三国志 し 8


蔣纂  陸瑁と同居


蔣纂(しょうさん)字は不明
豫州沛郡の人(??~??)

陸瑁(りくぼう)は若い頃から義に厚く、家の後ろ盾を捨て、陳融(ちんゆう)、濮陽逸(ぼくよういつ)、蔣纂、袁迪(えんてき)ら清貧の士を招き彼らと苦楽をともにした。(『陸瑁伝』)

陳融と蔣纂は他に記述がなく詳細は不明だが、濮陽逸は呉に仕え、袁迪もたぶん呉の臣のため、所属はいちおう呉の臣とした。



蔣秀  蔣済の子


蔣秀(しょうしゅう)字は不明
豫州沛国平阿県の人?(??~??)

魏の臣。
蔣済(しょうせい)の子。

249年、父が没すると後を継いだ。
蔣秀も没すると子の蔣凱(しょうがい)が後を継いだ。

没年は不明だが咸熙年間(264~265)に蔣済の功績により蔣凱が取り立てられており、それ以前に没したと思われる。(『蔣済伝』)



蔣脩  孫登に推挙されるが留賛とともに戦死


蔣脩(しょうしゅう)字は不明
出身地不明(??~255)

呉の臣。

241年、孫登は病没し、遺言で「虞翻(ぐほん ※著名な虞翻とは別人か)・蔣脩ははっきりとした志操により行動する」と評した。(『孫登伝』)

255年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)が魏に反乱すると呉は援軍を出したが、速やかに討伐されたため撤退した。
殿軍を務めた留賛(りゅうさん)は蔣班(しょうはん)に撃破され、将軍の孫楞(そんりょう)・蔣脩とともに戦死した。(『孫亮伝』)



蔣舒


未作成



蔣済  酔いどれ軍師


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蔣石  韓遂の首を獲る


蔣石(しょうせき)字は不明
涼州金城郡の人?(??~??)

賊徒?

215年、曹操に討伐された韓遂(かんすい)を、麴演(きくえん)・蔣石は協力して殺し、首級を曹操へ送った。
二人は西平・金城を占拠する将軍と記される。(『武帝紀』)

その後、麴演はたびたび反乱するが蔣石の消息は不明である。



蔣班  諸葛誕の右腕


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蔣秘  配下の廖式に反乱を起こされる


蔣秘(しょうひ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

239年、将軍の蔣秘は南方の異民族を討伐した。
蔣秘配下の都督の廖式(りょうしょく)は、臨賀太守の厳綱(げんこう)を殺して勝手に平南将軍を名乗り、弟の廖潜(りょうせん)とともに零陵・桂陽郡を攻めた。交州・蒼梧・鬱林郡にも波及し数万人の勢力に膨れ上がったが、呂岱(りょたい)・唐咨(とうし)らに討伐され1年余りで全て撃破された。(『呉主伝』)



蔣斌  鍾会と交流した蔣琬の子


蔣斌(しょうひん)字は不明
荊州零陵郡湘郷県の人(??~264)

蜀の臣。
蔣琬(しょうえん)の子。
「蔣琬伝」に附伝される。

246年、父が没すると後を継ぎ、綏武将軍・漢城護軍となった。(『蔣斌伝』)

258年頃、姜維は前線の防備を固めるため楽城を王含(おうがん)、漢城を蔣斌に守らせた。(『姜維伝』)

263年、魏軍が侵攻した時、楽城・漢城にはそれぞれ5千の守備兵がいた。
鍾会は李輔(りほ)に楽城を、荀愷(じゅんがい)に漢城を1万の兵で包囲させ、西方へ進み諸葛亮の墓に詣でた。(『鍾会伝』)

鍾会は蔣斌へ手紙を送り「あなたと諸葛瞻(しょかつせん)は私と同じ中原の出身です。父君(蔣琬)の墓に詣で敬意を表したいので墓所を教えて下さい」と請うた。
蔣斌は「世事を離れた事柄なら(たとえ敵味方でも)申し出を断らないと聞きます。父は涪県で亡くなり、占いでも吉と出ましたのでそこへ葬りました。あなたの手紙を読んで感動し、父への追慕の念がつのっています」と返事した。
鍾会もそれに感動し、涪県で蔣琬の祭祀を行った。

劉禅が降伏すると、蔣斌は鍾会のもとへ出頭し、友人として遇された。
弟の蔣顕(しょうけん)も鍾会に評価されたが翌264年、鍾会は反乱し、蔣斌・蔣顕とともに殺された。(『蔣斌伝』)

「統制を失った兵に殺された」とあり、鍾会の反乱に加担したのか、一味と見なされ殺されたのかは不明である。

「演義」では出番が増え、258年に魏を攻めるが姜維の采配ミスにより敗北した。蜀の滅亡時にはあっさり荀愷に降伏し、鍾会との交流は描かれず、戦死もしない。

「横山三国志」では降伏シーンの1コマしか登場しないが、ちゃんと鍾会へ降伏しておりさすが横光である。



襄楷


未作成



擾龍宗  董卓に見せしめに殺された侍御史


擾龍宗(じょうりゅうそう)字は不明
出身地不明(??~189?)

後漢の臣。

189年、董卓が少帝を廃し献帝を立てて実権を握った。

「英雄記」に曰く。
董卓は威光を轟かせるため、侍御史の擾龍宗が言上のため現れた時、帯剣していたのを咎めて叩き殺し、見せしめにした。都中が震え上がった。(『董卓伝』)



蕭建  呂布に脅された琅琊国相


蕭建(しょうけん)字は不明
徐州東海郡の人(??~??)

後漢の臣。

「英雄記」に曰く。
呂布は侵攻してきた袁術軍の韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう)を寝返らせ大勝した。
この時、蕭建は琅琊国相を務めていたが、莒の城を守りよしみを通じなかった。呂布は手紙を送り「私は天子のために戦っている。はるか北西の涼州の出身だから東南の果てで土地を争うつもりもない。かつて楽毅が斉国を攻めた時、莒を陥落できなかったが、それは田単が守っていたからだ。私は楽毅ではないが君も田単ではないぞ」と脅した。
蕭建はすぐさま返書を送り、へりくだって名馬を献上した。
その後、蕭建は臧覇(ぞうは)に撃破され、物資を奪われた。
討伐しようとした呂布を高順(こうじゅん)は「あなたには董卓を倒した威光があり、軽々しく出兵してもし勝てなければ名声を損ないます」と諌めたが、呂布は聞き入れず攻撃した。
臧覇の守りは固く、陥落できず撤退した。後に呂布と臧覇は和睦した。(『呂布伝』)



鍾毓  鍾繇の後継ぎ


鍾毓(しょういく)字は稚叔(ちしゅく)
豫州潁川郡長社県の人(??~263)

魏の臣。
鍾繇(しょうよう)の子。鍾会の兄。
「鍾繇伝」に附伝される。

父譲りの頭脳と話術で知られ、14歳で散騎侍郎となった。(『鍾毓伝』)
230年に父が没すると、字から三男と思われるが、兄は早逝していたのか鍾毓が後を継いだ。(『鍾繇伝』)

太和年間(227~232)、諸葛亮が北伐の兵を起こすと曹叡は自ら迎撃に出ようとしたが、鍾毓は反対し、黄門侍郎に昇進した。
曹叡の宮殿造営にも反対し、むしろ荒地の開墾を進めるべきだと進言し、採用された。
正始年間(240~249)に散騎常侍に上った。(『鍾毓伝』)

夏侯恵(かこうけい)としばしば議論を戦わせたが、多くの場合は夏侯恵の意見が採用された。(『夏侯淵伝』)

244年、曹爽(そうそう)は蜀征伐に乗り出すも苦戦し、援軍を要請しようとしたが、そこへ鍾毓は撤退を促す書簡を送った。
結局、曹爽は撤退し、その恨みもあったのか鍾毓は侍中に移され、さらに魏郡太守に左遷された。(『鍾毓伝』)

247年、弟の鍾会は尚書郎となった。当時は曹爽が専権をふるっており、毎日宴会を開いては泥酔していた。鍾毓が宴会帰りにそれを話すと、母は「曹爽は楽しいでしょうが長くは続きません。高位にあって驕らず、節度を保ち真面目で、初めて災難を免れるのです。身の程をわきまえず贅沢していては、長く富貴を保てません」と言った。(『鍾会伝』)

魏郡太守の時、占術師の管輅(かんろ)が彼を訪ね「易」について語り合った。管輅は「あなたの生没年を当てることもできる」と言い、占わせると誕生日を言い当てられた。鍾毓は「あなたは恐るべき人だが、死は天によって定められるもので、あなたが定めるものではない」と言い、没年は占わせず、代わりに天下は太平になるか尋ね、管輅は司馬氏の台頭を暗示することを言った。

「管輅別伝」に曰く、鍾毓は俗事を超越し高い才智を持っていた。管輅の「易」の議論を20箇条以上も論難し、自分ではこれ以上無いほどに精確なものだと考えたが、管輅は打てば響くようにその全てに反論してみせたため、鍾毓は屈服した。(『管輅伝』)

249年、司馬懿が曹爽一派を粛清すると、鍾毓は都に戻り御史中丞・侍中・廷尉となった。
主君や父が死後に誹謗されたら、臣下や子が取り締まれるようにし、また列侯された際に妻を取り替える法をとりやめた。(『鍾毓伝』)

正始年間(240~249)に鍾毓ら魏の多くの重臣が胡昭(こしょう)を推挙した。(『管寧伝』)

254年、李豊(りほう)・張緝(ちょうしゅう)・夏侯玄(かこうげん)が司馬師の暗殺を企むも露見して捕らえられた。廷尉の鍾毓は罪は処刑にあたると上奏した。

「世語」に曰く、李豊が息子を送り夏侯玄に計画を伝えた時、彼は詳しく話してくれと言っただけで興味を示さず、そのため李豊は何も告げずに計画を実行したという。
逮捕された時も供述せず、鍾毓が自ら取り調べにあたろうとすると「話すことなどない。君が供述書を作りたまえ」と言った。鍾毓は誇り高い彼を屈服させることはできないと思い、供述書を作って泣きながら見せたが、夏侯玄はただうなずくだけだった。
弟の鍾会は以前から親しくされなかったので、立場につけ込んでなれなれしく口を利いたため夏侯玄は「どうしてそんなに押し付けがましいのだ」と怒った。(『夏侯尚伝』)

同年、曹芳の廃位を求める上奏に廷尉・定陵侯として連名した。(『斉王紀』)

255年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)の反乱では持節として揚州・豫州を慰撫し、帰還すると尚書になった。(『鍾毓伝』)

256年、曹髦に宴会に招かれ礼法制度や古代の帝王の優劣について議論した。鍾毓は崔賛(さいさん)・虞松(ぐしょう)とともに夏王朝の少康を評したが、曹髦は過小評価されていると言い、その功績を挙げ、彼らを納得させた。(『高貴郷公紀』)

257年、諸葛誕が反乱すると司馬昭は自ら討伐を考えた。ちょうど孫壱(そんいつ)が魏へ亡命してきたためある人が「呉は内乱で揉めて出兵できないでしょう。戦いを急ぐ必要はありません」と言ったが、鍾毓は「孫壱が連れてきたのは兵300程度で呉にとって大した損害ではありません。速やかに諸葛誕を討伐しなければ援軍が現れるかも知れません」と反対し、司馬昭もそれに同意し親征した。鎮圧後、鍾毓は青州刺史となり後将軍を加えられた。
(※裴松之は「そもそも呉が内乱で揉めているというのも根拠がなく、鍾毓の意見もとりわけ称揚する価値はない」と指摘する)(『鍾毓伝』)

傅嘏(ふか)と後将軍の鍾毓は親しく、ともに朝政に関与する名臣だった。(『傅嘏伝』)

後に都督徐州諸軍事となり、仮節を預かり、都督荊州諸軍事へ転任した。
263年に没し、車騎将軍を追増され、恵侯と諡された。
子の鍾駿(しょうしゅん)が後を継いだ。(『鍾毓伝』)

同年、弟の鍾会は蜀を滅亡させたが、翌年に反乱を企てて誅殺された。鍾毓の訃報はまだ届いていなかった。
鍾会が養育していた別の兄の子らも罪に問われたが、司馬昭は鍾繇・鍾毓の功績に免じて、数名へ恩赦を与えた。

「漢晋春秋」に曰く、鍾毓は生前、「鍾会は策に走りすぎて一貫した態度を取れないから、彼一人に任務を任せるのは危険です」と司馬昭に進言していた。すると司馬昭は笑い「君の言う通りになったら、一族に累は及ぼさないようにしてやろう」と言ったという。(『鍾会伝』)

「演義」では8歳の時に鍾会とともに曹丕に目通りしたが、緊張で大汗をかく鍾毓とは対照的に鍾会は緊張せず、見事に韻を踏んで返答した、という逸話にのみ登場。ただしこれは「世説新語」の逸話で、曹丕の没年に鍾会は2歳なので確実に創作である。



鍾琰  王渾の賢妻


鍾琰(しょうえん)字が琰
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

王渾(おうこん)の妻。
鍾繇(しょうよう)の曾孫。鍾徽(しょうき)の子。

数歳で文章をつづり、賢く度量があり上品な人物へ成長し、古典を広く読み記憶した。容貌は美しく歌を得意とし、礼儀作法もしっかりしていた。
王渾に嫁ぎ、王済(おうせい)を生んだ。夫婦の前で幼い王済が庭を走り回り、王渾が「子がこのようであれば人の心は慰められるものだ」と言うと、鍾琰は「もし私が(あなたの弟の)王淪(おうりん)に嫁いでいたら、子はこの程度ではなかったでしょう」と笑った。(『晋書 王渾妻鍾氏伝』)

王淪は若くして戦死し司馬昭に惜しまれた。(※この会話の時点で戦死しており、王渾も才を認めていたのだろう)(『太平御覧』)

娘も母譲りの才知としとやかさがあり、賢夫を探していた。
王済は優れた軍人に嫁がせたいと思い、有望な若者を見つけ母に相談した。鍾琰は直接見たいと言い、兵達と話している所に案内させた。しばらく観察した鍾琰は「お前が選んだのはあの緋色の衣の人だろう」と言い当て、「才能は飛び抜けて優れているが、環境が悪く年を早く取ってしまい才能を開花させられないでしょう」と止めた。その人は数年後に亡くなった。鍾琰が物事の善悪を見抜き、将来まで見通す見識は全てこのようだった。

王渾の弟の王湛(おうたん)に嫁いだ郝氏(かくし)は低い家柄だったが(※「世説新語」によると蜀からの降将の郝普(かくふ)の娘である)、鍾琰は義妹の彼女と親しみ尊重し合った。郝氏はへりくだらず、鍾琰も上に出ず、人々は「鍾夫人の礼、郝夫人の法」と称えた。(『晋書 王渾妻鍾氏伝』)

265年、司馬炎が帝位につき、王渾はやがて徐州刺史に上った。
王済は20歳で中書郎に任じられ、母の喪に服した後に驍騎将軍、侍中と昇進した。(『晋書 王渾伝』)

王渾は徐州刺史の時に後妻をめとった。(『世説新語』)

王済の正確な没年は不明だが、280年の呉滅亡後に46歳で没した。適当に282年没とすれば中書郎になった26年前は266年。
鍾琰の死は晋建国の数年後だろうか。



鍾演  鍾繇の弟


鍾演(しょうえん)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

魏の臣。
鍾繇(しょうよう)の弟。

黄初年間(220~226)、鍾繇の領邑を分割して弟の鍾演、子の鍾劭(しょうしょう)、孫の鍾豫(しょうよ)らに与え列侯した。(『鍾繇伝』)

余談だが「演義」には鍾繇の架空の弟の鍾進(しょうしん)が登場し龐悳に斬られる。



鍾会  野心に身を焼かれた知将


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鍾毅  鍾会の反乱に巻き込まれた甥


鍾毅(しょうき)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~264)

魏の臣。
鍾会の甥(兄の子)。鍾繇(しょうよう)の孫。

264年、養父の鍾会の反乱に連座し投獄された。
同じく逮捕された鍾毓(しょういく)の子らは父・祖父の功績により許されたが、鍾毅は処刑された。(『鍾会伝』)

鍾会の蜀征伐に随行し、反乱で死亡した鍾邕(しょうよう)の子も処刑された。鍾邕は鍾毅の兄弟だろうか。

 


鍾徽  鍾琰の父


鍾徽(しょうき)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

魏の臣。

鍾繇(しょうよう)の孫。鍾琰(しょうえん)の父。

黄門侍郎を務めた。
娘の鍾琰は才知に優れ、晋書に列伝された。(『晋書 王渾妻鍾氏伝』)



鍾皓


未作成



鍾峻  鍾会の反乱に巻き込まれかけた甥A


鍾峻(しょうしゅん)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

魏の臣。
鍾毓(しょういく)の子。鍾繇(しょうよう)の孫。

264年、鍾会の反乱に連座し弟の鍾迪(しょうてき)とともに投獄された。
父・祖父の功績により許されたが、従兄弟の鍾毅(しょうき)らは処刑された。
鍾毓が生前に司馬昭に鍾会への懸念を話していたため赦された、との説もある。(『鍾会伝』)

263年に鍾毓の後を継いだ鍾駿(しょうしゅん)という良く似た字面の兄弟がいる。同一人物だろうか。



鍾駿  鍾毓の子


鍾駿(しょうしゅん)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

魏の臣。
鍾毓(しょういく)の子。
鍾繇(しょうよう)の孫。

263年、父が没すると後を継いだ。(『鍾繇伝』)



鍾劭  鍾繇の事績の無い子


鍾劭(しょうしょう)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

魏の臣。
鍾繇(しょうよう)の子。

黄初年間(220~226)、鍾繇の領邑を分割して弟の鍾演(しょうえん)、子の鍾劭、孫の鍾豫(しょうよ)らに与え列侯した。(『鍾繇伝』)



鍾迪  鍾会の反乱に巻き込まれかけた甥B


鍾迪(しょうてき)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

魏の臣。
鍾毓(しょういく)の子。鍾繇(しょうよう)の孫。

264年、鍾会の反乱に連座し兄の鍾峻(しょうしゅん)とともに投獄された。
父・祖父の功績により許されたが、従兄弟の鍾毅(しょうき)らは処刑された。
鍾毓が生前に司馬昭に鍾会への懸念を話していたため赦された、との説もある。(『鍾会伝』)



鍾辿


未作成



鍾敷


未作成



鍾瑜  鍾繇を援助した族父


鍾瑜(しょうゆ)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

鍾繇(しょうよう)の族父。

鍾繇と洛陽へ向かった時、途中で会った人相見に「この子は出世するが、水難に気をつけなさい」と言われた。
10里も進まないうちに鍾繇は川へ落ちて死にかけ、鍾瑜は占いを信じ学費を出してやった。(『鍾繇伝』)



鍾豫  鍾繇の孫


鍾豫(しょうよ)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~??)

魏の臣。
鍾繇(しょうよう)の孫。

黄初年間(220~226)、鍾繇の領邑を分割して弟の鍾演(しょうえん)、子の鍾劭(しょうしょう)、孫の鍾豫らに与え列侯した。(『鍾繇伝』)



鍾邕  鍾会の反乱に巻き込まれた(?)甥


鍾邕(しょうよう)字は不明
豫州穎川郡長社県の人(??~264)

魏の臣。
鍾会の甥(兄の子)。鍾繇(しょうよう)の孫。

263年、鍾会の蜀討伐に随行した。
264年、鍾会の反乱により死亡した。
連座され子も処刑された。(『鍾会伝』)

鍾毓(しょういく)の子は父・祖父の功績により許されたが、鍾会に養育されていた甥(兄の子)の鍾毅(しょうき)は処刑された。鍾邕の兄弟だろうか。



鍾繇  剛直なる裁き


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聶夔  剛勇の使者たち


聶夔(じょうき)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

233年頃、傅容(ふよう)は聶夔とともに公孫淵(こうそんえん)へ楽浪公の位を授ける使者を務めた。
公孫淵は都から帰ってきた配下に「魏の使者は(以前に来た?)左駿伯(さしゅんはく)をはじめ剛勇の者ばかりです」と吹き込まれ、疑心暗鬼となった。
暗殺を警戒し、また威信を示すため使者を学校へ滞在させると、兵に包囲させた後に面会し、彼らを怯えさせた。
帰国した傅容らはありのままに報告したと記され、魏は公孫淵に叛意ありと警戒を強めたと思われる。(『公孫度伝』)



聶友  諸葛恪の親友


聶友(じょうゆう)字は文悌(ぶんてい)
揚州豫章郡の人(??~??)

呉の臣。

若くして弁舌に優れた。

県の役人の時、虞翻(ぐほん)が度重なる暴言の末に交州へ配流された際に見送りに立った。
言葉を交わした虞翻はその才能に気づき、豫章太守の謝斐(しゃひ)に功曹に取り立てるよう勧め、謝斐は自ら説得して功曹の座を譲らせてまで聶友を招いた。

使者として建業の都に赴き、引見した諸葛恪(しょかつかく)に気に入られ交友を結んだ。当時は顧譚(こたん)・顧承(こしょう)兄弟が並ぶ者のない名声を博していたが、諸葛恪はそれに匹敵する逸材と聶友を推し、一躍名を知られた。(『諸葛恪伝』)

242年、陸凱(りくがい)とともに珠崖・儋耳を討伐し、丹陽太守に任じられた。(『呉主伝』・『諸葛恪伝』)

253年、諸葛恪は前年の東興の戦いの勝利で気を大きくし、合肥新城の攻略を企てた。
聶友は「鋭気を養い敵の隙をよく見定めてから行動を起こすべきで、今は天の時はありません。はやる気持ちに任せて、ゆるがせに事を行わないでください」と諌めたが、諸葛恪は反論をしたため「あなたは自然の道理がわかっても、大きな天運の移りゆきが見えないのだ。これを読めばご理解いただけるだろう」と言い、人々の反対を押し切って大軍を動かしたが、失敗して人心を失った。

聶友は(諸葛恪の縁戚の)滕胤(とういん)へ「人の勢いが盛んな時は山河とて根こそぎにできますが、勢いが衰えると人心はバラバラになってしまいます。それを思うと悲しみと嘆息を禁じえません」と諸葛恪の破滅を予見した。はたして諸葛恪は同年10月に孫峻(そんしゅん)に誅殺された。

孫峻は聶友を警戒し鬱林太守へ左遷しようと企て、聶友は憂悶のうちに病没した。
享年33と記されるが虞翻の配流が30年近く前のことであり明らかな誤記である。(『諸葛恪伝』)



譙煕  譙周の長男


譙煕(しょうき)字は不明
益州巴西郡西充国の人(??~??)

蜀の臣。
譙周(しょうしゅう)の長男。

「晋陽集」に曰く。
270年、譙周が没すると司馬炎は朝服や衣類、15万銭を与えようとしたが譙煕は「父は晩年は病気のため久しく出仕できなかった。もし朝服や衣類を賜っても(遺体に)着せてはならないと遺言しました。故郷は険しい道の先にあるので軽い棺を用意し通夜も終えています」と辞退した。
司馬炎は衣類と棺の費用を与えるよう詔勅した。

子の譙秀(しょうしゅう)は高名な隠者となった。(『譙周伝』)



譙賢  譙周の次男


譙賢(しょうけん)字は不明
益州巴西郡西充国の人(??~??)

蜀の臣。
譙周(しょうしゅう)の次男。

三兄弟で彼のみ事績が今のところ見つからない。(『譙周伝』)



譙秀


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譙周  陳寿の師匠


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譙同  譙周の次男


譙同(しょうどう)字は不明
益州巴西郡西充国の人(??~??)

蜀の臣。
譙周(しょうしゅう)の三男。

末子で父の学問を大いに好み、父同様に忠実・質素を規範とし孝廉に推挙され、錫県令、東宮洗馬に任命されたが辞退した。(『譙周伝』)



譙𡸫


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饒助


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上官子脩  真・三國無双7でプチブレイク(?)


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上官崇  任嘏の業績と文書を集めた下役C


上官崇(じょうかんすう)字は不明
司隸河東郡の人(??~??)

魏の臣。

「別伝」に曰く。
任嘏(じんか)は4万字に及ぶ38篇の著書を遺し、没すると元の下役だった程威(ていい)・劉固(りゅうこ)・上官崇らが業績と文書を集めて上奏し、時の皇帝はそれを編集するよう詔勅した。(『王昶伝』)



上官雝  李平の罷免に連名した蜀臣E


上官雝(じょうかんよう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

231年、李平(りへい)の罷免を求める文書に行中典軍・討虜将軍として連名した。(『李厳伝』)

「真・三國無双7」になぜか登場し珍名さんでインパクトを残した上官子脩(じょうかんししゅう)はおそらく子脩が字であり、上官雝と同一人物の可能性があるかもしれない。

余談だがこの弾劾文書にしか登場しない蜀臣は9人もいる。



鍾離禕


未作成



鍾離駰


未作成



鍾離徇  築城を却下される


鍾離徇(しょうりしゅん)字は不明
揚州会稽郡山陰の人(??~279?)

呉の臣。
鍾離牧(しょうりぼく)の子。三男?

偏将軍として西陵の守備を命じられた際、宜城と信陵は建平郡の後ろ盾であり、そこに築城すべきだと訴えた。
だが監軍の唐盛(とうせい)は「施績(しせき)や留平(りゅうへい)ら智略を備えた名将もしばしばそこを通ったが、築城しようとは言わなかった」として却下した。
わずか半年後、晋軍は信陵を占領し城を築いてしまった。

279年、晋は呉へ侵攻した。鍾離徇は水軍を率いて迎撃するも戦死した。
280年、呉は滅亡した。(『鍾離牧伝』)



鍾離緒


未作成



鍾離盛


未作成



鍾離斐


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鍾離茂  王昶に討ち取られた呉将A


鍾離茂(しょうりぼう)字は不明
出身地不明(??~250)

呉の臣。

250年、王昶(おうちょう)は三方から呉を攻める策を立て、自ら江陵郡を攻めた。
施績(しせき)を撃破し、敵将の鍾離茂、許旻(きょびん)を討ち取り、大量の戦利品を奪った。(『王昶伝』)



鍾離牧  少しばかりの稲のこと


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諸葛壱  諸葛誕に偽装投降を見破られる


諸葛壱(しょかついつ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

「江表伝」に曰く。
孫権は諸葛壱に命じて魏へ偽装投降させ、諸葛誕をおびき寄せようとした。諸葛誕は兵1万を率い迎えに出たが、孫権の伏兵に気付いて撤退した。(『呉主伝』)

「呉書」に曰く。
太子の孫和(そんか)は孫権が自ら兵を率いており、そもそも軍事は不吉なものであると考え、憂いと心配でたまらず、臣下との宴会を取りやめて慎重に行動するようしばしば父を諫言した。孫権が無事に帰還するとようやく安堵した。(『孫和伝』)



諸葛婉  司馬炎の側室(諸葛緒の孫)


諸葛婉(しょかつえん)字は不明
徐州琅邪郡陽都県の人(??~??)

司馬炎の側室。
諸葛沖(しょかつちゅう)の娘。
諸葛緒(しょかつしょ)の孫。

273年、司馬肇(しばちょう)が使者となり、司馬炎の夫人に任命された。(『晋書 諸葛夫人伝』)



諸葛恢


未作成



諸葛喬  諸葛瑾の次男


諸葛喬(しょかつきょう)字は仲慎(ちゅうしん)
徐州琅邪郡陽都県の人(204~228)

蜀の臣。
諸葛瑾(しょかつきん)の次男。

才能では兄の諸葛恪(しょかつかく)に劣るが、性質は勝ると評された。
子供のいなかった叔父の諸葛亮に求められて養子となり、字を伯松(はくしょう)と改めた。

227年、諸葛亮は実子の諸葛瞻(しょかつせん)をもうけた。

駙馬都尉に任じられて養父とともに漢中に駐屯し、特別扱いされず輸送の任務にあたった。(『諸葛亮伝』)
諸葛亮は霍弋(かくよく)とともにあちこち巡らせ見聞を広めさせた。(『霍峻伝』)

228年、25歳の若さで没した。(『諸葛亮伝』)

231年、孫権の甥の孫松(そんしょう)が没すると、諸葛亮は死を悼む手紙を諸葛瑾へ送ったが、諸葛喬から孫松の話を聞いていたからだという。(『孫翊伝』)

子の諸葛攀(しょかつはん)は253年に諸葛恪が誅殺されると家名を継ぐため呉に戻ったが、彼もまた早逝してしまい呉の諸葛氏は断絶した。
孫の諸葛顕(しょかつけん)は蜀に残り、滅亡後は河東へ諸葛瞻の子らとともに移住させられた。(『諸葛亮伝』)

wikiには「劉備の娘(劉禅の姉)をめとった」と書かれているがそんな記述はどこにもない。



諸葛均  孔明の弟


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諸葛瑾  諸葛亮の人格者の兄


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諸葛京  晋で出世した諸葛瞻の次男


諸葛京(しょかつけい)字は行宗(こうそう)
徐州琅邪郡陽都県の人(??~??)

蜀・晋の臣。
諸葛瞻(しょかつせん)の次男。諸葛亮の孫。

263年、魏の鄧艾と戦い父と長兄の諸葛尚(しょかつしょう)は討ち死にした。
同年、成都は陥落し蜀は滅亡した。
諸葛京と一族の諸葛顕(しょかつけん)らは翌264年、司隸河東郡に移住させられた。

「晋泰始起居注」に曰く。
才能によって登用され郿県令となった。

「山濤啓事」に曰く。
「郿県令の諸葛京の祖父・父はともに主君に心を尽くした。諸葛京も治績を上げている。東宮舎人に任じ、人に仕える場合の道理を(諸葛京の祖父らのようにすべきだと)明かし(出身地の)梁州・益州の世論に応えるべきです」と推挙した。
江州刺史まで上った。(『諸葛亮伝』)



諸葛珪  諸葛亮の父


諸葛珪(しょかつけい)字は君貢(くんこう)
徐州琅邪郡陽都県の人(??~??)

後漢の臣。
諸葛瑾(しょかつきん)・諸葛亮らの父。

太山郡の丞を務めた。
諸葛亮の幼い頃に没し、諸葛亮と弟の諸葛均(しょかつきん)は従父の諸葛玄(しょかつげん)を頼った。(『諸葛亮伝』)

「演義」では字を子貢(しこう)とされる。



諸葛玄  諸葛亮の従父


諸葛玄(しょかつげん)字は不明
徐州琅邪郡陽都県の人(??~197?)

後漢の臣。
諸葛瑾(しょかつきん)・諸葛亮らの従父。

諸葛亮は幼い頃に父を亡くし、弟の諸葛均(しょかつきん)とともに従父の諸葛玄を頼った。
袁術に(勝手に)豫章太守に任命され、諸葛亮らを連れて赴任した。
朝廷は朱皓(しゅこう)を正式な太守に任じ、諸葛玄は旧知の荊州牧の劉表(りゅうひょう)に身を寄せた。

「献帝春秋」に異聞がある。
豫章太守の周術(しゅうじゅつ)が没すると劉表は諸葛玄を(勝手に)後任とし南昌に駐屯させた。
朝廷は朱皓を正式な太守に任じ、朱皓は揚州刺史の劉繇(りゅうよう)に兵を借りて攻撃し南昌を制圧した。
197年、西城に撤退した諸葛玄は反乱した民に殺され、首を劉繇のもとへ送られた。(『諸葛亮伝』)

「献帝春秋」に曰く。
劉繇は笮融(さくゆう)を朱皓に加勢させた。
許劭(きょしょう)は笮融の反乱を危惧し、はたして笮融は朱皓を殺し豫章郡を乗っ取った。(『劉繇伝』)

諸葛玄が没すると諸葛亮は手ずから農耕に携わり荊州で隠棲した。(『諸葛亮伝』)

「演義」では諸葛亮らの叔父に設定される。本伝を採用し諸葛玄は戦死しない。
「吉川三国志」では諸葛玄・諸葛亮らが荊州へ向かうのを機に諸葛瑾が別れた。
「横山三国志」では逸話がミックスされ、はじめ豫章太守だった諸葛玄が劉表に招かれて荊州へ移り、後任の太守の周術が病死したため諸葛玄が再任されると朱皓も同時に任命されており、争いになり戦死した。



諸葛虔  濡須を攻めた諸葛一族


諸葛虔(しょかつけん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

223年(※朱桓伝には222年と記される。222年に始まり223年に終戦か)、曹仁は常雕(じょうちょう)・曹泰(そうたい)・王双(おうそう)・諸葛虔を率い濡須を攻めた。
守る朱桓(しゅかん)は曹泰と対陣して焼き討ちを掛け、駱統(らくとう)・厳圭(げんけい)の別働隊に常雕を攻撃させ、常雕を討ち取り王双を捕らえ、撤退させた。(『呉主伝』・『朱桓伝』・『駱統伝』)

諸葛一族だからか「演義」にも同様の事績で登場する。



諸葛建  諸葛恪の末子


諸葛建(しょかつけん)字は不明
徐州琅邪郡陽都県の人(??~253?)

呉の臣。
諸葛恪(しょかつかく)の末子。

253年、専権を振るった父の諸葛恪は誅殺された。
当時、歩兵校尉だった諸葛建は次兄の諸葛竦(しょかつしょう)とともに母を連れて逃亡したが、追っ手の劉承(りゅうしょう)によって諸葛竦は斬られた。(『諸葛恪伝』)

諸葛建もかつて父の腹心を務めた徐平(じょへい)の私兵に捕らえられた。
だが温厚篤実な徐平は、父に疎まれていたにもかかわらず解放してやった。(『虞翻伝』)
諸葛建は長江を渡ることはできたが、魏領へ逃げ込む前に別の兵に捕らえられ、処刑された。(※明記されていないのでその場で殺害された可能性もある)

その他、諸葛恪の甥の張震(ちょうしん)・朱恩(しゅおん)らも一族皆殺しにされた。(『諸葛恪伝』)



諸葛原  管輅の占術―当て物勝負


諸葛原(しょかつげん)字は景春(けいしゅん)
出身地不明(??~??)

魏の臣。

館陶県令の諸葛原は新興太守に昇進し、送別会に管輅(かんろ)を招き、燕の卵と蜂の巣と蜘蛛を器の中に隠し、何が入っているか占わせた。全て的中し皆驚きつつ喜んだ。

「管輅別伝」に曰く。
諸葛原は学問あり、占いも好みしばしば管輅と射覆(当て物)の勝負をしたが勝てなかった。
送別会の時、論者を集めて管輅と議論させた。人々は管輅が占いに長けたことは承知していたが学問あることは知らず、意図を察した管輅はわざと隙を見せて論戦を挑ませた。やがて全員が心から屈服した。
翌日、彼らは管輅と固い交わりを結び、その中には天下に知られた英俊が8~9人いた。蔡元才(さいげんさい)はその中で最も高雅な資質ある人物で「あなたのことを犬だと思っていたが龍になられた」と称え、管輅は「犬の耳には龍の声は聴こえません」と返した。
諸葛原は「遠方に赴任し二度と会えないだろう。最後に射覆をしよう」と言い、全て的中されると大いに笑い、なぜそう占ったか説明を求めた。見事な論理に人々は感心し、射覆よりその議論の方が楽しかったと語った。
別れに際し諸葛原は「お前は酒豪だが絶対に安全とは保証できないから少し慎むと良い。その才能で身を滅ぼさないよう気をつけよ。思索にふければ富貴を求めることはない」と戒めた。管輅は「酒は無限に飲めず、才能は使い尽くせません。酒を飲む時は己を律し、愚かなふりで才能を隠せば何も心配いりません」と言った。(『管輅伝』)



諸葛顕  諸葛瑾の曾孫


諸葛顕(しょかつけん)字は不明
徐州琅邪郡陽都県の人(??~??)

蜀・晋の臣。
諸葛攀(しょかつはん)の子。諸葛瑾(しょかつきん)の曾孫。

祖父の諸葛喬(しょかつきょう)は呉の重臣である諸葛瑾の次男だが、実子のない叔父の諸葛亮の養子となり蜀に仕えた。
諸葛喬は25歳で早逝し、幼い諸葛攀は蜀で養育された。

253年、諸葛瑾の後を継いだ諸葛恪(しょかつかく)が誅殺されると家名を継ぐため諸葛攀は呉に戻ったが、早逝してしまい呉の諸葛氏は断絶した。
子の諸葛顕は蜀に残った。

蜀の滅亡後の264年、司隸河東郡へ諸葛亮の孫の諸葛京(しょかつけい)らとともに移住させられた。(『諸葛亮伝』)



諸葛氏


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