三国志 し 6


女尚  郭懐・袁信と乱交した女官


女尚(じょしょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の保林(※女官)。

「王沈魏書」に曰く。
司馬師らは曹芳の廃位を求める上奏の中で「郭懐(かくかい)・袁信(えんしん)らつまらぬ役者を宮殿に引き入れ、全裸で保林の女尚らと乱交させた。妖婦の恰好をさせて悪ふざけさせたり、親族の女性と酒席で乱交させた。
保林の李華(りか)・劉勲(りゅうくん)ともいちゃつき、清商令(※女官長)の令狐景(れいこけい)が叱りつけると、李華・劉勲は曹芳に言いつけ、曹芳はハジキ(※弾棊に使うスティック?)で令狐景の頭や目を殴り、なおもひるまず諫言されると鉄を熱して全身を焼いた」と弾劾した。(『斉王紀』)

「魏略」に「曹叡は文字を知り信頼できる女官6人を女尚書にし裁決を行わせた」とあり、人名ではなくこの女尚書のことかもしれない。(『明帝紀』)



汝超  鄧艾の指図を受けた益州別駕


汝超(じょちょう)字は不明
出身地不明(??~??)

蜀の臣。

263年、蜀は魏に降伏した。
「蜀記」に曰く。
劉禅は太常の張峻(ちょうしゅん)と益州別駕の汝超を送り(鄧艾の)指図を受けさせ、尚書郎の李虎(りこ)に官民の戸籍を送らせた。(『後主伝』)



苴羅侯  軻比能の弟


苴羅侯(しょらこう)本名は不明
鮮卑の人(??~??)

鮮卑の大人(王)の軻比能(かひのう)の弟。

大人の歩度根(ほどこん)・泄帰泥(せつきでい)らは軻比能と敵対し、3万家を率いて魏に帰順した。
魏は歩度根らに軻比能を攻撃させ、苴羅侯・王同(おうどう)・王寄(おうき)らを討ち取った。(『牽招伝』)

素利(そり)・歩度根らは軻比能と争い、田豫(でんよ)が仲裁した。
224年、軻比能が素利を攻めると田豫が救援し、軻比能の心は魏から離れた。軻比能は鮮于輔(せんうほ)へ「素利とは仇敵同士だが、田豫は素利に肩入れした。歩度根は略奪し私の弟を殺したのに濡れ衣を着せてくる」と訴え、田豫は軻比能と関係修復したが、軻比能はその隙に力を蓄え、以後もたびたび魏と争った。(『鮮卑伝』)



徐逸  呂範とともに陳瑀を撃破


徐逸(じょいつ)字は不明
出身地不明(??~??)

孫策の臣。

「江表伝」に曰く。
197年、孫策は「呂布と行呉郡太守・安東将軍の陳瑀(ちんう)とともに袁術を討伐せよ」と詔勅を下された。
ところが陳瑀は孫策の襲撃を企て、都尉の万演(ばんえん)らを送り、周辺の祖郎(そろう)・焦已(しょうい)・厳白虎(げんはくこ)ら反抗勢力に官位を約束して蜂起させようとした。
だが孫策はそれを見抜き、呂範(りょはん)・徐逸に先制攻撃させ、陳瑀の兵や妻子ら4千人を捕虜にした。(『孫策伝』)

「呂範伝」に経緯が記される。
陳瑀は勝手に呉郡太守を自称し、広陵郡に駐屯し厳白虎と連携していた。孫策は厳白虎を攻めると呂範・徐逸の別働隊に陳瑀を攻撃させた。陳瑀配下の陳牧(ちんぼく)が討ち取られた。(『呂範伝』)



徐胤  将軍、ノーマルスーツを着てください


徐胤(じょいん)字は不明
出身地不明(??~??)

晋の臣。

羊祜(ようこ)は都督として荊州を治めていた時、軽装で鎧もつけず、護衛も十数人しか連れず、狩りや釣りへたびたび出掛けた。
ある夜、外出しようとすると軍司の徐胤が門前に立ちはだかり「将軍は万里を督しているのにどうして軽はずみなことをするのが許されるでしょう。あなたの安否は国家の安否です。私が生きている限りこの門は開きません」と諌めた。羊祜は居住まいを正して陳謝し、外出は稀になった。(『晋書 羊祜伝』)

272年、呉の西陵督の歩闡(ほせん)が反乱した。
晋は援護するため羊祜や楊肇(ようちょう)、巴東監軍の徐胤を援軍として送った。
徐胤は水軍を率いて建平へ向かい、陸抗は羊祜を孫遵(そんじゅん)に、徐胤を留慮(りゅうりょ)と朱琬(しゅえん)に足止めさせ、自らは楊肇と対峙した。

数ヶ月後、陸抗は楊肇を撃破し、晋軍は撤退した。歩闡は降伏し処刑された。(『陸抗伝』)



徐英  張既を鞭打った過去にこだわる


徐英(じょえい)字は泊済(はくせい)
司隸馮翊郡の人(??~??)

魏の臣。

「魏略」に曰く。
張既(ちょうき)は下役人の頃、功曹の徐英に手ずから30回鞭打たれた。
徐英は郡の名族で、建安年間(196~220)のはじめに蒲阪県令となった。張既はやがて列侯され刺史にまで上ったが、徐英は剛気な上に郷里では名声・品行ともに優れたことを意識し、かつて鞭打ったこともあり敬遠していた。
張既は過去を根に持たず仲直りしようとし、酒席で酔いに任せて親しくしようとしたが、徐英はあえてそれを拒み、そのために起用されなかった。
人々は張既が恨まなかったことと、徐英が屈服しなかったことをともに称えた。(『張既伝』)



徐栄  曹操と孫堅を破った男


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徐奕  曹操に留守を任された男


徐奕(じょえき)字は季才(きさい)
徐州東莞郡の人(??~219?)

魏の臣。

戦乱を避けて江東に移住したが、孫策に招聘されたため姓名を変えて変装し帰郷した。
196年、曹操に招聘され司空掾となり以後は魏に仕えた。

211年、馬超の征伐に従軍し、戦後は丞相長史として関中に残りインフラ整備や残党討伐で治績を挙げ威厳と誠実さを讃えられた。
雍州刺史も務め、都に戻ると丞相府の属官となった。(『徐奕伝』)

213年、曹操が魏公になると尚書に上った。(『武帝紀』)

当時、丁儀(ていぎ)が曹植(そうしょく)を担ぎ後継者争いを起こし、重臣へ讒言を繰り返しており、ある人が「丁儀は身分も名声も高く頭を下げるべきだ」と勧めたが、徐奕は「曹公(曹操)は聡明で、丁儀はいつまでも虚名を保てない。不正をもって主君に仕える者は私に何もできない」と意に介さなかった。(『徐奕伝』)

徐奕と毛玠(もうかい)はたびたび丁儀に讒言されたが、剛直で仲間が少なかったため、桓階(かんかい)が弁護して安全を保ってやった。(『桓階伝』)

一方で傅玄(ふげん)は「丁儀によって徐奕は官位を失った」と記すが、「魏書」には官位を失った記述が見当たらない。

魏郡太守に転じたが(※これが左遷ということだろうか?)、孫権の討伐にあたり曹操は徐奕を留府長史とし「君の忠誠は古人も及ばないが、いささか厳しすぎる。柔弱をもって剛強をおさめることを期待している。君に留守を任せれば後顧の憂いはない」と言った。

216年、魏が建国されると再び尚書になり、官吏選抜を任され尚書令に上った。

219年、魏諷(ぎふう)が反乱し、楊俊(ようしゅん)が責任を取り辞職すると、曹操は「反乱を招いたのは、私の爪・牙となるべき臣に、悪事を留め企みを防ぐ者がいなかったからだ。諸葛豊(前漢の名臣)のような人材はいないだろうか」と後悔した。
桓階は「徐奕こそその人です」と推薦し、後任の中尉となった。
だが在職から数ヶ月で重病を患い、辞職して諫議大夫となり、病没した。(『徐奕伝』)

曹丕は朝臣と話すたびに徐奕の人柄を思い出し、220年、子が無かったため甥の徐統(じょとう)を郎中に取り立て後を継がせた。(『徐奕伝』・『文帝紀』)

陳寿は何夔(かき)・邢顒(けいぎょう)とともに「厳格さを尊重し、その時代の名士となった」と評した。

「演義」には登場しない。



徐和  済南郡の黄巾賊


徐和(じょか)字は不明
青州済南郡の人(??~??)

黄巾賊。

(200年より後)済南郡で徐和、楽安郡で司馬倶(しばぐ)ら黄巾賊が蜂起し、県の高官を殺害した。
夏侯淵は泰山・斉・平原郡の兵を引き連れて攻撃し、徐和を討ち取って平定し、奪った食料を兵に与えた。(『夏侯淵伝』)

黄巾賊の徐和が周辺の高官を攻撃し、城邑を荒らし回ると、夏侯淵・臧覇(ぞうは)・呂虔(りょけん)が討伐し、前後数十回の戦いで数千人をあるいは斬り、あるいは捕虜にした。(『臧覇伝』・『呂虔伝』)



徐楷


未作成



徐蓋  徐晃の子


徐蓋(じょがい)字は不明
司隸河東郡楊県の人(??~??)

魏の臣。
徐晃の子。

227年、父が没すると後を継いだ。
他に2人の子孫も列侯された。
徐蓋も没すると子の徐覇(じょは)が後を継いだ。(『徐晃伝』)



徐幹  建安七子・不朽の人物


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徐季龍  管輅の占術―議論と当て物に感服


徐季龍(じょきりゅう)字は開明(かいめい)
出身地不明(??~??)

魏の臣。

清河県令の徐季龍は配下を狩猟に出した後、管輅(かんろ)にどんな獲物が取れるか占わせた。山猫だと的中させた。さらに徐季龍は大きな箱に13種類の物を入れ、中身を占わせた。管輅はまず「13種類あります」と数を当て「鶏の卵、蚕の蛹」と次々と言い当てた。櫛を梳き櫛と間違えただけだった。

「管輅別伝」に曰く。
才能があり頭が良く働いた。
管輅と議論になり、「龍が動けば彩雲が起こり虎が吼えると東風が吹くというが、これは星の運行をたとえたもので本物の龍や虎にそんなことはできない」と主張した。管輅は星の運行ならば天文に当てはめると矛盾し、龍や虎にはそんな力があると言った。
徐季龍はなおも「龍は井戸の中に潜み、虎は百歩離れれば声が聴こえなくなる小さな存在だ」と反論したが、管輅は「太陽から火を、月から夜露を得られるように距離は関係ない」と答えた。
続いて徐季龍は「鶏やキジが戦争を予言すると聞くが他のものにはできないのか」と問い、管輅は死体や石が予言した例を挙げてその道理を説き、徐季龍は心から称えた。
数日にわたってもてなし、狩猟の獲物を的中させたのを見ると不思議がったが、管輅は簡単なことだと言った。徐季龍は大笑いし「謙虚にならなければつまずく」とからかうと、管輅は根本的な道理を心得た自分には心配ないと誇った。
徐季龍は限界を試そうと13種類の物を占わせ、すっかり当てられると「物事を始める者を聖人、それを伝える者を賢者と呼ぶが、これは管輅のような人物のこと言うのだろうか」と讃嘆した。(『管輅伝』)



徐姫  幻の皇太后


徐姫(じょき)名は不明
出身地不明(??~??)

曹丕の側室。
曹礼(そうれい)を生んだ。

「魏略」に曰く。
曹丕は正室の甄姫と不仲の末に死を命じたため、甄姫との子の曹叡に後を継がせることを渋り、はじめは曹礼を後継ぎに考えていたので、曹叡は長らく太子に指名されなかった。

226年、曹丕は臨終を迎え、やむなく曹叡を後継者にした。(『明帝紀』)

曹礼は元城王に上り229年に没し、哀と諡された。(『曹礼伝』)



徐旗  郭馬の乱で追放された広州刺史


徐旗(じょき)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

279年、郭馬(かくば)は父祖の代から続いていた軍団の解散に不満を抱き、広州の兵や民衆を扇動して蜂起した。

滕脩(とうしゅう)が討伐に派遣されたが、始興郡で王族(おうぞく)軍に足止めされるうちに、郭馬は南海太守の劉略(りゅうりゃく)を殺し、広州刺史の徐旗を追放した。

同年冬、晋の大軍が呉へ侵攻を開始し、内外から攻められた呉は翌年に滅亡した。(『孫晧伝』)

その後、滕脩は広州刺史の閭豊(りょほう)、蒼梧太守の王毅(おうき)とともに自身の印綬を晋へ送り届けた、と「晋書」にあり、徐旗は罷免されたか死んだようである。(『晋書 滕脩伝』)



徐箕  蔡方らに殺された利城太守


徐箕(じょき)字は不明
出身地不明(??~225)

魏の臣。
別名か誤記で徐質(じょしつ)とも書かれる。

徐州利成郡(利城郡)の太守だったが225年、兵士の蔡方(さいほう)が郡を上げて反乱し太守の徐質を殺した。
青州刺史の王凌(おうりょう)と、派遣された校尉の任福(じんふく)・段昭(だんしょう)が討伐した。反乱軍のうち脅迫され従わされた者や、亡命した者は罪を許された。(『文帝紀』)

唐咨(とうし)はこの際に反乱軍の指導者として担ぎ上げられた。(※殺害した太守の名は徐箕と記される)
敗れた唐咨は呉へ亡命した。(『諸葛誕伝』)



徐毅  華佗のカルテ―医療ミスを暴く


徐毅(じょき)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

華佗(かだ)は督郵の徐毅を往診すると「昨日、劉租(りゅうそ)に鍼を胃に打ってもらってから咳が止まらず眠れない」と言われ「鍼が誤って肝臓に当たったのでしょう。日ごとに食事が進まなくなり5日で死にます」と診立て、その通りになった。(『華佗伝』)



徐翕  臧覇にかばわれ出世した反乱者A


徐翕(じょきゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

曹操の臣。

曹操は兗州刺史となり、徐翕・毛暉(もうき)を将軍に任命した。
(194年、呂布の反乱に際し)徐翕・毛暉は反乱した。平定されると二人は臧覇(ぞうは)のもとへ亡命した。

(199年、臧覇が曹操に降ると)曹操は劉備を通じ、臧覇に二人の首を届けるよう命じた。
だが臧覇は「私が独立できていたのは、(亡命者を殺すような)信頼を裏切らなかったからです。私は公(曹操)に降り命令には背けませんが、王者となる君主には道義を述べてもよいと聞きます。どうか将軍(劉備)からも弁明してください」と断った。
劉備から伝えられた曹操は嘆息し「亡命者をかばうことは古人のなしてきた行為だが、君がそれを行うのは私も願うところだ」と認め、徐翕・毛暉を太守に任命した。(『臧覇伝』)



徐璆  玉璽を取り戻し、丞相の位を断る


徐璆(じょきゅう)字は孟玉(もうぎょく)
徐州広陵郡海西県の人(??~??)

後漢の臣。
字は孟平(もうへい)、孟本(もうほん)ともいう。

父の徐淑(じょしゅく)は度遼将軍として辺境を治め名声高く、徐璆も若くして博学で知られ、公府に招かれ高第に挙げられた。

「袁山松の後漢書」に曰く、高潔で後進の育成に余念なく、自身の努力が足りないことを常に恐れた。

荊州刺史に赴任した時、南陽太守の張忠(ちょうちゅう)は董太后(とうたいこう)の甥で、権勢を頼りに膨大な賄賂を取っていた。
董太后も徐璆へ甥をよろしくと頼んだが、「私は国家のためを思い従いません」と拒否した。
董太后は激怒し、張忠を司隷校尉に任じ、徐璆を脅させようとした。徐璆は赴任するや張忠の贈賄を摘発し、加担していた5つの郡太守を罪に服させ、威風を轟かせた。

184年、朱儁(しゅしゅん)とともに南陽郡宛県の黄巾賊を撃破したが、張忠が宦官とともに讒言したため罪に問われた。武功により免職だけで済み、後に復帰し汝南太守や東海国相を務め治績を挙げた。(『後漢書 徐璆伝』)

「先賢行状」に曰く、任城太守も歴任した。(『武帝紀』)

「汝南先賢伝」に曰く、汝南太守の時に許劭(きょしょう)の名声を聞いて功曹に招き、それにより暴虐な人士は消え、清潔な官吏が役所に満ちた。(『和洽伝』)

196年、曹操の庇護を受けた献帝が許昌へ遷都すると、廷尉に任じられたが、都へ向かう途上で袁術に引き止められた。袁術は帝位を僭称すると上公の位を与えようとしたが、徐璆が死を選んだ忠臣たちの故事を引き決死の覚悟を示したため、袁術も取りやめた。

199年、曹操に撃破された袁術が病没すると、彼が盗み持っていた玉璽を取り戻し、汝南太守・東海国相の印綬とともに朝廷へ返還した。司徒の趙温(ちょうおん)が「大難に遭いながらよくもここまで来られたものだ」と感心すると、「蘇武は匈奴に追い詰められながら七尺の節を失いませんでした。この印綬は一寸四方に過ぎません」とうそぶいた。

後に太常を拝命し、208年に曹操が丞相に任じられると、任命の使者を務めた。曹操はそれを徐璆に譲ろうとしたが固辞した。
在官のまま没した。(『後漢書 徐璆伝』)

「演義」では袁術の没後、逃亡する一族を皆殺しにして玉璽を奪い、曹操に献上して広陵太守に任じられた。ほとんど山賊である。

「吉川三国志」では玉璽を持って逃げていた袁胤(えんいん)を捕まえる、マイルドな表現にされている。



徐矯  徐琨の子ら


徐矯(じょきょう)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫堅の甥である徐琨(じょこん)の子。

200年に父が劉表(りゅうひょう)との戦いで討ち死にすると、徐矯が広徳侯の爵位を継いだ。
山越を平定し父と同じ偏将軍に上ったが、妹で孫権の正室の徐夫人(じょふじん)より先に没した。
子が無かったため弟の徐祚(じょそ)が後を継いだ。

こう書くと徐矯も早逝したようだが、徐夫人は少なくとも孫権が帝位についた229年までは存命である。

徐祚も戦功によって蕪湖督・平魏将軍にまで上った。(『孫権徐夫人伝』)



徐欽  徐宣の子


徐欽(じょきん)字は不明
徐州広陵郡海西県の人(??~??)

魏の臣。
徐宣(じょせん)の子。

236年、父が没すると後を継いだ。(『徐宣伝』)



徐勛  曹操に献帝救出を依頼した使者


徐勛(じょくん)字は不明
出身地不明(??~??)

袁紹の臣。

「魏氏春秋」に曰く。
200年、官渡の戦いに際し袁紹は陳琳(ちんりん)に檄文を書かせた。その中で「献帝が董卓残党の支配する長安から逃げ出した時、袁紹は公孫瓚との戦いに忙しく救援できなかったため、従事中郎の徐勛を使者とし曹操に兵を出すよう命じた。
ところが曹操は献帝を保護すると気を大きくし、朝廷を脅して(自分の本拠地へ)遷都させ、実権を奪った」と非難した。(『袁紹伝』)



徐元  仇討ちトリオ


徐元(じょげん)字は不明
出身地不明(??~??)

孫堅の三男・孫翊(そんよく)の配下。

204年、孫翊は配下の媯覧(きらん)、戴員(たいいん)によって殺された。
孫翊の未亡人の徐氏(じょし)は二人の言うことを聞くふりで油断させ、その隙に傅嬰(ふえい)・孫高(そんこう)・徐元に命じて仇討ちをさせた。(『孫韶伝』)

徐氏も仇討ちトリオもこの逸話にしか登場しない。

傅嬰はトリオの中で唯一KOEIのSLG「三國志Ⅲ」に登場し、なぜか将軍になれるほどの高パラメーターを与えられた。

孫高は姓から孫一族と思われるが素性は不明。

徐元は姓から徐氏の一族と思われるがやはり素性は不明の挙げ句、トリオの中で唯一「演義」にも、詳細が描かれる「呉歴」にも登場しない。



徐元賢  許靖の友人C


徐元賢(じょげんけん)字が元賢か
出身地不明(??~??)

素性不明。

許靖(きょせい)が曹操へ送った手紙に曰く。
許靖は会稽太守の王朗(おうろう)に身を寄せていたが、孫策に侵攻され袁沛(えんはい)・鄧子孝(とうしこう)とともに交州へ逃げた。
曹操が献帝を推戴したと聞くと、袁沛・徐元賢とともに中原へ戻ろうとしたが蒼梧郡で蛮族に襲われ徐元賢が殺された。(『許靖伝』)



徐原  呂岱の益友


徐原(じょげん)字は徳淵(とくえん)
揚州呉郡の人(??~??)

呉の臣。

呂岱(りょたい)と親しく、徐原が気概を備え才能と志があることから必ず大成するとにらみ、衣服を与えたり議論を交わしたりと援助した。
徐原は後に抜擢され御史にまで上った。

徐原は何者をも恐れず、呂岱に過失があれば人前だろうとずけずけと論難した。ある人がそのことで徐原を非難すると、呂岱は「だからこそ私は彼を尊ぶのだ」と言った。(『呂岱伝』)

徐原は重病を患うと、同郷だが全く面識のない、義に厚いと評判の陸瑁(りくぼう)に遺族の面倒を見るよう頼んだ。陸瑁は彼のために墓を立て、遺児を養育した。(『陸瑁伝』)

呂岱は「私にとって徐原は論語に言う「益友」だった。私は己の過ちを、これから誰に指摘されればいいのか」と嘆き、人々は二人の関係をうるわしい話だと語り伝えた。(『呂岱伝』)



徐晃  不敗の武人


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徐琨  ママは名参謀


徐琨(じょこん)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~200)

孫堅の甥(妹の子)。
徐真(じょしん)の子。

徐真はもともと孫堅と親交があり、孫堅の意向で縁組がなされ徐琨が生まれた。

若くして州郡の役人をしていたが、孫堅が挙兵すると付き従い、董卓討伐で武功を立て、偏将軍に上った。当時の孫堅軍で最も高い官位だという。

孫策の代にも主力として活躍。劉繇(りゅうよう)を攻めた際に軍船が足りず、調達しようとすると軍中にいた徐琨の母が「船を調達している間に劉繇の後詰めが来たら不利になる。蘆や葦を刈りイカダを作って補えばいい」と献策し大戦果を挙げた。(なぜ軍中に母がいるのだろう)

194年、袁術(えんじゅつ)は従弟の袁胤(えんいん)を丹陽太守に任命したが、孫策は徐琨に攻撃させ追放した。そのまま太守にすると徐琨の権力が大きくなりすぎると考え、叔父の呉景(ごけい)を後任に据え、徐琨は督軍中郎将に任じられた。

200年、反乱した李術(りじゅつ)を打ち破り平虜将軍・広徳侯に上り、娘の徐夫人(じょふじん)は孫権の正室に迎えられた。
だがその後、孫堅の仇の江夏太守・黄祖(こうそ)との戦いのさなかに流れ矢に当たって戦死した。

子の徐矯(じょきょう)が爵位を継ぎ、父と同じ偏将軍に上ったが、妹の徐夫人より先に没した。
子が無かったためその弟の徐祚(じょそ)が後を継ぎ、蕪湖督、平魏将軍にまで上った。(『孫権徐夫人伝』)



徐粲  奚熙に讒言され殺される


徐粲(じょさん)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

奚熙(けいき)は賀恵(がけい)を讒言した。徐粲が事実か調査すると、奚熙は「徐粲は賀恵の肩を持ち裁断を引き伸ばしている」とさらに讒言した。
孫皓は激怒し徐粲を処刑させ、賀恵を投獄した。たまたま恩赦があり賀恵は解放された。(『孫皓伝』)



徐氏  孫翊の未亡人


徐氏(じょし)名は不明
出身地不明(??~??)

孫堅の三男・孫翊(そんよく)の妻。

204年、夫の孫翊は県の幹部を招いて宴会を開くにあたり、妻に吉凶を占わせた。
徐氏は「日を改めたほうがよい」と占ったが、孫翊はせっかく招いた客を待たせるのも悪いと、予定通りに宴会を催し、酔った隙に側近の辺洪(へんこう)によって殺されてしまった。

徐氏は辺洪の首に賞金を掛け、翌日には首尾よく捕らえて処刑したが、実は孫翊配下の媯覧(きらん)、戴員(たいいん)が黒幕だと誰もが察していた。
媯覧らは我が物顔で振る舞い、孫翊の側妾から侍女まで奪い、徐氏にも食指を動かした。
徐氏は「夫の喪が明けるまでお待ち下さい」と言い時間を稼ぐと、夫の旧臣の傅嬰(ふえい)・孫高(そんこう)・徐元(じょげん)らと仇討ちのため密議を凝らした。
そして喪が明けると、徐氏は媯覧を部屋に招き、油断した隙に殺させ、戴員も同日のうちに殺して仇討ちを果たした。(『孫韶伝』)



徐氏  呂安を陥れたNTR妻


徐氏(じょし)名は不明
出身地不明(??~??)

竹林の七賢の準メンバーとして著名な呂安(りょあん)の妻。

景元年間(260~264)、呂安の兄の呂巽(りょそん)と密通した。
呂巽はさらに、呂安を不孝者と誣告し投獄させた。呂安は兄弟の共通の友人の嵆康(けいこう)に弁護を頼んだが、かねてから嵆康を恨んでいた鍾会は、これを好機と司馬昭に進言し、呂安・嵆康を処刑させた。(『王粲伝』)

 


徐氏  龐娥のご近所さん


徐氏(じょし)名は不明
涼州酒泉郡禄福県の人?(??~??)

龐娥親(ほうがしん)の隣人。

皇甫謐(こうほひつ)の「烈女伝」に曰く。
趙君安(ちょうくんあん)は同県の李寿(りじゅ)に殺され、息子3人は仇討ちを狙ったが、李寿の守りは固く、果たせないうちに疫病により3人とも亡くなった。
李寿は「龐家の男は死に絶えもう心配いらない」と笑い、これを幼い龐淯(ほういく)が聞き、母の龐娥親に伝えると、彼女は「どうして私が刃を手にお前を殺さないと思い込むのだ」といきり立ち、名刀を入手し研ぎ澄ました。李寿はそれを聞くと気を引き締め直し馬に乗って刀を帯びた。
近所に住む徐氏の夫人は龐娥親を心配し「李寿は凶悪な男で備えまでしています。あなたが激しい気持ちでも力の強弱では敵いません。返り討ちに遭えば家が断絶してしまいます」と忠告したが「親の仇とは天地日月を共にしません。李寿が死ななければ私はいったいなんのために生きるのでしょう。弟も死に絶えもはや家は断絶したも同然ですがまだ私がいます。あなたは李寿を殺すのは不可能とお考えだが、私は殺せて当然と思っています」と聞く耳持たなかった。家の者も近所の者も龐娥親を嘲笑った。
ついに家を捨てて車で李寿を付け狙い、179年2月上旬、白昼に李寿と出くわした。すぐさま車を降り怒鳴りつけると、仰天した李寿は馬首を返そうとしたが、龐娥親は刀で斬りつけ人馬ともに傷つけた。馬は騒いで李寿を道路脇の溝へ振り落とし、龐娥親は斬りつけたが木に当たって刀が折れた。
そこで李寿の刀を奪おうとし、飛び起きた李寿に身体ごとぶつかり、左手で額を抑え右手で喉を何度も突き、押し倒して刀を奪い首を斬った。
李寿の首級を持って役所へ報告に上がり、言葉も顔色も平素と変わらなかった。県長の尹嘉は心打たれ辞任して赦そうとしたが、龐娥親は「復讐を終えて私は死に、裁判をし刑罰を決めるのはあなたの務めです。どうして生を貪るために法を曲げましょう」と言った。
聞きつけた村人が集まり、誰もが感嘆した。守尉(警察長)は逃亡させようとしたが龐娥親は「法を曲げ死を逃れるのは私の本心ではありません。復讐を果たし1万回殺されようとも満足しています。立派な役所に負担を掛けたくありません」と大声で反対した。守尉は無理やり車に乗せ家へ帰した。
涼州刺史の周洪(しゅうこう)、酒泉太守の劉班(りゅうはん)も揃って赦免を訴え(許可され)た。
道義心を称え事績を彫った石碑を龐娥の村の門に建て、太常の張奐(ちょうかん)は絹を贈るなど、話を聞いた者は襟を正して感心し評価しない者はなかった。
後の安定太守の梁寛(りょうかん)は伝記を作り、皇甫謐は「本来は男の行う仇討ちを女のか細い身で、父の受けた恥辱の痛ましさを思い、仇の凶悪な言葉に心を奮い立たせ、人馬ともに叩きのめした。亡父の魂を満足させ、3人の弟の恨みをそそいだ。近世にかつてなかったことである。詩経に(仇討ちのことで)うたわれたのはまさに娥親のことである」と評した。

子の龐淯も母譲りの義侠心で主の仇討ちを狙い、危機を救うため命を賭した。(『龐淯伝』)



徐質  後期の大斧使い


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徐質


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徐孺子


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徐庶  男は剣を捨て筆を取る


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徐商  対関羽の切り札


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徐紹  呉に降伏を呼び掛け殺された呉の旧臣


徐紹(じょしょう)字は不明
出身地不明(??~265)

魏の臣。

はじめ呉に仕え南陵督を務めたが、寿春で魏の捕虜となり降伏した。

264年、曹奐(司馬昭)は詔勅を下し「相国参軍事の徐紹は生まれつき聡明で厳正な人物である。散騎常侍を兼任させ奉車都尉を加え都亭侯に取り立てる。一家眷属を連れ(同じく呉からの降伏者の)孫彧(そんいく)を副官として南方へ向かい、呉へ降伏を呼び掛けよ」と命じた。(『陳留王紀』)

265年、孫晧は帰還する徐紹・孫彧に使者を同伴させ魏に降伏を申し出た。
濡須まで来たところで徐紹は呼び戻され、魏を称賛した罪により孫晧に殺され、一家眷属は強制移住させられた。(『孫晧伝』)



徐詳  是儀・胡綜と並び称される


徐詳(じょしょう)字は子明(しめい)
揚州呉郡烏程の人(??~??)

呉の臣。

200年、孫策が没し、孫権が車騎将軍に任じられると、是儀(しぎ)や胡綜(こそう)とともに政治の中枢を担った。(『胡綜伝』)

217年、都尉の徐詳は魏に赴き、降伏を申し入れた。(『呉主伝』)

220年、孫権が呉王に任ぜられると三人は列侯された。(『胡綜伝』)
この時、節度の官が新設され、兵糧を司った。侍中・偏将軍の徐詳が担当した。(『諸葛恪伝』)

229年、建業に遷都すると胡綜とともに侍中となり、郷侯として左右領軍を兼務した。
胡綜(243年没)よりも先に没した。(『胡綜伝』)

徐詳の死後は諸葛恪(しょかつかく)が節度に用いられようとしたが、叔父の諸葛亮が「諸葛恪はいいかげんな性格で向いていない」と陸遜に忠告し、取りやめとなった。(『諸葛恪伝』)
諸葛恪に代わり節度に任じられた顧譚(こたん)は、孫権に目通りし意見を述べると、孫権は食事の手を止め「徐詳にも勝る」と褒めた。(『顧雍伝』)

陳寿は「是儀・徐詳・胡綜は国家経営に大きな業績を残し、家に例えるなら垂木である。徐詳はしばしば使者を務め役目を立派に果たした」と評した。(『胡綜伝』)

なお「演義」には三人とも登場しない。



徐真


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徐盛  気骨あふれる名将


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徐宣  魏三代にわたり信頼される


徐宣(じょせん)字は宝堅(ほうけん)
徐州広陵郡海西県の人(??~236)

魏の臣。

戦乱を避け江東に移住したが、孫策の招聘を断り帰郷した。
同郷の陳矯(ちんきょう)とともに綱紀となり名声を等しくしたが、仲は険悪だった。
広陵太守の陳登(ちんとう)にともに重んじられ、後に三人とも曹操に仕えた。

海西県で反乱が起こった時、梁習(りょうしゅう)と衛弥(えいび)が夜間に家に駆けつけ救出した。
曹操は扈質(こしつ)に討伐を命じたが、兵が少なく進めなかった。徐宣は密かに扈質に会い、それを咎めるとともに対策を授け、反乱軍を打ち破らせた。
これが曹操の耳に入り司空掾に招かれた。

東緡・発干の県令、斉郡太守を経て都に上り門下督となり、曹操の孫権討伐に従った。
その時、西方で馬超が反乱すると曹操は「ここ寿春はまだ安定せず、頭痛の種になるだろう。清潔・公正で大きな徳を持った人物に任せたい」と言い、徐宣を左護軍に任じ、後を任せ馬超の討伐に向かった。
凱旋後、徐宣は丞相東曹掾となり、次いで魏郡太守に赴任した。(『徐宣伝』)

陳矯はもともと劉氏だったが、母方のおじの家を継ぎ陳氏となり、元の劉氏から嫁を取っていた。
徐宣はこれを礼に背くと非難し、朝廷でも問題にした。曹操は陳矯の才を惜しみ「建安5年(200年)より以前のことを問題とし誹謗してはならない。それを持ち出せば処罰する」と命令した。(『陳矯伝』)

220年、曹操が没すると反乱を恐れ、各地の太守を曹操の故郷の人物に交代させるべきだという意見が上がったが、徐宣は「中華は統一され誰もが忠節を尽くしたいと思っている。それなのに不信の念を抱き交代させては心をくじくことになる」と反対した。
曹丕はこれを聞き「いわゆる国家を担う臣だ」と感心し、帝位につくと御史中丞に任じ、関内侯に封じた。
城門校尉に転じ、1ヶ月で司隷校尉に上り、散騎常侍に転任した。
曹丕が呉の討伐に出た時、突風により曹丕の船が横倒しになった。後方にいた徐宣は誰よりも先に助けに向かい、曹丕は彼を勇気があると称え、尚書に昇進させた。

226年、曹叡が帝位につくと津陽亭侯に進み、200戸の領邑を与えられた。
桓範(かんはん)に「忠義にして品行正しく、正直・誠実・清潔・典雅にして独立独歩、確固として揺るがず、国家を担う節義を持ち、どの任地でも職務に相応しい働きを示した」と推挙され尚書左僕射に任じられ、後に侍中・光禄大夫も加えられた。
曹叡が行幸すると留守を任され、帰還後に尚書の担当官が決裁を求めると、曹叡は「(徐宣が先に決裁したなら)私が見ても徐宣が見ても同じだ」と全く見なかった。
徐宣が刑罰の軽重や宮殿造営を諫言すると、曹叡は自筆で詔勅を下し、それを納めた。

68歳になると「礼の掟では70歳で引退するべきだ」と引退を申し出たが、曹叡は認めず、236年に在官のまま没した。着ていたままの服で質素に葬るよう遺言した。
曹叡は「至誠を具え方正だった。魏三代に仕え公明にして厳正、太子を託し王朝の運命を預けるに足る節義を持つ、柱石の臣だった。宰相を任せようと思っていたが、その前に没してしまった。車騎将軍を追贈し、三公の礼で葬れ」と命じた。
貞侯と諡され子の徐欽(じょきん)が後を継いだ。

陳寿は陳矯とともに「剛断にして硬骨」と評した。

「演義」には登場しない。(『徐宣伝』)



徐祚  徐琨の子ら


徐祚(じょそ)字は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

呉の臣。
孫堅の甥である徐琨(じょこん)の子。

200年に父が劉表(りゅうひょう)との戦いで討ち死にすると、兄の徐矯(じょきょう)が爵位を継いだ。
山越を平定し父と同じ偏将軍に上ったが、妹で孫権の正室の徐夫人(じょふじん)より先に没した。
子が無かったため弟の徐祚が後を継いだ。

こう書くと徐矯も早逝したようだが、徐夫人は少なくとも孫権が帝位についた229年までは存命である。

徐祚も戦功によって蕪湖督、平魏将軍にまで上った。(『孫権徐夫人伝』)



徐宗


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徐存  李勗の巻き添えで皆殺しにされる


徐存(じょそん)字は不明
出身地不明(??~270)

呉の臣。

269年、呉は虞汜(ぐし)や薛珝(せつく)、陶璜(とうこう)に荊州から、監軍の李勗(りきょく)、督軍の徐存に海路から交阯を攻めさせた。
翌270年、李勗は進軍に難渋し、案内役の馮斐(ふうひ)を殺すと撤退した。

佞臣の何定(かてい)は以前、李勗の娘を、息子の嫁に迎えたいと申し出たが断られ、恨んでいた。そこで「少府の李勗はみだりに馮斐を殺し、勝手に撤退した」と讒言し、李勗と徐存の一家眷属を誅殺させた。幼い子供も殺され、死体は焼かれた。(『孫晧伝』)



徐他  許褚の胸騒ぎで謀叛を阻止される


徐他(じょた)字は不明
出身地不明(??~200)

曹操の臣。
名は徐佗(じょだ)とも書かれる。

200年、官渡の戦いの際に兵士の徐他らは反乱を企んだが、曹操の側に常に許褚がいたため決行できなかった。
許褚が休暇を取ったためついに決起したが、宿舎の前まで来ると許褚は胸騒ぎを覚えて引き返し護衛を務めた。徐他らは曹操の帷幕に入ると、いないはずの許褚の姿に愕然とし、その顔色を見て謀叛を察知した許褚はすかさず打ち殺した。
曹操はいよいよ許褚を寵愛し、常に同行させ離さなくなった。(『許褚伝』)

243年、建国の功臣が曹操の廟前に祀られたが許褚の名は無く、裴松之は「許褚は徐他の反乱でも潼関の戦いでも、彼以外では曹操の命を救えなかったのに、功績で劣る(同じ護衛の)典韋が祀られて許褚が除外されたのは理解できない」と指摘する。(『斉王紀』)



徐忠  単刀赴会の前に荊州を攻撃


徐忠(じょちゅう)字は不明
出身地不明(??~??)

呉の臣。

214年、劉備が益州を制圧すると、孫権は荊州の返還を求めた。
劉備は「涼州を制圧したら返そう」とうそぶき、孫権は荊州の諸郡へ官吏を派遣したが、それも関羽に追い払われ激怒した。
呂蒙は鮮于丹(せんうたん)・徐忠・孫規(そんき)を率いて出兵し、長沙・桂陽の二郡を降伏させたが、零陵太守の郝普(かくふ)は降伏勧告に応じず籠城した。
劉備と関羽の援軍が迫ると、孫権は撤退を命じたが、呂蒙はそれを秘匿すると、同行していた鄧玄之(とうげんし)に「我々は優勢で、あなたの友人の郝普は風前の灯だ。城が落ちたら郝普も、百歳近い彼の母も殺される。どうか郝普に戦況を伝えて降伏させて欲しい」と頼んだ。
鄧玄之に説得され郝普は降伏し、騙されたと知って後悔した。(『呉主伝』・『呂蒙伝』)



徐超  曹芳の廃位に連名した長水校尉


徐超(じょちょう)字は不明
出身地不明(??~??)

魏の臣。

254年、曹芳の廃位を求める上奏に長水校尉・関内侯として連名した。(『斉王紀』)



徐統  徐奕の甥


徐統(じょとう)字は不明
徐州東莞郡の人(??~??)

魏の臣。
徐奕(じょえき)の甥。

219年頃、徐奕は病没した。
曹丕は朝臣と話すたびに徐奕の剛直な人柄を思い出し、220年に即位すると、徐奕に子が無かったため甥の徐統を郎中に取り立て後を継がせた。(『徐奕伝』・『文帝紀』)



徐覇  徐晃の孫


徐覇(じょは)字は不明
司隸河東郡楊県の人(??~??)

魏の臣。
徐蓋(じょがい)の子。徐晃の孫。

父が没すると後を継いだ。(『徐晃伝』)



徐邈  何も変わらない男


徐邈(じょばく)字は景山(けいざん)
幽州広陽郡薊県の人(171~249)

魏の臣。


李敏(りびん)は遼東太守の公孫度(こうそんど)を恐れ家族を連れて逃亡した。
その後、李敏の子ははぐれた父を探して20年以上も放浪し、妻もめとらなかった。

「晋陽秋」に曰く。
同郷の徐邈は「後継ぎが無いことほど親不孝なことはない」とさとし結婚させたが、彼は息子の李胤(りいん)が生まれるとすぐに妻を離縁した。
(※裴松之は「家族を連れて逃亡した」のに子がはぐれているのはなぜか、と疑問を呈している)(『公孫度伝』)

曹操が河北の袁氏勢力を一掃した際に徐邈は召し出され、丞相軍謀掾となり、奉高県令の代行を試された後に、都に戻され東曹議令史となった。
216年、曹操が王位につくと尚書郎に上った。
だが酒にだらしなく、禁酒令に背いて泥酔し、聴取されると「聖人(清酒)に当たった」と悪びれなかったため曹操は激怒した。鮮于輔(せんうほ)に「普段は慎み深く、酔って吐いた言葉でしょう」と弁護され処刑は免れた。

後に隴西・南安の太守を務め、220年、曹丕が帝位につくと譙国相、平陽・安平太守、潁川の典農中郎将を歴任して各地で評判を上げ、関内侯に封じられた。
曹丕に「相変わらず聖人に当たっているのか」と以前の失言をからかわれると、故事を引き「懲りずに当たっています。コブは醜ですが、私は酔(醜と酒は同音)で知られています」と当意即妙の返答をしたため「評判はむなしく立つものではない」と感心され、撫軍大将軍に昇進した。

同郡の韓観(かんかん)と同等の名声を博し、後に三公に上る孫礼(そんれい)、盧毓(ろいく)よりも上に評価されていた。

曹叡の代には涼州刺史に上り、護羌校尉を兼務した。諸葛亮が北伐の兵を挙げると天水・南安・安定の三郡が反乱しそれに呼応したが、徐邈は速やかに鎮圧した。
当地は雨が少なく常に穀物が欠乏していたため、開墾し水田を作り、土地を肥やした。さらに軍用米の余りを売って物資を蓄え、民間の武器を没収し、教化を施し人心をなつかせた。西域との交易が開かれ、異民族が朝貢するようになったのは、全て徐邈の勲功である。
羌族の柯吾(かご)を討伐して都亭侯に上り、領邑300戸と建威将軍を加えられた。羌族に対しては小さな罪は見逃してやり、重罪にはまず指導者と談判し承知させるなど手続きを踏んだ上で罰を課したため、心服された。
恩賞は全て配下に分け与えたため妻子は衣食にも事欠き、曹叡は清廉さを褒めたびたび支給してやった。(『徐邈伝』)

「孫資別伝」に曰く。
涼州刺史の時、讒言を受けたが孫資(そんし)の弁護により事なきを得た。満寵(まんちょう)も同様に助けられ、二人が名声を保てたのは孫資のおかげである。(『孫資伝』)

238年、羌族の王の芒中(ぼうちゅう)・注詣(ちゅうけい)が反乱し、涼州刺史(※徐邈(じょばく)か)に討伐され、注詣は斬られた。(『明帝紀』)

240年、都に戻り大司農・司隷校尉に上り、百官は敬いはばかった。ある事件により官を辞したがすぐ光禄大夫に復帰した。(『徐邈伝』)
248年(『斉王紀』)、司空に推挙されたが「三公は道義を論ずる官です。私のような老人に任命するくらい、しかるべき者がいなければ欠員とすべきです」と辞退した。

249年、79歳で没した。三公の待遇で葬られ穆侯と諡された。
子の徐武(じょぶ)が後を継いだ。

254年、同じく清貧で知られた田豫(でんよ)、胡質(こしつ)とともに改めて功績を採り上げられ、余財がなく苦労する遺族に贈り物がなされた。

後年、盧欽(ろきん)は「高邁だが偏狭ではなく、清潔だが頑固ではなく、博大だが簡約で、勇猛かつ寛容だった。聖人は清廉を困難と呼ぶが、徐邈にはたやすかった」と激賞した。
ある人が「徐邈は曹操の代には洒脱だと言われたが、後には狷介とされたのはなぜか」と質問した。
盧欽は「曹操の代には崔琰(さいえん)・毛玠(もうかい)が人事を担当し清廉を重んじたため、人々は車や服を改めたが、徐邈は平素と変わらなかったので洒脱と呼ばれた。今では天下は奢侈に過ぎ、他人を模倣するが、徐邈は何も変わらず、模倣もしないから狷介と呼ばれる。これは世俗の人の恒常性の無さと、徐邈の恒常性を示している」と答えた。(『徐邈伝』)

陳寿は「清廉にして達士」と讃え、胡質・王昶(おうちょう)・王基(おうき)とともに列伝し「いずれも地方の長官として称賛名誉を残し、功績を表した。国家の良臣、当代の優れた人物である」と評した。
また韓曁(かんき)と高柔(こうじゅう)の評では二人を高評価しつつも「高齢になっても官位に就いたのは、徐邈・常林(じょうりん)と比べ玉に瑕である」と述べている。

「演義」には登場しない。



徐彪  曁艶とともに人事を壟断


徐彪(じょひょう)字は仲虞(ちゅうぐ)
徐州広陵郡の人?(??~??)

呉の臣。

選曹郎を務めた。
人事を司る曁艶(きえん)と結託し、ともに百官の落ち度を厳しく指摘した。当時、郎官の役職にあった者は人品芳しくなく、処分を受けずに済んだのは十人に一人もいなかった。
曁艶と徐彪は激しく恨まれ、公平な道理なく、恩恵と処罰を与えていると非難された。
やがてともに免職となり、自害を命じられた。(『張温伝』)



徐夫人  孫権の正室


徐夫人(じょふじん)名は不明
揚州呉郡富春県の人(??~??)

孫権の正室。
徐琨(じょこん)の娘。

父の徐琨は孫堅の甥(妹の子)で、孫堅・孫策の重臣として活躍した。
徐夫人ははじめ陸尚(りくしょう)に嫁いだが早くに先立たれ、200~208年に孫権の正室となった。

200年に父が戦死し、兄の徐矯(じょきょう)が後を継いだ。(『孫権徐夫人伝』)

孫権の長男の孫登(そんとう)を、生母の身分が低かったため代わりに養育した。
だが嫉妬深い性格の彼女は次第に孫権に疎まれ、212年、秣陵(後の建業)に遷都される際に正室から廃され、呉郡に残された。

代わって歩夫人(練師)が寵愛されると、孫登は彼女からの贈り物は無理に辞退せず丁寧に受け取った。
一方で徐夫人から衣服が贈られると、必ず沐浴し身を清めてからまとい、孝行を忘れなかった。

229年、孫権が帝位につくと孫登が太子に推されたが、孫登は「まず母を皇后に立てるべき」と主張した。孫権が母親とは誰かと訝ると、孫登は徐夫人が健在だと答え、孫権は黙ってしまった。
群臣も賛同したが孫権は歩夫人を皇后にしたいと思っていたため応じなかった。

徐夫人は後に病没した。
兄の徐矯は彼女より先に没し、子が無かったため弟の徐祚(じょそ)が後を継いだ。(『孫権徐夫人伝』・『孫登伝』)

なお前夫の陸尚の死因は不明だが、実家の陸氏は孫策に攻撃された際に一族50余人が死亡しており(『後漢書 陸康伝』)、その際に没した可能性もある。いずれにしろ孫氏は夫の実家を滅ぼした仇であり、徐夫人の再嫁は孫・陸・徐3氏の関係修復のための政略結婚の意味合いが強い。
夫婦生活が破綻したのは当然だが、孫登を立派な人格者に育て上げた彼女の母としての力量は確かであろう。

「演義」には孫登の生母として名前だけ登場する。



徐武  徐邈の子


徐武(じょぶ)字は不明
幽州広陽郡薊県の人(??~??)

魏の臣。
徐邈(じょばく)の子。

249年、父が没すると後を継いだ。(『徐邈伝』)



徐平  誠心誠意の男


徐平(じょへい)字は伯先(はくせん)
揚州会稽郡太末の人(??~??)

呉の臣。
徐陵(じょりょう)の子。

父は将来を嘱望されたが早逝した。
小作人や田畑は奪われてしまい、駱統(らくとう)は「丁覧(ていらん)や卜清(ぼくせい)のように遺族を厚遇して欲しい」と訴え、孫権に認めさせた。

子の徐平は幼い頃から評判高く、父と同じく虞翻(ぐほん)に称賛され、深く寵愛された。
諸葛恪(しょかつかく)は丹陽太守に赴任すると、山越の討伐に当たり、威信があり思慮深く、協調性の高い徐平を郡丞に抜擢した。
徐平は武昌の左部督に上り、誰にでも心を込めて接する彼のため、配下は死力を尽くした。

だがその後、諸葛恪は彼を疎んじるようになり、呉の実権を握るとますます粗末に扱った。
253年、ついに諸葛恪は誅殺され、子の諸葛建(しょかつけん)は逃亡したが、徐平の私兵に捕らえられた。
徐平はそれを解放してやったが、別の兵に捕らえられ結局は殺された。

徐平は他にも、離縁された一族の女を過度なほどに面倒見てやったりと、常に篤実な心で正しい道を歩んだという。(『虞翻伝』)



徐揖  二人の侠客でも救えず


徐揖(じょゆう)字は不明
出身地不明(??~210?)

魏の臣。

209年、武威太守の張猛(ちょうもう)は、雍州刺史の邯鄲商(かんたんしょう)を殺した。張猛は「弔う者は処刑する」と布告したが、涼州従事の龐淯(ほういく)は構わず邯鄲商を弔うと、張猛を訪ね暗殺しようとした。
失敗したが張猛は義士であると讃え、殺さないよう命令し、龐淯は忠烈さで名声を博した。
酒泉太守の徐揖に招聘され主簿となった。(『龐淯伝』)

建安年間(196~220)、徐揖は豪族の黄一族を処刑した。
黄昴(こうこう)は脱出し、兵を集め城を包囲した。(『閻温伝』)

龐淯は妻子を捨てて城を抜け出し、近くの二郡に救援を求めた。二郡ははじめ信じなかったが、龐淯が自害しようとするとその義心に打たれ兵を出した。だが間に合わず徐揖は殺された。
龐淯は遺体を引き取り、故郷に送り届け、3年の喪に服した。
曹操はそれを聞き、掾属に招いた。(『龐淯伝』)

一方、仇討ちを生業とする侠客の楊豊(ようほう)は黄昴に非があると思い、徐揖を助けようとしたが、間に合わず徐揖は殺され、黄昴に恨まれた。
張猛が楊豊を援助し、楊豊は黄昴を殺した。

だが東方にいた黄華(こうか)が帰ってきて酒泉郡を支配したため、楊豊は敦煌郡へ逃げた。(『閻温伝』)

張猛が龐淯を許した件が209年の出来事で、張猛は翌年に没しているので、この件もその間に起こったと考えられる。



徐陵  徐平の父


徐陵(じょりょう)字は元大(げんだい)
揚州会稽郡太末の人(??~??)

呉の臣。

3つの県長を歴任しいずれも評判を取り、零陵太守に上った。
朝廷ではやがて列卿されるべき人材と目され、虞翻(ぐほん)はその前から徐陵の才をすぐに見抜き、友人として交際するとともにその名を知らしめるように取り計らった。

だが大成する前に没した。
小作人や田畑は奪われてしまい、駱統(らくとう)は「丁覧(ていらん)や卜清(ぼくせい)のように遺族を厚遇して欲しい」と訴え、孫権に認めさせた。

子の徐平(じょへい)は幼い頃から評判高く、父と同じく虞翻に称賛された。(『虞翻伝』)



舒邵  威光で息子を救う


舒邵(じょしょう)字は仲膺(ちゅうよう)
兗州陳留郡の人(??~??)

袁術の臣?

兄の舒伯膺(じょはくよう)の友人が殺されると、その仇討ちをした。
兄弟は互いにかばい合って処刑を望んだため、義人であると讃えられ揃って許された。
袁術の全盛期に阜陵県長まで上った。

後に子の舒燮(じょしょう)は呉に仕えたが、罪を犯して投獄された。荊州を治めていた潘濬(はんしゅん)は、以前にも彼を見損なうことがあったため、ついに処刑を命じた。多くの者がとりなそうとしたが潘濬は聞く耳を持たなかった。
そこで孫鄰(そんりん)は「父の舒邵はかつて、仇討ちをした後に兄弟でかばい合い、義人であると讃えられました。呉が天下統一を果たしたら、中原の人々は必ずや舒邵の子はどうしているか尋ねるでしょう。潘濬に殺されたと答えることになりますがよろしいですか」と問うた。
潘濬は即座に考えを改め、釈放した。

舒邵の事績は「江表伝」にも見える、と記されるが伝わっていない。(『孫賁伝』)

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