三国志 し 2


司馬衷


未作成



司馬肇  司馬岐の子


司馬肇(しばちょう)字は不明
司隷河内郡温県の人(??~??)

晋の臣。
司馬岐(しばき)の子。
司馬芝(しばし)の孫。

父が没すると爵位を継いだ。(『司馬芝伝』)

273年、使持節・洛陽県令の司馬肇が使者となり、胡芳(こほう)を貴嬪に、諸葛婉(しょかつえん)を夫人に任命した。(『晋書 胡貴嬪伝』・『晋書 諸葛夫人伝』)

「百官名」に曰く。
太康年間(280~289)に冀州刺史・尚書となった。(『司馬芝伝』)



司馬通  司馬懿のやばい弟


司馬通(しばつう)字は雅達(がたつ)
司隸河内郡温県の人(??~??)

魏の臣。
司馬防(しばぼう)の五男。(『杜畿伝』)
「晋書」には七男と記される。

長兄の司馬朗(しばろう)、次兄の司馬懿ら八人兄弟はいずれも優れ、字に「達」が含まれることから「司馬八達」と並び称された。
司隸従事・安城亭侯に上った。(『晋書 宗室伝』)

太和年間(227~233)頃、杜恕(とじょ)は「司隷校尉の孔羨(こうせん)は司馬懿におもねろうとキ●ガイじみた弟を招聘した」と批判した。
裴松之はこれを司隸従事を務めた司馬通のことだと推測している。

子の司馬順(しばじゅん)は龍陽亭侯に封じられたが、265年、晋の禅譲に反対したため配流された。(『杜畿伝』)



司馬孚  魏臣を貫いた司馬氏の長老


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司馬防  司馬懿の父


司馬防(しばぼう)字は建公(けんこう)
司隸河内郡温県の人(149~219)

後漢・魏の臣。
司馬懿らの父。

質実で正直・公正でくつろいでいる時さえ威儀を崩さなかった。
「漢書」を愛読し数十万言を暗誦できた。若くして昇進し洛陽県令・京兆尹を務め、老齢になると騎都尉に転任した。隠退すると家で静かに暮らした。
子供達は成人しても父の許しがなければ部屋に入らず、座りもせず、口も利かないという厳格な間柄だった。(『司馬朗伝』)

尚書右丞を務めていた時、若い頃の曹操を北部尉に推挙した。
216年、魏王に即位した曹操は、司馬防を食事に招いた。「私を今でも尉に推挙するかね?」と問われ「あの時は尉にするのが相応しかったのです」と答え曹操を笑わせた。(『武帝紀』)

司馬懿は同郷で年長の常林(じょうりん)を敬い、彼より高位に上っても拝礼し続けた。ある人が常林に苦言を呈したが「司馬公は自ら長幼の序を示し、若者の手本になろうとしているのだ。身分の差を私は恐れないし、拝礼は止められない」と気にもとめなかった。
一方で「魏略」には常林は司馬防と親しく、司馬懿が拝礼しようとすると身分を気にして止めた、という逆の逸話が紹介されるが、裴松之は常林の性格を考えれば創作だろうと指摘している。(『常林伝』)

219年、71歳で没した。(『司馬朗伝』)



司馬望  司馬孚の文武両道の子


司馬望(しばぼう)字は子初(ししょ)
司隸河内郡温県の人(205~271)

魏・晋の臣。
司馬孚(しばふ)の次男。

「晋諸公賛」には長男と記されるが「晋書」によると兄に司馬邕(しばよう)がおり誤りである。(『司馬朗伝』・『晋書 司馬孚伝』)

226年、曹叡は帝位につくと司馬朗(しばろう)の子の司馬遺(しばい)を列侯した。
さらに司馬朗の弟の司馬孚は、子の司馬望に司馬朗の後を継がせた。
後に司馬遺が没すると司馬望の次男の司馬洪(しばこう)が後を継いだ。(『司馬朗伝』・『晋書 司馬望伝』)

寛厚で父の風格があり、郡の上計吏となり孝廉に挙げられた。司徒掾に招かれ平陽太守・洛陽典農中郎将を歴任した。
251年、反乱した王淩(おうりょう)の討伐に司馬懿のもとで従い永安亭侯に封じられた。
護軍将軍に移り安楽郷侯に改封され、散騎常侍を加えられた。(『晋書 司馬望伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に中護軍・永安亭侯として連名した。
司馬望・王粛(おうしゅく)らが使者となり曹髦を帝位に迎え入れた。(『斉王紀』)

曹髦は才智ある人々を好み、司馬望・裴秀(はいしゅう)・王沈(おうしん)・鍾会と親しくしよく酒宴に招いて討論し、文学論を書きつづった。曹髦はせっかちな性格で、裴秀らは宮廷内に勤務していたからお召しが掛かるとすぐ参上できたが、司馬望は宮廷外に勤めていたため、特別に車と兵5人を与え、すぐ駆けつけられるように手配した。(『高貴郷公紀』・『晋書 司馬望伝』)

255年、反乱した毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)は上奏し、実権を握る司馬師を大批判して罷免を求めたが、司馬望は「忠実公正で職務も有能であり、陛下(曹髦)を護衛した実績もあり中領軍に任命してください」と推薦した。(※偶然にも実現する)(『毌丘倹伝』)

司馬師・司馬昭が実権を握ると、司馬望は魏の皇帝から手厚く遇されていたため不安を感じ、都の外への赴任を求め征西将軍・持節・都督雍涼二州諸軍事に任じられ8年務めた。威勢と教化は清明かつ厳粛で、これまで蜀の姜維がたびたび侵攻していたが司馬望が対策を講じたため攻撃の手がやみ、関中から大いに頼りにされた。
爵位は順陽侯に進み、都に戻され衛将軍となり、中領軍として近衛兵を率いた。(『晋書 司馬望伝』)

257年、諸葛誕の反乱に乗じて姜維が侵攻したが、司馬望・鄧艾は守りを固め応戦せず、翌年に諸葛誕が討たれると姜維は撤退した。(『姜維伝』)

264年、驃騎将軍・開府を加えられた。
265年、司徒の何曾(かそう)が晋の丞相となり、司馬望が後任の司徒となった。(『陳留王紀』・『晋書 司馬望伝』)

晋代になると義陽王に封じられ、領邑1万戸、兵2千人を給わった。
267年、司馬炎は詔勅を下し中領軍のまま太尉に転任させ、様々な厚遇を与えた。(『晋書 司馬望伝』)

「晋諸公賛」に曰く、父の司馬孚は太宰であり、父子揃って上公の地位にあったのは秦・漢代以来なかったことである。(『司馬朗伝』)

呉の施績(しせき)が江夏郡へ侵攻すると、司馬望が兵2万を率いて駐屯し2方面の司令官となり、仮節・大都督諸軍事を加えられた。荊州刺史の胡烈(これつ)が施績を撃退した。
さらに呉の丁奉が芍陂を攻めたが、司馬望が駆けつけると撤退した。
大司馬に任じられ、孫晧も寿春を攻めると中軍2万・騎兵3千を率いて迎え撃ち、撤退させた。

271年、67歳で没した。
吝嗇で倹約に努めたため家には財産が満ち溢れており、批判を受けた。
4人の子があり、長男の司馬弈(しばえき)は父より先に没した。三男の司馬整(しばせい)も早くに没し、司馬弈の子の司馬奇(しばき)が司馬望の後を継いだが、祖父譲りの強欲により弾劾され爵位を下げられ、次男の司馬洪の子の司馬威(しばい)が改めて司馬望の後を継いだが司馬威も誅殺されてしまい、司馬奇が再び後を継いだ。
四男の司馬楙(しばぼう)も王位に上った。(『晋書 司馬望伝』)

「演義」では姜維との戦いが大幅にアレンジされ、鄧艾とともに一進一退の攻防を繰り広げる。若い頃に諸葛亮の友人の崔州平(さいしゅうへい)・石韜(せきとう)と交友があったため(諸葛亮の弟子の)姜維の陣形を見抜く逸話も追加された。



司馬邁  司馬整の後継ぎ


司馬邁(しばまい)字は不明
司隸河内郡温県の人(??~??)

晋の臣。
司馬整(しばせい)の子。司馬望(しばぼう)の孫。

父は祖父より先に没した。
司馬炎により随県王を追贈され、司馬邁が後を継いだ。
288年、義陽郡平林県を封地に増やされ随郡王となった。(『晋書 司馬望伝』)



司馬攸  司馬炎に排斥された賢弟


司馬攸(しばゆう)字は大猷(たいけん)
司隸河内郡温県の人(246~283)

司馬昭と王元姫の三男。

幼い頃から人並み外れた才知があり、長じると清潔かつ穏和で協調性があり、賢人と親しみ施しを好んだ。経籍を愛し文章に優れ、特に手紙を書くのが巧みで世の手本となった。
才能は司馬炎に並び、祖父の司馬懿には傑物と見込まれた。
伯父の司馬師に男子がなかったため養子となり後継ぎになった。

251年、反乱を企んだ王淩(おうりょう)の討伐に従軍し長楽亭侯に封じられた。
255年、司馬師が没した。10歳の司馬攸は大いに悲しみ、側近にもらい泣きさせるほどで高く称賛された。
司馬師の後を継ぎ舞陽侯に封じられ、養母の羊徽瑜(ようきゆ)への孝行で名を知られた。
散騎常侍や歩兵校尉を歴任し、(※263年)18歳ながら兵舎を統括しきわめて威厳があった。
264年、五等爵が創設されると安昌侯に改封され、衛将軍に上った。

司馬昭は格別に寵愛し、自分の寝台を撫でて「ここはお前の座る場所になる」と言い、はじめはほとんど太子にしようと考えていた。
重病になると司馬攸の行く末を案じ、司馬炎に魏の曹植(そうしょく)の例(※即位した兄の曹丕に排斥された)を語って泣き、臨終の寸前には司馬攸の手を司馬炎に握らせた。
王元姫の快気祝いでは一時危篤になったことを思い出して号泣し、そばにいた司馬炎は(孝行で負け)恥じ入った。司馬炎が病の時も看病しながら心配して思い悩み、人々に称えられた。
王元姫は臨終の際に司馬炎へ「司馬攸はせっかちだからあなたは嫌っている。私が亡くなれば必ず仲違いするだろうと恐れています。よくこのことを覚えておきなさい」と言い遺した。

礼によって自らを律し失敗は少なかった。書物を借りると、誤字を訂正してやってから返した。きわめて善良で、名を呼ばれる無礼をされても怒らず涙を流した。司馬炎は敬いつつもはばかり、いつも一緒に過ごしたが話す時には言葉を選んでから口に出した。

265年、司馬昭が没すると健康を損なうほど悲しみ、杖を使ってようやく立ち上がれるほど憔悴した。絶食し薬に混ぜた干し飯すら泣いて断り、王元姫は自ら駆けつけ「この上もしも病気になったら回復できません。一つの考え(服喪)にのみこだわって考えすぎてはいけません」と諭し、人をやり飲食するよう強く促した。
嵇喜(けいき)も「孝経にも服喪で命を落としてはならないとあります。しかもあなたは(いずれ皇帝となる司馬炎の)最も近い親族かつ重臣です。匹夫でさえ一族のために命を惜しむのに、天下と帝室を背負うあなたが死んだら、賢人に笑われ愚人を喜ばせます」と諌め、自ら食事を差し出した。司馬攸はようやく食べ、嵇喜が退出すると「彼は私に服喪の節義を忘れさせず、しかも取るに足りない私を生き長らえさせようとした」と称えた。

同265年、司馬炎が帝位につくと斉王に封じられた。
晋王朝の草創期において軍事を統括して官民を慈しみ安心させ、誰もが慕った。
王が自ら藩国の官吏を選べるよう法改正が議論されると、率先して3回反対したが司馬炎は聞き入れなかった。結局、国相が選ぶことになったが司馬攸は「官吏の人事考査は朝廷の事案である」と藩国には朝廷に一任するよう命じた。
王族の衣食は朝廷から供出されていたが、司馬攸は藩国の税や俸禄から支出するよう進言した。10回以上も上表したが司馬炎は却下した。司馬攸は藩国へ行くことはなかったが、当地の官吏は全て税収からのみ俸禄を得て、病人や死者が出ると分けて助け合った。水害と干魃が起こると、司馬攸は援助を与えるとともに年貢を8割に減らし、大いに心服された。

驃騎将軍・開府・儀同三司に上った。
謙虚に努め物事には信用をもって当たった。国が官吏を思いやらないことに常に心を痛め、刑罰を厳密に定めるよう戒めた。
驃騎将軍は私兵を持たない規則があったが、数千人の兵は司馬攸を慕っていたため姉の京兆公主(けいちょうこうしゅ)を通じて嘆願し、司馬炎は兵を奪わなかった。
朝廷では大いに議論し心を尽くした。飢饉に対処するため節倹と農業の興隆を意見した。
鎮軍大将軍に異動し、侍中を加えられ太子少傅を代行した。数年後に太子太傅となり、司馬衷に与えた訓戒は名文と称えられた。
276年、賈充(かじゅう)の後任の司空となり、侍中・太子太傅も務め続けた。

司馬炎は晩年を迎え、太子の司馬衷は暗愚で、他の子もまだ幼く、司馬攸は朝臣から心を寄せられていた。佞臣の荀勗(じゅんきょく)と馮紞(ふうちん)は司馬攸に憎まれており、もし司馬衷ではなく司馬攸が後を継げば排斥されると恐れ、荀勗はこのままでは死後に司馬衷が即位できないと司馬炎を脅し、「陛下(司馬炎)が司馬攸を藩国へ赴任させようとしたら、必ず朝廷は全て反対します。それが証拠です」と言い、馮紞も「諸侯を藩国へ出し五等爵の制度を復活させるなら、まず近親者から始めるべきです。弟の司馬攸より近親者はいません」とたきつけた。

司馬炎はそそのかされ282年、司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事・侍中・仮節とし藩国への赴任を命じた。
司馬攸は喜ばず、配下の丁頤(ていい)は帝位を奪うよう勧めたが「私にそのつもりはない。君は言葉が過ぎる」とたしなめた。
翌283年、済南郡を斉国に加え、子の司馬寔(しばしょく)を北海王に封じるなど恩寵を加え(赴任を促し)た。司馬攸は荀勗・馮紞の陰謀だと知ると憤激して病にかかり、都に留まり先帝の陵墓を守りたいと願い出たが却下された。
司馬炎は本当に重病か診察させたが、医者は忖度して仮病だと報告し、危篤に陥ってなお赴任を促された。司馬攸は病を押して朝廷へ出発の挨拶に出向いたが、常日頃と同じ立ち振舞だったため司馬炎は仮病だと確信した。それから2~3日後に吐血して没した。享年38。(※36と誤記される)
命まで奪うつもりのなかった司馬炎は慟哭したが、馮紞に「司馬攸の名声は実情に勝り、天下に心を寄せられ(このままでは帝位を奪われ)ていました。死は喜ぶべきことであり悲しむことではありません」と諌められ泣くのをやめた。
司馬孚(しばふ)と同等に葬られた。子の司馬冏(しばけい)が後を継いだ。(『晋書 司馬攸伝』)



司馬邕  司馬孚に先立った長男


司馬邕(しばよう)字は子魁(しかい)
司隸河内郡温県の人(??~??)

魏・晋の臣。
司馬孚(しばふ)の長男。

「晋諸公賛」には(次男の)司馬望(しばぼう)が長男と記されるが「晋書」によると兄に司馬邕がおり誤りである。(『司馬朗伝』・『晋書 司馬孚伝』)

世子として歩兵校尉・侍中を拝したが、父より先に没した。輔国将軍を追贈され、貞と諡された。
子の司馬崇(しばすう)が世子となるも早逝し、273年に下の子の司馬隆(しばりゅう)が王位を継いだがそれも4年後に没してしまい、国は断絶した。(『晋書 司馬邕伝』)



司馬繇


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司馬隆  司馬邕の早逝した下の子


司馬隆(しばりゅう)字は不明
司隸河内郡温県の人(??~277)

晋の臣。
司馬邕(しばよう)の子。司馬孚(しばふ)の孫。

父の司馬邕は祖父の司馬孚より先に没した。
兄の司馬崇(しばすう)が世子となるも早逝し、273年に弟で平陽亭侯の司馬隆が安平王となったがそれも4年後に没してしまい、穆と諡され国は断絶した。(『晋書 司馬邕伝』)



司馬亮  決断できない司馬懿の三男


司馬亮(しばりょう)字は子翼(しよく)
司隸河内郡温県の人(??~291)

魏・晋の臣。
司馬懿の三男。伏夫人(ふくふじん)の子。

若くして明敏で才幹があり、魏の散騎侍郎・万歳亭侯となり、東中郎将に任じられ、広陽郷侯に進んだ。
257年、諸葛誕の反乱で敗北し免職されたが、左将軍として復帰し散騎常侍・仮節を加えられ、監豫州諸軍事となった。
五等爵が設立されると祁陽伯に改封され、鎮西将軍に転じた。
265年、司馬炎が帝位につくと扶風郡王に封じられ領邑1万戸、持節・都督関中・雍・涼諸軍事となった。
270年、秦州刺史の胡烈(これつ)が禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)に敗死すると司馬亮は劉旂(りゅうきん)・敬琰(けいえん)に救援させたが二人は進軍せず、責任を問われ平西将軍に降格した。
劉旂は死罪に相当し、司馬亮は曹冏(そうけい)とともに弁護したが、司馬炎は「劉旂は胡烈を救援できたのに進軍せず、胡烈が奮闘の末に戦死するのを何もせず眺めていた。劉旂を罪に問わなければ誰が責任を負うのか」と詔勅を下して処刑させ、司馬亮も爵位と封国の没収を建議されたが免職だけに留められた。(『晋書 汝南王亮伝』)

後任の都督雍涼等州諸軍事は弟の司馬駿(しばしゅん)が務めた。(『晋書 扶風王駿伝』)

同年、撫軍将軍に復帰し、呉の歩闡(ほせん)が反乱すると仮節・都督諸軍事として受け入れに当たり、侍中の朝服を加えられた。

咸寧年間(275~280)のはじめ、扶風国の池陽県4100戸が母の伏夫人の領邑となり、後に南郡枝江県に改められた。伏夫人が軽い病にかかり洛水でみそぎをすると、司馬亮ら実子3人が従い、楽器を演奏した。水面が震えて輝き、それを遠くから見ていた司馬炎は「伏夫人は富貴と言うべきだ」と嘆じた。(『晋書 汝南王亮伝』)

弟の司馬駿は孝行で、母が暮らす司馬亮の官舎を訪ねては身を案じて涙し、病気と聞けば公務を捨てて看病することさえあった。(『晋書 扶風王駿伝』)

同年、衛将軍に昇進し侍中を加えられた。この頃、宗室に連なる者は多く統制が取れなかったため、司馬亮が監督に当たった。
277年、汝南郡に移封され鎮南大将軍・都督豫州諸軍事・開府・仮節となった。間もなく都に召され侍中・撫軍大将軍となり、後軍将軍として兵を統率した。さらに太尉・録尚書事・領太子太傅に移り元のまま侍中とされた。(『晋書 汝南王亮伝』)

283年、司馬炎が弟の司馬攸(しばゆう)を封国へ出し都から排斥しようとすると、王渾(おうこん)は「封国で人々の慰撫をさせるなら、司馬亮は司馬攸に劣らない人物だから彼にやらせるべきです。それよりも司馬亮・楊珧(ようちょう)・司馬攸に朝政を司らせたほうが有益です」と反対した。(『晋書 王渾伝』)

崔洪(さいこう)は財貨に興味がなく、珠玉は手に取ろうとさえしなかった。司馬亮の宴会に招かれ、瑠璃の杯を出された時も手にせず、理由を問われると故事を引いてごまかしたが、主義を守るための詭弁だった。(『晋書 崔洪伝』)

289年、司馬炎が重病で床に伏すと、楊駿(ようしゅん)は司馬亮の排斥を企み、侍中・大司馬・仮黄鉞・大都督督豫州諸軍事として都の外へ出し、子の司馬羕(しばよう)も西陽公に封じた。司馬炎はいよいよ重篤となり司馬亮に後事を託そうとしたが、楊駿は華廙(かよく)を通じて詔勅を奪い、実行させなかった。
290年、司馬炎は没し、司馬亮は楊駿の暗躍を知っていたため警戒して宮中に入らず、門外から哀悼の意を表し、埋葬に立ち会うことを求めた。だが楊駿は司馬亮の討伐を企み、司馬亮は廷尉の何勗(かきょく)に善後策を尋ねると「朝廷はあなたに心を寄せているのになぜ楊駿を討伐せず、自分が討伐されるのを恐れているのか」と言われ、別の者にも挙兵を勧められたが、決断できずに任地の許昌へ逃亡した。

291年、楊駿が誅殺されると詔勅により太宰・録尚書事として復帰し、衛瓘(えいかん)とともに朝政を任された。だが人心を得ようとして行った、楊駿誅殺の論功行賞があまりに的外れでかえって名声を失った。(『晋書 汝南王亮伝』)

司馬繇(しばよう)は実権を握るにあたり司馬亮が邪魔だったが、先手を打たれ楊駿討伐の際に一族の司馬楙(しばぼう)を見逃した罪を問われ、ともに免職された。(『晋書 司馬整伝』)

司馬澹(しばたん)は弟の司馬繇が名声あり両親にも愛されていたのを恨み、司馬亮に讒言した。司馬亮も司馬繇を憎んでいたため陥れ封地を移させた。

同伝に異聞がある。
司馬亮ははじめ司馬澹の讒言を聞き入れなかったが、司馬繇が独断で論功行賞をするようになると讒言に惑わされて免職し、さらに暴言を吐いたとして爵位も奪い配流した。(『晋書 司馬覲伝』)

司馬亮・衛瓘は裴楷(はいかい)が楊駿に阿諛追従しなかったと評価し列侯した。さらに司馬瑋(しばい)に代えて北軍中候にしようとしたが、司馬瑋が不満を抱いていると知ると裴楷は辞退した。(『晋書 裴秀伝』)

衛権(えいけん)は司馬亮の甥にあたり(※叔母が司馬亮の妻)尚書郎・東宮の属官となったが、傅咸(ふかん)に「文才があり、あなたの甥ですから尚書郎にするのは当然です。しかし楊駿が政治を壟断し、人材起用の道を閉ざしたように、属官にするのは越権です。たとえば一匹の犬が人に吠えると、他の犬も一斉に吠え始めます。群犬に吠えられるのを恐れれば、結局は考えを変えることになります」と批判された。(『衛臻伝』)

司馬瑋は楊駿誅殺に功績があったが、相手を脅して屈服させるのを好んだため、司馬亮は恐れて兵権を剥奪しようと企んだ。司馬瑋はそれを聞くと激怒し、皇后の賈南風(かなんぷう)と結託して司馬亮・衛瓘は廃位を企んでいると誣告し、配下の公孫宏(こうそんこう)・李肇(りちょう)に夜に司馬亮の役所を包囲させた。(『晋書 汝南王亮伝』)

「楚王瑋伝」にはやや異なるが詳しい経緯が記される。
司馬亮・衛瓘は残忍な司馬瑋を封国へ出して排斥しようと企み、司馬瑋はそれを聞くと激怒した。
衛瓘は軽薄な公孫宏・岐盛(きせい)を嫌い、岐盛の逮捕を目論んだが、岐盛・公孫宏・李肇は先手を打って賈南風に司馬亮と衛瓘が廃位を企んでいると誣告した。賈南風は騙され、司馬衷に討伐の詔勅を出させた。(『晋書 楚王瑋伝』)

李龍(りりゅう)は防戦するよう勧めたが応じず、司馬亮は「私に二心は無いのになぜ来たのか。討伐を命じる詔勅があるなら見せてくれ」と公孫宏らに呼びかけたが、無視され攻撃された。
劉準(りゅうじゅん)は「これは司馬瑋の奸計です。ここには俊才が林のように集まっているから戦うべきです」と言ったがこれも聞き入れず、「私の忠心は天下にはっきり示されているのに無実の人間が殺されてよいものか」と嘆き、ろくに抵抗せず捕らえられた。
猛暑の中で座らされた司馬亮に同情した人々は扇であおいでやった。あえて殺害しようとする者はなく、司馬瑋は「斬れば布1000匹を与える」と焚き付け、欲に目がくらんだ兵によって殺された。
遺体は投棄され、髪・耳・鼻を損壊された。(※衛瓘も殺された)

同年、司馬瑋も誅殺されると名誉は回復され、司馬孚(しばふ)と同等に葬られた。(『晋書 汝南王亮伝』)

裴楷の長子の裴輿(はいよ)は司馬亮の娘婿で、裴楷の娘も衛瓘の子に嫁いでいた。裴楷は都の動乱を察知し外地への赴任を求めたが、その前に司馬亮・衛瓘が司馬瑋に殺された。
司馬瑋は裴楷も殺そうとしたが、裴楷は岳父の王渾のもとへ逃げ、司馬亮の末子とともに一晩で8回も移動して難を逃れた。(『晋書 裴秀伝』)



司馬倫


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司馬朗  人格者の兄


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車浚  飢饉から民を救おうとし孫晧に殺される


車浚(しゃしゅん)字は不明
出身地不明(??~276)

呉の臣。

公職にあって清廉で忠直だった。

276年、会稽太守の車浚は干魃による飢饉に襲われたため、民に食料を貸し与えて欲しいと上表した。ところが孫晧は車浚が民に恩を売ろうとしていると邪推し、彼と湘東太守の張詠(ちょうえい)を納税していないと罪を着せ処刑し、首を諸郡で回覧させた。
また尚書の熊睦(ゆうぼく)は暴虐をいささか諌めようとしたところ、刀の柄で撲殺された。(『孫晧伝』)



車冑  真っ二つエリート


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射援  蜀へ移住した皇甫嵩の娘婿


射援(しゃえん)字は文雄(ぶんゆう)
司隸扶風郡の人(??~??)

蜀の臣。
射堅(しゃけん)の弟。

「三輔決録注」に曰く。
兄弟揃って若くして名声高く、射堅は後漢の黄門侍郎を務め、射援は太尉の皇甫嵩(こうほすう)の娘婿となった。
だが189年、飢饉の混乱を避けて射援とともに益州へ移住し、劉璋(りゅうしょう)に仕えた。
214年、劉備が益州を制圧すると射堅は広漢・蜀郡太守に、射援は諸葛亮によって丞相祭酒に任命された。

219年、劉備を漢中王に推挙する上表に議曹・従事中郎・軍議中郎将として連名した。

「諸葛亮集」に曰く。
223年、劉備は劉禅への遺言で「射援は諸葛亮がお前の智力が非常に大きく、期待以上に進歩していると感嘆していたと話した。本当にそうなら何も心配はいらない」と述べた。

「三輔決録注」に曰く。
射援は従事中郎に上り、在官のまま没した。(『先主伝』)

ちなみに漢中王に推挙する上表では諸葛亮よりも一つ前に連名される。



射堅  射援の兄


射堅(しゃけん)字は文固(ぶんこ)
司隸扶風郡の人(??~??)

蜀の臣。
射援(しゃえん)の兄。

「三輔決録注」に曰く。
兄弟揃って若くして名声高く、射堅は三公の府に招聘され後漢の黄門侍郎を務め、射援は太尉の皇甫嵩(こうほすう)の娘婿となった。
だが189年、飢饉の混乱を避けて射援とともに益州へ移住し、劉璋(りゅうしょう)に仕え、長史に任じられた。
214年、劉備が益州を制圧すると射堅は広漢・蜀郡太守に、射援は諸葛亮によって丞相祭酒に任命された。(『先主伝』)



射慈


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謝淵


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謝該  楽詳に左氏伝を教授する


謝該(しゃがい)字は不明
荊州南郡の人(??~??)

後漢の臣。

「魏略」に曰く。
楽詳(がくしょう)は若い頃から学問を好み、建安年間(196~220)のはじめ、公車司馬令の謝該が「春秋左氏伝」に詳しいと聞き、南陽郡から許都まで徒歩で質問に出向いた。そして著した「左氏楽氏問七十二事」は(唐代にも)現存する。(『杜畿伝』)



謝奐  曹丕に遺児を取り立てられた少府


謝奐(しゃかん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

213年、曹操へ魏公即位を勧める書状に長史として連名した。(『武帝紀』)

220年、曹丕は魏王に即位すると、既に没していた少府の謝奐らの功績を改めて採り上げ、子を郎中に取り立てさせた。(『文帝紀』)



謝奇


未作成



謝姫  孫覇の母


謝姫(しゃき)名は不明
出身地不明(??~??)

孫権の側室。
孫覇(そんは)を生んだ。

250年、孫覇は後継者争いで国を傾けた責任により、孫権に自害を命じられた。

264年、孫皓は即位すると、孫覇が父の孫和(そんか)と対立したことを罪に問い、孫覇の二人の子の爵位と封国を剥奪し、祖母の謝姫とともに会稽郡烏傷県に配流し、軟禁状態とした。
以後の消息は不明である。(『孫覇伝』)



謝景  孫登を悼み職場放棄


謝景(しゃけい)字は叔発(しゅくはつ)
司隷南陽郡宛の人(??~??)

呉の臣。

年若く不遇をかこっていたが張承(ちょうしょう)に見出され抜擢された。(『張承伝』)

229年、皇太子になった孫登(そんとう)の側近の諸葛恪(しょかつかく)、張休(ちょうきゅう)、顧譚(こたん)、陳表(ちんひょう)は「四友」と呼ばれ、謝景、范慎(はんしん)、刁玄(ちょうげん)、羊衜(ようどう)ら賓客(補佐)も評判を取り、多士済々と讃えられた。
孫登は胡綜(こそう)に命じて「賓友目」を作らせ、その中で「謝景は綿密な議論は多方面にわたり、言葉によって紛糾した問題を解決できる」と評された。
しかし羊衜は「口は上手いが浮ついている」と指摘した。(『孫登伝』)

また陸機(りくき)は顧譚の伝で「范慎・謝景・羊衜の名声は高かったが顧譚には及ばなかった」と記している。(『顧雍伝』)

謝景は同郷の魏の劉廙(りゅうよく)の「礼よりも刑罰を優先すべきだ」という意見を讃え、陸遜に「劉廙は小賢しい議論で先人の教えをたばかっている。あなたは太子に仕えているのだから、仁と義に基づいた徳を教えるべきで、そんな話を聞かせてはいけない」と強く叱られた。(『陸遜伝』)

豫章太守に赴任すると治績を上げ、先任の顧邵(こしょう)に次ぐと讃えられた。

241年、孫登は病没し、遺言で「張休・顧譚・謝景はよく切れる頭脳で的確な判断を下し、宮廷では主君の心腹として、地方では手足として働ける」と四友と同等の評価をした。

訃報を聞いた謝景は居ても立ってもいられず、職務をなげうって葬儀に駆けつけた。後に職場放棄の罪を請うたが、孫権は「君は孫登の下で働いていたのだから、他人とは立場が違う」と罪に問わなかった。

数年後に在職のまま没した。(『孫登伝』)



謝煚  謝夫人の父


謝煚(しゃけい)名は不明
揚州会稽郡山陰県の人(??~??)

謝夫人(しゃふじん)・謝承(しゃしょう)の父。
謝貞(しゃてい)の兄。

後漢の尚書令や徐県令を務めた。

息子の謝承が著した「後漢書(※現存する物とは別)」に曰く、若い時から仁や孝に基づいて行動し、物事を深く見通し、優れた才能があった。
弟の謝貞も有能だった。

娘の謝夫人は孫権の正室に迎えられた。
寵愛を受けたが、功臣の徐琨(じょこん)の娘で、孫権の縁戚(叔母の孫)でもある徐夫人(じょふじん)を新たにめとることになり、孫権は謝夫人に徐夫人を目上として仕えるよう頼んだ。
だが謝夫人はそれを受け入れられず、孫権の寵愛も薄れてしまい、やがて早逝した。

それから10余年経ち、謝夫人の弟の謝承が取り立てられた。(『孫権謝夫人伝』)



謝厷


未作成



謝宏  位宮の鞍替えを阻止する


謝宏(しゃこう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

「呉書」に曰く。
234年、呉は謝宏と中書の陳恂(ちんじゅん)を使者として句麗王の位宮(いきゅう)に単于(王)の称号や宝物を下賜しようとした。
だが先行した陳奉(ちんほう)は先に魏の使者が訪れ、位宮に呉の使者を始末するよう命令していたことを聞きつけた。
位宮が送った笮咨(さくし)・帯固(たいこ)ら30人を謝宏は捕縛して人質に取り、位宮は魏への鞍替えをやめ、謝罪し数百匹の馬を贈った。
謝宏は笮咨・帯固を解放して予定通りに詔勅と下賜品を与え、船が大きくなかったため馬80匹だけを積み帰還した。

「江表伝」に曰く。
246年、孫権は「かつて謝宏の意見で大銭(単価の高い貨幣)を作ったが不便だという意見が多い。発行をやめて廃止し、所蔵する者には同等の代価を与え回収させよ」と詔勅を下した。(『呉主伝』)

謝厷(しゃこう)という字面のそっくりな人物がおり、「陸遜伝」には237年頃に経済改革を訴えたと記される。(『陸遜伝』)
同一人物の可能性があるがいちおう項は分ける。



謝鯤


未作成



謝賛


未作成



謝子微  18歳の許劭を評価する


謝子微(しゃしび)字が子微か
豫州汝南郡召陵県の人(??~??)

素性不明。

「汝南先賢伝」に曰く。
許劭(きょしょう)が18歳の時(※167年か)、人物鑑定に優れた謝子微は会うと嘆息し「世にめったにいない衆に抜きん出た偉人だ」と評した。(『和洽伝』)



謝慈  孫奮の謀叛を止めて殺される


謝慈(しゃじ)字は孝宗(こうそう)
徐州彭城郡の人(??~254)

呉の臣。

礼についての議論で知られ「喪服図」と「変除」を著し、広く読まれた。

252年、孫奮(そんふん)は呉の実権を握る諸葛恪に脅され、南昌に移住した。

翌253年、諸葛恪が誅殺されると、孫奮は政変に乗じて首都の建業へ進出しようとした。傅相の謝慈に止められると殺害してしまい、とうとう地位を剥奪され庶民に落とされ、身柄を章安県に移された。(『孫奮伝』)



謝順  諸葛恪に撃破された六安の守将


謝順(しゃじゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

243年、諸葛恪(しょかつかく)は六安を攻め、謝順を撃破し民衆を捕虜にした。(『呉主伝』)



謝承  謝夫人の冷遇を乗り越えた弟


謝承(しゃしょう)字は偉平(いへい)
揚州会稽郡山陰県の人(??~??)

謝煚(しゃけい)の子。
謝夫人(しゃふじん)の弟。

博学で見聞が広く、一度でも見聞きしたものは生涯忘れなかった。

姉の謝夫人は孫権の正室に迎えられたが、功臣の徐琨(じょこん)の娘で、孫権の縁戚(叔母の孫)でもある徐夫人(じょふじん)を新たにめとることになり、孫権は謝夫人に徐夫人を目上として仕えるよう頼んだ。
だが謝夫人はそれを受け入れられず、孫権の寵愛も薄れてしまい、やがて早逝した。

それから10余年経ち、弟の謝承が五官中郎将に取り立てられた。
やがて長沙東部都尉、武陵太守に上り、「後漢書(※現存する物とは別)」百余巻を著した。

子の謝崇(しゃすう)・謝勖(しゃぼう)も名を知られた。(『孫権謝夫人伝』)



謝崇  謝承の上の子


謝崇(しゃすう)字は不明
揚州会稽郡山陰県の人(??~??)

謝承(しゃしょう)の子。
謝夫人(しゃふじん)の甥。

伯母の謝夫人は孫権の正室に迎えられたが、功臣の徐琨(じょこん)の娘で、孫権の縁戚(叔母の孫)でもある徐夫人(じょふじん)を新たにめとることになり、孫権は謝夫人に徐夫人を目上として仕えるよう頼んだ。
だが謝夫人はそれを受け入れられず、孫権の寵愛も薄れてしまい、やがて早逝した。

それから10余年経ち、謝夫人の弟の謝承が五官中郎将に取り立てられた。
やがて長沙東部都尉、武陵太守に上り、後漢書(※現存する物とは別)」百余巻を著した。

子の謝崇は揚威将軍に、その弟の謝勖(しゃぼう)も呉郡太守に上り、ともに名を知られた。(『孫権謝夫人伝』)



謝旌  呉の雑魚専将軍


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謝譚


未作成



謝貞  謝煚の弟


謝貞(しゃてい)字は不明
揚州会稽郡山陰県の人(??~??)

謝煚(しゃけい)の弟。

甥(謝煚の子)の謝承(しゃしょう)が著した「後漢書(※現存する物とは別)」に曰く。
掟を正しく履行し、学問を好み正義を尊んだ。孝廉に推挙され、豫章郡建昌県長に赴任し、在任のまま没した。

姪(謝煚の子)の謝夫人(しゃふじん)は孫権の正室に迎えられたが、功臣の徐琨(じょこん)の娘で、孫権の縁戚(叔母の孫)でもある徐夫人(じょふじん)を新たにめとることになり、孫権は謝夫人に徐夫人を目上として仕えるよう頼んだ。
だが謝夫人はそれを受け入れられず、孫権の寵愛も薄れてしまい、やがて早逝した。

それから10余年経ち、謝夫人の弟の謝承が取り立てられた。(『孫権謝夫人伝』)



謝斐  聶友を取り立てる


謝斐(しゃひ)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

虞翻(ぐほん)が度重なる暴言の末に交州へ配流された際に聶友(じょうゆう)は見送りに立った。
言葉を交わした虞翻はその才能に気づき、豫章太守の謝斐に功曹に取り立てるよう勧めた。謝斐が現在の功曹に聶友の評価を尋ねると、彼は「郡の補佐が務まる」と言い、自分の座を譲ることに同意した。(『諸葛恪伝』)



謝夫人  孫権の最初の正室


謝夫人(しゃふじん)名は不明
揚州会稽郡山陰県の人(??~??)

孫権の妻。
謝煚(しゃけい)の娘。

孫権の母の呉夫人(ごふじん)の働きかけにより、正室に迎えられた。
寵愛を受けたが、功臣の徐琨(じょこん)の娘で、孫権の縁戚(叔母の孫)でもある徐夫人(じょふじん)を新たにめとることになり、孫権は謝夫人に徐夫人を目上として仕えるよう頼んだ。
だが謝夫人はそれを受け入れられず、孫権の寵愛も薄れてしまい、やがて早逝した。

それから10余年経ち、弟の謝承(しゃしょう)は武陵太守まで上り、「後漢書(※現存する物とは別)」を著した。(『孫権謝夫人伝』)



謝勖  謝承の下の子


謝勖(しゃぼう)字は不明
揚州会稽郡山陰県の人(??~??)

謝承(しゃしょう)の子。
謝夫人(しゃふじん)の甥。

伯母の謝夫人は孫権の正室に迎えられたが、功臣の徐琨(じょこん)の娘で、孫権の縁戚(叔母の孫)でもある徐夫人(じょふじん)を新たにめとることになり、孫権は謝夫人に徐夫人を目上として仕えるよう頼んだ。
だが謝夫人はそれを受け入れられず、孫権の寵愛も薄れてしまい、やがて早逝した。

それから10余年経ち、謝夫人の弟の謝承が五官中郎将に取り立てられた。
やがて長沙東部都尉、武陵太守に上り、後漢書(※現存する物とは別)」百余巻を著した。

子の謝崇(しゃすう)は揚威将軍に、その弟の謝勖も呉郡太守に上り、ともに名を知られた。(『孫権謝夫人伝』)

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