三国志 そ 6


孫伉  公孫瓚に寝返ろうとした鉅鹿郡の豪族


孫伉(そんこう)字は不明
冀州鉅鹿郡の人(??~191)

袁紹の臣。

191年、界橋の戦いに際し、鉅鹿太守の李邵(りしょう)らは袁紹が敗れると考え公孫瓚(こうそんさん)方につこうとした。
袁紹はそれを聞き董昭(とうしょう)に鉅鹿郡を治めさせ、方策を尋ねた。董昭は「一人の力では多数の企みを消せません。反乱者に同調したふりで心を引きつけ、内情をつかんでから適切な処置をするだけです。今は何も言えません」と答えた。
董昭は赴任すると豪族の孫伉が反乱の中心人物だと突き止め、袁紹の命令と偽り「賊の斥候の張吉(ちょうきつ)を捕らえ、彼は孫伉らと同調していると吐いた。すぐに処刑せよ。妻子は連座させるな」と言い、孫伉ら首謀者数十人を殺した。郡は震え上がり、反乱は未然に防がれ袁紹は見事と称えた。
また孫伉は「かつて孝廉に挙げられた」と記され、相当の名士である。(『董昭伝』)



孫弘  三度目の正直


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孫宏  孫資の子


孫宏(そんこう)字は不明
并州太原郡中都県の人(??~??)

魏・晋の臣。
孫資(そんし)の子。

孫資は同郷の人々の中でも地位・名声ともに高く、田豫(でんよ ※列伝される田豫とは別人)、宗豔(そうえん)、楊豊(ようほう)らに嫉妬から恨まれた。だが孫資は全く気にせず、やがて田豫は恥じ入って、宿怨を捨て縁組をしたいと願い出た。
孫資は「私には怨恨はもともと無い。君が悪く思っていただけだから、これからは良く思えばいいだけさ」と言い、孫宏の妻に田豫の娘を迎えた。

250年、父が没すると後を継いだ。
咸熙年間(264~265)、5階級の爵位制度が設けられると、父の功績を改めて採り上げられ、孫宏は離石子に、父の相棒だった劉放(りゅうほう)の子の劉正(りゅうせい)は方城子に取り立てられた。

孫宏は南陽太守にまで上った。(『孫資伝』)

子の孫楚(そんそ)は文才に優れ「流石」や「漱石」の語源となった逸話で知られ、曾孫の孫盛(そんせい)は裴松之もよく註で引く「魏氏春秋」等の著者である。



孫香  孫策のもとへ帰参できず


孫香(そんこう)字は文陽(ぶんよう)
揚州呉郡富春県の人(??~??)

孫孺(そんじゅ)の子。
孫堅の一族(又従弟の子)。

郡に出仕し主簿や功曹を務めた。
孫堅が挙兵するとそれに従い、手柄を立てて郎中に任じられた。

191~192年に孫堅が戦死すると、以降は袁術の傘下に入った。
(197年、)袁術は帝位を僭称した。孫堅の義弟の呉景(ごけい)は広陵太守、甥の孫賁(そんふん)は九江太守、孫香は汝南太守を務めていた。
孫策は袁術からの独立を決意し、三人に誘いを掛けた。呉景はすぐに職務を捨てて走り、孫賁は兵を預かっていたため困難だったが、妻子を残して逃げた。孫香は任地が遠く戻れなかった。

征南将軍まで上り、寿春で没した。(『孫賁伝』)

寿春は袁術の本拠地であり、滅亡とともに落命したのだろうか。



孫紘


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孫高  仇討ちトリオ


孫高(そんこう)字は不明
出身地不明(??~??)

孫堅の三男・孫翊(そんよく)の配下。

204年、孫翊は配下の媯覧(きらん)、戴員(たいいん)によって殺された。
孫翊の未亡人の徐氏(じょし)は二人の言うことを聞くふりで油断させ、その隙に傅嬰(ふえい)・孫高・徐元(じょげん)に命じて仇討ちをさせた。
徐氏も仇討ちトリオもこの逸話にしか登場しない。(『孫韶伝』)

傅嬰はトリオの中で唯一KOEIのSLG「三國志Ⅲ」に登場し、なぜか将軍になれるほどの高パラメーターを与えられた。

孫高は姓から孫一族と思われるが素性は不明。

徐元は姓から徐氏の一族と思われるがやはり素性は不明の挙げ句、トリオの中で唯一「演義」にも、詳細が描かれる「呉歴」にも登場しない。



孫康  孫観の兄


孫康(そんこう)字は不明
兗州泰山郡の人(??~??)

魏の臣。
孫観(そんかん)の兄。

黄巾の乱が起こると臧覇(ぞうは)は孫観とともに挙兵し、徐州刺史の陶謙(とうけん)に従い、騎都尉に任命された。
呉敦(ごとん)・尹礼(いんれい)・昌豨(しょうき)らとともに臧覇を首領に仰ぎ、開陽に駐屯した。(『臧覇伝』・『武帝紀』)

198年、曹操が呂布を攻めると救援したが、呂布が討たれたため逃亡し、臧覇は捕らえられた。だが曹操は彼を気に入り、臧覇を通じて孫観兄弟・呉敦・尹礼が招聘され、孫観は北海太守に、兄の孫康は城陽太守に任じられた。

以降は徐州・青州の統治を任された臧覇のもとで反乱鎮圧に尽力し、孫観は臧覇に次ぐ武功を立て、呂都亭侯に封じられた。
孫康もまた功績によって列侯された。(『臧覇伝』)

「演義」では孫観は臧覇配下の泰山の山賊として登場するが、孫康は影も形もない。



孫皓  三国一の暴君


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孫皎  ジャージの隠れた名将


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孫暠  孫綝の祖父


孫暠(そんこう)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫静(そんせい)の長男。
孫堅の甥(弟の子)にあたる。(『孫静伝』)

200年、孫策が急死すると、烏程に駐屯していた定武中郎将の孫暠はそれに乗じて会稽郡を制圧しようとした。
郡の役所は民衆を動員して守りを固め、孫策の後を継いだ孫権に報告し、使者が送られ孫暠に心得違いを説いた。

「会稽典録」によると、虞翻(ぐほん)が「孫権様は後継ぎにふさわしい方です。我々が防備を固めているのは、孫権様のために害を除こうと願ってのことです。どうか考え直してください」と説得し、孫暠は引き上げた。(『虞翻伝』)

孫瑜(そんゆ)ら3人の弟(末弟は事績が不明)はいずれも呉の重臣に上ったが、長兄の孫暠だけが問題児で、その血は孫の孫綝(そんちん)に受け継がれ、独裁の果てに一族は粛清される。(『孫静伝』・『孫綝伝』)



孫興  孫輔の子ら


孫興(そんこう)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫輔(そんほ)の子。

孫輔は従弟の孫権では統治は難しいと考え、密かに曹操と内通したのが発覚し、幽閉され数年後に没した。

孫興・孫昭(そんしょう)・孫偉(そんい)・孫昕(そんきん)ら4人の子はそれぞれしかるべき地位についた。(『孫輔伝』)

また姉妹は駱統(らくとう)に嫁いだ。212年より後のことで、すでに孫輔は幽閉されていると思われ、内通の発覚後も子には累は及ばなかった。(『駱統伝』)



孫𩃙  孫休の次男


孫𩃙(そんこう)字は𧟨(けん)
揚州呉郡富春県の人(??~265)

孫休の次男。

孫休は学問を好み、名と字はオリジナルでなければいけないと唱え、4人の息子に独自に考案した漢字の名と字を付けた。
(※裴松之は「前代の教えに反し、後世に笑われる愚かさで、こんなことをしているから死後に墓の土も乾かないうちに妻子が皆殺しになったのだ」と罵倒している)

「江表伝」に曰く、264年、病の重くなった孫休は口が利けず、字を書いて丞相の濮陽興(ぼくようこう)を呼び寄せ、長男の孫𩅦(そんわん)を彼に拝礼させると、濮陽興の手を取って孫𩅦を指ささせ、後事を託した。(『孫休伝』)

その頃、蜀が滅び、交州が離反しと情勢が不安定で、群臣は幼い孫𩅦よりも、孫晧に後を継がせるべきだと考え、孫休の皇后の朱夫人(しゅふじん)に伺いを立てた。
彼女は「私は夫を失った一人の女に過ぎず、国家のことはわかりません。国を保ち、祖先の祭祀が続けられるならそれで良いでしょう」と同意した。
だが孫晧は即位からわずか1ヶ月で皇太后から皇后へ降格させ、さらに孫𩅦を豫章王、弟の孫𩃙を汝南王、孫壾(そんもう)を梁王、孫𠅨(そんほう)を陳王に封じ、四兄弟を都から出した。

翌265年、孫晧は朱夫人を殺し、また孫𩅦ら四兄弟を幽閉し、年長の2人は殺された。(『孫晧伝』)



孫策  小覇王


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孫子才


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孫氏  王脩に屈服した親分


孫氏(そんし)名は不明
青州北海郡高密県の人(??~??)

庶民。

王脩(おうしゅう)は初平年間(190~193)に北海太守の孔融(こうゆう)に主簿に招かれ、高密県令を代行した。当地の顔役の孫氏は勢力が強く、子分や食客が罪を犯しても処罰できなかった。王脩は役人と住民を引き連れ彼の家を包囲した。役人らが気後れすると、王脩は攻めなければ同罪だと叱咤し、おじけづいた孫氏は罪人を差し出した。これ以来、顔役たちは服従するようになった。(『王脩伝』)



孫氏  鍾会ママに嫉妬した(?)正室


孫氏(そんし)名は不明
出身地不明(??~??)

鍾繇(しょうよう)の正室。

鍾会の記した母の伝記に曰く。
側室の孫氏(※実際には正室)は身分高く正室に代わって家事を取り仕切り、鍾会の母で賢明な張氏(ちょうし)を嫌い遠慮なく悪口を言った。孫氏は口が達者で濡れ衣を着せるのが得意だったが、張氏は陥れられなかった。
張氏が身ごもるといよいよ嫉妬し、食事に毒を混ぜた。誰の仕業か気付いたがなぜ黙っているのか聞かれた張氏は「正室と側室が傷つけ合うのは古来より戒められています。公(鍾繇)に訴えてたとえ信じてもらえても、証拠はありません。しかし孫氏は私が訴えると考え、先手を打って公に話すでしょう。自ら罪を暴くとは痛快ではないですか」と答えた。
はたして孫氏は「張氏が男子を欲しがっていたので、男子をもうける薬を飲ませただけです」と弁解したが、鍾繇は「こっそり食事に混ぜるのは人情から外れている」と言い、協力者を尋問し白状させ、孫氏を離縁した。鍾繇もなぜ訴えなかったのかいぶかり、先の張氏の言葉を聞くと驚き、ますます賢明だと思った。
225年に鍾会が生まれ、いよいよ寵愛は増した。(『鍾会伝』)

「魏氏春秋」に曰く。
張氏を寵愛した鍾繇は正室を離縁した。卞太后(べんたいこう)が取りなしてやり、曹丕は復縁を詔勅で命じたが、鍾繇は憤激して自害しようと思い、鴆毒(猛毒)を求めたが見つからず、代わりに山椒を(大量に)食べて口が利けなくなり、曹丕は勅命を取り下げた。

「ちくま版」の訳者は、正室の孫氏が側室と記されるなど、張氏を美化するためかなりいいかげんなことが書かれていると指摘する。



孫氏  鄭袤の前妻


孫氏(そんし)名は不明
出身地不明(??~??)

「晋書」に列伝される鄭袤(ていほう)の最初の妻。

鄭袤ははじめ孫氏をめとったが早くに亡くしたため、曹氏(そうし)を後妻に迎えた。

273年、鄭袤が没すると、前妻の孫氏が亡くなってから長く経ち、合葬は難しいと人々は考えたが、曹氏は「どうして魂をひとり寄る辺なきままにさせておけるでしょうか」と反対し、儀式を整え合葬させた。人々は趙姫の故事(重耳の娘の趙姫は身分の低い前妻の子を後継者に立て、自らは側室に甘んじた)と比べてもまだ足りないと感嘆した。(『晋書 列女伝』)



孫咨


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孫資  ただものではない腰巾着


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孫綽  孫綝の父


孫綽(そんしゃく)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫暠(そんこう)の長男。(『孫静伝』)

安民都尉を務めた。
子の孫綝(そんちん)は呉の後期に専権を振るい、孫休に兄弟ともども粛清された。(『孫綝伝』)



孫鑠  石苞の窮地を救う


孫鑠(そんしゃく)字は巨鄴(きょぎょう)
司隸河内郡懐の人(??~??)

魏・晋の臣。

若い頃に県の役人を務めた。太守の呉奮(ごふん)に抜擢され主簿を務めたが、貧しい出自の孫鑠は侮られ、同僚たちは同席しようとしなかった。呉奮は怒り、州(司隸)に推挙した。司隷校尉の劉訥(りゅうとつ)にも高く評価された。

268年、呉の丁奉は石苞(せきほう)が内通しているという偽報を流した。司馬炎はそれを信じ、密かに石苞の討伐を命じた。
その頃、石苞に招聘された孫鑠は許昌を通り、守将の司馬駿(しばしゅん)に挨拶した。司馬駿は同郷の彼を気に入り、巻き込まれないよう討伐の件を教えてやった。孫鑠の口から石苞に伝わり、石苞はただちに武装解除して謹慎し、二心がないことを訴え、司馬炎もようやく誤解に気づいた。
司馬駿は石苞に代わり都督揚州諸軍事に移り、丁奉を撃退した。

孫鑠はその後、尚書郎に上り、十に余る議論を展開し、人々に称賛された。(『晋書 石苞伝』)



孫孺


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孫秀  亡国の孫秀


孫秀(そんしゅう)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~302?)

呉の臣。
孫泰(そんたい)の子。

前将軍・夏口督を務めた。
孫皓は彼が皇族の中でも血の繋がりが濃く(孫権の弟の孫にあたる)兵権も持っているため反乱を危惧していた。

270年、孫皓は寵臣の何定(かてい)に5千の兵を預け、夏口で巻狩りをさせた。孫秀は以前から自分が陥れられるだろうという噂を耳にしており、ただの巻狩りではないと疑心暗鬼を生じ、妻子や子飼いの兵ら数百人を引き連れ晋へ亡命した。
晋は彼を驃騎将軍・儀同三司に任じ、会稽公に封じた。(※祖母は曹操の姪(弟の子)であり、すでに魏から禅譲されていたとはいえ、その血統も功を奏しただろう)
孫皓はそれを聞くと激怒し、孫秀の姓を災いを意味する厲(れい)に改めさせた。

280年、呉が滅亡すると晋の朝廷は祝賀ムードに沸き返る中、孫秀は病と称して加わらず、故郷の南を向いて泣きながら「昔、孫策様は20歳の校尉から大業を起こされた。しかし孫皓は江南の地の全てを捨てた。宗廟も陵墓も廃墟となるだろう。はるかなる蒼天よ、亡国の主君はなんという人でなしか」と嘆いた。朝廷をあげて孫秀の言動は賛美された。

その後、官位は伏波将軍に落とされたが、開府はそのまま認められた。(『孫匡伝』)

孫秀は投降者のため人望は高くなく、中央の人々は自分に仕えるのを恥と思うだろうと考え、身分の低い陶侃(とうかん)らを招いた。
陶侃は後に「晋書」に列伝されるほどの名将となった。(『晋書 陶侃伝』)

司馬炎は義妹(妻の妹)の蒯氏(かいし)を孫秀に娶らせた。ある時、蒯氏は口喧嘩の際に夫を狢(南方の獣の意)と罵った。孫秀は激怒し口を利かなくなった。
司馬炎が「三国統一し大赦を行った。君も赦してくれないか」と仲裁し、孫秀は機嫌を直し夫婦仲は睦まじくなった。(『世説新語』)

297年、氐族の斉万年(せいばんねん)が反乱すると、周処(しゅうしょ)が討伐を命じられた。孫秀は彼が死地に追いやられていると気付き「君には老母がいるのだから辞退できる」と勧めた。だが周処は「忠義と孝行は両立できません。親元を離れ主君に仕えれば、父母にも子を思い通りにできません。今日が私の死ぬ時です」と聞き入れず、戦死した。(『晋書 周処伝』)

永寧年間(301~302)に死去し、驃騎将軍・開府を追贈された。
子の孫倹(そんけん)は給事中まで上った。(『孫匡伝』)

同じく呉から晋へ亡命した孫楷(そんかい)に、厳格に身を処した点では勝ったが、名声では及ばなかったという。(『孫韶伝』)

また裴松之は「孫秀・孫楷は晋に極端に優遇されたが、呉の滅亡後に位階を数等も下げられた。これははじめの待遇が度を越していた結果ではなかろうか」と述べている。(『高貴郷公紀』)



孫秀


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孫叔然  東州の大儒


孫叔然(そんしゅくぜん)字が叔然
青州楽安郡の人(??~??)

隠者。
本名は孫炎(そんえん)。司馬炎の諱を避けたと裴松之は指摘している。
「王朗伝」に附伝される。

大学者の鄭玄(じょうげん)の門弟で「東州の大儒」と呼ばれた。
秘書監に招かれたが出仕しなかった。

王粛(おうしゅく)は賈逵(かき ※魏の重臣とは別人)や馬融(ばゆう)の学問に親しみ、鄭玄を好まなかった。
「聖証論」を著し鄭玄を批判すると、孫叔然は反駁した。

「春秋」や「礼記」の注釈を十余編著し、周生烈(しゅうせいれつ)、董遇(とうぐう)らの注釈とともに広く世間に伝わった。(『孫叔然伝』)



孫述  孫鄰の子の武昌督


孫述(そんじゅつ)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫鄰(そんりん)の子。孫賁(そんふん)の孫。

249年、父が没すると兄の孫苗(そんびょう)が後を継いだ。

孫述は武昌督まで上り荊州を統治した。

他に兄弟の孫旅(そんりょ)・孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)・孫歆(そんきん)や、叔父の孫安(そんあん)・孫熙(そんき)・孫績(そんせき)らもしかるべき官位についた。(『孫賁伝』)



孫俊


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孫俊  孫謙とともに殺される


孫俊(そんしゅん)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~266)

孫和(そんか)の四男。
母は張承(ちょうしょう)の娘。

聡明で物事の道理に通じると国中で評判を取った。

258年、孫休は即位すると孫和の3人の子を列侯し、末子の孫俊は騎都尉に任じられた。

266年10月、永安の山賊の施但(したん)が反乱し、三兄の孫謙(そんけん)を強引に皇帝として擁立した。
反乱軍は建業まで迫ったが、守る諸葛靚(しょかつせい)と丁固(ていこ)にたやすく打ち破られた。(『孫皓伝』・『孫和伝』)
孫謙はたった一人で馬車に座っており、生け捕りにされた。丁固は捕らえた孫謙の処遇に困り、異母兄の孫皓に報告すると、毒殺を命じられた。(※「孫皓伝」には自害したと記される)

母親や息子、弟の孫俊もともに殺された。

次兄の孫徳(そんとく)は少なくとも殺されたという記述はない。(『孫和伝』)



孫洵


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孫峻  はじめ英雄あと暴君


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孫遵  西陵の戦いの公安督


孫遵(そんじゅん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

272年、呉の西陵督の歩闡(ほせん)が反乱した。
晋は援護するため羊祜(ようこ)や楊肇(ようちょう)、徐胤(じょいん)を援軍として送った。
徐胤は水軍を率いて建平へ向かい、陸抗(りくこう)は羊祜を公安督の孫遵に、徐胤を留慮(りゅうりょ)と朱琬(しゅえん)に足止めさせ、自らは楊肇と対峙した。

数ヶ月後、陸抗は楊肇を撃破し、晋軍は撤退した。歩闡は降伏し処刑された。(『陸抗伝』)

274年9月、江夏太守の嵇喜(けいき)は侵攻してきた呉の孫遵・李承(りしょう)を撃退した。(『晋書 武帝紀』)



孫助


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孫諝  呂興に殺された交阯太守


孫諝(そんしょ)字は不明
出身地不明(??~263)

呉の臣。

出典ごとに微妙に事績が異なるので以下に列記する。

交阯太守の孫諝は技術者1千人を徴用し都に送った。
263年、都から察戦(※役職名)が訪れると郡の人々はまた徴用されるのではと恐れた。郡役人の呂興(りょこう)はこれに乗じて兵や民を扇動し、異民族まで招き寄せ、孫諝を殺し、魏へ鞍替えした。(『孫休伝』)

曹奐は詔勅で「孫休は鄧句(とうこう)を遣わして交阯太守(孫諝)に命じ、住民を鎖につないで連行し徴兵した。大将の呂興は民の怒りを利用して挙兵し、鄧句を殺し、太守を追放した」と述べた。(『陳留王紀』)

孫諝は欲が深く暴虐で、民衆に憎まれていた。察戦の鄧荀(とうじゅん)が訪れ孔雀3千羽を徴発させた。労役に苦しむ民を扇動し、郡役人の呂興が反乱し孫諝と鄧荀を殺した。(『晋書 陶璜伝』)



孫丞


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孫承  孫奐の長男


孫承(そんしょう)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~243)

呉の臣。
孫奐(そんかん)の長男。

234年に没した父の後を継ぎ沙羨侯・江夏太守となり、昭武中郎将として兵も受け継いだ。

243年に没し、男子が無かったため庶弟の孫壱(そんいつ)が後を継ぎ高位に上るも、孫綝(そんちん)に睨まれた末に魏へと亡命している。(『孫静伝』)



孫松  孫翊を反面教師にした子


孫松(そんしょう)字は子喬(しきょう)
揚州呉郡富春県の人(??~231)

孫翊(そんよく)の子。
孫堅の孫。
「孫翊伝」に附伝される。

父の孫翊は粗暴で、恨みを抱いた部下に暗殺された。(『孫翊伝』)

229年、孫権は建業に遷都すると、もとの都の武昌に太子や皇子を置き、陸遜に太子の後見役と荊州方面の監督を任せた。
射声校尉の孫松は特に孫権にかわいがられていたため、真面目に兵の訓練をしなかった。陸遜はそれを弾劾し、係の役人を髡刑に処した。(『陸遜伝』)

「呉録」に曰く、孫松は交友を大切にし、財貨を惜しみなく人々に与えた。
巴丘で駐屯軍を率いていた時、しばしば陸遜に施策について意見を求めた。
ある時、過失を犯し陸遜に責められると、孫松の顔色がみるみる変わった。陸遜は落ち着くのを待ち「あなたはいつも率直な意見を求めるので、ありのままに申し上げたが、珍しく顔色を変えたのはなぜですか?」と問うた。
孫松は笑い「こんなことをしでかした自分に腹が立ったのだ。あなたに恨みを持つわけがない」と言った。

射声校尉・都郷侯に上り、231年に没した。
諸葛亮は兄の諸葛瑾(しょかつきん)の子で養子に迎えていた諸葛喬(しょかつきょう)から孫松の話をよく聞いており、諸葛瑾に手紙を送り「立派な器量を持っておられたので心を痛めています。かつて私にしてくれた贈り物を見ると涙が止まりません」と死を悼んだ。(『孫松伝』)



孫尚香  弓腰姫


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孫邵  謎の初代丞相


孫邵(そんしょう)字は長緒(ちょうしょ)
青州北海郡の人(163~225)

呉の臣。

八尺の長身だった。
はじめ北海太守の孔融(こうゆう)の功曹を務め「朝廷に立つ人材だ」と称賛された。
後に揚州刺史の劉繇(りゅうよう)に身を寄せ、劉繇が孫策に撃破され江東が制圧されると臣下となり、しばしば献策し、朝貢すべきだと意見し、孫権に採り上げられた。
廬江太守に任じられ、車騎将軍長史に上った。

220年、曹丕は帝位につくと孫権を呉王に封じ、かつて呉の捕虜だった浩周(こうしゅう)を使者として向かわせ、息子を人質に出すよう促した。孫権は表は殊勝に見せながら理由をつけて断り、その中で「息子と孫邵と張昭(ちょうしょう)を都に送り、嫁を探したい」と述べた。
曹丕は「孫邵と張昭は孫権の手足というべき臣下で、しかも都で嫁を探したいとは、孫権に異心の無い証だ」と喜んだが、結局誰も送られなかった。

221年、鄭札(ていさつ)・張昭・孫邵は朝廷の儀礼制度を定めた。

222年、丞相・威遠将軍となり陽羨侯に封じられた。(『呉主伝』)
人々はみな初代の丞相には張昭が相応しいと考えていたが、孫権は「百官の取りまとめに当たる丞相の責務は重大で、それに任ずるのは張昭を優遇することにはならない」と言い、孫邵を任じた。(『張昭伝』)

曁艶(きえん)が人事を壟断すると、張温(ちょうおん)とともに孫邵を讒言し、孫邵は官を辞して罪を請うたが、孫権は復職させ慰留した。

225年、63歳で没した。
顧雍(こよう)が後任の丞相に任じられた。(『呉主伝』)
この時も百官は張昭を後任に推挙したが、孫権は「どうして張昭に物惜しみするものか。丞相の職務は煩雑で、剛直な彼は意見が通らなかった時に、感情的な行き違いが起こるだろう。丞相に任ずるのは彼のためにならない」と反対した。(『張昭伝』)

後世の劉声叔は「孫邵は名声や官位からいって当然、列伝されるべきだった。しかし「呉書」を編纂した韋昭(いしょう)が張温の派閥に属していたから、(呉書を参考にした陳寿の正史でも)列伝されなかったのだろう」と述べている。(『呉主伝』)

だが孫邵の他にも呉は多くの重要人物が列伝されておらず、韋昭ら「呉書」の編纂の中心人物の多くが志半ばであるいは処刑され、あるいは左遷されたことが最大の原因であろう。

「演義」にも登場しない。



孫昭  孫輔の子ら


孫昭(そんしょう)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫輔(そんほ)の子。

孫輔は従弟の孫権では統治は難しいと考え、密かに曹操と内通したのが発覚し、幽閉され数年後に没した。

孫興(そんこう)・孫昭・孫偉(そんい)・孫昕(そんきん)ら4人の子はそれぞれしかるべき地位についた。(『孫輔伝』)

また姉妹は駱統(らくとう)に嫁いだ。212年より後のことで、すでに孫輔は幽閉されていると思われ、内通の発覚後も子には累は及ばなかった。(『駱統伝』)



孫紹  孫策の子


孫紹(そんしょう)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

孫策の子。

229年、孫権は帝位につくと亡兄の孫策へ長沙桓王を追贈し、その子の孫紹を呉侯に封じた。
後に上虞侯に改められた。

没すると子の孫奉(そんほう)が爵位を継いだ。

陳寿は「孫権の兄への尊崇は十分ではなく、孫紹に侯の位しか与えなかったのは道義に欠ける」と批判した。
一方で孫盛(そんせい)は「孫策の代からの宿将たちの子弟は親に劣った。だから孫権は、孫紹を侯の位に留め、子弟の爵位を必要以上に上げないよう取り計らったのだろう」と指摘している。(『孫策伝』)

また「張昭伝」の註に引かれる「呉録」では、張昭(ちょうしょう)・孫紹・滕胤(とういん)・鄭礼(ていれい)が朝廷の儀礼制度を制定したと記される。
だが「呉主伝」では張昭・孫邵(そんしょう)・鄭札(ていさつ)が制定したとされる。
鄭礼は鄭札の誤記と思われるため、孫紹も孫邵の誤記と考えるべきだろう。(『張昭伝』・『張昭伝』)

なお執筆時点ではwikiでも儀礼制度の制定に関わったのは孫紹と記されている。



孫紹


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孫韶  孫家の若き俊英


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孫慎


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孫震  孫鄰の子の無難督


孫震(そんしん)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫鄰(そんりん)の子。孫賁(そんふん)の孫。

249年、父が没すると兄の孫苗(そんびょう)が後を継いだ。

孫震は無難督まで上った。

他に兄弟の孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)・孫諧(そんかい)・孫歆(そんきん)や、叔父の孫安(そんあん)・孫熙(そんき)・孫績(そんせき)らもしかるべき官位についた。(『孫賁伝』)

280年、晋の大軍が迫り、護軍将軍の孫震、丞相の張悌(ちょうてい)、丹陽太守の沈瑩(しんえい)は3万の兵を率い長江を渡って迎撃した。
晋の張喬(ちょうきょう)は7千の兵で揚荷橋を守っていたが降伏を申し出た。諸葛靚(しょかつせい)は無視して殲滅すべきだと進言したが、張悌は「強敵が前方に控えており、小勢にかかずらっている場合ではない。それに降伏してきた者を殺すのは不祥だ」と却下した。
諸葛靚はなおも「こいつらは援軍が来ないからひとまず偽って降伏しただけで、本心ではありません。戦意を失っている今のうちに全員生き埋めにすべきで、捨て置けば後の災いとなります」と反対したが、張悌は聞き入れなかった。
結局、呉軍が不利に陥ると張喬はその背後を襲い、張悌・孫震・沈瑩らは捕らえられた。(『孫皓伝』)

三人は処刑された。(『孫賁伝』)



孫嵩  趙岐を救った侠客・孫賓碩


孫嵩(そんすう)字は賓碩(ひんせき)
青州北海郡の人(??~??)

後漢の臣。
「正史」には名は記されず孫賓碩と書かれる。

はじめ家は貧しかった。

延熹年間(158~167)頃、常侍(宦官)の唐衡(とうこう)は皇帝のような絶大な権力を持っていた。
唐衡の弟(※名は不明)は京兆郡の都尉に着任すると、兄の権威を傘に着て横暴に振る舞った。郡の功曹の趙息(ちょうそく)はひるまずそれを咎めると、目には目をと無礼な態度で対応した。
唐衡の弟は激怒し、兄に要請して京兆尹になると、趙一族のうち身長一尺以上の者は子供も含め全員処刑し、匿う者も同罪と布告した。
趙息とおじ(従父)の趙岐(ちょうき)だけが逃亡し、趙岐は姓名を変えて北海郡に流れ着いた。

20余歳の孫嵩は餅売りをしている趙岐を見かけ、凡人ではないと思い話しかけると「餅は30銭で仕入れ30銭で売る」と(むちゃくちゃなことを)言われ、商人ではないと見抜き、馬車に乗せた。
趙岐は彼が唐衡の刺客だと思い顔面蒼白になったが、孫嵩は「あなたの様子を見るに亡命者だろう。私には100人の一家と100歳になる老母がいて、あなたの力になれるし絶対に裏切らない」と事情を聞き取り、家に迎えて匿った。

数年後、唐衡兄弟が没した(一族も失脚した)ため、趙岐を故郷に帰した。
趙岐は太守、刺史、太僕と昇進して行き、孫嵩も東国で名声を博し、やがて豫州刺史に上った。

193年、東方が飢饉に襲われたため、荊州へ移住した。
興平年間(194~195)、趙岐は節を預かり各地の慰撫に赴き、荊州で孫嵩と再会し、涙を流し喜び合った。(『閻温伝』)

破壊された洛陽の修復のため、趙岐は荊州牧の劉表(りゅうひょう)へ物資援助を求めた。
孫嵩はあまり劉表に厚遇されていなかったが、趙岐は彼に助けられた話を詳しく伝え、劉表とともに青州刺史に推挙した。
趙岐は老齢のため荊州に留まった。(『後漢書 趙岐伝』)

数年後、孫嵩が病没すると趙岐は喪に服した。

「魏略」では楊豊(ようほう)、祝公道(しゅくこうどう)、鮑出(ほうしゅつ)とともに「勇侠伝」に列伝された。
著者の魚豢(ぎょかん)は「司馬遷は季布を助けた周氏・朱家を讃えたが、孫嵩・祝公道の義心はそれ以上である。彼らの名を消さず、軽薄な世俗を正すことを願う」と評した。

また裴松之は孫嵩だけが漢代の人物ながら「魏略」に列伝されているのは、魏の時代に近く、事績が似通っているからだろう、と推測している。(『閻温伝』)



孫崧  邴原の師事を断る


孫崧(そんすう)字は不明
青州北海郡安丘県の人(??~??)

隠者?
孫嵩(そんすう)と同一人物とされるが項を分ける。

邴原(へいげん)は成長すると孫崧を師事しようとしたが、彼は固辞した。
孫崧は「君の郷里にいる鄭玄(じょうげん)を知っているか」と聞き、「鄭君の学問は古今を通覧し、博聞強記で事物の奥底にある真理を探り出し、まことに学者の師表である。君は鄭君ではなく千里を旅して私を師事に来た。これは孔子を東隣の丘さん(※孔子の名は孔丘)扱いしているようなものだ」と言った。
邴原は「人の希望はそれぞれ違うものです。山の者に海の深さはわからず、海の者に山の高さはわからないわけではありません。あなたこそ私を西隣りの愚者と思っているのではありませんか」と答えた。
孫崧は当意即妙な返答に感心し「兗州・豫州に君ほどの人物はいない」と師事は断ったが書物を分け与えた。
邴原は「師弟は気高い思想で通じ合うもので、分け与えることで成立するただの交際とは違う」と考え、受け取った書物をしまい込み、旅に出た。

8~9年に渡り一人で行脚し、各地で高名な人物と交友した。
旅を終えた邴原は孫崧に書物を返却し、心中を明かした。(『邴原伝』)



孫盛


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孫静  控えめな末弟


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孫績  孫鄰の弟C


孫績(そんせき)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫賁(そんふん)の子。孫鄰(そんりん)の弟。

249年、孫鄰が没すると子の孫苗(そんびょう)が後を継いだ。

他に兄弟の孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)・孫歆(そんきん)や、孫鄰の弟の孫安(そんあん)・孫熙(そんき)・孫績らもしかるべき官位についた。(『孫賁伝』)



孫楚


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孫琮  降伏で油断させ呉を偵察した使者B


孫琮(そんそう)字は不明
出身地不明(??~??)

公孫淵(こうそんえん)の臣。

232年、、公孫淵は校尉の宿舒(しゅくじょ)と郎中令の孫琮を呉へ送り降伏を申し出た。

233年、宿舒・孫琮の帰国に孫権は1万の兵と使者を同行させた。
顧雍(こよう)らは公孫淵はまだ信頼できないから、護衛の兵を数百人付けるだけでいいと諌めたが孫権は聞き入れず、公孫淵は裏切り使者を殺して兵を奪った。(『呉主伝』)

「魏略」に曰く。
公孫淵は魏に恭順の意を示すため「宿舒・孫琮が偵察したところ呉の兵は少なく、孫権は彼らから私の息子のことを聞き、勝手に官位を与えました」と述べた。

「魏臣名奏」に曰く。
夏侯献(かこうけん)は上表で「公孫淵は呉を頼りにしようとしたが、宿舒らが呉の兵が少ないと報告したため断交した」と述べた。(『公孫度伝』)



孫泰  孫匡の子


孫泰(そんたい)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~234)

呉の臣。
孫匡(そんきょう)の子。孫権の甥にあたる。

母は曹操の姪(弟の子)で、父の孫匡は20歳あまりで亡くなった。

長水校尉まで上ったが234年、合肥新城の戦いで流れ矢に当たり討ち死にした。(『孫匡伝』)
射殺したのは満寵(まんちょう)の兵である。(『満寵伝』)

子の孫秀(そんしゅう)は孫皓に疎まれ270年、晋へと亡命した。
すでに魏から禅譲されていたとはいえ、祖母の血統もあってか大歓迎を受けた。(『孫匡伝』)

また「反三国志」に同姓同名の人物が登場するが、魏の将で別人だろう。



孫耽


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孫超


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孫肇  劉範の救出に失敗


孫肇(そんちょう)字は不明
出身地不明(??~??)

劉焉(りゅうえん)の臣。

194年、劉焉と長男の劉範(りゅうはん)は共謀し馬騰(ばとう)とともに長安を攻めたが、計画は露見した。劉範は馬騰の陣営へ逃げ、父に援軍を要請した。校尉の孫肇が救援に駆けつけたが敗走した。(『劉焉伝』)



孫綝  殺人鬼


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孫登  父への遺言


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孫登  嵆康に警告を与えた隠者


孫登(そんとう)字は公和(こうか)
司隸汲郡共県の人(??~??)

隠者。

家族はなく汲郡の北の山に洞穴を作り暮らした。夏には草を編んで服を作り、冬には髪を伸ばして身体を覆った。「易」を読むことと琴を奏でるのを好み、彼と会った人は誰もが親しみ楽しんだ。
決して怒らず、ある人がわざと怒らせようと水中に投げ込んだ時も大笑いしながら上がってきた。
山を降りると人々に衣食を提供され、遠慮せず受け取ったが帰る時には置いて行った。
宜陽山を訪ねた時、炭作りの職人と会い、職人は非凡に思い話そうとしたが応じなかった。
司馬昭は評判を聞き阮籍(げんせき)に会いに行かせたが全く話さなかった。(『晋書 孫登伝』)

蘇門山で阮籍は孫登に出会った。議論に興味を示さず、阮籍が歌って帰ろうとすると、山の中腹まで降りたところで孫登の歌声が響いてきた。(『晋書 阮籍伝』)
「魏氏春秋」では孫登ではなく蘇門生(そもんせい)の逸話として記される。(『王粲伝』)

嵆康(けいこう)も訪ねたが3年に渡り口を利かれずいつも嘆息した。別れ際に「先生は最後まで無言なのですか」と言うとついに口を開き「あなたは火を御存知か。火がおこると光が現れる。しかし光を使うことはできない。人とともに才覚も生まれるが才覚は使えない。だから光を使うことは薪を得ることにあり、薪を得れば輝きを保てる。才覚を使うことは自然の道を知ることにあり、それを知れば生命を全うできるのだ。あなたは才覚は多いが自然の道を知ろうとせず、ゆえに今の世では災難を免れるのは難しい。自然の道を知りたくはないのか」と答えた。
嵆康は後に罪に陥れられ処刑された。死を前に「幽憤詩」を作りその中で「過去の人物では柳下恵に恥じ、現代の人物では孫登に恥じる」と述べた。(『晋書 孫登伝』)

「嵆康集目録」に曰く。
出身地はわからないが嵆康は汲県の北にある山の洞穴で出会った。

「魏氏春秋」に曰く。
嵆康は汲郡の共北山で薬草を採っている時に出会った。話そうとしたが無視され、別れ際に「先生は最後まで無言なのですか」と言うとついに口を開き「君は才能は多いが見識に乏しい。今の世では災難を免れるのは難しいだろう」と答えた。

「嵆康別伝」に曰く。
孫登は嵆康に「君の性格は激烈で才能は優れている。だから災難を免れられまい」と言った。

「晋陽秋」に曰く。
孫登は口をすぼめて長く歌うだけで何も語らなかった。別れ際に「先生は最後まで無言なのですか」と言うと「惜しいことだ」とだけ答えた。

裴松之は「いずれも同じ逸話だが作者によってこれほどの差異が生まれる」と指摘する。(『王粲伝』)

楊駿(ようしゅん)は孫登を招き衣服を贈った。孫登はそれを切ってしまい「切れ切れ刺せ刺せ」と大声で言った。10日後、病死と偽って帰った。
専権を振るう楊駿は後に粛清され、人々は孫登の予言だと思った。(『晋書 楊駿伝』)

ある人は孫登について「魏・晋の交代期には(うかつに口を利けば)嫌疑を招いたから無言になったのだ」と語った。

その最期を知る者はいない。(『晋書 孫登伝』)



孫徳  孫和の次男


孫徳(そんとく)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

孫和(そんか)の次男。

258年、孫休は即位すると孫和の3人の子を列侯し、孫徳は銭唐侯に封じられた。

266年10月、永安の山賊の施但(したん)が反乱し、上の弟(三男)の孫謙(そんけん)を強引に皇帝として擁立した。
反乱軍は建業まで迫ったが、守る諸葛靚(しょかつせい)と丁固(ていこ)にたやすく打ち破られた。(『孫皓伝』・『孫和伝』)
孫謙はたった一人で馬車に座っており、生け捕りにされた。丁固は捕らえた孫謙の処遇に困り、異母兄の孫皓に報告すると、毒殺を命じられた。(※「孫皓伝」には自害したと記される)

母親や息子、下の弟(四男)の孫俊(そんしゅん)もともに殺された。(『孫和伝』)

孫徳は少なくとも殺されたという記述はない。あるいは事件前に没していたのだろうか。



孫覇  二宮の変を招く


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孫璠


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孫弥


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孫弥


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