曹奐 魏のラストエンペラー
曹奐(そうかん)字は景明(けいめい)
豫州沛国譙県の人(246~303)
魏の第5代皇帝。
曹宇(そうう)の末子。曹操の孫。
元の名は曹璜(そうこう)。
曹宇は張魯(ちょうろ)の娘をめとっているが張魯の降伏が215年、曹奐の誕生が246年であり、曹奐の実母とは考えづらい。(『張魯伝』)
258年、常道郷公に封じられた。
同年、曹髦が没すると帝位についた。(『陳留王紀』)
その際に曹奐へ改名したと思われる。(『高貴郷公紀』)
迎えの使者は従兄弟(おじの曹植(そうしょく)の子)の曹志(そうし)が務めた。(『陳思王植伝』)
羊祜(ようこ)は曹奐が幼かったため近侍するのを好まず、地方への赴任を願い出た。(『晋書 羊祜伝』)
260年、司馬昭を相国に昇進させ、晋公に封じ九錫の礼を加えようとしたが固辞された。
また兄弟や従兄弟の子のうち、侯になっていない者を全て県侯に進めた。
同年、先の献帝の皇后でおば(父の姉妹)にあたる曹節(そうせつ)が没したため、献穆皇后と諡し、漢王朝の慣例通りに葬儀を行わせた。
同年冬、曹宇は冬至を祝う上表をし、その中で自らを「臣」と称した。
曹奐は詔勅を下し「古代にも臣下の扱いをされない人物がいた。燕王(父)が自らを臣と称さないのは妥当か検討せよ。そもそも本家の後継ぎは実の親も下の身分として扱うが、父を臣下や側室と同様に扱うのは、心情的に穏やかではない。礼典をよく調べ、筋道にかなった方法を考えよ」と命じた。 議論が交わされ、曹宇のような臣下である父へ特別な待遇を示す方法がいくつも考え出された。
261年、また司馬昭に相国・晋公・九錫の詔勅を下したが固辞された。
262年、功臣の郭嘉を曹操の霊廟の前庭に祀った。(『陳留王紀』)
263年、司馬昭に相国・晋公・九錫の詔勅を下したが固辞された。冬にも繰り返されようやく受けた。(『陳留王紀』・『晋書 文帝紀』)
秋に卞皇后(べんこうごう)を立てた。
鄧艾・鍾会により蜀が滅ぼされたため、益州を分割し梁州を設置した。
264年、鍾会が益州で反乱し、姜維・鄧艾らとともに討たれた。
司馬昭の爵位を晋王に進め、降伏した劉禅を安楽侯に封じた。
265年、司馬昭が没し、子の司馬炎が後を継いだ。
12月、魏から晋へ禅譲がなされ、司馬炎が帝位についた。(『陳留王紀』)
禅譲の書は鄭沖(ていちゅう)が届けた。(『晋書 鄭沖伝』)
司馬炎の大叔父の司馬孚(しばふ)は泣きながら曹奐の手を取り「私は死ぬまで魏の臣下です」と言った。(『晋書 宗室伝』)
曹奐は陳留王に封じられた。20歳だった。
金墉城へ移り住み、最後は鄴に居を構え、302年に58歳で没し、元皇帝と諡された。(『陳留王紀』)
陳寿は「慎み深い態度で帝位にあったが、宰相(司馬昭・司馬炎)が政治を取り仕切り、結局は穏やかに帝位を譲り渡した。大国を領土として受け取り、賓客として礼遇されたのは、(魏へ禅譲した後の)献帝と比べれば、一段と寵遇されたと言えよう」と評した。
子孫は200年以上続き、479年まで代々陳留王を継いだという。
曹宇は謙虚な人柄で、曹叡から大将軍に任じられたが固辞して受けなかった。曹宇が「臣」と称した件の顛末は、父のために皇帝の強権を発動せず、手順を踏んで配慮するところに、父から受け継いだ曹奐の謙虚な人柄がしのばれる。
「演義」ではなぜか字を景昭(けいしょう)あるいは景召(けいしょう)とされる。
|