司馬亮 決断できない司馬懿の三男
司馬亮(しばりょう)字は子翼(しよく)
司隸河内郡温県の人(??~291)
魏・晋の臣。
司馬懿の三男。伏夫人(ふくふじん)の子。
若くして明敏で才幹があり、魏の散騎侍郎・万歳亭侯となり、東中郎将に任じられ、広陽郷侯に進んだ。
257年、諸葛誕の反乱で敗北し免職されたが、左将軍として復帰し散騎常侍・仮節を加えられ、監豫州諸軍事となった。
五等爵が設立されると祁陽伯に改封され、鎮西将軍に転じた。
265年、司馬炎が帝位につくと扶風郡王に封じられ領邑1万戸、持節・都督関中・雍・涼諸軍事となった。
270年、秦州刺史の胡烈(これつ)が禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)に敗死すると司馬亮は劉旂(りゅうきん)・敬琰(けいえん)に救援させたが二人は進軍せず、責任を問われ平西将軍に降格した。
劉旂は死罪に相当し、司馬亮は曹冏(そうけい)とともに弁護したが、司馬炎は「劉旂は胡烈を救援できたのに進軍せず、胡烈が奮闘の末に戦死するのを何もせず眺めていた。劉旂を罪に問わなければ誰が責任を負うのか」と詔勅を下して処刑させ、司馬亮も爵位と封国の没収を建議されたが免職だけに留められた。(『晋書 汝南王亮伝』)
後任の都督雍涼等州諸軍事は弟の司馬駿(しばしゅん)が務めた。(『晋書 扶風王駿伝』)
同年、撫軍将軍に復帰し、呉の歩闡(ほせん)が反乱すると仮節・都督諸軍事として受け入れに当たり、侍中の朝服を加えられた。
咸寧年間(275~280)のはじめ、扶風国の池陽県4100戸が母の伏夫人の領邑となり、後に南郡枝江県に改められた。伏夫人が軽い病にかかり洛水でみそぎをすると、司馬亮ら実子3人が従い、楽器を演奏した。水面が震えて輝き、それを遠くから見ていた司馬炎は「伏夫人は富貴と言うべきだ」と嘆じた。(『晋書 汝南王亮伝』)
弟の司馬駿は孝行で、母が暮らす司馬亮の官舎を訪ねては身を案じて涙し、病気と聞けば公務を捨てて看病することさえあった。(『晋書 扶風王駿伝』)
同年、衛将軍に昇進し侍中を加えられた。この頃、宗室に連なる者は多く統制が取れなかったため、司馬亮が監督に当たった。
277年、汝南郡に移封され鎮南大将軍・都督豫州諸軍事・開府・仮節となった。間もなく都に召され侍中・撫軍大将軍となり、後軍将軍として兵を統率した。さらに太尉・録尚書事・領太子太傅に移り元のまま侍中とされた。(『晋書 汝南王亮伝』)
283年、司馬炎が弟の司馬攸(しばゆう)を封国へ出し都から排斥しようとすると、王渾(おうこん)は「封国で人々の慰撫をさせるなら、司馬亮は司馬攸に劣らない人物だから彼にやらせるべきです。それよりも司馬亮・楊珧(ようちょう)・司馬攸に朝政を司らせたほうが有益です」と反対した。(『晋書 王渾伝』)
崔洪(さいこう)は財貨に興味がなく、珠玉は手に取ろうとさえしなかった。司馬亮の宴会に招かれ、瑠璃の杯を出された時も手にせず、理由を問われると故事を引いてごまかしたが、主義を守るための詭弁だった。(『晋書 崔洪伝』)
289年、司馬炎が重病で床に伏すと、楊駿(ようしゅん)は司馬亮の排斥を企み、侍中・大司馬・仮黄鉞・大都督督豫州諸軍事として都の外へ出し、子の司馬羕(しばよう)も西陽公に封じた。司馬炎はいよいよ重篤となり司馬亮に後事を託そうとしたが、楊駿は華廙(かよく)を通じて詔勅を奪い、実行させなかった。
290年、司馬炎は没し、司馬亮は楊駿の暗躍を知っていたため警戒して宮中に入らず、門外から哀悼の意を表し、埋葬に立ち会うことを求めた。だが楊駿は司馬亮の討伐を企み、司馬亮は廷尉の何勗(かきょく)に善後策を尋ねると「朝廷はあなたに心を寄せているのになぜ楊駿を討伐せず、自分が討伐されるのを恐れているのか」と言われ、別の者にも挙兵を勧められたが、決断できずに任地の許昌へ逃亡した。
291年、楊駿が誅殺されると詔勅により太宰・録尚書事として復帰し、衛瓘(えいかん)とともに朝政を任された。だが人心を得ようとして行った、楊駿誅殺の論功行賞があまりに的外れでかえって名声を失った。(『晋書 汝南王亮伝』)
司馬繇(しばよう)は実権を握るにあたり司馬亮が邪魔だったが、先手を打たれ楊駿討伐の際に一族の司馬楙(しばぼう)を見逃した罪を問われ、ともに免職された。(『晋書 司馬整伝』)
司馬澹(しばたん)は弟の司馬繇が名声あり両親にも愛されていたのを恨み、司馬亮に讒言した。司馬亮も司馬繇を憎んでいたため陥れ封地を移させた。
同伝に異聞がある。
司馬亮ははじめ司馬澹の讒言を聞き入れなかったが、司馬繇が独断で論功行賞をするようになると讒言に惑わされて免職し、さらに暴言を吐いたとして爵位も奪い配流した。(『晋書 司馬覲伝』)
司馬亮・衛瓘は裴楷(はいかい)が楊駿に阿諛追従しなかったと評価し列侯した。さらに司馬瑋(しばい)に代えて北軍中候にしようとしたが、司馬瑋が不満を抱いていると知ると裴楷は辞退した。(『晋書 裴秀伝』)
衛権(えいけん)は司馬亮の甥にあたり(※叔母が司馬亮の妻)尚書郎・東宮の属官となったが、傅咸(ふかん)に「文才があり、あなたの甥ですから尚書郎にするのは当然です。しかし楊駿が政治を壟断し、人材起用の道を閉ざしたように、属官にするのは越権です。たとえば一匹の犬が人に吠えると、他の犬も一斉に吠え始めます。群犬に吠えられるのを恐れれば、結局は考えを変えることになります」と批判された。(『衛臻伝』)
司馬瑋は楊駿誅殺に功績があったが、相手を脅して屈服させるのを好んだため、司馬亮は恐れて兵権を剥奪しようと企んだ。司馬瑋はそれを聞くと激怒し、皇后の賈南風(かなんぷう)と結託して司馬亮・衛瓘は廃位を企んでいると誣告し、配下の公孫宏(こうそんこう)・李肇(りちょう)に夜に司馬亮の役所を包囲させた。(『晋書 汝南王亮伝』)
「楚王瑋伝」にはやや異なるが詳しい経緯が記される。
司馬亮・衛瓘は残忍な司馬瑋を封国へ出して排斥しようと企み、司馬瑋はそれを聞くと激怒した。
衛瓘は軽薄な公孫宏・岐盛(きせい)を嫌い、岐盛の逮捕を目論んだが、岐盛・公孫宏・李肇は先手を打って賈南風に司馬亮と衛瓘が廃位を企んでいると誣告した。賈南風は騙され、司馬衷に討伐の詔勅を出させた。(『晋書 楚王瑋伝』)
李龍(りりゅう)は防戦するよう勧めたが応じず、司馬亮は「私に二心は無いのになぜ来たのか。討伐を命じる詔勅があるなら見せてくれ」と公孫宏らに呼びかけたが、無視され攻撃された。
劉準(りゅうじゅん)は「これは司馬瑋の奸計です。ここには俊才が林のように集まっているから戦うべきです」と言ったがこれも聞き入れず、「私の忠心は天下にはっきり示されているのに無実の人間が殺されてよいものか」と嘆き、ろくに抵抗せず捕らえられた。
猛暑の中で座らされた司馬亮に同情した人々は扇であおいでやった。あえて殺害しようとする者はなく、司馬瑋は「斬れば布1000匹を与える」と焚き付け、欲に目がくらんだ兵によって殺された。
遺体は投棄され、髪・耳・鼻を損壊された。(※衛瓘も殺された)
同年、司馬瑋も誅殺されると名誉は回復され、司馬孚(しばふ)と同等に葬られた。(『晋書 汝南王亮伝』)
裴楷の長子の裴輿(はいよ)は司馬亮の娘婿で、裴楷の娘も衛瓘の子に嫁いでいた。裴楷は都の動乱を察知し外地への赴任を求めたが、その前に司馬亮・衛瓘が司馬瑋に殺された。
司馬瑋は裴楷も殺そうとしたが、裴楷は岳父の王渾のもとへ逃げ、司馬亮の末子とともに一晩で8回も移動して難を逃れた。(『晋書 裴秀伝』)
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