三国志 そ 3


曹安民  ソウ・アン・ミン


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曹偉  魏諷と並ぶ大罪を犯す


曹偉(そうい)字は不明
兗州山陽郡の人(??~220?)

魏の臣。

「世語」に曰く。
黄初年間(220~226)、孫権が魏へ上奏しよしみを通じると、曹偉は(無官の仲介者を装い?)孫権と書簡を交わし賄賂を求め、それを利用して都の名士と交友しようとしたため誅殺された。

王昶(おうちょう)の「家誠」に曰く。
魏諷(ぎふう)・曹偉は邪悪さで破滅を招いたが、多くの若者を駆り立て動揺させた。速やかに誅殺されたが影響を受けた者は多数に及んだ。我が子らはよく戒めとすべきである。(『王昶伝』)

董昭(とうしょう)は諸葛誕・鄧颺(とうよう)らを「徒党を組んで風紀を乱し、魏諷・曹偉よりも罪深い」と上奏したため、曹叡は彼らを罷免した。

魏諷・曹偉の大罪を同列に論じており、多数の名士の子弟が関わり処刑された魏諷の乱のように詳細がわからないが、匹敵するほどの大事件だったと思われる。
また董昭は「黄初のはじめ」と述べており、220年の出来事だろうか。(『董昭伝』)

「文帝紀」には孫権が上奏したのは221年8月と記される。(『文帝紀』)



曹緯  曹林の後継ぎ


曹緯(そうい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹林(そうりん)の子。
曹操の孫にあたる。

256年に父が没すると後を継いだ。

だが曹林は景元年間(260~264)に加増され4700戸に至ったと記されており、加増されたのは曹緯のことか、それとも単なる誤記と思われる。(『高貴郷公紀』・『沛穆王林伝』)



曹澳  曹峻の子


曹澳(そういく)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹峻(そうしゅん)の子。
曹操の孫にあたる。

259年、父が没すると後を継いだ。

景元年間(260~264)までに加増され4700戸に至った。(『陳留恭王峻伝』)



曹壱  曹玹の後を継ぐ(2)


曹壱(そういつ)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹林(そうりん)の子。
曹操の孫にあたる。

215年、父の異母兄弟の曹玹(そうけん)が早逝し、子が無かったため曹林の子の曹賛(そうさん)が爵位を継いだ。
だが曹賛もまた早逝したため、その弟の曹壱が継いだ。

221年、済陽侯に移り、223年に公に進んだ。

曹壱も没すると悼公と諡され、子の曹恒(そうこう)が後を継いだ。(『済陽懐王玹伝』)



曹殷  曹叡の子の安平哀王


曹殷(そういん)字は不明
豫州沛国譙県の人(231~232)

曹叡の子。

231年、誕生を祝い大赦が下された。
232年に没し、領土を追贈され安平哀王と諡された。(『明帝紀』)



曹寅  王叡を返り討ちにした武陵太守


曹寅(そういん)字は不明
出身地不明(??~??)

後漢の臣。

189年、袁紹を盟主に董卓追討軍が結成されると、孫堅も挙兵した。
荊州刺史の王叡(おうえい)は平素から孫堅を軽んじ礼に欠ける態度を取っていたため、殺され兵を奪われた。

「呉録」に詳細が描かれる。
王叡は孫堅とともに零陵・桂陽の反乱を鎮圧したが、武官の孫堅を軽んじたびたび暴言を吐いた。
189年、王叡も董卓追討軍への参戦を表明し、不仲だった武陵太守の曹寅を手始めに討伐するとうそぶいた。
曹寅は先手を打って王叡の処刑を命じる温毅(おんき)の檄文を偽造し、孫堅に討伐させた。何も知らない王叡は城に迫った兵が孫堅の配下だと思わず、軍資金の援助を求められて応じたが、その中に孫堅がいるのに気づき仰天した。
誅殺されると聞き、自分に何の罪があるのか問うと、孫堅は「事態を看過された罪だ(何もしなかったからだ)」と言い、観念した王叡は黄金を削って飲み、自害した。(『孫堅伝』)



曹宇  ラストエンペラーの父


曹宇(そうう)字は彭祖(ほうそ)
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹操と環夫人(かんふじん)の子。
曹奐の父。
曹沖(そうちゅう)・曹拠(そうきょ)は同母兄弟。環夫人の三男か。

211年、後漢の都郷侯に封じられ、217年に魏の魯陽侯に改められた。(『燕王宇伝』)

215年、降伏した張魯(ちょうろ)の娘を曹宇の妻に迎えた。(『張魯伝』)

221年には魯陽公に進み、222年に下邳王、224年に単父県王、225年に燕王となった。

甥である曹叡とは若い頃から親しく、曹叡が帝位につくと諸王よりも厚遇された。
235年、召されて朝廷に上り、237年にいったん帰郷したが、翌238年に再び都に上った。(『燕王宇伝』)

同年冬、危篤となった曹叡は曹宇を大将軍に任じ、曹爽(そうそう)・曹肇(そうちょう)・夏侯献(かこうけん)・秦朗(しんろう)ら親族に補佐させようと考えた。
ところが謙虚な曹宇は4日にわたり誠心誠意をもって固辞し、曹叡は側近の劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)に「どうして曹宇はこうなんだ」とぼやいた。劉放・孫資は「燕王(曹宇)は大任を担えないことをわきまえているからです」と言い、曹叡は諦めて曹爽を大将軍に任じ、曹宇・曹肇・夏侯献・秦朗を免職した。(『劉放伝』・『燕王宇伝』)

次の異説がある。
「世語」に曰く、劉放・孫資は曹肇・夏侯献と敵対していたため猛反対し、曹爽と司馬懿を推薦した。(『劉放伝』)
「漢晋春秋」に曰く、劉放・孫資は曹宇らを讒言し、詔勅を偽造し全員を免職した。(『明帝紀』)

「魏略」に曰く。
239年、臨終の床についた曹叡は、劉放の進言により後事を託すため司馬懿を呼び寄せようとし、直筆で詔勅をしたため、雑用係の辟邪(へきじゃ)に司馬懿へ届けるよう命じた。
司馬懿は先に曹宇から西へ向かうよう詔勅を受けていたが、直筆の詔勅が届くと都で突発事が起きたのではと驚き、急いで馳せ戻った。
そのため臨終に間に合い後事を託された。(『斉王紀』)

239年、曹叡は没し、曹宇も帰郷した。
景初~景元年間(237~264)の間に何度も加増され、5500戸となった。(『燕王宇伝』)

258年、曹髦が没すると曹宇の子の曹奐が帝位についた。
(※曹宇が張魯の娘をめとったのが215年、曹奐の誕生が246年であり、曹奐の実母とは考えづらい)

260年、曹宇は冬至を祝う上表をし、その中で自らを「臣」と称した。
曹奐は詔勅を下し「古代にも臣下の扱いをされない人物がいた。燕王(父)が自らを臣と称さないのは妥当か検討せよ。そもそも本家の後継ぎは実の親も下の身分として扱うが、父を臣下や側室と同様に扱うのは、心情的に穏やかではない。礼典をよく調べ、筋道にかなった方法を考えよ」と命じた。
議論が交わされ、曹宇のような臣下である父へ特別な待遇を示す方法がいくつも考え出された。(『陳留王紀』)

父のために皇帝の強権を発動せず、手順を踏んで配慮するところに、曹宇から受け継いだ曹奐の謙虚な人柄がしのばれる。
なお晋への禅譲後の曹宇の消息は不明である。

「演義」では曹丕の子に変更され、やはり曹叡の任命を固辞した。



曹叡  三代目の麒麟児


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曹偃


未作成



曹琬  曹昂の後継ぎ


曹琬(そうえん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹均(そうきん)の子。
曹操の孫にあたる。(『樊安公均伝』)
母は張繍(ちょうしゅう)の娘か。(『張繍伝』)

222年、父の異母兄の曹昂(そうこう)の継嗣となり、中都公に取り立てられ、同年に長子公に国替えされた。(『豊愍王昂伝』)

なお曹昂は張繍に殺されており、張繍の孫が曹昂の後を継いでいることになり、「集解」で「顛倒錯乱」と評されている。(『三国志集解』)

254年、曹昂の爵位も受け継ぎ、豊王となった。

景元年間(260~264)までに加増され2700戸に至った。

没すると恭王と諡され、子の曹廉(そうれん)が後を継いだ。(『豊愍王昂伝』)



曹演  曹純の子


曹演(そうえん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
曹純(そうじゅん)の子。

210年、父が没すると後を継いだ。(『曹純伝』)

254年、曹芳の廃位を求める上奏に武衛将軍・安寿亭侯として連名した。(『斉王紀』)

正元年間(254~256)、爵位が平楽郷侯に進んだ。
官位は領軍将軍まで上った。
没すると子の曹亮(そうりょう)が後を継いだ。(『曹純伝』)



曹温  曹楷の子ら


曹温(そうおん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹楷(そうかい)の子。
曹操の曾孫にあたる。

231年、兄弟の曹悌(そうてい)が従伯父(曹丕の子)にあたる曹礼(そうれい)の、曹温が同じく従伯父の曹邕(そうよう)の後をそれぞれ継ぎ王となった。

曹悌は元城王から232年に梁王となり、曹温は邯鄲王から232年に魯陽王となった。
景初~景元年間(237~264)の間に何度も加増され、曹悌は4500戸、曹温は4400戸に上った。(『元城哀王礼伝』・『邯鄲懐王邕伝』)



曹娥


未作成



曹嘉  曹彪の子


曹嘉(そうか)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹彪(そうひょう)の子。
曹操の孫にあたる。

251年、父が王淩(おうりょう)の反乱に加担し自害を命じられると、曹嘉ら妻子は平民に落とされ、平原郡に移住させられた。

254年、常山真定王に返り咲いた。
260年、加増され2500戸となった。

晋代には高邑公となり、元康年間(291~299)に石崇(せきすう」とともに国子博士となった。
曹嘉は後に東莞太守、石崇は征虜将軍となった。石崇とやりとりした詩が残っている。

李重(りじゅう)は「曹氏の浮沈は陛下の思し召し一つにかかっています。曹嘉は才能や学問では曹志(そうし)・曹翕(そうきゅう)に及びませんが、良き素質と潔癖さを持ち、心映えは彼らに勝り、すでに二郡の太守を歴任しています。先代の王朝の子孫を優遇するため、散騎侍郎に取り立てるべきです」と上申した。(『楚王彪伝』)



曹楷  曹芳の父?


曹楷(そうかい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹彰(そうしょう)の子。曹操の孫にあたる。
曹悌(そうてい)、曹温(そうおん)の父。

223年、父が没し任城王を継いだが、同年のうちに以前父の領した中牟に国替えされ、224年に任城に戻されたが県に落とされた。(『任城威王彰伝』)

231年、子の曹悌、曹温が甥(曹丕の子)の後をそれぞれ継ぎ王となった。(『元城哀王礼伝』・『邯鄲懐王邕伝』)

232年、任城国に改められ任城王に復し、5県2500戸を領した。
235年、勝手に器物を作る法令を犯し、2000戸を削られた。(『任城威王彰伝』)

239年、三代皇帝に即位した曹芳の出自は厳重に秘されたが「魏氏春秋」によると曹楷の子だという。(『斉王紀』)

246年、済南国に移されたが3000戸に加増された。
254年、260年に続けて加増され4400戸に上った。

「百官名」に曰く。
265年、晋代になると崇化少府となり太后の王元姫に仕えた。(『任城威王彰伝』)



曹楷  曹泰の弟A


曹楷(そうかい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
曹仁の子。曹泰(そうたい)の弟。

曹泰が没するとその子の曹初(そうしょ)が後を継ぎ、弟の曹楷や曹範(そうはん)も封邑を分割し列侯された。(『曹仁伝』)



曹皚  曹爽の弟ら


曹皚(そうがい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~249?)

魏の臣。
曹真(そうしん)の子(六男?)。

231年、父が没すると兄の曹爽(そうそう)が後を継ぎ、曹則(そうそく)・曹皚ら5人の弟も列侯された。(『曹真伝』)

二人のその後は不明だが、早逝していなければ、249年に曹爽一派が司馬懿に処刑された際に、連座したと思われる。
だが五男と思われる曹彦(そうげん)が要職に就く一方で曹則・曹皚の記述はなく、既に没していた可能性も低くないかもしれない。



曹奐  魏のラストエンペラー


曹奐(そうかん)字は景明(けいめい)
豫州沛国譙県の人(246~303)

魏の第5代皇帝。
曹宇(そうう)の末子。曹操の孫。
元の名は曹璜(そうこう)。

曹宇は張魯(ちょうろ)の娘をめとっているが張魯の降伏が215年、曹奐の誕生が246年であり、曹奐の実母とは考えづらい。(『張魯伝』)

258年、常道郷公に封じられた。
同年、曹髦が没すると帝位についた。(『陳留王紀』)
その際に曹奐へ改名したと思われる。(『高貴郷公紀』)
迎えの使者は従兄弟(おじの曹植(そうしょく)の子)の曹志(そうし)が務めた。(『陳思王植伝』)
羊祜(ようこ)は曹奐が幼かったため近侍するのを好まず、地方への赴任を願い出た。(『晋書 羊祜伝』)

260年、司馬昭を相国に昇進させ、晋公に封じ九錫の礼を加えようとしたが固辞された。
また兄弟や従兄弟の子のうち、侯になっていない者を全て県侯に進めた。
同年、先の献帝の皇后でおば(父の姉妹)にあたる曹節(そうせつ)が没したため、献穆皇后と諡し、漢王朝の慣例通りに葬儀を行わせた。

同年冬、曹宇は冬至を祝う上表をし、その中で自らを「臣」と称した。
曹奐は詔勅を下し「古代にも臣下の扱いをされない人物がいた。燕王(父)が自らを臣と称さないのは妥当か検討せよ。そもそも本家の後継ぎは実の親も下の身分として扱うが、父を臣下や側室と同様に扱うのは、心情的に穏やかではない。礼典をよく調べ、筋道にかなった方法を考えよ」と命じた。
議論が交わされ、曹宇のような臣下である父へ特別な待遇を示す方法がいくつも考え出された。

261年、また司馬昭に相国・晋公・九錫の詔勅を下したが固辞された。

262年、功臣の郭嘉を曹操の霊廟の前庭に祀った。(『陳留王紀』)

263年、司馬昭に相国・晋公・九錫の詔勅を下したが固辞された。冬にも繰り返されようやく受けた。(『陳留王紀』・『晋書 文帝紀』)
秋に卞皇后(べんこうごう)を立てた。
鄧艾・鍾会により蜀が滅ぼされたため、益州を分割し梁州を設置した。

264年、鍾会が益州で反乱し、姜維・鄧艾らとともに討たれた。
司馬昭の爵位を晋王に進め、降伏した劉禅を安楽侯に封じた。

265年、司馬昭が没し、子の司馬炎が後を継いだ。
12月、魏から晋へ禅譲がなされ、司馬炎が帝位についた。(『陳留王紀』)
禅譲の書は鄭沖(ていちゅう)が届けた。(『晋書 鄭沖伝』)
司馬炎の大叔父の司馬孚(しばふ)は泣きながら曹奐の手を取り「私は死ぬまで魏の臣下です」と言った。(『晋書 宗室伝』)

曹奐は陳留王に封じられた。20歳だった。
金墉城へ移り住み、最後は鄴に居を構え、302年に58歳で没し、元皇帝と諡された。(『陳留王紀』)

陳寿は「慎み深い態度で帝位にあったが、宰相(司馬昭・司馬炎)が政治を取り仕切り、結局は穏やかに帝位を譲り渡した。大国を領土として受け取り、賓客として礼遇されたのは、(魏へ禅譲した後の)献帝と比べれば、一段と寵遇されたと言えよう」と評した。

子孫は200年以上続き、479年まで代々陳留王を継いだという。

曹宇は謙虚な人柄で、曹叡から大将軍に任じられたが固辞して受けなかった。曹宇が「臣」と称した件の顛末は、父のために皇帝の強権を発動せず、手順を踏んで配慮するところに、父から受け継いだ曹奐の謙虚な人柄がしのばれる。

「演義」ではなぜか字を景昭(けいしょう)あるいは景召(けいしょう)とされる。



曹幹  曹丕を泣かせた弟


曹幹(そうかん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~261)

曹操と陳氏(ちんし)の子。
別名は曹良(そうりょう)。

3歳の時に母が没したため、父の側室の王昭儀(おうしょうぎ)に育てられた。
5歳の時、曹操は危篤となり、曹丕に「この子は3歳で母を、5歳で父を失うのだから後を頼む」と遺言したため、特に目を掛けられた。
幼い曹幹は兄の曹丕を「お父さん」と呼び、不憫に思った曹丕はいつも涙したという。
曹丕も226年に没したが、母(王昭儀)は曹丕の後継者争いに貢献したため、後を継ぐ曹叡(そうえい)にも曹幹を厚遇するよう遺言された。

215年に高平亭侯に封じられ、221年に燕公に進んだ。
翌年には王に上り、232年に趙王に封じられた。

234年、曹幹のもとに曹簒(そうさん)と王喬(おうきょう)が訪れたが、時節を間違えたため、勝手に賓客と交際する罪を犯したと上奏された。
だが曹叡は詔書を送り戒めるだけに留め、処罰しなかった。

景元年間(260~264)まで何度も加増され5千戸に至った。(『趙王幹伝』)

261年に没した。(『陳留王紀』)



曹鑒  曹丕と朱淑媛の子


曹鑒(そうかん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~225)

曹丕と朱淑媛(しゅしゅくえん)の子。

225年に東武陽王に立てられ、同年に没した。

235年、諡号を追贈されたが、子が無かったため国は没収された。(『東武陽懐王鑒伝』)



曹熙  曹真の家を継いだ族孫


曹熙(そうき)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹真(そうしん)の族孫。

249年、曹真の子の曹爽(そうそう)らが司馬懿に粛清され家が断絶したため、嘉平年間(249~254)に曹真の功績を改めて採り上げ、曹熙が新昌亭侯として300戸を与えられて家を継ぎ、祭祀を行った。

「晋紀」に曰く。
蔣済(しょうせい)が曹真の祭祀を絶やしてはいけないと進言した。(『曹真伝』)



曹徽  曹操の子の東平王


曹徽(そうき)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~242)

曹操と宋姫(そうき)の子。

叔父の曹玉(そうぎょく)の後を継いだ。
217年、歴城侯に封じられた。(『東平霊王徽伝』)

高堂隆(こうどうりゅう)は曹徽の文学となり、歴城相になった。
220年、曹操が没すると曹徽は哀悼の意を示すどころか狩猟にふけっていたため、高堂隆は道理を説いて諫言した。(『高堂隆伝』)

221年、公に爵位が進んだ。
222年、廬江王になった。
223年、寿張王に転封された。
224年、寿張県王に下がった。
225年、東平王に転封された。

234年、配下に寿張県の役人を鞭打ちさせたのを告発され、1県500戸を削られたが、同年のうちに返還された。

242年に没し、子の曹翕(そうきゅう)が後を継いだ。
曹翕は一族の中で曹志(そうし)に次ぐ名声を得た。(『東平霊王徽伝』)

異母兄弟の曹茂(そうぼう)は喉の痛みを理由に曹徽へ哭礼せず、生活も宮殿への出入りも喪に服さずいつも通りだった。
所管の役人は改易するよう上奏したが、1県500戸を削るだけに留められた。(『楽陵王茂伝』)



曹羲  曹爽を諌めた弟


曹羲(そうぎ)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~249)

魏の臣。
曹真(そうしん)の子(次男?)。
「曹真伝」に附伝される。

231年、魏の重鎮だった父が没すると兄の曹爽(そうそう)が後を継ぎ、曹羲、曹訓(そうくん)ら5人の弟も列侯に封じられた。

曹芳の代になると曹爽、司馬懿が後見役となったが、曹爽は腹心の丁謐(ていひつ)の策謀で司馬懿を名誉職に追いやり、実権を奪った。曹羲はその際に上奏文を作成し、曹爽一派が魏を牛耳ると、中領軍を任された。
だが曹羲は兄の専制を憂慮し、弟らに訓戒する名目で、間接的にたびたび諌めた。曹爽も自分が諌められていると気付いたが、はなはだ不愉快がるだけで態度を改めることはなく、曹羲は泣いて中座することもあった。(『曹羲伝』)

鄭沖(ていちゅう)は孫邕(そんよう)、曹羲、荀顗(じゅんぎ)、何晏(かあん)らとともに「論語集解」を編纂した。(『晋書 鄭沖伝』)

傅嘏(ふか)は何晏を「あなたの兄弟を惑わし、朝政をすたれさせる」と罷免するよう勧めたが、かえって何晏によって傅嘏が罷免された。(『傅嘏伝』)

馬鈞(ばきん)が投石車を改良しようとした時、裴秀(はいしゅう)は出来はしないと反対し、曹羲もそれに同意した。
馬鈞の弟子の傅玄(ふげん)の熱心な説得により曹羲も了承したものの、曹爽が聞き入れなかったため採用されなかった。(『杜夔伝』)

249年、曹爽・曹羲ら兄弟が曹芳を連れ留守にした隙をつき、司馬懿が挙兵し都を占拠した。
桓範(かんはん)は「今さら財産を捨てて命乞いしても遅い。しがない男でも一人の人質を確保していれば望みがあるが、あなたがたは天子を確保している。擁立して兵を集め、許昌へ逃れ戦いましょう」と勧めた。
桓範は曹羲へさらに「あなたの軍営は宮門に近く、役所は城外にあるから兵を集められる。許昌へは二晩もあれば着くし、武器も備蓄してある。私は大司農だから兵糧も確保できる」と具体的に対策を話したが、兄弟は黙ったまま決断できず、ついに司馬懿の甘言に乗って降伏し、桓範ら一派もろとも処刑された。(『曹羲伝』)

司馬懿は王観(おうかん)を中領軍代行に任じ、曹羲の軍営を抑えさせた。(『王観伝』)

「演義」では司馬懿に警戒するよう曹爽を諌めたが、やはり聞き入れられなかった。



曹休  曹家の御曹司


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曹翕  曹徽の優れた後継ぎ


曹翕(そうきゅう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹徽(そうき)の子。曹操の孫。

242年に父が没すると後を継いだ。
景初~景元年間(237~264)の間に何度も加増され、合わせて3400戸になった。

晋代に稟丘公に取り立てられた。
一族の中で曹志(そうし)に次ぐ名声を得た。

266年、子の曹琨(そうこん)を入朝させると、司馬炎は詔勅を下し「曹翕は徳を保持し道を履行する、魏の皇室で最も優れた人物である」と称え、曹琨に騎都尉や褒美を与えた。

また「解寒食散方」という医学書を記し、皇甫謐(こうほひつ)の著作とともに広く世に伝わった。(『東平霊王徽伝』)

李重(りじゅう)は「曹嘉(そうか)は才能・学問は曹志・曹翕に及ばないが心映えは勝る」と推挙した。(『楚王彪伝』)



曹拠  司馬師の傀儡になりかける


曹拠(そうきょ)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹操と環夫人(かんふじん)の次男。
名は曹據(そうきょ)とも書かれる。
兄弟は曹沖(そうちゅう)と曹宇(そうう)。

生没年は不明だが兄の曹沖の年齢から生年は197年以降、没年は260年以降である。(『鄧哀王沖伝』・『斉王紀』)

208年、兄の曹沖が13歳で没した。
曹操は嘆き悲しみ、(後年に)曹拠の子の曹琮(そうそう)に後を継がせた。(『鄧哀王沖伝』)

「王沈魏書」に曰く。
210年、曹操は領邑2万戸を後漢へ返上した。
211年、献帝は代わりに曹操の3人の子へ5千戸ずつ与えた。曹拠は范陽侯に封じられた。(『武帝紀』)

217年、宛侯に移封された。
221年、宛公に進んだ。(『彭城王拠伝』)
同年、子の曹範(そうはん)が曹拠の異母兄弟で218年に没した曹整(そうせい)の後を継いだ。
曹範が235年に没すると、その弟の曹闡(そうせん)が翌年に後を継いだ。(『郿戴公整伝』)

222年、章陵王となり、年内に義陽王に移封された。
曹丕は義陽が湿地帯のため、母(環夫人)の故郷である彭城王に変えてやったが、すぐ済陰王に移された。
224年、諸王の領邑が県まで落とされ、定陶県王となった。
232年、曹叡は所領を郡に戻し、彭城王に返り咲いた。(『彭城王拠伝』)
237年、曹琮とともに禁止された器物を作らせたため領邑を2000戸減らされたが、2年後に戻された。(『鄧哀王沖伝』・『彭城王拠伝』)

「魏略」に曰く。
254年、曹芳の廃位が決まり、司馬師は郭太后(かくたいこう)へ曹拠の即位を考えていることを伝えた。
郭太后は「曹拠は私の叔父で、彼が即位したら私の立場がありません。それに曹叡(夫)の血筋を絶ってしまってよいのでしょうか。礼の建前からも分家が本家の後を継ぐべきで、曹叡の甥の曹髦の即位が相応しいでしょう」と主張し了承させた。(『斉王紀』)

正元~景元年間(254~264)に何度も加増され4600戸となった。(『彭城王拠伝』)

「演義」でも曹芳の後継者候補として名前のみ登場する。



曹協  曹丕の子の賛王


曹協(そうきょう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹丕と李貴人(りきじん)の子。

早逝し、231年に国と経殤公の諡号を追贈された。
234年、賛哀王に改められた。
235年、子の曹尋(そうじん)が後を継いだ。
248年、曹尋も没し、子が無かったため国は没収された。(『賛哀王協伝』)



曹玉  曹徽が後を継いだ曹操の弟


曹玉(そうぎょく)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹操の弟。

没年や事績は不明。
曹操の子の曹徽(そうき)が後を継いだ。(『東平霊王徽伝』)



曹棘  曹操と劉姫の子


曹棘(そうきょく)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹操と劉姫(りゅうき)の子。

早逝し、231年に国と諡号を追贈されたが、後継ぎはなかった。(『広宗殤公子棘伝』)



曹均  曹操の子の樊安公


曹均(そうきん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~219)

曹操と周姫(しゅうき)の子。

叔父の曹彬(そうひん)の後を継いだ。(『樊安公均伝』)

199年、降伏した張繍(ちょうしゅう)の娘をめとった。(『張繍伝』)

217年、樊侯に取り立てられた。(『樊安公均伝』)
同年に異母兄弟の曹矩(そうく)の後を、子の曹敏(そうびん)が継いだ。(『范陽閔王矩伝』)

219年に没し、子の曹抗(そうこう)が後を継いだ。

222年、曹均は安と諡され、公を追贈された。(『樊安公均伝』)
同年、異母兄の曹昂(そうこう)の後を子の曹琬(そうえん)が継いだ。(『豊愍王昂伝』)

曹昂は張繍に殺されており、張繍の孫が曹昂の後を継いでいることになり、「集解」で「顛倒錯乱」と評されている。(『三国志集解』)

ちなみに219年といえば義兄(張繍の子)の張泉(ちょうせん)が魏諷(ぎふう)の反乱に加担し処刑された年である。
曹均の死は心労によるものかもしれない。

なお同年に関羽が樊城を包囲しているが、曹均の領国は兗州の樊県であり関係はない。



曹勤  曹彪の兄弟


曹勤(そうきん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹操と孫姫(そんき)の子。
曹彪(そうひょう)の兄弟。
記述の順から曹上(そうじょう)、曹彪、曹勤の順に生まれたか。

曹上・曹勤はともに早逝し、231年に国と諡号を追贈されたが、後継ぎはなかった。(『臨邑殤公子上伝』・『剛殤公子勤伝』)

曹彪は生き長らえたが251年、57歳の時に王淩(おうりょう)の反乱に加担し自害を命じられた。(『楚王彪伝』)



曹矩  曹操の子の閔王


曹矩(そうく)字は不明
豫州沛国譙の人(??~??)

曹操と尹夫人(いんふじん)の子。(『武文世王公伝』)
母の連れ子の何晏(かあん)は義兄にあたる。(『曹真伝』)

早逝し、子が無かった。

217年、異母兄弟の曹均(そうきん)の子の曹敏(そうびん)が後を継ぎ、臨晋侯に取り立てられた。

222年、曹矩は閔と諡され、范陽と公の爵位を追贈された。

232年、曹矩は閔王に進み、曹敏は琅琊王となった。(『范陽閔王矩伝』)



曹訓  曹羲に諌められた弟


曹訓(そうくん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~249)

魏の臣。
曹真(そうしん)の子(三男?)。
「曹真伝」に附伝される。

231年、魏の重鎮だった父が没すると兄の曹爽(そうそう)が後を継ぎ、曹羲(そうぎ)、曹訓(そうくん)、曹則(そうそく)、曹彦(そうげん)、曹皚(そうがい)ら5人の弟も列侯に封じられた。

曹芳の代になると曹爽、司馬懿が後見役となったが、曹爽は腹心の丁謐(ていひつ)の策謀で司馬懿を名誉職に追いやり、実権を奪った。曹訓は武衛将軍に任命されるなど弟らも恩恵に浴した。

次兄の曹羲は曹爽の専制を憂慮し、弟らに訓戒する名目で、間接的にたびたび諌めた。曹爽も自分が諌められていると気付いたが、はなはだ不愉快がるだけで態度を改めることはなく、曹羲は泣いて中座することもあった。この弟らは曹訓・曹彦を指すと思われる。

そして249年、曹爽ら兄弟が曹芳を連れ留守にした隙をつき、司馬懿が挙兵し都を占拠した。
甘言に乗って抵抗せず降伏し、兄弟は一派もろとも処刑された。(『曹訓伝』)

SLG「三國志Ⅲ」ではなぜか曹訓が兄弟の中で最もパラメーターが高く、将軍にもなれる。



曹冏  曹叡の子の清河王


曹冏(そうけい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~226)

曹叡の子。

226年8月、清河王に封じられ、同年10月に没した。(『明帝紀』)



曹冏  曹爽を諌めたが効果なし


曹冏(そうけい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。

曹操の祖父の曹騰(そうとう)の弟である曹叔興(そうしゅくこう)の子孫。
曹芳の族祖父にあたる。

「魏氏春秋」に曰く。
曹芳が幼いのをいいことに専権を振るう曹爽(そうそう)を諌める上奏をしたが聞き入れられなかった。(『武文世王公伝』)



曹京  曹整の早逝した兄弟


曹京(そうけい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹操と李姫(りき)の子。

上から順に曹乗(そうじょう)、曹整(そうせい)、曹京の三兄弟。
曹乗と曹京は早逝した。

231年、曹乗は穀城の殤公子を、曹京は霊の殤公子を追贈されたが、後継ぎは立てられなかった。(『霊殤公子京伝』)



曹啓  曹霖の子


曹啓(そうけい)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹霖(そうりん)の子。
曹丕の孫にあたる。

父は249年に没し、曹啓が後を継いだ。(『東海定王霖伝』)
「明帝紀」には250年12月27日逝去と記される。(『明帝紀』)

景初年間(237~239)・正元年間(254~256)・景元年間(260~264)の間に何度も加増され、合わせて6200戸になった。(『東海定王霖伝』)



曹彦  曹爽の地味な弟


曹彦(そうげん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~249)

魏の臣。
曹真(そうしん)の子(五男?)。

231年、魏の重鎮だった父が没すると兄の曹爽(そうそう)が後を継ぎ、曹彦ら5人の弟も列侯に封じられた。

曹爽が魏の実権を握ると弟らも要職に任じられ、曹彦は散騎常侍・侍講に就いた。
次兄の曹羲(そうぎ)は曹爽の専制を憂慮し、弟らに訓戒する名目で、間接的にたびたび諌めた。曹爽も自分が諌められていると気付いたが、はなはだ不愉快がるだけで態度を改めることはなく、曹羲は泣いて中座することもあった。この弟らは曹彦・曹訓(そうくん)を指すと思われる。(『曹真伝』)

249年、司馬懿は決起して都を占拠し、専横をきわめていた曹爽(そうそう)一派を処刑させた。(『斉王紀』)



曹玹  曹操の子の済陽王


曹玹(そうけん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹操と秦夫人(しんふじん)の子。

211年、西郷侯に上ったが、早逝し子も無かった。

215年、異母兄弟の曹林(そうりん)の子の曹賛(そうさん)が爵位を継いだが、曹賛もまた早逝したため、その弟の曹壱(そういつ)が継いだ。

230年、曹壱が公に上がったのに合わせ、曹玹の爵位も上げられ懐公の諡号を贈られた。

232年、曹玹はさらに懐王に進んだ。(『済陽懐王玹伝』)



曹儼  曹丕と宋姫の子


曹儼(そうげん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~223)

曹丕と宋姫(そうき)の子。

222年に広平王に立てられ、223年に没した。
子が無かったため国は没収された。(『広平哀王儼伝』)



曹宏  陶謙に信任された邪悪な小人物


曹宏(そうこう)字は不明
出身地不明(??~??)

陶謙(とうけん)の臣。

徐州牧の陶謙は道義に背き感情に任せて行動し、趙昱(ちょういく)は忠義で正直な人柄だったため疎んじられ、曹宏のような邪悪な小人物が信任された。
これにより善良な人々は被害を受け混乱が深まって行った。(『陶謙伝』)



曹抗  曹均の後継ぎ


曹抗(そうこう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~237)

曹均(そうきん)の子。
曹操の孫にあたる。(『樊安公均伝』)
母は張繍(ちょうしゅう)の娘か。(『張繍伝』)

219年、父が没し後を継いだ。

222年、父が継いでいた大叔父(曹操の弟)の曹彬(そうひん)と同じ、薊公に国替えされた。

翌223年、屯留公に移った。

237年に没し、定公と諡された。子の曹諶(そうしん)が後を継いだ。(『樊安公均伝』)



曹昴  恵まれない長男坊


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曹恒  曹壱の子


曹恒(そうこう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹壱(そういつ)の子。
曹操の曾孫にあたる。

232年過ぎに父の曹壱が没すると、族祖父の曹玹(そうけん)の爵位を受け継いだ。
景元年間(260~264)までに加増され1900戸に至った。(『済陽懐王玹伝』)



曹洪  金にがめつく身内に甘い


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曹貢  曹丕と張姫の子


曹貢(そうこう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~224)

曹丕と張姫(ちょうき)の子。

222年に清河王に立てられ、224年に没した。
子が無かったため国は没収された。(『清河悼王貢伝』)



曹興  曹休の孫


曹興(そうこう)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

魏の臣。
曹肇(そうちょう)の子。
曹休(そうきゅう)の孫。

正始年間(240~249)、父が没すると後を継いだ。(『曹休伝』)



曹袞  曹操の子の中山王


曹袞(そうこん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~235)

曹操と杜氏(とし)の子。

母はもともと呂布配下の秦宜禄(しんぎろく)の妻だったが、紆余曲折あり198年に曹操の側室となり、寵愛され曹袞ら3人の子に恵まれた。(『明帝紀』)

幼い頃から学問好きで、十数歳の頃には立派な文章をものした。あまりに根を詰めるので周囲の者は病気を心配し、読書を控えるよう勧めたが聞き入れなかった。
才能では「詩聖」とうたわれる異母兄の曹植(そうしょく)には流石に及ばなかったが、好んで彼と張り合ったという。

216年、平郷侯に封ぜられたのを皮切りに各地に転封され、221年に公に上がった。配下らは祝福したが曹袞は「私は宮殿の奥深くに住み、農耕の難儀さも知らないから、不遜やわがままから過失も多いだろう。祝ってくれたからには私の欠陥も救って欲しい」と恐縮した。
配下らは言う通りに見守ったが「過失があればもちろん指摘するが、善事があればそれも報告しなければいけない」と言い、その美点を称賛した。
曹袞はますます恐縮し「身を慎むのは人間として普通のことなのに、諸君はわざわざそれを知らしめた。善事が世に伝わらないことを私は気にしない。こんなことは利益にならない」と称賛もやめるよう命じた。

質素倹約を重んじ、妻妾には機織りをさせ、召使いの仕事を自らさせた。
222年に北海王に進んだ。ちょうど黄龍が現れたため上奏して皇帝の徳を讃えると、曹叡(そうえい)は曹袞の教養を讃える詔勅を返した。
231年、入朝したが禁令を犯した。曹叡は「王(曹袞)は平素から敬虔で慎み深く、うっかりしたのだろう」と弁護し、所管の役人のがんばりにより領邑を減らされるだけで済んだ。
曹袞はますます謹厳に務めたためその翌年には元に戻された。

235年、病に倒れ、同母兄の曹林(そうりん)に後事を託し息を引き取った。恭王の諡号を贈られた。
後を継いだ子の曹孚(そうふ)への遺言を以下に記す。

「お前は幼くまだ正しい道を知らない。早く主君となれば安楽のみを知り苦痛を知らない。苦痛を知らなければ不遜と奢侈により間違いを犯すだろう。
大臣には礼を尽くせ。大臣でなくても老人には礼を尽くせ。兄には敬意を、弟には慈しみを持て。兄弟が悪事を働いたら諌めろ。聞き入れられなければ泣いて教えよ。それでも駄目なら母に告げよ。もしなおも改めなければ上奏し領地を返還しろ。災難に掛かるくらいならば貧しいほうがよい。
だがこれらは大きな悪事についてのことだ。小さな過失なら兄弟をかばいなさい。
我が子よ、慎んで身を修めよ。朝廷に忠誠を、太妃(祖母)に孝心を持て。内では祖母の命令を聞き、外では伯父(曹林)の指示を受けろ。
怠け心を起こさず、私の霊魂を慰めてくれ」(『中山恭王袞伝』)



曹焜  曹敏の子


曹焜(そうこん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹敏(そうびん)の子。
曹操の曾孫にあたる。

父が没すると、後を継いだ。(『范陽閔王矩伝』)



曹琨  曹翕の後継ぎ


曹琨(そうこん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹翕(そうきゅう)の子。曹操の曾孫。

266年、入朝すると、司馬炎は詔勅を下し「曹翕は徳を保持し道を履行する、魏の皇室で最も優れた人物である」と称え、曹琨に騎都尉や褒美を与えた。(『東平霊王徽伝』)



曹賛  曹玹の後を継ぐ(1)


曹賛(そうさん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹林(そうりん)の子。
曹操の孫にあたる。

215年、父の異母兄弟の曹玹(そうけん)が早逝し、子が無かったため曹賛(そうさん)が爵位を継いだ。
だが曹賛もまた早逝したため、その弟の曹壱(そういつ)が継いだ。

曹丕の命令で曹壱が継いだとあり、また221年に国替えされたため曹賛の没年は220年か221年のどちらかだろう。

232年、曹玹に懐王が追贈されたのに合わせ、曹賛にも西郷哀侯の爵位が贈られた。(『済陽懐王玹伝』)



曹賛  曹蕤の後継ぎ


曹賛(そうさん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹敏(そうびん)の子。曹操の曾孫。

233年、曹丕の子の曹蕤(そうずい)が没すると、翌234年、曹賛(そうさん)が後を継ぎ昌郷侯となった。
238年、饒安王に進んだ。
246年、文安王に転封された。
正元~景元年間(254~264)の間に何度も加増され、合わせて3500戸になった。(『北海悼王蕤伝』)



曹纂  曹肇の弟


曹簒(そうさん)字は不明
豫州沛国譙県の人(??~??)

曹休(そうきゅう)の子。

228年、父が没すると兄の曹肇(そうちょう)が後を継いだ。
弟の曹簒へも父の領邑から300戸分け与えられ、列侯した。(『曹休伝』)

234年、曹幹(そうかん)のもとに曹簒と王喬(おうきょう)が訪れたが、時節を間違えたため、勝手に賓客と交際する罪を犯したと上奏された。だが曹叡(そうえい)は詔書を送り戒めるだけに留め、処罰しなかった。(『趙王幹伝』)

「魏晋世語」に曰く。
239年、曹叡は病に倒れると、曹宇(そうう)や曹肇、夏侯献(かこうけん)ら親族に要職を占めさせようとしたが、側近の劉放(りゅうほう)・孫資(そんし)は曹肇と敵対していたため猛反対した。

そのうち曹宇は曹叡の気分を損ね、曹肇・夏侯献とともに退出した。
大将軍司馬の曹簒は兄らを見ると「こんな大事な時になぜ退出したのですか」と驚きすぐ引き返すよう言った。
だが劉放らは日没を理由に宮廷の門を開けず、適切な対応をしなかったと曹宇・曹肇・夏侯献らを相次いで免職させた。(『劉放伝』)

曹簒は殄呉将軍まで上って逝去し、前将軍を追贈された。(『曹休伝』)



曹氏  鄭袤の妻


曹氏(そうし)名は不明
豫州魯国薛県の人(198~280)

「晋書」に列伝される鄭袤(ていほう)の妻。
彼女も「晋書 列女伝」に列伝される。

鄭袤ははじめ孫氏(そんし)をめとったが早くに亡くしたため、曹氏を後妻に迎えた。
曹氏は自ら糸を紡いで舅や姑の生計を支え、他の嫁らにも礼節を尽くし、喜ばれた。

鄭袤は司空になり(『晋書 鄭袤伝』によると辞退している)、子らも高位に上り一族は栄華を極めたが、曹氏は転落を恐れて慎み深くし、食事は贅沢せず、服は洗って何度も着た。俸禄は一族に分け与え、余分な財産を残さなかった。

273年、鄭袤が没すると、前妻の孫氏が亡くなってから長く経ち、合葬は難しいと人々は考えたが、曹氏は「どうして魂をひとり寄る辺なきままにさせておけるでしょうか」と反対し、儀式を整え合葬させた。人々は趙姫の故事(重耳の娘の趙姫は身分の低い前妻の子を後継者に立て、自らは側室に甘んじた)と比べてもまだ足りないと感嘆した。

曹氏は280年に没した。享年83。(『晋書 列女伝』)



曹志


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