鍾毓 鍾繇の後継ぎ
鍾毓(しょういく)字は稚叔(ちしゅく)
豫州潁川郡長社県の人(??~263)
魏の臣。
鍾繇(しょうよう)の子。鍾会の兄。
「鍾繇伝」に附伝される。
父譲りの頭脳と話術で知られ、14歳で散騎侍郎となった。(『鍾毓伝』)
230年に父が没すると、字から三男と思われるが、兄は早逝していたのか鍾毓が後を継いだ。(『鍾繇伝』)
太和年間(227~232)、諸葛亮が北伐の兵を起こすと曹叡は自ら迎撃に出ようとしたが、鍾毓は反対し、黄門侍郎に昇進した。
曹叡の宮殿造営にも反対し、むしろ荒地の開墾を進めるべきだと進言し、採用された。
正始年間(240~249)に散騎常侍に上った。(『鍾毓伝』)
夏侯恵(かこうけい)としばしば議論を戦わせたが、多くの場合は夏侯恵の意見が採用された。(『夏侯淵伝』)
244年、曹爽(そうそう)は蜀征伐に乗り出すも苦戦し、援軍を要請しようとしたが、そこへ鍾毓は撤退を促す書簡を送った。
結局、曹爽は撤退し、その恨みもあったのか鍾毓は侍中に移され、さらに魏郡太守に左遷された。(『鍾毓伝』)
247年、弟の鍾会は尚書郎となった。当時は曹爽が専権をふるっており、毎日宴会を開いては泥酔していた。鍾毓が宴会帰りにそれを話すと、母は「曹爽は楽しいでしょうが長くは続きません。高位にあって驕らず、節度を保ち真面目で、初めて災難を免れるのです。身の程をわきまえず贅沢していては、長く富貴を保てません」と言った。(『鍾会伝』)
魏郡太守の時、占術師の管輅(かんろ)が彼を訪ね「易」について語り合った。管輅は「あなたの生没年を当てることもできる」と言い、占わせると誕生日を言い当てられた。鍾毓は「あなたは恐るべき人だが、死は天によって定められるもので、あなたが定めるものではない」と言い、没年は占わせず、代わりに天下は太平になるか尋ね、管輅は司馬氏の台頭を暗示することを言った。
「管輅別伝」に曰く、鍾毓は俗事を超越し高い才智を持っていた。管輅の「易」の議論を20箇条以上も論難し、自分ではこれ以上無いほどに精確なものだと考えたが、管輅は打てば響くようにその全てに反論してみせたため、鍾毓は屈服した。(『管輅伝』)
249年、司馬懿が曹爽一派を粛清すると、鍾毓は都に戻り御史中丞・侍中・廷尉となった。
主君や父が死後に誹謗されたら、臣下や子が取り締まれるようにし、また列侯された際に妻を取り替える法をとりやめた。(『鍾毓伝』)
正始年間(240~249)に鍾毓ら魏の多くの重臣が胡昭(こしょう)を推挙した。(『管寧伝』)
254年、李豊(りほう)・張緝(ちょうしゅう)・夏侯玄(かこうげん)が司馬師の暗殺を企むも露見して捕らえられた。廷尉の鍾毓は罪は処刑にあたると上奏した。
「世語」に曰く、李豊が息子を送り夏侯玄に計画を伝えた時、彼は詳しく話してくれと言っただけで興味を示さず、そのため李豊は何も告げずに計画を実行したという。
逮捕された時も供述せず、鍾毓が自ら取り調べにあたろうとすると「話すことなどない。君が供述書を作りたまえ」と言った。鍾毓は誇り高い彼を屈服させることはできないと思い、供述書を作って泣きながら見せたが、夏侯玄はただうなずくだけだった。
弟の鍾会は以前から親しくされなかったので、立場につけ込んでなれなれしく口を利いたため夏侯玄は「どうしてそんなに押し付けがましいのだ」と怒った。(『夏侯尚伝』)
同年、曹芳の廃位を求める上奏に廷尉・定陵侯として連名した。(『斉王紀』)
255年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)の反乱では持節として揚州・豫州を慰撫し、帰還すると尚書になった。(『鍾毓伝』)
256年、曹髦に宴会に招かれ礼法制度や古代の帝王の優劣について議論した。鍾毓は崔賛(さいさん)・虞松(ぐしょう)とともに夏王朝の少康を評したが、曹髦は過小評価されていると言い、その功績を挙げ、彼らを納得させた。(『高貴郷公紀』)
257年、諸葛誕が反乱すると司馬昭は自ら討伐を考えた。ちょうど孫壱(そんいつ)が魏へ亡命してきたためある人が「呉は内乱で揉めて出兵できないでしょう。戦いを急ぐ必要はありません」と言ったが、鍾毓は「孫壱が連れてきたのは兵300程度で呉にとって大した損害ではありません。速やかに諸葛誕を討伐しなければ援軍が現れるかも知れません」と反対し、司馬昭もそれに同意し親征した。鎮圧後、鍾毓は青州刺史となり後将軍を加えられた。
(※裴松之は「そもそも呉が内乱で揉めているというのも根拠がなく、鍾毓の意見もとりわけ称揚する価値はない」と指摘する)(『鍾毓伝』)
傅嘏(ふか)と後将軍の鍾毓は親しく、ともに朝政に関与する名臣だった。(『傅嘏伝』)
後に都督徐州諸軍事となり、仮節を預かり、都督荊州諸軍事へ転任した。
263年に没し、車騎将軍を追増され、恵侯と諡された。
子の鍾駿(しょうしゅん)が後を継いだ。(『鍾毓伝』)
同年、弟の鍾会は蜀を滅亡させたが、翌年に反乱を企てて誅殺された。鍾毓の訃報はまだ届いていなかった。
鍾会が養育していた別の兄の子らも罪に問われたが、司馬昭は鍾繇・鍾毓の功績に免じて、数名へ恩赦を与えた。
「漢晋春秋」に曰く、鍾毓は生前、「鍾会は策に走りすぎて一貫した態度を取れないから、彼一人に任務を任せるのは危険です」と司馬昭に進言していた。すると司馬昭は笑い「君の言う通りになったら、一族に累は及ぼさないようにしてやろう」と言ったという。(『鍾会伝』)
「演義」では8歳の時に鍾会とともに曹丕に目通りしたが、緊張で大汗をかく鍾毓とは対照的に鍾会は緊張せず、見事に韻を踏んで返答した、という逸話にのみ登場。ただしこれは「世説新語」の逸話で、曹丕の没年に鍾会は2歳なので確実に創作である。
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