徐邈 何も変わらない男
徐邈(じょばく)字は景山(けいざん)
幽州広陽郡薊県の人(171~249)
魏の臣。
李敏(りびん)は遼東太守の公孫度(こうそんど)を恐れ家族を連れて逃亡した。
その後、李敏の子ははぐれた父を探して20年以上も放浪し、妻もめとらなかった。
「晋陽秋」に曰く。
同郷の徐邈は「後継ぎが無いことほど親不孝なことはない」とさとし結婚させたが、彼は息子の李胤(りいん)が生まれるとすぐに妻を離縁した。
(※裴松之は「家族を連れて逃亡した」のに子がはぐれているのはなぜか、と疑問を呈している)(『公孫度伝』)
曹操が河北の袁氏勢力を一掃した際に徐邈は召し出され、丞相軍謀掾となり、奉高県令の代行を試された後に、都に戻され東曹議令史となった。
216年、曹操が王位につくと尚書郎に上った。
だが酒にだらしなく、禁酒令に背いて泥酔し、聴取されると「聖人(清酒)に当たった」と悪びれなかったため曹操は激怒した。鮮于輔(せんうほ)に「普段は慎み深く、酔って吐いた言葉でしょう」と弁護され処刑は免れた。
後に隴西・南安の太守を務め、220年、曹丕が帝位につくと譙国相、平陽・安平太守、潁川の典農中郎将を歴任して各地で評判を上げ、関内侯に封じられた。
曹丕に「相変わらず聖人に当たっているのか」と以前の失言をからかわれると、故事を引き「懲りずに当たっています。コブは醜ですが、私は酔(醜と酒は同音)で知られています」と当意即妙の返答をしたため「評判はむなしく立つものではない」と感心され、撫軍大将軍に昇進した。
同郡の韓観(かんかん)と同等の名声を博し、後に三公に上る孫礼(そんれい)、盧毓(ろいく)よりも上に評価されていた。
曹叡の代には涼州刺史に上り、護羌校尉を兼務した。諸葛亮が北伐の兵を挙げると天水・南安・安定の三郡が反乱しそれに呼応したが、徐邈は速やかに鎮圧した。
当地は雨が少なく常に穀物が欠乏していたため、開墾し水田を作り、土地を肥やした。さらに軍用米の余りを売って物資を蓄え、民間の武器を没収し、教化を施し人心をなつかせた。西域との交易が開かれ、異民族が朝貢するようになったのは、全て徐邈の勲功である。
羌族の柯吾(かご)を討伐して都亭侯に上り、領邑300戸と建威将軍を加えられた。羌族に対しては小さな罪は見逃してやり、重罪にはまず指導者と談判し承知させるなど手続きを踏んだ上で罰を課したため、心服された。
恩賞は全て配下に分け与えたため妻子は衣食にも事欠き、曹叡は清廉さを褒めたびたび支給してやった。(『徐邈伝』)
「孫資別伝」に曰く。
涼州刺史の時、讒言を受けたが孫資(そんし)の弁護により事なきを得た。満寵(まんちょう)も同様に助けられ、二人が名声を保てたのは孫資のおかげである。(『孫資伝』)
238年、羌族の王の芒中(ぼうちゅう)・注詣(ちゅうけい)が反乱し、涼州刺史(※徐邈(じょばく)か)に討伐され、注詣は斬られた。(『明帝紀』)
240年、都に戻り大司農・司隷校尉に上り、百官は敬いはばかった。ある事件により官を辞したがすぐ光禄大夫に復帰した。(『徐邈伝』)
248年(『斉王紀』)、司空に推挙されたが「三公は道義を論ずる官です。私のような老人に任命するくらい、しかるべき者がいなければ欠員とすべきです」と辞退した。
249年、79歳で没した。三公の待遇で葬られ穆侯と諡された。
子の徐武(じょぶ)が後を継いだ。
254年、同じく清貧で知られた田豫(でんよ)、胡質(こしつ)とともに改めて功績を採り上げられ、余財がなく苦労する遺族に贈り物がなされた。
後年、盧欽(ろきん)は「高邁だが偏狭ではなく、清潔だが頑固ではなく、博大だが簡約で、勇猛かつ寛容だった。聖人は清廉を困難と呼ぶが、徐邈にはたやすかった」と激賞した。
ある人が「徐邈は曹操の代には洒脱だと言われたが、後には狷介とされたのはなぜか」と質問した。
盧欽は「曹操の代には崔琰(さいえん)・毛玠(もうかい)が人事を担当し清廉を重んじたため、人々は車や服を改めたが、徐邈は平素と変わらなかったので洒脱と呼ばれた。今では天下は奢侈に過ぎ、他人を模倣するが、徐邈は何も変わらず、模倣もしないから狷介と呼ばれる。これは世俗の人の恒常性の無さと、徐邈の恒常性を示している」と答えた。(『徐邈伝』)
陳寿は「清廉にして達士」と讃え、胡質・王昶(おうちょう)・王基(おうき)とともに列伝し「いずれも地方の長官として称賛名誉を残し、功績を表した。国家の良臣、当代の優れた人物である」と評した。
また韓曁(かんき)と高柔(こうじゅう)の評では二人を高評価しつつも「高齢になっても官位に就いたのは、徐邈・常林(じょうりん)と比べ玉に瑕である」と述べている。
「演義」には登場しない。
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