な性格で、宗族の中で最も期待された。
景初年間(237~239)に平陽亭侯に封じられ、239年に曹芳が即位すると同い年(8歳)の司馬駿は散騎常侍侍講となった。
以降も順調に昇進を重ね、平南将軍・安南将軍と進み、264年には東牟侯・安東大将軍となった。
265年、晋に禅譲されると汝陰王・都督豫州諸軍事となった。(『晋書 司馬駿伝』)

268年、呉の丁奉は石苞(せきほう)が内通しているという偽報を流した。司馬炎はそれを信じ、密かに石苞の討伐を命じた。
その頃、石苞に招聘された孫鑠(そんしゃく)は許昌を通り、守将の司馬駿に挨拶した。司馬駿は同郷の彼を気に入り、巻き込まれないよう討伐の件を教えてやった。孫鑠の口から石苞に伝わり、石苞はただちに武装解除して謹慎し、二心がないことを訴え、司馬炎もようやく誤解に気づいた。
司馬駿は石苞に代わり都督揚州諸軍事に移り、丁奉を撃退した。(『晋書 石苞伝』)

その後、鎮西大将軍・使持節・都督雍涼等州諸軍事に移った。
司馬駿は任地に威信と恩徳を施し、自ら労役に携わった。自身から兵卒まで私有地を十畝に限定し、私腹を肥やすことの無いよう詳細を上奏した。
司馬炎は詔勅を下し、司馬駿を見習い農事に励むよう各地に命じた。

270年、鮮卑の禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)は反乱し、秦州・涼州の刺史を相次いで討ち取った。
司馬駿はその討伐を命じられ、3千あまりの首級を挙げ征西大将軍に上り、開府を許された。
さらに文鴦(ぶんおう)らを率いて兵を進め、禿髪樹機能を降伏させた。扶風王に移り、280年には驃騎将軍に上った。

非常に母思いで、遠出する時や病気の時には身を案じて涙し、職務を部下に任せて母のもとへたびたび駆けつけた。
一族にも情は深く、司馬炎が弟の司馬攸(しばゆう)を都から放逐しようとすると、それに反対した。
だが司馬炎は聞く耳を持たず、司馬駿は憂慮から病を発し286年に没した。享年55。

大司馬・侍中を追贈され、かつて統治した西方では死を悼んで民衆は列をなし、墓碑を建てた。村々の長老たちは碑のそばを通りかかるたびに拝礼したという。
十人の子がいたが、そのほとんどが永嘉の乱で消息を絶った。(『晋書 司馬駿伝』)



司馬昭  司馬家の麒麟児・弟


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司馬崇  司馬邕の早逝した上の子


司馬崇(しばすう)字は不明
司隸河内郡温県の人(??~273?)

晋の臣。
司馬邕(しばよう)の子。司馬孚(しばふ)の孫。

父の司馬邕は祖父の司馬孚より先に没した。
子の司馬崇が世子となるも早逝し、273年に弟の司馬隆(しばりゅう)が王位を継いだがそれも4年後に没してしまい、国は断絶した。(『晋書 司馬邕伝』)



司馬整  司馬望の三男


司馬整(しばせい)字は不明
司隸河内郡温県の人(??~??)

魏・晋の臣。
司馬望(しばぼう)の三男。

長兄の司馬弈(しばえき)が早くに没し、次兄の司馬洪は大伯父の司馬朗(しばろう)の家を継いでいたため、後継ぎとなった。
南中郎将を歴任し、清泉侯に封じられたが父より先に没した。冠軍将軍を追贈され、司馬炎により随県王に封じられ穆と諡された。
子の司馬邁(しばまい)が後を継ぎ、司馬望の家は司馬弈の子の司馬奇(しばき)が継いだ。(『晋書 司馬望伝』)



司馬伷  司馬懿の謙虚な四男


司馬伷(しばちゅう)字は子将(ししょう)
司隸河内郡温県の人(227~283)

司馬懿の四男で、伏夫人(ふくふじん)の子(次男)。

若い頃から名声高く、寧朔将軍として鄴を守り、民衆を心服させた。
散騎常侍を経て東武郷侯に封じられ、右将軍・監兗州諸軍事・兗州刺史となった。
264年、南皮伯・征虜将軍・仮節に進み、翌年に晋へ禅譲されると東莞郡王に封じられ、1万600戸の食邑を与えられた。諸王には県令・県長の任命権があり、司馬伷は辞退したものの認められなかった。
中央で尚書右僕射・撫軍将軍に、地方で鎮東大将軍・仮節・都督徐州諸軍事を務め、呉からも恐れられた。琅邪王に改封され、東莞国も加増された。

279年からの呉征伐でも功績を上げ、首都に迫られた孫晧は司馬伷のもとへ出頭した。
司馬炎は詔勅を下して激賞し、都督青州諸軍事を兼任させ、侍中を加え、さらに大将軍・開府儀同三司に昇進させた。
司馬伷は宗室に連なり、対呉戦で功績を挙げながら驕らなかったため広く敬意を払われた。

危篤に陥ると母の陵墓の隣に葬り、領国を四人の子に分けるよう願い出て許可された。283年に57歳で没した。

孫の司馬睿(しばえい)が東晋の初代皇帝となった。(『晋書 司馬伷伝』)

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